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躍る世界と黒兎  作者: 夢梅
王国にて③
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お姫様と白兎

 「ハイリス、ごめんなさい……」


 馬車が揺れる。ディアは、か細い声で謝った。

 寝そべった馬車のソファから窓の外が見える。空はすっかり暗くなり、もう街灯りが煌々と行く道を照らしていた。

 ディアが王宮を抜け出した日。

 部屋にいるのが憂鬱で、ひとりでいるのが寂しくて、輝くような賑やかな街へと繰り出したのだ。街は初めて見る景色ばかりでとても楽しかった。外の世界はこんなにも知らないことで満ちているのだと、ディアは最高の気分になった。けれどそのあと、体調が悪くなって倒れてしまった。近くにいた狼族の老爺に保護され、ハイリスが迎えに来てくれたのだ。

 「本当にごめんなさい……」

 ディアは自分の失態でハイリスが怒られるのだとわかっていた。本当は、バレないようにすぐに王宮へ戻ろうと思っていたのだけれど、計画通りに事は進まないものだ。

 「……ディア様、どうして私に言ってくれなかったのですか」

 ハイリスは横たわるディアの毛布を整えながら、悲しそうに言った。

 「反対されると思ったから……」

 ディアの目には涙が浮かんでいる。寝転んでいるせいで、溜まった涙はすぐに目頭からこぼれ落ちた。ハイリスはその雫を拭く。そして、何も言えなくなってしまった。

 ディアは、侍女の老婆が死んでからはふさぎ込む日々を送っていた。昔こそはちょっとしたわがままを言ってくれてもいたが、年々ディアの性格は落ち着いてきて――外に出られないのが憂鬱で内気になり――幼少期のように自分の気持ちを言ってくれることは少なくなった。そんな中での、信頼していた侍女の死。ディアの元気がないことを、ハイリスはずっと気にしていた。けれど王宮を抜け出してしまうほど部屋にいるのが憂鬱だったなんて。だいぶ参っていたのだろう。誰にも言わず、たった一人きりで、執事である自分に相談もせず……

 「反対なんて、しませんよ」

 ハイリスが言った。

 「たしかに、体調のことを考えると何かしらの制限はあるかと思います。けれど、私はディア様の望むことならなんだってして差し上げたいのです。ですからもう、一人でどこかへ行ったりしないでください。私になんでもお申し付けください。お願いですから……」

 ディアがハイリスの方を見上げると、彼は窓の外を眺めていた。目は合わなかったが、遠くを見るような静かなまなざしを見て、ああ、この人は自分を心配してくれていたのだと思った。

 「……ハイリス、もうすぐ出張に行くって言ってたよね」

 むくりと起き上がり、ディアはつぶやく。気持ち悪くなる胃のあたりを押さえ、ハイリスを見つめた。ハイリスは「ええ、そうですが……」と答えながらまたディアを寝かせようとするが、ディアはハイリスの腕を掴んでそれを拒んだ。

 「わたしも、ついて行っていい?」

 まっすぐな瞳。けれど潤んでいて、じんわりと滲んでいる。涙が浮かんでいると、エメラルドの瞳はいつも以上に宝石のようだった。

 ハイリスは何も言わない。言えないのだ。もちろんイエスと答えてあげたいが、出張の仕事内容は複雑なものだし、それに、あのお方が何と言うか……

 「ハイリス、どこにも行かないで。わたしも一緒に連れて行って」

 ディアはそう言って俯いた。大粒の涙がドレスのスカートに染みこむ。

 「みんなみたいに、わたしだって部屋の外に出たい……もっといろんな景色を見てみたいよ……」

 ハイリスはそんな姫の姿を見て自分を情けなく思った。こんな、人として当たり前の願いを叶えてあげられなくてどうするんだ。自分にできることは何だってするんだろう。そう決めただろう。

 「……ディア様、私はどこへも行きません。お約束します。一緒に行きましょう」

 ハイリスは覚悟を決めた。その小さく痩せた背中を優しく撫でて、安心させるような、穏やかな声でそう言った。

 「本当!?」

 ディアは顔を上げる。パッと花を咲かせたような表情になり、ハイリスの手を握った。ハイリスはこの笑顔を見ることができるならなんだってできた。どんなことだって苦ではなかった。

 そのあとしばらくして、ディアがハイリスの出張へついていくことが母である妃から正式に許可された。ディアは数日間の外出のために少しでも体力をつけようと、部屋の外、王宮の中を歩き回るようになった。今までは王宮内でも部屋の外に出ることは妃に厳しく止められていたのだが、ディアが王宮を抜け出すほどに外へ出たがっていたことや、これからハイリスの出張についていくこともあってか、ディアが王宮内を自由に歩き回ることは許されたようだった。

 王宮は広く、ブリランテの中にもうひとつ街があるかのようだった。ディアは部屋の窓から庭を見たり、侍女やハイリスから話を聞いたりして王宮が広いことは知っていたけれど、実際に歩いてみると、その広さは今まで想像していたのとはまったくの別物だった。美しく整備された広大な庭。王宮の人が行きかう長い廊下。豪華な客間。大きなキッチン。図書資料室。街に出られなくても、当分の間ディアは暇をしなかった。誰にも怒られず自由に歩き回れるのは嬉しかった。毎日いろんな場所を探検して、新しく見つけたものやそのとき感じたことを毎晩ハイリスに語りつくす。ハイリスはどんな話も優しく聞いてくれた。


 ハイリスが妃である自分の母親に厳しく当たられていると知ったのは、出張についていった後のことだった。

 

 王宮内を歩き回るようになって、今まで遮断されていたいろんな話を耳にするようになった。

 ハイリスはディアの執事業務もこなしながら妃の配下にもついていた。妃の従者であるからディアの執事になったと言った方が正しいだろうか。ハイリスは昔から妃に仕えている従者だったが、妃はそれでもハイリスに厳しいらしい。ディアは自分の母親がこの王宮内で恐れられていることを知った。けれどそれはなんとなく想像していたことだった。自分にも厳しいからだ。

 そんな母親に、ハイリスが直談判しにいった。ディアを部屋から出してあげてほしいと。自分の出張に連れていきたいと。もちろん許されることではなかった。けれど何度も、何度も頼み込んでようやく面倒になった妃が折れたのだと、従者たちが噂していた。

 知らなかった。

 自分のわがままでハイリスに負担をかけていただなんて。ハイリスもいつも通りだったし――ディアはドレスの裾を握りしめた。

 ハイリスはいつだってポーカーフェイスで、つらいことなんて何もないかのようで。けれどディアは知っていた。まわりのみんなはハイリスのことを冷徹だとか、心がないだとか言っているけれど、それは違うということを。ハイリスはディアの話を聞いているとき、とても優しい顔をするのだ。不器用だけどちゃんと優しい。優しくて、強くて、人のために頑張れる人。ディアだけがそのことを知っていた。


 「ハイリス、今何してるかなあ」


 夕方。

 コッツ・ブロワでメルチェと遊んで帰ってきたディアは自室の窓から外を見下ろしていた。どこかにハイリスがいるかもしれない。一目でも姿を見られたら、それだけでいい。

 「この間、ハイリス様にお会いしましたよ」

 「えっ」

 「ディア様のことを気にしておられました」

 窓際の花瓶の花を替えるメイに、ディアは「いいなあ」とため息混じりにつぶやく。

 今日は本当に楽しかった。メルチェが姫になったと聞いたときはすごく嬉しくて、そのお祝いができたのもすごく嬉しかった。コッツ・ブロワの町も綺麗で、住民のみんなもあたたかくて、今度はブロワだけではなくコッツも見て回りたいな、と思った。

 そんな話をハイリスにも聞いてほしかった。もちろんメイには話した。メイも一生懸命に話を聞いてくれるし、ハイリスにはない可愛らしい相槌や元気な反応をしてくれるので、一緒にいると楽しい。けれど、ハイリスにも聞いてほしいのだ。ハイリスに会いたいのだ。

 「ディア様とハイリス様は本当に仲がよろしいですものね。きっと願っていればお会いできますよ!」

 フリルのように花びらをつけたスイートピーが揺れる。窓が開いていて、風と共に夕焼けの色が部屋の中に入ってきた。王国の街並みが黄金色に照らされる。時計塔も、橋も、街路樹も、人々も、何もかもがこの時間だけは同じ色に染まるのだ。ハイリスも、この王宮のどこかで夕日を浴びているのだろうか。

 「ハイリス様とは、ディア様が生まれたときからご一緒なのですか?」

 花を活け終わり、メイは無垢な笑顔でディアに尋ねる。そんな彼女にディアは思わず吹き出してしまった。

 「ふふっ。メイ、わたしとハイリスは二つしか歳が変らないんだよ。わたしが生まれたとき、ハイリスもまだ赤ちゃんだよ」

 笑いのツボに入って止まらなくなってしまったディア。その隣で、「す、すみません!」とメイはアワアワする。

 「ハイリスとはね、わたしがまだ別邸で住んでたくらい小さい頃に出会ったの」

 ようやく笑いが収まってきたところで、ディアは笑い涙を指先で拭いながら言った。メイは、へえ、といった顔をする。そのとき勢いよく風が吹いて、花瓶が倒れそうになった。メイは慌てて窓を閉め、風を遮る。

 「でもそれだったら、赤ちゃんのときから一緒なのと変わらないですよ」

 花瓶の花を整え直しながらメイが言った。ディアはその言葉を聞き、「そうだね」と返事をしつつ、また少し笑いがこみ上げてきてしまった。

 「ハイリスは、屋敷に来た初めはよそよそしかったの。あんまり話とかもしなかったし」

 ディアの話に、メイは黙って耳を傾けている。懐かしそうに窓の外を眺めるディアを見て、なんて優しい表情をするのだろうと惚れ惚れした。

 「どうして仲良くなったのですか?」

 「あんまり覚えてないけど、眠れない日にハイリスに寝付けてもらってたあたりから少しずつ話すようになったのかな」

 あの冷たく見える白兎も寝かしつけをしたりするんだ、と、メイは意外に思ってしまう。ディアはまだ窓の景色を眺めている。目線はそのままにして、「だけどね」と話を続けた。

 「わたし、仲良くなる前からハイリスのこと信頼してたんだ」

 「そうなんですか?」

 「うん。部屋の窓から、いつも決まった時間に剣技の練習をしているのが見えて。普段のお仕事も完璧にこなしてたし、そういう一生懸命な人って信じられるから」

 ディアは窓から目を離し、メイの方を見た。

 「もちろんメイのことも信頼してるよ」

 天使のような笑顔にメイはドキッとする。けれどすぐに口角を緩ませ、「ありがとうございます!」と元気よく返事をしたかと思えば、嬉しい言葉を貰えたことを噛み締めた。

 「……ハイリス様に、お会いできるといいですね」

 太陽が街の向こうの海に沈んでいく。夕日が落ちるのは早く、さっきまでオレンジに染まっていた王国は一気に日陰色へと変わる。けれどまだ空は微かに光っていて、黄色と紫色が交差していた。低くたなびく雲は灰色。絵画のような景色を、額縁のように窓枠が飾っていた。メイが照明をつける。薄暗くなってしまっていた部屋は明るくなり、ディアは思わず目がチカチカした。もうすぐ夕飯の時間だ。今日のごはんは何だろう。メイとメニューを予想しながらお風呂の準備もしておいた。

 今日は本当に楽しかったな。ハイリスは、今日はどんな日だった?

 ディアは心の中で聞いてみた。

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