北の港町
山の奥へ奥へと潜っていくにつれ雨は冷たくなり、メルチェたちの肌を刺す針のようだった。それは上がることなく、途中で雪に変わる。埃のような、花びらのような、あの日の灰のような雪は、積もることなく土に染みこみ消えていった。
「……」
三人に会話はない。みんな、それぞれ何を考えているのかはわからなかった。
雪を吸収したぬかるみが、沼のように足を引っ張ってくる。雪腐った木の橋を渡ると、木枯らしがぴゅうと吹いて、顔を冷たくさせた。鼻先が赤くなる。垂れてきた鼻水を音を立ててすすったとき、レビウが「今日はここで休もうか」と言った。目の前には雪風を十分しのげそうな小さな洞窟が口を開けている。
「はあ……寒い……」
メルチェは乾燥した両手を擦りながら息を吐いた。アシッドは大きなくしゃみを数回したあと、「あー」と言いながらかたい地面に寝転ぶ。ずっと山を登ってきたので疲れたのだろう。メルチェの足も棒になっていた。寒さで爪先はかじかみ、感覚はない。
「火をおこそうか」
レビウも身体をさすっている。そのへんに落ちていた小枝を集め、マッチで火をつけた。洞窟内はぼんやりと明るくなり、三人はにじり寄るように火に近付いて暖をとった。
「あったけえ~……」
「紅茶飲む?」
「飲みたい。準備手伝うわ」
お湯を沸かしている間に、どんどん夜は更けていった。それでも雪は降り続き、寒さが和らぐことはない。レビウが淹れてくれた紅茶は知っている味だった。木苺のフレーバー。これはコッツ・ブロワに来たばかりの頃、メルチェが買ってきたものだ。指先はカップを持つ熱であたためられたが、身体はまだ寒く、メルチェは二杯目の紅茶を注ぐ。それと同時に、配給でもらったパンも取り出した。町を出るとき、リーシュが持たせてくれた袋にもたくさんパンが入っていた。今日はこれが夕飯になりそうだ。
「……この山を越えたら、次は何があるの?」
起こした火が、枝木の表面を光らしている。赤いライトのようだ。レビウは火を絶やさないよう焚火をつつきながら、「次は北の港かな」と言った。
「北の港?」
「そう。海だよ。メルチェが住んでいた港町の海よりももっと冷たい海」
メルチェとレビウが次の目的地の話をしていると、「あそこは魚がうまいんだよ」と、肉食のアシッドが珍しく魚に思いを馳せる。
「たしかにあのあたりの魚はおいしいね。他にも人魚の街とか、駅とか、海底へ続く線路があって……」
「人魚の街に、海底列車なんて、素敵。駅があるなら結構都会なのね」
「そうだね。海を越えたらもう……ブリランテだし」
パチリと炎が弾ける。だんだんと身体もあたたまってきた。その代わり、直接熱を浴びていた肌は、乾燥してカサカサになっている。
海を越えたらもう、ブリランテ。
その言葉に、メルチェの胸は一瞬どきりとした。もうすぐ目的地。もうすぐ旅が終わる。そう考えると、少し寂しい気持ちになった。ブリランテに着いたら、旅が終わったら、レビウはどうするのだろう。アシッドはきっと家族の元へ戻るだろう。メルチェたちはバラバラになる。それに、旅が終われば自分の行く当てなどなくなってしまうということに、メルチェは気が付いた。私は、この先どうしよう。
「あーあ。金があれば、南の港町から北の港町まで列車で一本だったのによ」
メルチェがぐるぐると考え事をしていると、寝転んでいたアシッドがパンをかじりながら起き上がった。その一言にメルチェは思わず「えっ」と声を上げる。
「私の町からブリランテまで、列車で行けたの……!?」
驚いて紅茶をこぼしかけたメルチェ。アシッドはいくつめかのパンを手に取って、「お前、知らなかったのか?」と呆れた表情になる。
「だって、だってそれなら――」
レビウはどうして列車に乗らなかったの?
「まあ、めちゃくちゃ遠いけどな。切符もすっげえ高えし」
アシッドが空になったカップをレビウに突き出した。レビウはそれを無視してパンをちぎっている。その様子を見て、メルチェはまた考え事のモードに入ってしまった。
自分の港町から列車に乗ってブリランテへ行けるなんて、知らなかった。切符が高いと言っても、コッツ・ブロワまで旅をする資金があるのなら、レビウは列車でブリランテへ行けたのではないか。どうしてわざわざ徒歩で――
「もーらいっ」
メルチェが思考を巡らせていると、目の前にあったパンが突然いなくなった。
「あ、ちょっと……!」
アシッドは奪ったパンを一口で飲み込んだ。自分は何個も食べていたくせに、人のものまで奪うのか。メルチェは怒ってアシッドの背中をぽかぽか殴った。けれどなんの効果もなさそうだ。
「二人とも、そろそろ寝るよ」
レビウが苦笑しながら毛布を敷いた。
洞窟の外の景色は白く霞み、激しく吹雪いているようだった。大きく開いた出口から、時々風が入り込んでくる。山は眠り、それでも三人身を寄せ合うと、互いの体温であたたかかい。静かだったけれど、洞窟の土が落ちてくる音がたまに聞こえた。
.
――ここはどこ?
メルチェは夢の中にいた。
足元がぐらつく。気付けば線路の上に立っていて、かすかに残る鉄の匂いがメルチェの肌を逆立てた。嫌な予感がして振り向けば、そこには土砂に飲み込まれた列車があった。これは、父と母の命を奪った、五年前の列車事故だ。家族三人で乗ったはずなのに、目を覚ますと病室に一人。父も母も死んでしまったのだと聞いて、その日から過去の記憶はぼんやりとしている。
残骸は、見るとこめかみが痛んだ。それでも線路の道を一歩、一歩、また一歩と踏みしめてゆく。真っ白に淀んだ空と、やけに高かい気温。喉の奥が焼けるようだ。胸が苦しい。息ができない。メルチェはただひたすらに足を進めていた。この先に何があるのかは知らない。けれど進む他なかった。
ふと、足元を見る。自分は裸足だった。
線路の石がメルチェの足裏に突き刺さる。さっきまでは何ともなかったはずなのに、気付いた瞬間に痛くなってきた。血が出ているようだ。その色は、かつてコッツ・ブロワに咲いていた、あの薔薇の色にそっくりだった。 気持ちが悪くて吐きそうだ。
「メルチェ」
「メルチェ」
「メルチェ」
聞き覚えのあるたくさんの声が、背後からメルチェを呼んでいる。
「お前のせいだ」
振り返れば、そこに線路なんてない。あるのは炎と血にまみれた町と人。戦場となったあの日のコッツ・ブロワで、メルチェは立ちすくんでいた。骨と皮になった死体がメルチェを囲む。手を繋ぎ円になり、舞踏会のように踊っていた。動けない。ごめんなさい。自分のせいで。自分のせいでみんなは死んだんだ。ジャスターだって、ロンだって、他のみんなも、きっともっと生きていたかったはずなのに。無力な自分が生き残って、守られて、戦ってくれたみんなが死んだ。自分は生きている資格があるのだろうか。この先、生きていく資格があるのだろうか。
涙があふれそうになったときだった。
――メルチェ。
誰かが自分の名前を呼ぶ。
すると、ふわりと風が吹いた。
その瞬間。
戦場は消え去り、視界がクリアになっていく。風は泉のようにメルチェの心を洗い流していった。どこかの糸がプツンと切れて、メルチェの肩は信じられないほどに軽くなる。まるで、羽が生えたようだった。あたたかい。安心する。私の名前を呼んだのは、誰? 私に羽をくれたのは――
「レビウ……」
現実と夢の狭間でかすかに目を開ける。
そこにはレビウの寝顔があった。赤い目は瞼を閉じていて、長い睫毛が暗闇でもよく見える。
「……」
ぼんやりとしていると、火が消え、寒くて凍えていた自分の身体、その右手だけがすごくあたたかいことに気が付いた。見ると、レビウが手を握ってくれていた。そうか、私に羽をくれたのはレビウだったのか。メルチェはその手を握り返した。
.
「生きてるか?」
低い声にハッとする。
目を開けると、青い三白眼がこちらを覗き込んでいた。アシッドだ。前髪が翻り、露になったメルチェの丸い額をピシッと指で弾く。メルチェは唸り声を上げながら毛布に顔を埋めた。
「お前、起きねえからよ。冬眠しちまったのかと思ったぜ」
夜に消えてしまっていたはずの焚火が燃えている。そのそばで、アシッドは昨日に引き続きパンをむしゃむしゃ食べていた。レビウが「おはよう」と微笑み、メルチェの分の紅茶をカップに淹れてくれる。重い身体を起き上がらせて、それを受け取った。
「……おはよう、二人とも」
カップの中身はミルクティーだった。まろやかな味わいが熱と共に喉奥に流れ込み、冷えた指先まで沁み渡る。
「メルチェの寝起きが悪いなんて、珍しいね」
「俺よりよく寝てたな」
ちょっとずつ紅茶をすすりながら、まさかアシッドの方が起きるのが早いなんて……と、なんだか気に入らない気分になる。けれど湯気から漂うミルクの風味が、そんなことはすぐにどうでもよくさせた。
朝ごはんや身支度を済ませ、三人は焚火を踏み消した。洞窟を出ると、空っ風がメルチェの結びたてのおさげを揺らす。それと一緒に、胸元のリボンや、アシッドのマントも大きく扇がれた。ブーツが霜柱を踏む。土がザクザクと音を立てる。ぬかるみには氷が張り、下り坂では滑らないように気を付けた。山道はずっとこの先まで長く続いている。港町に着くのは夕方頃になりそうだった。お昼には冷たい切り株に腰かけて焚火をし、それからまた少しして、寒さを和らげるためにもう一度焚火をして休んだ。
山が開けてくる頃にはまた雪が降り始め、土には雪が降り積もる。足音はぎゅっぎゅとした特有の音になった。山道の木々には樹氷がクリスタルのように煌めいて、メルチェは初めて見るそんな神秘的な景色に心を奪われた。誰も跡をつけていない純白の雪道を、三人は凍えながら下っていく。
「見えてきた」
樹氷の枝々の隙間、歩き疲れて何も言わなくなってしまっていたメルチェとアシッドに、レビウが言った。
山道は最後の曲道だった。二人は寒さで動かなくなった顔を無理やり上げると、その先には灯りが見えた。オレンジの光がだんだん近付いてくるにつれ、足元の雪がなくなっていった。人が除雪した跡だった。
「ここが北の港町……」
雪の避けられた土道が石畳になる。ようやく港町に到着したメルチェは、ほう、と白い息を吐いた。
石造りの建物。
オレンジの常夜灯。
運河、河口、海。
道の脇には氷のようになった雪の塊が寄せられている。幅の広い運河は海へと繋がっており、大きく、けれど背の低い石造りの建物が川沿いにたくさん並んでいた。河口には堤防。堤防の途中には船着き場。船着き場の横には駅があった。人通りが多いが、町の入口に設置された看板のマップを見る限り、町はそんなに広くなさそうだ。
三人は大通りを横切って、川にかかった曲線の橋を渡った。堤防のそばまで来ると、波の音が心地よく聞こえてくる。
「すごい、本当に海の中へ線路が続いてるのね」
久しぶりに見た海はすでに夕日が沈んだ後で、紫と橙の交差する空の色を映し出していた。たゆたう白波が砕けながら堤防にぶつかり、少し進んだところにある駅舎から、海に向かって線路が伸びているのが見える。線路は長い鉄橋に続いており、水平線に届くまでに海の中へと沈んでいた。あれが海底列車の路線だろう。メルチェはこの線路の向こう、海を渡ったところにブリランテがあるのだと実感する。
しばらく堤防沿いを歩いていくと船着き場に着いた。チケット売り場から張られた緑のテント屋根に、分厚い雪が積もっている。今は大きな客船が停まっていて、裕福そうな家族連れや老夫婦が中へと乗り込んでいた。きっと、ブリランテへ行くのだと思った。
「ようやくここまで来れたぜ。ほら、行くぞ」
メルチェがそんな景色を見ていると、アシッドがズンズンと船着き場を通り越していく。
「ちょ、ちょっと待ってよ……!」
客船に気をとられてしまっていたが、船着き場の隣には三角屋根の駅舎があった。駅舎もなかなかに大きく、たくさんの人が出入りしている。メルチェは急いでアシッドの後を追いかけた。その後で、レビウも神妙な顔をしながら重い足取りでついていく。
駅舎内は広かった。天井も高く吹き抜けで、屋根の柱がむき出しになっている。多くの人々の行き交う足音が響き渡り、アナウンスと一緒に石レンガの壁に反響していた。ちょうど列車がやってきたところらしく、改札を潜る人混みが押し寄せる。けれどそんなことは気にも留めず、アシッドは切符売り場へと向かっていった。
「ま、待って!」
メルチェがアシッドに追いつき、売り場の列に並ぼうとしたときだった。
「きょ、今日は。今日は港町で宿をとろうよ」
レビウが大きな声で言った。赤い瞳がかすかに泳いでいる。
「なんでだよ」
アシッドは不思議そうに顔をしかめた。けれどレビウは質問に答えない。メルチェもきょとんとしながらレビウのことを見つめていたが、その焦燥した様子に、少し心配になってしまった。
「もう海を越えたらブリランテだぜ」
「そ、そうだけど……僕は一泊していく」
「だからなんでって聞いて……」
「アシッドは急ぐだろうし、先に行っても構わないから」
列から離れて壁際へ避ける三人。雑踏の隅で、俯くレビウに、アシッドは困ったように耳と髪を一緒にガシガシとかき乱した。
「……別に、いいけどよ。急にどうしたんだよ」
「……」
様子のおかしいレビウに事情を聞こうとするが、彼は何も言わないままだった。
メルチェは、レビウがコッツ・ブロワで「落ち着いたら話したいことがある」と言っていたことを思い出した。きっと、まだなんだと思った。まだ、レビウの中で整理がついていなくて話せないんだろうと思った。
「わかったわ。今日はこの町で泊まっていきましょう」
黙ってしまったレビウの横で、メルチェが言った。
「山道を歩いて疲れたし……アシッドも、あったかいごはん食べたいでしょ?」
そしてにこっと笑う。
レビウは顔を上げ、「メルチェ……」と、ほっとしたような表情になった。アシッドはそれでも少し違和感のあるような気持ちでいたが、メルチェの言うように疲れていたし、ごはんという言葉を聞いて、「たしかにな」と最終的には納得してくれたようだった。
三人は港町の宿に泊まり、明日の朝、ブリランテへと出発することになった。




