終戦
シャトーは静かになっていた。
町の人々の混乱はおさまり、ただそれは安心したからではなく、迫りくる恐怖に耐えるしかないからだった。子供たちも泣き疲れて眠っている。起きている子も力なく座っているだけで、オルエッタがあやす必要はもうなかった。大人たちの中でも話している人は誰もいない。疲弊し、もう野次すら飛ばなかった。
「ねえ、お兄ちゃん……僕たち死んじゃうの? 教会もなくなっちゃった?」
そんな中、かすれた声で一人の子供がオルエッタの袖をつかんだ。オルエッタはハッとする。しょげた顔になっていた自分の表情をニパッと明るい笑顔にし、「んーん!」と首を振った。
「死んじゃわないよ、だいじょうぶ!」
大袈裟にとりつくろうのは得意だった。本当は彼も不安でたまらない。でも、戦ってる人たちがいる。自分の仕事を、役目を放り出してどうするんだ。オルエッタはみんなにつられてエンターテイナーの自分までもが暗くなってしまっていたことを反省した。子供の手を握り、安心させるように笑顔を崩さない。
「教会は……オイラにもわかんない。でも、なくなっちゃってても、またみんなで作ろう。好きな色に塗ったり綺麗な石を埋め込んだり、きっと楽しいよ!」
オルエッタの言葉を聞いて、子供は久しぶりに笑顔になった。そばにいた他の子供たちも、それを聞いてコソコソと教会のデザインを計画するのだった。
そんなホールのさらに上の階。屋根裏の物置部屋では、メルチェが武器や防具の手入れ、修理を続けていた。外からは戦いの音が絶えず聞こえている。それでも自分にできることをしなければ。町を守らなければ。その一心で武器たちを整備しては下の階へと渡していた。
「ふう……」
メルチェは捲り上げた袖で汗を拭く。壊れた武器はまだまだあった。柄が折れてしまっている槍、金具が外れてしまった甲冑、血がこびりついている剣……すべてが戦場の残酷さを物語っていた。メルチェはひたすらに折れた柄を固定し直し、金具を留めて、武器についた血を拭いて綺麗にする。天井に吊るされた小さなランタンの光を頼りに、メルチェは懸命に手入れをし続ける。
「お姫様だっていうのに、ご苦労なことだね」
短剣の刃を研いでいるときだった。
どこからか、声が聞こえた。
「……誰?」
メルチェは顔を上げる。短剣を置き、ドレスの裾を握りしめた。
こんなときに、あのことを思い出してしまう。夜、暗がりに一人でいないこと。呪いの副作用。そんなこと言っている場合ではなかったので忘れてしまっていたけれど、自分が狙われている今、どんな危険なことが起こってもおかしくはなかった。
「ほら、こっちこっち」
警戒で身体を硬直させるメルチェ。
目線だけで声の主を探していると、窓の隙間からキラキラと光の線が滑り込んでくる。くるくると円を描きながら、曲線になって部屋の中を舞うそれには見覚えがあった。エシャが姿を見せるときにもこんな光が現れるのだ。魔法。けれど、エシャじゃない。
メルチェの鼓動が早くなる。光の線が人の形を作り出したとき、メルチェの研いでいた短剣がカタカタと動き出した。
「え……」
メルチェがそれに気付いた瞬間、短剣が勢いよく頭上に浮き上がる。
あ、落ちてくる。
そう思ったけれど、動きが速すぎて身体が動かない。刃が鋭く光り、尖った先がメルチェの方を向く。空中から短剣が襲い掛かってきた、そのときだった。
「メルチェ!」
誰かが屋根裏に飛び込んでくる。そして咄嗟にメルチェのことを突き飛ばした。短剣が床に突き刺さり、動かなくなる。押し倒してきたのは少年だった。赤茶の髪をなびかせた黒い長耳の兎――
「レビウ!?」
メルチェを庇うように覆いかぶさったのはレビウだった。
重い甲冑を脱いで走ってきたのか息を切らし、返り血のついたシャツで汗を拭く。メルチェに「怪我はない?」と聞きながら身体を起こしたレビウは、「大丈夫よ」と言ったメルチェに手を差し伸べた。二人は洋服に埃をつけながらも立ち上がる。
「やあ、久しぶりだねえ」
目の前には、いつの間にか男が立っていた。光を纏い、不敵な笑みを浮かべている。
長い白髪。
つばの広い帽子。
黒いコート。
そこにいたのは、旅に出る前、メルチェを舞踏会へと誘ってガラスの靴を渡してきた魔法使い――ウィアルドだった。
「あ、あなた……!」
「おっ、この姿では一回しか会ったことないのに覚えてくれてるんだ。嬉しいなあ」
魔法使いはにっこり笑って手を振ってきた。メルチェはそのノリの軽さに最悪な気分になる。あの夜、この男はメルチェのことを傷つけたというのに何の悪びれもなさそうだ。さっき短剣を操ったのも彼だろう。
青い顔をするメルチェの前に、魔法使いを睨むレビウがサッと立った。
「……全部、お前の仕業なんだろう」
闘志に燃える深紅の瞳。
魔法使いはおもしろそうにくっくっく、と笑い、「そんなの当たり前じゃん」と帽子のつばを調整する。レビウは不快な気分になりながらも腰の鞘に手をかけた。
「許さない」
そしてゆっくりと剣を抜く。
「お前に許されなかったところで、何の支障もないけど?」
魔法使いは飄々としている。
「……メルチェ、後ろに下がってて」
レビウがそう言った瞬間、魔法使いが手のひらを突き出した。
すると、さっきまでメルチェが手入れしていた大量の武器たちが一斉にうごめきだす。槍も矢も剣も刃先をレビウに向けて勢いよく飛んできた。レビウはそれらすべてを自分の剣で弾き返したが、意識を失った武器の中から今度はいくつもの短剣が飛び出してくる。短剣たちは輪になってレビウに襲い掛かった。レビウは剣を構え、思い切り振るう。輪の端から円を描くように一回転すると、刃と刃のぶつかり合う音を響かせながら、順番に短剣が弾き飛ばされていった。最後の一つ、レビウは力を込めて剣を振るう。「おっと」と飛んできた短剣を回避した魔法使いに、レビウはすかさず斬りかかった。しかし一歩下がって避けられる。もう一振り、また一振り、レビウは間髪入れずに攻撃を繰り返す。
「懐かしいねー、この感じ!」
後ろに下がりながらレビウの攻撃を避けていた魔法使いだが、ニヤリと笑って軽口を言うと唐突にバク転を披露した。レビウは浮き上がった足に思い切り蹴り飛ばされる。と同時に、魔法使いの捲れ上がったコートの中から閃光が発された。爆発音が轟いて、飛び散る雷火。
「レビウ!」
部屋の隅でその光景を見ていたメルチェは思わず駆け寄ろうとした。が、後ろからスカートを引っ張られる。バランスを崩して尻餅をつくと、ふわふわの尻尾が手に巻き付いてきた。
「エ、エシャ……!?」
そこにいたのはまんまるな白猫。エシャだった。
「駄目だよメルチェ~」
エシャは長い尻尾を魔法でもっと長くしてメルチェを止めている。久しぶりに現れたその姿は、レビウと会ったときの怪我はある程度治っていたものの、まだ不調そうな様子だった。
エシャはメルチェを守るために防御の魔法をかける。
「どうして駄目なの!?」
「君が死んだら元も子もないからね~」
魔法をかけるだけかけてまた透明になってしまったエシャの言葉に、メルチェは何も言えなかった。
この戦争は、自分を狙って起こされた戦争。おそらく首謀者はこの魔法使いだろう。この町のみんなも、レビウも、メルチェを守ってくれている。なのに、戦えないメルチェが魔法使いに立ち向かったところで、捕まったり殺されてしまうのがおちだった。これまでの苦労を水の泡にするわけにはいかないことを、メルチェもちゃんとわかっていた。
「だけど、また守られていることしかできないの?」
蹴り飛ばされても受け身を取って瞬時に立ち上がったレビウは、雷火の魔法攻撃も身を翻して華麗に回避していた。いつの間にか拾い上げた剣をくるくる回している魔法使いに、再度立ち向かっていく。床を蹴って剣を振り上げ、斬りかかってきたレビウに魔法使いも剣を振るって応戦する。
キン、キン、キン、と、甲高く軋り続ける中、魔法使いは薄笑いを浮かべていた。それが気に入らないレビウ。勢いよく剣先を突き上げると、魔法使いは素早くしゃがんで攻撃から逃げた。空中を斬ったレビウは手ごたえのない感覚に一瞬テンポを狂わせる。その隙を魔法使いは見逃さない。レビウが再び攻撃をする瞬間、しゃがんだままの魔法使いが豪快に剣を振り上げた。
「!」
虚を突かれたレビウ。スローモーションになって刃先が向かってくるのが見えた。咄嗟に身体を捻って回避しようとしたが、数秒間に合わず。魔法使いの剣先はレビウの二の腕をざっくりと斬り裂いた。ほとばしる血潮。顔を歪めるレビウを見て、魔法使いは恍惚とした表情を浮かべた。
「はーあ、おもしろい。おさげを殺せばもっといい顔が見れるんだろうなあ」
そしてチラリとメルチェの方を見る。
「やめろ! メルチェには触れさせない!」
ボタボタと血を流しながらレビウは吼えた。その必死な表情に、魔法使いはさらに気持ちがよくなってしまう。
「そんな恐い顔しないでよ~。安心して。俺はお前のことをいじめるのだって死ぬほど楽しいんだから!」
魔法使いは研ぎ澄まされた剣をまた振るった。
レビウは腕の怪我など感じさせないほどの軽快な動きでくるりと回る。そして、もう一度かざされた刃先を前転でかわすと、連続で宙を斬った魔法使いの背後から剣を滑らせた。振り向く瞬間、はらりと落ちる長い白髪。けれどそんなことは気にも留めない。互いに振り下ろした剣と剣が火花を散らして重なり合った。意識を腕に集中させる。レビウの筋肉は唸りを上げ、二の腕から血液が溢れ出た。交差した剣の向こう、魔法使いの顔が近い。それでも臆さず睨みつけた。猛々しく声を上げて力を押し込むと、魔法使いは少しよろめき、弾き合った剣先の刃が僅かに欠ける。二人は間合いを取り合い、また睨み合った。
「そろそろ疲れてきたね。もう諦めてくれてもいいんじゃない?」
魔法使いの戯言を聞き流しながら呼吸を整えるレビウ。「あの子を殺したらそれで全部終わるんだけど」と面倒臭そうにため息を吐く魔法使いに、燃えるような焔の瞳をまっすぐ向ける。
「メルチェは殺させない」
鈍色に光る剣に、その凛々しい顔が映っていた。
メルチェは胸に手を当ててその様子を見つめている。そしてふと思った。
もしかして、レビウは何かを知っているのだろうか、と。
魔法使いが自分を狙っているのがずっと不思議だった。思い当たる節もないし、考えたってわからない。だけど、レビウは。レビウは突然自分の前に現れて、自分の名前まで知っていた。もしかして、レビウは何か知っているの? あなたはどうして旅をしているの? あなたは一体何者なの?
かたい音を立て、革靴が床を走る。
レビウが跳び上がると魔法使いはそれを避けた。しかしレビウは諦めない。壁を蹴り、ターンしてまた魔法使いに斬りかかる。とめどなく攻撃の残像が目の前を泳ぎ、瞬きをする暇もなかった。魔法使いがカウンターを繰り出そうと剣を振ろうとすると、それを見破ったレビウは剣の刃を思い切り叩く。
すると、耳をつんざくような高音。
気が付けば、空中には半分になった剣刃が舞っていた。魔法使いの剣が真っ二つに折れたのだ。刃は天井のランプに直撃し、ちぎれたランプと一緒に落下する。灯りがなくなった暗い屋根裏に、ぼんやりと白い光が差した。月光。窓の外、真っ黒な夜空に輝く大きな月。
そんな優しい光の中、魔法使いの指先からはもっと激しい光が弾ける。またさっきの魔法攻撃だ。稲光に捕まらないよう、レビウはステップを踏むように後方へと下がる。
「ふう……危ない危ない。剣を折られちゃったよ」
魔法使いは柄だけになってしまった剣をポイと捨て、片側だけ中途半端に散髪されてしまった白髪を右手で払った。レビウは稲光の爆発からメルチェを庇い、そのままの体勢で魔法使いを警戒している。
「なんかしらけちゃった」
魔法使いが帽子を被り直した。同じようにコートの着崩れも直すと、その内ポケットにゆっくりと手を忍ばせる。ゴソゴソと何かを探す素振りを見せて、ニヤリと怪しく笑った後、「そろそろコイツの出番かな」とつぶやいた。
メルチェとレビウは警戒を解かない。爆弾でも何でも、どんなものが出てきても対応できるよう、姿勢を低くして魔法使いを凝視している。
「これ、なーんだ」
しかし、魔法使いが取り出したのは小さな小瓶だった。
メルチェは拍子抜けする。小瓶の中身はほのかに光っていて、金平糖のような、角砂糖のような、星屑のような、何か不思議な力を感じる欠片たちだった。
「何かしら、あれ」
メルチェはあの小瓶の中身がどういったものか想像もつかなかった。きょとんとしたまま疑問を口にしたが、レビウからの返答はない。同じようにあれが何かわからないのだと思い、レビウの方を見上げた。
しかしその顔は――
見たこともないくらいに、血の気の引いた顔だった。
「レ、レビ……」
メルチェは思わず驚いてしまう。声をかけようとしたが、上手く言葉が出てこなかった。
「この小瓶の中身、何だと思う?」
そんな二人をおもしろがるかのように魔法使いは嘲笑っている。「レビウにはわかるよね?」と挑発しながら小瓶を振ってみせるが、レビウはずっと黙ったままだ。冷や汗をかき、顔面蒼白している。エシャも魔法使いを威嚇しながら姿を現して、毛を逆立てていた。メルチェは何が起こっているのかわからずに、小瓶とレビウを交互に見る。
「あ、そっか。メルチェはわかんないよね。それじゃあ教えてあげよっか」
魔法使いは目も口も弧にした。そして上ずった声で言う。
「これはレビウの魔力だよ。ちょっと前に俺がコイツから奪ったの!」
メルチェの心臓がドクンと跳ねた。
レビウの魔力? 奪った? どういうこと?
たしかに、レビウは昔魔法を使えたのだと話していた。だけど今は使えないって。
メルチェが愕然としていると、魔法使いは「あのときの戦闘は白熱したねー」とニコニコしながら腕を組んで頷いた。メルチェはレビウの顔を見る。レビウはいまだ顔色を悪くしたまま、動けなくなってしまっていた。
「なんで俺がレビウと戦ったかっていうと、レビウが――」
「やめろ!」
しかし魔法使いがまた余計なことを話しかけた瞬間、大きな声を出してそれを遮る。
「なにー? まだ話してないの? こういうのは早めに言っておいた方がいいって!」
レビウの握った拳が震えていた。まるで、メルチェに何かを知られることを怯えているかのようだった。メルチェはそんなレビウの様子を見て、どうすればいいのか、どう言葉をかければいいのか考えていた。
「レビウ……」
過去、この二人に何があったのか。何のために戦い合ったのか。そんなこと、メルチェには見当もつかない。けれど今、一つだけ。レビウが嫌な気持ちにさせられていることはわかっていた。なぜ自分の命が狙われているのか、レビウが何者なのか、それは知らない。けれど、レビウが優しい人だということは知っていた。たとえ彼がメルチェやアシッドに黙っていることがあったとしても、一生懸命守ってくれていること、大切に思ってくれていること、きっとそれは嘘ではない。そのことを、メルチェはちゃんとわかっていた。
「レビウ!」
メルチェは後ろからレビウの名前を呼んだ。
「大丈夫よ。私はずっとそばにいるわ」
そして、レビウの、冷たくなり乾いた血がついた、震える手を優しく握った。
レビウは目を丸くする。
優しい金色のまなざし。やわらかい手のひら。強張っていた身体が少しずつほぐされ、あたたかくなっていく。にこりと笑うメルチェ。レビウは心の奥がぎゅっとなった。この状況で、何も知らないはずなのに、自分の見方でいてくれるのだ。
「ありがとう……」
泣きそうな顔でつぶやいた、レビウの顔色がよくなった。手を離してもぬくもりは消えない。レビウは剣を構え直し、魔法使いをまっすぐ見つめる。
「……メルチェ」
そしてそのままメルチェの方を見ずに、
「この戦争が落ち着いたら、メルチェに話したいことがある」
と言った。
メルチェの鼓動が高鳴る。胸がいっぱいになって、こくんと頷いた。「わかったわ」と返事をする。
「へえー。レビウに隠し事されてるのがわかったのに味方してあげるんだー」
魔法使いはまた意地悪なことを言っていたが、それでも二人の目の輝きは曇らなかった。エシャがくるりと宙を舞い、少なくなっている魔力で防御の魔法をかけ直す。マフラーが宙を泳いでいた。覚悟を決めたレビウの顔を見て、微笑みながら彼は透明になって消えていく。
レビウは小瓶の位置を確認した。小瓶の中身――自分の魔力の威力が強いことはレビウが誰よりもわかっていた。ただでさえ魔法を上手く使う魔法使いがあの魔力を手に入れるとどうなるか。それを想像して、さっきは思わず動けなくなってしまったけれど、もう大丈夫。
「メルチェがいる」
レビウは長く息を吐いた。そして小瓶を壊すことだけを考える。
「嫌だね、その目。まあ、これがあればそんなの関係ないんだけどね」
魔法使いはやれやれと両手を広げた後、コートをばさりと払って笑った。レビウが走り出そうとした瞬間、「それじゃあさっそく」と小瓶の中身を使うため、白い指でその蓋を開けようとした。
しかし。
「――は?」
キラキラと光を纏っていた小瓶の中身は、みるみるうちに減っていっていた。暑い日に溶け出す氷のように、口の中で転がした飴玉のように、輝く欠片たちは液状になって形を崩し始めている。
「お、おい、なんだよこれ! 楽しみにとっておいた魔力が!」
ウィアルドは慌てて小瓶の蓋を開けた。ひっくり返して中身を出そうとするが、さっきまで美しく輝いていた魔力の欠片は一つ残らず塵と化し、砂になって消えていく。あっという間に小瓶は空っぽになった。まるで、初めから何もなかったかのようだ。
「……」
メルチェとレビウは顔を見合わせた。ウィアルドは俯いたまま何も言わない。物置部屋に久々の静寂が訪れ、外の音もすっかり止んでしまっていた。
「……あれ?」
外の音。メルチェはハッとする。
しないのだ、あんなに絶えず鳴っていた戦いの音が。
急いで窓の外を見に行くと、燃え盛っていた炎は落ち着き、戦いは終わりを迎えていた。焼けた木々や建物の被害、コッツ・ブロワ兵の怪我人たちは残ったままだが、大量に攻めてきていた敵兵が跡形もなくいなくなっている。メルチェは敵がもう撤退したのかと思ったが、魔法使いの顔を見るとそんなことは彼の計画になかったようで、ワナワナと肩を震わせて歯を食いしばっていた。
「ハイリスのやつ、絶対に許さない……」
そして何か独り言を言っている。顔を上げた魔法使いは、鬼の形相だった。メルチェとレビウはその恐ろしい表情にゾッとしてしまう。
「お前らだけでも……殺して帰る……!」
突然、魔法使いは窓辺にいたメルチェに飛びついてきた。レビウが咄嗟にそれを庇い、魔法使いを押し倒す。
二人は取っ組み合って床に転がった。下になってしまったレビウは必死に魔法使いの白髪に掴みかかるが、上から圧迫してくる力が強すぎて満足に反抗できない。魔法使いは怒りの表情を崩さないままレビウの首を絞めてきた。指が喉に食い込んで、上手く息ができない。それでも唾液を垂れ流しながらもがくように抵抗する。バタバタと足を動かして胴体を蹴った。しかし魔法使いはびくともしない。首への力も弱まらず、次第にレビウの意識は遠のいてくる。嫌だ。嫌だ。こんなところで終わるわけには。ぼんやりとしていく思考の中で、ずっとそう考えていた。だけど、もう駄目だと、そう思って瞼が閉じたとき。
バツン、と、鈍い音がした。
すると、首に食い込んでいた強い力はほどけるように弱くなって離れていった。
むせ返るような咳をしながら目を開けると、自分に馬乗りになっていた魔法使いのこめかみに、長い矢が刺さっている。魔法使いは矢が刺さったままギギギと首を動かしてメルチェの方を見た。そこには弓を持ったメルチェ。矢を放ったときの威力のせいか、尻餅をついてしゃがみこんでいる。
「メ、メルチェ……」
レビウは起き上がりながら唾液の垂れた口元を拭く。さっきまで手入れしていた武器の中から弓を取り出し、自分を助けるため、魔法使いに矢を打ったのだとすぐにわかった。
魔法使いはゆらゆらと身体を左右に揺らし、「……あーあ、また失敗しちゃったよ」とつぶやいた。まだ生きているのかとレビウはすかさず攻撃しようとしたが、その身体は半透明になっている。剣を構えることもなく、魔法使いの姿は霧になって消えていった。光の線が曲線を描きながら空中を漂い、窓の外へといなくなる。魔法で生み出した身代わりだったらしく、刺さっていた矢が音を立てて床に落ちた。
「レ、レビウ……」
「……メルチェ、大丈夫かい?」
すっかり静かになった物置部屋で、二人は互いの無事を確認し合う。
「大丈夫……」
メルチェは立ち上がりながら弓を捨てた。
銀の月明りがレビウの顔を照らしている。頬や服、手についた血は、レビウの二の腕の怪我から滴ったものか、戦場で浴びてきたものかわからない。赤茶の髪にも、まつげにも、黒い長耳にも血がついていた。微笑む顔はとても綺麗で、王子様のようにかっこいいと思うのに、まるで知らない人のようにも見える。
メルチェが歩み寄るとレビウは一歩後ずさった。足を止めて不思議そうな顔をすると、レビウは魔法使いと取っ組み合ったときに床に落ちた自分の剣を見て、「人をたくさん殺してきた」と言った。剣にもべったりと血がついている。悲しそうな顔。傷付いているのだと、メルチェは思った。
「ごめんなさい、レビウ」
たくさん人が死んだ。
こんなに町が焼けた。
大切な人たちを、戦わせてしまった。
「ごめんなさい」
メルチェはレビウに駆け寄った。
傷だらけの身体を抱きしめると、心臓の音がした。
「メルチェ……謝らなくていいんだ。謝らなきゃいけないのは……」
「いいの。今は。何も言わなくていいの」
メルチェの赤いドレスにレビウの血が滲む。
祝賀会のためにリーシュが特注で頼んでくれたドレスには、もう何人もの人の血が染みこんでいた。最初は目立たなかったそのシミも今では黒くなってよく目立つ。じわじわと、凄まじい悲しみが押し寄せてきていた。戦争が終わってよかったなんて、きっと誰も言えなかった。失ったものは戻ってこない。戦いを終えてもこれからまだやることがある。その絶望に耐えられるのかは、メルチェにはまだわからなかった。
抱き合っていた二人は身体を離す。
向き合って見つめ合うと、レビウはメルチェの顔を見て「泣いてるかと思った」と言った。メルチェは「泣かないよ」と返す。自分がつらいときでも、いつもと同じように、誰かを抱きしめると誓ったから。
燃え尽きた町の空、月の輝きが星をも照らしていた。チラチラと瞬くその光は今にも消えてしまいそうだ。涙のような流星が何度も空を流れた。朽ちた薔薇も、果実も、もうあの甘い香りを漂わせることはない。それでもあの美しい町の景色を、メルチェはこの先ずっとずっと覚えているのだと思った。




