幸せ
ハイリスは、ずっと考えていた。
彼が今まで人の気持ちを思ったことなど少なく、少ない中の、そのほとんどがディアのことだった。彼女にとっての幸せが何なのか、自分の幸せについても考えたことのないハイリスはわからなかった。
「コッツ・ブロワを町ごと焼くよ、ハイリス」
長い白髪をたなびかせた魔法使いの言葉に、ハイリスは「町ごと?」と怪訝な顔をして聞き返す。
ディアの世話をメイに任せている間、ハイリスは別の業務に勤しんでいた。それは、メルチェを狙うウィアルドの最後の計画だった。ブリランテの妃――デティシラが選んだ従者しか入れない秘密の会議室で、王宮の誰にも気付かれないよう、二人は綿密に話を進める。
「なぜ町ごと焼く必要がある」
「見つからないんだよね、あの子たち。町に入ってから気配が消えちゃってさ。しかも俺たちが入れないよう、結界まで張られてる。なんなんだろうねー」
ウィアルドはコッツ・ブロワ周辺の地図を広げ、ぐるっと町のまわりを指でなぞった。その線からはウィアルドもウィアルドが魔法で作った人型の仲間も入れないということだ。面倒臭そうに唇を尖らせた後、「だから町ごと焼く。戦争、戦争!」と口にしたワードに似合わない明るい声で笑ってみせた。立てた人差し指の先に魔法で火を灯し、ぽんぽんと音を鳴らして爆発させる。
「……そのやり方は賛同しがたいな。おさげ一人殺すのに手間がかかりすぎる。それに、関係のない人間もたくさんいるだろう」
しかしハイリスは反対のようだ。
「別にいいじゃん、派手に殺した方が楽しいし! それに、罪のない命とか言ってたらきりないよ? 戦争ってそういうもんだから!」
ハイリスは冷めた目をしてため息を吐いた。どうせ自分が反対しても計画を変える気はないのだろう。
上からの命令とはいえメルチェを殺すことや、戦争を起こすこと。倫理的によくないことだと知ってはいても、ハイリスの感情は無に近かった。昔から、そういう環境には慣れている。心を殺さなければ自分が壊れてしまうような、そんな生活を送ってきたのだ。レビウは自分の心を優先させたせいでああなった。無心で過ごしていればいいものの、自分の仕事から逃げた弱いやつ。逃げられるわけがないというのに。
忙しさに心がすさんでいた。宮殿の戦闘での怪我もまだ完治しておらず、体力的に苦しい日もあった。
「ハイリス様!」
魔法使いとの会議が終わり、計画遂行に向けて軍の準備をしようとしていたとき、王宮の廊下でメイに会った。
「ああ、メイか。ディア様の様子はどうだ。特に変わったことはないか」
「はい、体調も良好です!」
長い廊下にはいくつも大きな窓があって、そこからはブリランテの景色が一望できた。騒がしいはずの王国の賑わいはこの場所まで聞こえない。ここから見えるのは、海のような街並みと、王宮の塀に囲まれた広大な庭と、その上に広がる大空だけだ。
「だけど、時々つぶやかれるんです。ハイリス様と全然お会いできないって」
メイは困ったように言った。ハイリスはその言葉に目を丸くして、「俺と?」と首を傾げる。
「そうですよ! ディア様、侍女さまを亡くなられた悲しみからようやく立ち直ろうとしていたのに、今度はずっと一緒にいたハイリス様と離れ離れなんて……」
片手を頬に当てて眉を下げているメイに、やはりハイリスはまた首を傾げた。
「俺がいなくてもメイがいるんだから、大丈夫だろう」
「何言ってるんですか! ディア様は寂しがっていらっしゃるんですよ!」
「その寂しさを埋めるのがお前の仕事じゃないのか」
「ご、ごもっともです……尽力いたします……!」
無表情で首元のネクタイを整えたハイリスの鋭い指摘に、メイは思わずダメージを受ける。落ちてきていたカチューシャのピンを挿し直し、下を向いて目線を合わせようとしない。
「あ! だけど最近は、楽しそうにお友達の話をしてくださるんですよ!」
けれど唐突に思いついた話題を持ち出すと、元気よく顔を上げた。友達の話と聞いて、ハイリスはすぐにあのおさげのことを言っているのだと気付く。
「デティシラ様も国王様もなかなかディア様のお顔を見に来れないようですし、ディア様を支えられているのは、そういったお友達の存在なんでしょうね」
にっこりと笑顔を見せるメイ。ハイリスはその言葉にムッとする。ディア様を支えているのがメルチェだと言われたことがなんだか気に入らなかった。
「……このままこの国の女王になれば、もっと深い人望も手に入る。そうすれば、寂しさなんて」
ハイリスの宇宙のような黒い瞳は影になっていて、外の日差しは差し込まない。切れ長の目に生えた睫毛が伏せられたとき、メイが「わかってないですねえ」と呆れたふうに言った。
「自分の慕う人がそばにいてくれないと、寂しさなんて埋まらないですよ。大切な人と一緒にいるときこそ、幸せだなあって思うでしょう?」
目線を上げてメイの方を見ると、メイは、当然でしょう、とでも言うように、不思議そうな表情をしていた。
「……そんなこと」
そんなこと、考えたこともなかった。考えたこともなかったので、「考えたこともなかった」と思わずつぶやいてしまった。
「もう、お仕事のしすぎで感情失わないでくださいね~」
メイはハイリスのつぶやきを冗談とでも思ったのか、茶化しながらその場を去っていった。ハイリスは窓の外を眺める。やっぱり王国の賑わいがここまで聞こえてくることはなかった。
幸せとは、なんだろう。
.
「町の結界が解けた」
ハッとして顔を上げる。
この間メイと話したことを思い出していて、打ち合わせ中に思わずぼーっとしてしまっていたようだ。
ハイリスの前でまたコッツ・ブロワの地図を広げている魔法使いは、気持ち悪いほどの笑顔でブロワ地区の北側を指さしている。
「結界を作ってあの子たちを隠していたのはブロワにいる魔女だった。なんと、あの砂の宮殿を維持していたすっごい魔力の持ち主だったんだ。そりゃあ叶わないわけだー」
くっくっく、と、おかしそうに白髪を揺らすウィアルド。相変わらず不気味なやつだとハイリスは呆れてしまう。
「また砂の宮殿に入り込んでちょっかいだしたら反応があったから、そこから間接的に殺っちゃった。やっぱコイツの魔法はすごいな」
ハイリスが黙って話を聞いていると、ウィアルドがポケットから小さな小瓶を取り出した。中に入っているのは、光る金平糖のような、角砂糖のような、星屑のような何かの欠片たちだ。
「……それ」
ハイリスは感じたことのある感覚に耳の毛並みを逆立てた。この感じ、魔力だ。それも強大な。小瓶越しにも強烈に伝わってくるオーラ。この魔力の持ち主を、ハイリスは知っていた。
「レビウの魔力だよ。ずーっととってあったんだ」
ウィアルドは得意げに小瓶を振ってみせる。中に入った魔力の塊たちがシャラシャラと微かな音を立てた。
「お前、レビウの魔力を人殺しに使ったのか」
「何言ってんの。レビウなんてとっくに人殺しじゃん」
やれやれと両手を広げるウィアルド。ニヤリと笑い、「ああ、お前もか」と囁いた。
「本当はおさげを殺すためにとってあったんだけどなあ。そのときに全部使いたかったんだけど、残り半分で妥協だね」
ハイリスが何か言いたそうに、けれど何も言わずにただただ小瓶を見つめていると、「それでなんだけど」と、その鋭い目付きなど気にせずにウィアルドは話を続ける。無邪気な笑顔にうんざりしたかのようなハイリスの目の前に、素早く小瓶をかざした。すると、一つしかなかったはずの小瓶はウィアルドの手の中で二つに分身する。ハイリスは驚いた顔で両方の小瓶を見比べた。
「増えた……?」
「増えてないよ。小瓶の中身を二人で使えるようにしといただけ。小瓶は二つになってるけど、中身は共有されるから。俺が使えばハイリスの小瓶の中身もなくなるし、逆も然りね」
説明を聞きながら、ハイリスは差し出された片方の小瓶を受け取る。小瓶は軽く、傾くたびに宝石のような中身も動き、外からの光を反射した。やはりすごい魔力のオーラだ。持っているだけで自分にまで魔力が移りそうだった。
「戦場で手分けして使えた方が効率良いでしょ? 中身がなくなったら片方が魔力を使ったんだな~、おさげを始末できたんだな~、それでは撤退! ってことで。他の兵士に持たせたら何に使われるかわからないし、お前にだけ渡しておくよ」
ウィアルドは魔法使いらしく、指先一つで自分の持っていた小瓶を消した。どこか安全なところに隠したのだろう。ハイリスは小瓶をベストの内ポケットに入れる。「楽しみだなあ!」とウキウキ気分のウィアルドを見て、幸せそうだな、と思った。
「できればレビウのいるところで殺したいよね。お前の魔力だよーって!」
こんな悪趣味なことで歓喜に酔いしれている人間は珍しいだろうが、幸せというものは、本当に人それぞれ違うらしい。
幸せとはなんだろう。ハイリスは余計にわからなくなった。
人それぞれ幸せの形が違うなら。それなら、ディア様にとっての幸せとはなんなのだろう。わからない。だけど、女王になれば。きっと女王にさえなれば幸せを手に入れられるはずだ。
「まあ、まだおさげの居場所はわかんないんだけどね。なんかいつもくっついてた猫が魔法で隠してるみたいでさー。腹立ったからボコボコにしてやったのに、しぶとくおさげのこと守ってんだよね」
ハイリスが考え事をしている中、ウィアルドはまだ御託を並べている。
「それでも町に入れるようになっただけいいか。じゃあ、計画通りによろしく!」
興味がなかったのでに何も返事をせずにいたが、ウィアルドはある程度話し終わって満足したのかご機嫌そうに一回転した。別れの挨拶と同じタイミングで被っていた帽子を投げると、落ちてくる帽子の中に霧になって消えていく。ハイリスはその様子を横目で見、自分以外に誰もいなくなった静かな会議室でため息をついた。
「はあ……」
窓がない会議室は閉鎖感があった。
小さく刻まれる時計の音が木霊して、ハイリスの気分は悪くなる。並べられた無機質な机の上にはコッツ・ブロワの地図。写真も何枚かあり、この町が緑豊かな場所であるということがすぐにわかった。
そういえば、今日はディア様がおさげの元へお出掛けしたとメイが言っていた。コッツ・ブロワに行ったのだろう。綺麗な町を探索して、ディア様は楽しめただろうか。
――大切な人と一緒にいるときこそ、幸せだなあって思うでしょう?
唐突に、メイの言葉を思い出した。
――お前はレビウじゃねえんだから、アイツのためになるかどうかなんてわかんねえだろーが。
そしてなぜか、あの砂漠で、宮殿に入る前に言っていたあの野蛮な狼の言葉も。
幸せは人によって違う。俺は今までディア様のために、ディア様の幸せを願って上からの命令を聞いて行動してきた。けれどそれが本当にディア様のためになっているのかは、狼の言う通り俺にはわからない。
王国はもう真夜中の暗闇に包まれていた。その中で照り続ける街の灯りが、王宮の長い廊下までもを明るくさせる。深夜の廊下は静かで、ときどき夜勤当番の従者とすれ違うだけだった。今日の業務はもう終わりだったけれど、ハイリスは、自分の部屋に戻らず、長い階段を上がり始める。
「……」
やってきたのはディアの部屋の前だった。
ディアはもう寝ている時間なので会うことはできないだろう。けれど、ハイリスは扉の前に立つ。自分と離れ離れになってディアが寂しい思いをしているのだとメイは言っていた。まさか、自分がいないことでそんなふうに思っていただなんて。昔にディアが、ハイリスじゃないと駄目だよと、眠れない夜にそう言っていたことを思い出した。
「ハイリス……?」
踵を返そうとした瞬間、大きな扉の開く音がした。
「……ディア様」
見ると、両開きの扉の隙間、翡翠の瞳がハイリスを捕えている。ディアだ。目をキラキラさせて、みるみるうちに表情を明るくさせていく。
「ハイリス……ハイリス!」
ディアは部屋を飛び出してハイリスに駆け寄った。腕を掴み、手を握り、存在を確かめるかのように身体を触る。ハイリスは思わぬ再会に戸惑いつつも、嬉しそうな顔をするディアになんだか胸がぎゅっとなった。安心した。かたくかたく固まって、ひび割れて枯渇していた地面に、栄養たっぷりの水が注ぎこまれるような気分だった。
「ディア様。夜中ですのでお静かになさってください」
「ご、ごめんね。つい……」
誰もいない二人きりの廊下に響き渡る声を出してしまっていたディアは、恥ずかしそうに口元を押さえる。
ディアはハイリスを自分の部屋に入れてくれた。もう戻るので、と言おうとしたハイリスは、なぜだか今日はその言葉が言えなかった。
ディアは嬉しそうにベッドに座る。相変わらず広い部屋だ。ベッドは天板付き、可愛らしいクローゼットが何台もあってどの引き出しの中にも美しいドレスが仕舞われている。高い天井についた照明ではなく、ディアはサイドテーブルに置かれているランプのスイッチを入れた。花の形を模したランプはぼんやりと黄色く光り、バルコニーの窓から差す王宮の光と混ざっている。
「眠れなくて日記を書いてたの。じゃあ、ハイリスの足音がしたから」
ディアは頬を染めて、隣に丸まっていた羽毛布団を畳んだ。ベッドにもう一人座れるスペースを作ったが、ハイリスは冷たい床へと跪く。
「……よくおわかりになりましたね」
そんなハイリスに不満があるのか、ディアは少し不服そうに「わかるよ」と言った。
「ハイリスに会えなくて寂しかったよ、わたし。もちろんメイが駄目って言ってるんじゃなくて」
ディアの手がハイリスの手をとる。あたたかくて、柔らかくて、その感覚が、すごく久しぶりなように感じた。
「やっぱりハイリスといると、すっごく落ち着く……」
天使のような優しい微笑み。そんなディアの表情を見ると、ハイリスの心は満たされていく。
幸せだ。
ランプの光を滲ませる宝石のような瞳を見て、ハイリスは思った。
ディアは「お昼にメルチェと遊んだんだよ」と今日あった楽しいことを話し始める。それは今までの寝る前の日課だった。あと、あれも、これも、と、ディアはずっと溜まっていたハイリスに聞いてほしかった出来事を雪崩のように話し出す。ハイリスはすべての話やディアの言葉を噛み締めるように聞いていた。願わくば、この時間がずっと続けばいいのにと思った。
次第にディアは眠くなり、ハイリスはディアにベッドに入るように言った。ディアは布団を被り、傍らに跪いたままのハイリスを見つめる。何も言わずに手を出すと、何も言わずにその手をハイリスは握ってくれた。
「ふふ」
「どうしたのですか?」
「こうしてると、昔のこと思い出す」
ずっと嬉しそうに笑っているディアに、ハイリスも微笑みを見せた。最近はめっきりなくなってしまったが、昔はよく眠れないディアにお願いされて手を握っていたのだ。落ちてきた銀色の髪を、ハイリスが繋いでいないもう片方の手でかき上げてあげる。
「わたしね、もっと広い世界を見てみたい。いつか、メルチェと一緒に旅に出ようって約束したの」
ディアは薄く目を開けたまままだ話している。ハイリスは「それは楽しそうですね」と答えた。そして、一瞬だけ複雑な表情をしたかと思えばまた微笑み直し、握った手を撫でる。
「ディア様は本当にあのおさげがお気に入りなんですね」
ハイリスの言葉に、ディアは「おさげじゃなくてメルチェだよ」と頬を膨らませた。
「だって、大切なお友達だもん。一緒にいると楽しくて、明るい気持ちになれるの」
目を瞑って今日のことを思い出すディア。ハイリスはそんな彼女の顔を見つめた。ああ、なんて、幸せそうな顔。
本当は、わかっているんだ。
自分のやっていることが間違いなのだということ。
おさげが死んだらディア様は幸せになるのか。そんなこと、ディア様が思うはずがなかった。友達のことを大切に思っている彼女が、人の死を幸せになんて、思うはずがない。
おさげがディア様を支えているのだろうと前にメイに言われたとき、嫌な気持ちになったのは気付いていたからだ。自分がディア様のためにしていると言い聞かせていたことが、本当はディア様の望むことではないのだと、気付いていたから。俺はやっぱり、無力で、無能で、何も持っていない人間だ。こんな当たり前のことを認めるのに、こんなにも時間が経ってしまった。
「ハイリス?」
ディアの声を聞いて我に返る。考え事をしていたハイリスは、目を開けたディアに「なんでしょうか?」と慌てて尋ねる。ディアはにこっと笑い、繋いだ手をさらに強く握った。
「でも、ハイリスのことだって大切だからね。忘れないでね」
ハイリスは、冷たくなった心にブランケットをかけられたような気持ちになった。そしてディアが眠りに落ち、一人になってからも、その次の日も、ずっとずっと、この夜のことを忘れることはなかった。
レビウは弱かったのではなく、強かったのだと思った。自分の仕事を放棄してまで守りたいものがあったのだろう。運命に逆らって、あのお方とではなくあのおさげといることを選んだ。羨ましいと思った。だけど俺は。俺は逃げられない。運命から逃げる度胸も、あのお方から逃げる方法も、持ち合わせていないのだ。
.
コッツ・ブロワは南側から侵略が始まり、今はもう東と西のあたりにも被害が広がっていた。野は焼け、建物は瓦礫になり、そこら中に死体が散らばっている。灰を吸い込みながら、生き残った兵士たちが仲間の死骸を踏んで戦い続けるのも限界だった。
「はあっ! はあっ! はあっ!」
乱れる呼吸。酸欠と多量の出血で頭がぼんやりとする。
「おい兵士」
馬に乗った敵兵から足を引きずって逃げているのはテオドルだ。敵兵は頭の甲冑を外し、白くて長い耳が露になっている。白兎だ。うなじのあたりで結ばれた黒い髪に切れ長の目。
「逃げられないとわかっているのに、なぜ逃げ続ける」
崩れた建物に追い込まれ、ガタガタと震えるテオドルにそう聞く白兎――ハイリスもこの戦争に参加していたらしく、サーブルには血が滴っている。
「ま、まだ……諦め、たく、ない」
テオドルの唇は動かない。恐怖で言葉が出でこなかった。死にたくない。死にたくない。諦めたくない。
ハイリスはそんなテオドルの僅かに放った言葉を聞いて、無表情でまた歩み寄った。壁に背中がついてしまったテオドルの目の前まで馬の足を進め、その背から見下ろしてくる。
「お前の仲間はもうたくさん死んだ。町もほとんど焼かれた。もう終わりだろう。生き残っていてもつらいだけだ」
冷たい目。真っ黒な瞳に引きずり込まれてしまいそうになる。
けれど、テオドルはその言葉を許すことができなかった。足を踏ん張って力強く立ち、汗や血や涙で汚れてしまった顔を上げる。
「まだ生きてる人も無事な畑も残ってる! 勝手に終わらせんな!」
テオドルは残った最後の力で剣を構える。死にたくない。生きて、またみんなとこの町で幸せに暮らしたい。そう思っているのがハイリスにもわかった。諦めたくないという言葉の根源だろう。ハイリスはテオドルのことも羨ましいと思った。自分の運命を簡単に受け入れるのではなく、手に入れたい未来のためにあがく。自分にはできないことだった。
ハイリスは馬から降りる。サーブルの血を拭い、テオドルと同じように構えた。その構えはそこらの兵士とは比べ物にならないくらいに洗練された、隙のない構えだった。テオドルは身震いする。自分の最期を予感しつつも、諦めずに立ち向かうために柄を握った。そして一歩踏み出そうと、傷む足を持ち上げたときだった。
「俺の部下を虐めないでもらえるか」
構えた剣とサーブルの間、割って入ってきた男がいた。
頑丈な肩幅に大きな背。長い槍を片手に持って、テオドルを庇うように横入りする。彼はこの町の王であり、町の軍隊の将軍だった。
「タ……タルモ様……!」
テオドルは思わずその男の名前を呼ぶ。助けに入ったのはタルモだった。槍を構え、無表情の兎を威嚇するように睨みつける。
「別に虐めていない」
「どうだか」
タルモはたとえ相手が子供でも躊躇するつもりはなかった。ここまでに山積みの死体を見てきたからだ。倒れていた仲間たちの心臓やうなじには独特な傷があった。サーブルで突いた傷だ。タルモはハイリスの構える武器を見る。この少年が仲間を殺したのだ。
「こんな怪我人では相手にならないんじゃないか」
ハイリスにそう言うと同時に、タルモはテオドルにアイコンタクトをした。今のうちに逃げろと言っているのだ。テオドルはびっこを引きながら急いでその場を去っていった。シャトーの方向へと歩いて行ったのを見て、タルモはハイリスに向き直す。
「お前なら相手になるのか?」
ハイリスはサーブルを突き出してタルモに尋ねた。タルモは「それなりに自信はあるが」と笑ってみせる。
二人は少しの間睨み合っていた。が、ハイリスが瞼を閉じた瞬間、戦いが始まるのだとタルモはわかった。切れ長の目が瞼を開ける。風が吹き、血の匂いが鼻についた。
「……いくぞ」
ハイリスが勢いよくサーブルを振るう。
一振り。二振り。三振り。四振り。
タルモは後ろへ跳ぶようにそれを避ける。細い剣先は目にも止まらぬ速さで空中を斬り刻み、タルモの目の前まで迫ってきた。
頭の甲冑はもうボロボロで使い物にならない。壊れてめくれ上がった部分、タルモの顔が露出している個所を狙って、ハイリスは攻撃を繰り出しているようだ。サーブルの動きは止まらない。何振りも残像が視界を往復する。タルモはたまらず槍をぶん回した。長い柄がハイリスの足元を横切り、すかさずジャンプでかわしたがその瞬間少し隙ができた。それを見逃さないタルモは槍を突き付ける。寸前のところで回避したハイリスの白い頬にかすり傷ができ、二人は一度間合いをとって睨み合う。
しかしすぐに、またタルモがハイリスに攻撃を開始した。重いはずの大きな槍を素早く前後させて何度も刺突する。
一突き。二突き。三突き。四突き。
ハイリスはしばらくそれを避けるのに集中していたが、途中、鋭い刃の突き刺しされるのを瞬きせずに見つめていたかと思えば、突然、刃の手前の柄に素手で掴みかかった。
「!?」
タルモが驚愕した数秒の間に、ハイリスは持った柄の部分を下へと押しやる。それと同時に大きく跳び上がった。姿勢が崩れたタルモの槍の先にハイリスは着地する。まずい。そう思った瞬間にハイリスは柄の上を走り出す。すぐにそばまでやってきて、甲冑がはがれて丸見えになっていたタルモの右目にサーブルを突き刺した。
「ぐわああ!」
タルモはあまりの激痛に目を押さえる。
今のうちにとどめを刺そうと、ハイリスは首の動脈を狙った。しかし。タルモは咄嗟に身体を左右に掻き払う。その右目から溢れる飛び散った血液を浴びて、ハイリスは地面へと落下した。けれど落下する途中、空中で思い切り胴体の甲冑を蹴った。そのためタルモはバランスを崩す。ハイリスは地面から跳び上がった。血の涙を流すタルモは掴みかかられ、押し倒され、黒い空にサーブルが振り上げられるのを左目で見た。ハイリスが最後の一振りで攻撃したとき、かたい感覚が腕に伝わる。皮膚じゃない。柄だ。槍の。タルモは瞬時に防御したのだ。いつまでもしつこく粘り続ける兵士に、ハイリスは苛立ちを見せ始めた。
「お前も、諦めたくないのか」
サーブルと槍の柄でクロスを作る双方。交わった武器と武器は小刻みに震えながら互いに力をかけ合っている。
「……っ、当然、だ」
タルモは歯を食いしばりながら答えた。
ハイリスはやっぱりタルモのことも羨ましくてたまらなかった。コイツも、さっきの兵士も、レビウも、自分の欲しい未来のために、幸せのために、絶対に諦めることをしない。心を殺さず、目の前の絶望をどうにかしようともがき続ける。
「なぜ……」
なぜ諦めない。なぜあがく。
「そんなもの、大切なものを守るため以外に何がある!」
タルモがサーブルを弾き返した。槍を大きく回してハイリスを振り払う。そして立ち上がりざまに槍の先端をハイリスにぶっ刺した。ハイリスは回避しようとしたが間に合わず、鎖骨のあたりを思い切り抉られてしまった。身体に穴が開き、痛みが走る。
また間合いをとった二人は三度目の睨み合いをしていたが、初めのときのような気迫はハイリスにはなかった。不思議に思っていると、なぜか、ハイリスが構えていたサーブルを下げる。タルモはこの白兎がどういうつもりでそんな行動をとったのかわからなかった。警戒を解かずに、槍を構え続ける。
「……お前は将軍か」
すると、白兎が口を開いた。ぶっきらぼうに、けれどまっすぐに、真っ黒な瞳で見つめてくる。
「だったらなんだ」
タルモは右目から滴ってくる血を片手で拭い、拭った後は両手で槍を構え直した。
「黒耳の兎を知っているか」
黒耳の兎。
タルモはもちろん知っていた。レビウのことだ。
そういえばこの白兎、跳びはねたりする身軽さがレビウの戦い方とどこか似ている気がした。
「答える義理はない」
二人は一定の距離感を保ったまま動かない。
地面には、元々ハイリスたちが来る前に流れた黒い血の跡と、今の戦いによって流れた真っ赤な鮮血の跡がまだらになって染みこんでいた。
そんな土を踏み、ハイリスは下げたサーブルを鞘に納める。
「……アイツに伝えろ。おさげから離れるな、と」
そしてそれだけ言って、待たせていた馬に乗り上げた。
「おい! 待て!」
逃がさない、と、タルモは槍を振るおうとしたが、白兎は「早くしないとこの町の姫が死ぬぞ」とはっきりした口調で言った。
なんだ、罠か? どうしてレビウやメルチェのことを知っている?
タルモは思わず固まった。おさげから離れるな。姫が死ぬ。今、少年はそう言ったのだ。それって一体――
考えを巡らせているうちに、ハイリスはコッツの方へと戻っていった。タルモは頭の甲冑を外し右目を押さえ、左目でその姿を見送る。何のつもりなのだろう。罠だとしても、今ここで言う意味がわからない。相手にとって、この状況で将軍である自分を仕留めずそれだけ告げて去ることに、何のメリットもないはずだ。
「……メルチェ、レビウ」
タルモは敵の言葉を信じることにした。白兎の背中が見えなくなると、急いで走り出す。
「……」
対してハイリスは、さっきの言葉を思い出していた。
諦めないのは、大切なものを守るため。
がむしゃらにあがく姿はみっともなくも眩しいものだと思った。だけど俺は。俺は。運命から逃げる度胸も、あのお方から逃げる方法も、持ち合わせていない。逃げられない。ずっとそうやって生きてきたし、それがベストだと思っていた。だけど、ディア様の幸せを願っている。願っているんだ。俺は運命から逃げる度胸も、あのお方から逃げる方法も持ち合わせていないけれど、それでもせめて、本当の意味でディア様のために。自分にできることがあるなら、何だってしたいと思った。
何を失っても、誰を裏切ることになっても、それはあなたのためだけに。




