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躍る世界と黒兎  作者: 夢梅
第7章 姫は虹光の中で
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ダンス・レッスン 1

 メルチェは次の日も休みを貰っていた。

 朝早く仕事で部屋を出たレビウやアシッドとは、最近めっきり休みが合わない。そのため、昨日のお散歩はとても楽しかったのだ。不審者のせいで中断されてしまったけれど、また明るい時間にでも三人でお出掛けしたいな、と歯を磨きながら考える。

 モーニングを食べた後は、部屋の床で寝転がっていた。窓辺で雨粒を見るのが近頃のお気に入りだ。雨音に耳を澄ませて目を瞑る。この前、ここで眠ってしまったときに見た夢はなんだったんだろう。赤い靴で踏まれるステップ――それには、見覚えがあった。

 庭のある一軒家。

 赤い屋根。

 魔女。

 砂の迷宮。

 私もレビウを守りたいと、強く思った気持ちが蘇る。

 メルチェはガバッと起き上がった。急いで出掛ける準備を済ませ、仕事の日でもないのに自転車に跨る。

 「旅人さん、お出掛けかあ?」

 「ええ! ちょっとね」

 入口でプランターの手入れをしていた宿主がメルチェに声をかけるも、メルチェは笑顔でそう答え、颯爽と町を駆け抜けていく姿はあっという間に見えなくなってしまった。


 「このへんだったはず……」

 人通りのない、静かな小道。

 メルチェは自転車を押して廃墟の古民家をいくつも横切っていた。苔の生えた、古い瓦屋根で小鳥が巣を作る。小石の転がる雑草の伸びた道を歩いていると、見覚えのある、薔薇の咲いた草壁に突き当たった。足元には穴が開き、トンネルができている。メルチェは自転車を停め、木のトンネルを潜り抜けた。

 赤い屋根の一軒家。

 花畑のような庭に、テラスに座るひとりの老婆。


 「……ごきげんよう、魔女のおばあさま」


 「来たね」

 メルチェがやってきたのは、この間木苺の配達でたどり着いた魔女の家だった。砂の迷宮でメルチェと踊った、あの魔女だ。

 「私が来ることわかっていたの?」

 「ああ。私にはなんだってお見通しさ」

 今日も日の当たるテラスでゆりかごのような椅子に腰かけている魔女は、駆け寄ってきたメルチェに手を伸ばす。その手をとり、メルチェは握った。しわがれて乾燥した小さな手は、冷たく、細く、骨と皮だけのよう。

 「今日はあなたにお願いがあってきたの」

 メルチェと魔女のまわりをカラフルな蝶々が囲む。畑では蜂が花にとまって蜜を集めていた。


 「私に踊りを教えてちょうだい」


 その言葉を聞き、魔女は喉の奥で笑ってみせた。彼女の目には視力がないが、メルチェが真剣な顔をしていることは手に取るようにわかる。

 「お前さん、踊りって、もしかしてあのダンスのことを言っているのかい」

 「ええ、そうよ」

 「くっくっく……おもしろいことを言うもんだ」

 魔女の座っている椅子がゆらゆらと揺れ始めた。

 一つにまとめた長い白髪や、着ているネグリジェの裾が、風もないのに浮き上がる。鳥の声が止んだ。その瞬間、繋いでいた魔女とメルチェの手が離れ、メルチェの身体は見えない引力に引っ張られた。これは、砂の迷宮の舞踏場でハイリスと一緒に引っ張られたときと同じ引力だ。

 「あのダンスは呪われている」

 白濁していたはずの魔女の瞳が、紫色に輝いた。

 その瞬間、メルチェの四肢が勝手に動き出した。足が絡まりそうなステップに、目が回るほど激しい動き。腕や足に糸がついていて、誰かが操っているようだった。息が切れても、身体が痛くても、狂ったように踊り続ける。

 「私には姉が二人と妹が一人いた。姉は魔導の腕が優秀で、人々に幸せな幻を見せる魔法をよく使っていた。末の妹は魔導はイマイチだったが、甘え上手で誰からも愛される娘だった。けれど私は人付き合いが苦手で、魔法も、得意だったのは呪術だけ……みんなからは煙たがられていた」

 メルチェが土を蹴って踊り狂う中、魔女は語り始めた。これは、昔話? メルチェが疑問を浮かべる中、魔女は目を瞑り、肩を震わせる。

 「それでも私は愛されたかった。認められたかった。だから、両親の結婚記念日の祭典で、人々を幸せにするための祝福のダンスを踊ろうとしたんだ。必死に練習したよ。だけど、駄目だった。呪術の得意なお前が踊るなんてと非難され、踊ることは許されなかった」

 滅茶苦茶なステップを踏みながら、メルチェは魔女の話を聞いていた。腹立たしいと、怒りを見せた宮殿の魔女を思い出す。あれは自分の思いが届かなかった嘆きだったのだろうか。

 「そして、履いていった祝福の靴も切り落とされたのさ。足からね。赤い靴だ。お前さんも一緒に踊っただろう」

 メルチェは、魔女の話を聞いて悲しくなった。

 宮殿の魔女の足にまかれた包帯は、魔女の両方の義足は、人の悪意で傷付けられた証だったのだ。呪術や魔法なんて関係ない。人の思いを何とも思わない人間が、ただただ最低な形で魔女を傷付けた証だった。しいていうならば、その仕打ちによって植え付けられた悲しみのことを、呪いと呼べた。


 「そんな呪われた祝福のダンスを、誰が踊りたいと思う?」


 魔女は使っていた魔法を解いた。

 メルチェはその力から解放され、地面にドサリと落ちる。


 「……」


 あたりはとても静かで、動物の鳴き声も風の音もしなかった。蝶々も蜜蜂ももうおらず、郊外の、町から隔離されたこの庭はひどく閉鎖的に思える。

 メルチェはしばらく地面を見つめて黙ったままだったが、しばらくして口を開いた。

 「……私、今まで守られてばかりだったの」

 頭上で、空が美しく晴れ渡っている。今日は雲一つない快晴だ。魔女の庭の植物たちも元気に伸びあがり、風にその身をそよがせている。

 魔女は、メルチェが話し始めた言葉の一つ一つをしっかりと聞いていた。まるで、何かを試しているかのようだった。それでもメルチェは怯まずに話し続ける。

 「だけど、宮殿であなたと会ったとき。誰かに頼らなくても自分でなんとかしなきゃって、そう思ったの。だからあなたと踊ったの」

 魔女は、「くくく……」と肩を揺らして不敵に笑う。

 「命知らずな子だね。もし、それで呪いが解けなかったらどうするつもりだったんだい」

 すると、魔女の言葉にメルチェも「わからないわ」と苦笑した。地面から立ち上がり、片手でスカートについた土を払うと、細かい金雲母のような砂がさらりと落ちていく。

 「だけどそのとき気付いたの。何かに立ち向かうのって、誰かを守るのって、とても勇気のいることだったんだって」

 テラスに座っている魔女の元へ、メルチェは歩み寄る。そして、「それでいて、とても尊いことだわ」と強い瞳をして言った。

 「私も、そばにいる人を守りたいと思った。大切な人に、傷付いてほしくなかったから。呪われているなら、その呪いだって解いてみせたい」

 魔女は、青空をも吸い込んでしまいそうな金色の瞳の輝きに、思わず目がくらんでしまいそうになった。自分と踊ったあのとき。命を取られてもおかしくなかったあの時間に、そんなことを考えていたのか。宮殿の呪いを解いたメルチェの気持ちの強さを実感し、目を丸くする魔女。メルチェは、そんな彼女のしわだらけの手を再度手に取った。

 「初めはね。自分の居場所がほしくて姫になろうと思ってた。だけど今は違う。姫になって、たくさんの人を幸せにしたい。どんな人にも、居場所をあげたい。私がそうしてもらったみたいに」

 あなたにも、と、メルチェは言う。

 にっこり笑うと、取った手を握ってみせた。

 「あなたのとのダンスは、そう気付けたきっかけなの。私がもっと、今の私になれた瞬間のダンスなのよ。だから、私に祝福のダンスを教えて!」

 静かだった庭に風が吹く。

 花畑の脇に育っている桜の木から小鳥が飛んだ。光沢のある青い羽が、はらりと土の上に落ちる。チューリップもオオイヌノフグリも太陽に向かってめいっぱい咲き誇り、根元では、蟻が列を作って歩いていた。

 魔女は目を大きく見開き、握られた手とメルチェの顔を交互に見た。自分のしわくちゃな顔を見つめる少女は、やはりまぶしい笑顔でまっすぐな瞳をしている。一度決めたら絶対に引かないような、揺るがない決意を感じさせられる。

 そんなメルチェの目を、魔女もまっすぐ見つめ返した。

 「……自分の思いが届かなかったとき。自分の願いが叶わなかったとき。その悲しみに耐えられる覚悟はあるか」

 ゆっくりとした、地響きのような声。

 「……」

 メルチェはその言葉の意味を噛み締め、まだ口を開かない。

 「この先、いくつもの悲しみが訪れたとしても。それでも、人々を守りたいと思うか。自分がつらいときでも、いつもと同じように、誰かを抱きしめることができるか」

 魔女は瞬きもせずメルチェの瞳の奥の奥を見つめていた。それに気付いているメルチェも瞬きをしない。ミルクのように白いその目は、誰よりも何よりもすべてを見透かしているように思えた。


 「……ええ」


 メルチェは覚悟を決める。

 レビウやアシッド、この町のみんなのことを思ってこくんと頷いた。


 すると、魔女は「くっくっく……」とおかしそうに笑いだす。目を瞑って俯いて、「いいだろう」とメルチェの手を握り返した。そして、またその白い瞳を開けて顔を上げる。

 「! 本当!?」

 望んでいた返事。

 メルチェは魔女を説得できたことが嬉しくて、握った手をぶんぶんと振った。喜ぶメルチェを多少面倒臭そうにあしらう魔女。

 メルチェは、次にさっきまで踊らされていたテラスの前まで走っていき、「こうだったかしら?」とヘタクソなダンスを踊り始めた。それはマリオネットのように操られていたときとは似ても似つかぬまぬけな姿。魔女は呆れた様子でため息をつくと、「見ていられないね」とメルチェのダンスを馬鹿にした。

 「ほら、こっちへおいで」

 メルチェがショックを受けていると、魔女はそう言って笑った。

 手招きした後、ゆりかごのような椅子からゆっくりと立ち上がり、機械仕掛けの義足を動かしてぎこちなく歩き出す。メルチェはすぐに魔女の手を取って、曲がった腰を支えてあげた。背骨が浮き出ている。魔女はまたおかしそうに笑いながらも、メルチェの助けを受け入れて、テラスの隣の玄関口の扉を開けた。


 「入りな」


 不思議な香り漂う、魔女の家――


 そこは埃っぽく、物がいっぱいだった。

 ペンキで緑色に塗られた壁を、古い人形やぬいぐるみ、外国のオブジェやタペストリーなんかが一面にぶらさげられ隠している。ギシギシと古木のフローリングが音を立て、飾られた年代物のシェルフには、大量の骨董品。

 「こっちの部屋だよ」

 貴重なものを壊さないよう慎重に足を進めるメルチェに、また手招きする魔女。

 廊下に出てすぐ右の扉に入ると、大量のドレスが仕舞われた、クローゼットのような部屋があった。メルチェはそのコレクションに「すごい!」と声を上げる。

 「これ、全部おばあさまの?」

 「そうさ、若い頃に宮殿から持ってきたものだ。着る機会はもうないがね」

 ドレスはどれも何百年も前のもののようだった。しかしそうは見えないほどに美しく保管されている。鱗のようなビースが散りばめられたチュールスカートや、繊細な技術で仕立てられた刺繍の付け襟。華やかなレースが何重にも重なったドレスなどが何着もあり、メルチェは思わず目を奪われる。

 魔女はというとそんなお宝をかき分けて、何かを取り出そうとしているようだった。

 「おばあさま、私が持っていくわ」

 メルチェがそう言うと、魔女の小さな手が指をさす。

 壁際にもたれかかっていたのは、背の高いトルソーだった。トルソーは年季が入っており、表面に貼られたリネンの布がくすんでいる。関節は変な方向に曲がり、少し可哀想だった。

 「よいしょ……っと」

 メルチェは、魔女に言われてトルソーをテラスの前に運んだ。

 その間に魔女はレコードを準備しており、自分の座っていたゆりかごの椅子の横、アラログのテーブルの上に置く。「ようく見て覚えるんだよ」と言うと、テラスのソファにメルチェを座らせ、自分の指先を一振り、トルソーに向かってかざしてみせた。

 すると――


 「!」


 力なく横たわっていたトルソーが動き出し、ジャンプして立ち上がる。


 「すごい!」

 興奮するメルチェを横目に、魔女は微笑みながらレコードに針を落とした。

 聴いたことのあるクラシックが流れ始めた。砂の宮殿の舞踏場で流れていた、あのクラシックだ。

 あのときは気が付かなかったが、こうしてちゃんと聴くと、とても素敵な曲だった。小鳥のさえずりのようなピアノの旋律。ヴァイオリンやフルートによって華やかに奏でられる三拍子。明るくて、穏やかで、まるで春の日差しの中にいるよう。

 そんな曲に合わせ、トルソーが踊り出した。

 右足を一歩前にクロスさせながら踏み出し、両手を広げる。バレリーナのように一回転したあと、次は軽快にステップを踏みながら駆け回る。右のステップと左のステップは変わっていて、爪先から降りたり踵から降りたりした。

 トルソーは曲が終わるまで踊り続けた。最後に鳴らされたハープの音、蝶々のような動きをした後、ポーズを決めたトルソーは、優雅な余韻を残して停止する。

 「すっ……ごく素敵!」

 メルチェは思わずソファから立ち上がって拍手した。なんて可憐なダンスなのだろう。惚れ惚れとした様子のメルチェを見て、魔女はやれやれと言ったように首を振った。

 「さっきも言ったように、これが祝福のダンスだ」

 そしてそう言いながら、レコードの針を回収する。

 「振り付けを覚えるには、何度も見て踊って練習するしかないよ。果たして、ひと月のうちにマスターできるかな?」

 意地悪を言う魔女に、迷いなく「頑張るわ!」と返事をするダンス初心者のメルチェ。

 こうして、魔女の家でのダンス・レッスンが始まった。靴を脱ぎ、裸足になって駆け出して、ぎこちのないステップを踊り始める。さて、ひと月で完成させられるか楽しみだね、と、足元の小花を揺らすヘタクソなステップを見ながら魔女は思った。


.


 メルチェは毎日魔女の家へと通っていた。

 木苺配達の前の早朝や、配達後の夕方、休日の日は朝から夕方までダンスの練習をする日もあった。そんなメルチェの姿を飽きずに眺め、毎日少しずつ成長する舞いを楽しむ魔女。

 「メルチェ、練習はうまくいってる?」

 朝、モーニングを食べに来たメルチェのティーカップに、紅茶を注ぎながらレビウが尋ねた。

 早朝のレストランは空いていて、宿に泊まった人しかいなかった。レビウ人気のおかげか昼間は相変わらず賑わっているそうだが、この時間は早起きしたものにしか味わえないゆったりとした時間が流れている。

 「ええ、順調よ!」

 レビウの質問に、メルチェはクロワッサンを飲み込みながら答えた。そのあと、「毎日くたくただけどね」と付け足して笑ってみせる。

 「それならよかった」

 メルチェが紅茶をひとくちすすると、レビウが嬉しそうな顔でトレーを抱きしめた。そして、「あのね」と言葉を続ける。何やら話したいことがあるようだった。紅茶から香るラベンダーの湯気。そこからメルチェが顔を上げると、レビウのにこにことした顔がよく見えた。

 「今日の午後、半休を貰えたんだ。アシッドも休みだって言っていたし、三人でどこかへ行かない?」

 嬉しいお知らせ。

 レビウの提案に、メルチェは紅茶を持ったまま「行く!」と飛び上がった。熱い紅茶がカップの中で波を打ち、思わず洋服の上にこぼれた。

 るんるん気分で朝食を食べ終えると、「じゃあまた部屋でね!」とメルチェは元気よく手を振った。カウンターでお皿を洗っているレビウがはにかみながら手を挙げて、午後の約束をさらに楽しみにさせた。

 「アシッドー!」

 部屋へ戻り、泥のように寝ているアシッドのベッドへ思い切りダイブする。休みの日くらい昼まで寝かせてほしいアシッドは、返事をせずに布団の中へ閉じこもった。

 「今日お出掛けするわよ! レビウが午後お休みなんですって!」

 ウキウキのメルチェは丸くなるアシッドに跨って布団の上からパンチした。アイツはまた余計なことを……とレビウを恨む狼だが、「わかったわかった」ととりあえず口だけの返事をする。布団から唯一飛び出している三角の耳が畳まれて、まるでイカのようだ。

 「……お前らさ、二人きりの方がいいんじゃねえの?」

 メルチェが午前中だけでもダンスの練習をしようと出掛ける準備をしていると、気だるそうに布団にくるまったままのアシッドが顔だけを出してきた。

 「二人きり?」

 「だから、デートだよ。デート」

 「!?」

 大きなあくびをするアシッド。

 メルチェは狼の口からそんな言葉が出るなんて思いもよらず、雷に打たれたような気分になった。そのタイミングで、部屋にある鳩時計が赤面するメルチェの頭上で八回鳴いた。

 「そ、そんなのしないわよ!」

 「なんでだよ」

 「だって……そんなの、思い合った人たちがするものでしょ!」

 リーシュとタルモとか――とメルチェが例えを出そうとしたとき、「お前はレビウをそんなふうに見てないってことか」とニヤニヤしながら意地の悪い狼が言う。

 「ち、違う!」

 「可哀想なレビウ……」

 ムキになって言い返すメルチェに、アシッドはいまだ布団の中でしくしくと鳴きまねをした。

 「わ、私はレビウのこと、特別に思ってる! だけど、レビウには別に、ブリランテに特別な人がいるって……ハイリスが」

 騒がしかった部屋は静かになった。アシッドがむくりと起き上がり、「それをまんまと信じてんのかよ」と獣耳をかいた。

 「アイツ、お前のことが一番大切だって言ってただろ。それってお前の言う特別と何も変わらないと思うけど」

 狼の三白眼がメルチェを覗き見る。メルチェは小難しい顔をして、だけどその後は怒った表情になり、「アシッドの馬鹿!」と叫んだ。そして部屋を飛び出し、出掛けていってしまった。

 「……デートしてやったら、アイツ絶対喜ぶのに」

 一人になった部屋で、アシッドはレビウを思い浮かべてつぶやいた。そして、二人で行ってくれたら俺はまだ寝ていられるのに、と考えながら時計を見たあと、またそそくさと布団へ潜っていった。


 「アシッドの馬鹿! 馬鹿!」

 乙女心をからかわれたような気持ちになったメルチェは、思いのままに自転車を漕ぎ乱し、魔女の家までやってきた。

 「お前さん、今日は邪念がすごいね」

 いつものようにゆりかごの椅子に揺られている魔女が、おかしそうに笑いながらメルチェの額に指をさす。自分の気分を見透かされたメルチェは恥ずかしい気持ちになり、ぐぬぬと奥歯を噛み締めた。

 「今日はフルートのソロの部分を練習しなくちゃ」

 まずはお手本のトルソーを踊らせる。

 メルチェはダンスの練習を始めて二週間、曲の最後まではなんとか踊り終われるようになっていた。毎日の練習は、とりあえず一曲通して踊ってみるところからスタートする。

 魔女がレコードに針を落とす。ピアノの旋律が鳴り始め、メルチェは右足を一歩前に踏み出した。ゆるやかな曲に合わせて腕を大きく広げ、くるりと回る。

 庭の木々ではいつものように小鳥たちがおしゃべりをしていた。その声は、楽器のように曲に紛れる。晴れた空にお菓子のような雲が浮かんでいて、畑では野良猫が花の匂いを嗅いでいた。

 「やっぱりここが上手くできないのよね」

 メルチェはフルートのソロパートに突入したタイミングで、踊りながらつぶやいた。

 細やかな譜面を素早いタンギングで演奏するフルート。その音に合わせ、トルソーはその爪先立ちをした両足で複雑なステップを踏む。素早く足を入れ替えたり変わった動きをするそのステップは、何度見てもどう足が動いているのかわかりづらく、踊ってみると足がもつれて絡まってしまった。

 「またここで間違えちゃう!」

 メルチェは今日もフルートのソロ部分を踊れなくて悔しがった。この次は動きがゆっくりな振り付けになる。とりあえず最後まで踊り切るため、気持ちを入れ替えた。

 「ステップを踊れるようになるのも大切だが、表現することを忘れないようにしないと、姫にはなれないよ」

 通しで曲を踊り終え、できないステップを練習していたとき、魔女が呆れたように忠告した。

 「表現?」

 「そうさ。お前さんが今やっているのは、ダンスじゃなくてただの振り付けだよ」

 メルチェがよくわからない顔をすると、魔女はやれやれと言ったように指を振った。すると、トルソーがカクカクといつもと違う真面目な動きで踊り出す。それはただ物理的にステップや動作をこなしているだけの、何も楽しさの伝わってこない踊りだった。

 「こんなの駄目よ!」

 メルチェが頭を抱える。

 いつもトルソーが踊ってくれるのは、もっと目を惹くような、オーラのある、優美なダンスだ。何が違うのか?

 「姫になって人々を楽しませるんじゃなかったのかい」

 「そうしたいけど! どうすればいいの!」

 ステップすらまだ正確に踏めてもいないのに、表現力のあるダンスなんて踊れる気がしない。絶望するメルチェ。みんなを楽しませるような魅力的なダンスを踊れるようになるには、時間がかかると思った。はたしてオーディションまでに間に合うのだろうか。

 魔女はトルソーにメルチェを慰めさせ、「今度までの宿題だね」と笑った。


.


 時刻はお昼前。

 今日のところは練習を引き上げ、メルチェは昼食を買って帰ろうと木苺屋に寄った。

 「おう、メルチェ。休みの日まで顔を見せに来てくれたのか?」

 レジに座ったままのエミナが「暇だねえ」といたずらに笑う。

 「失礼しちゃうわ。特訓の帰りよ」

 自転車を停めたメルチェが髪についた雨粒を払いながらテント屋根の中へ入った。

 お店には相変わらず宝石のような果実がずらりと並べられている。ほとんど毎日見ている光景だが、まったく飽きることはない。朝摘みの木苺は粒が張っていてとても綺麗で、うっとりしてしまうほどだった。どれにしようか迷っていると、メルチェ以外にもお客さんがやってきたようだ。

 「メルチェ奇遇だねー!」

 「こんにちは、メルチェさん」

 蹄の音がした。見ると、ジャスターとソワンが傘を畳んでお店に入ってくるところだった。

 「二人とも!」

 仲のいい友人に朝から会えて嬉しくなるメルチェ。「お店に来るなんて珍しいわね」と、売り上げの計算をするエミナと顔を見合わせる。

 「それがさあ。面倒なやつに絡まれちゃって、差し入れを買いに来たんだよ」

 眼鏡についた水滴を黒いニットの袖で拭いているソワンの後ろ、ジャスターが腰に手を当ててため息を吐く。

 「面倒なやつ?」

 メルチェが不思議そうにそう尋ねると、「ロンとテオドルだよ。あの兵士二人」と、今日もさらさらのストレートヘアを肩から滑らせて、ジャスターは苦笑した。雨のコッツでも、彼女の髪はまとまっている。

 「広場を通ったら、ぐったりしているお二人に会って。なんでも最近訓練が厳しいらしくて、大変みたいなんです」

 「それでちょっと励ましてやったら訓練場に来てほしいって言われてさー。女の子がいたらやる気でるから! って」

 ジャスターが困ったように笑った。メルチェは子犬のようにすがりつくロンと隙あらば女の子を口説こうとするテオドルを簡単に想像できた。

 ブロワの南には兵士たちの訓練場があった。メルチェもそれは知っていたが、見に行ったことはなかった。訓練場は武器を振り回したりするので危ないらしく、木苺の配達もいつも高台にしか頼まれないのだ。

 「最近は盗賊だって言われてる不審者の目撃も増えてるからな。攻め込まれるかもって噂があるくらいだ。タルモも警戒してるんだろう」

 電卓を叩きながらエミナが言った。また大きくなったお腹をさすり、怖いね、ともうすぐ生まれてこようとしている赤ちゃんに話しかける。

 「まあ、面倒だけどさ、ロンとテオドルの気持ちはわかるんだ。ああいうのって、自分を見てくれてる人がいたら全然違うから」

 テント屋根に落ちる雨音が激しくなる。それにかき消されないよう、ジャスターははっきりした口調でつぶやいた。彼女は軍人の顔をしている。メルチェは兵士たちのように戦うことはできないし、何の役にも立てないけれど、頑張っている彼らを応援したいと思った。そして、誰かを守ろうとしている人々に興味があった。

 「……それって、私も行っていい?」

 メルチェがジャスターとソワンの顔を覗き込む。

 「えー! もちろんだよ、一緒に行こー!」

 ジャスターが尻尾を振って喜んだ。

 「それなら、訓練場に持っていく差し入れ、一緒に選びましょうよ。おすすめ教えてください」

 優しく微笑むソワンに、メルチェはお店の人気商品を紹介する。

 訓練場には今から向かうようだった。メルチェは差し入れを選んでジャスターたちと別れると、急いで宿へと戻った。午後のお出掛けに訓練場を提案すると、レビウは「いいね」と言ってくれた。アシッドは「たしかにデートに訓練場はないか」とまたメルチェをからかい、メルチェは「その話絶対レビウにしないで!」と釘を刺した。

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