黒兎
――ここは、どこかしら。
メルチェは夢の中にいた。
足元がぐらつく。気づけば線路の上に立っていて、かすかに残る鉄の匂いがメルチェの肌を逆立てた。嫌な予感がして振り向けば、そこには土砂に飲みこまれた列車があった。これは、父と母の命を奪った、五年前の列車事故だ。家族三人で乗ったはずなのに、目を覚ますと病室に一人。父も母も死んでしまったのだと聞いて、その日から過去の記憶はぼんやりとしている。
残骸は、見るとこめかみが痛んだ。それでも線路の道を一歩、一歩、また一歩と踏みしめてゆく。真っ白に淀んだ空と、やけに高い気温。喉の奥が焼けるようだ。胸が苦しい。息ができない。メルチェはただひたすらに足を進めていた。この先に何があるのかは知らない。けれど進むほかなかった。
ふと、足元を見る。自分は裸足だった。
線路の石がメルチェの足裏に突き刺さる。さっきまでは何ともなかったはずなのに、気づいた途端に痛くなってきた。血が出ているようだ。その色は、不思議の国の女王の庭で咲いていた、あの薔薇の色にそっくりだった。気持ちが悪くて吐きそうだ。
すると突然、視界が真っ暗になった。
――メルチェ。
暗闇から、声が聞こえてくる。
――あなたに、魔法を……魔法を、かけるわ。
優しい女の人の声だ。
――この先、どんな困難があっても、立ち向かえますように。あなたを大切にしてくれる人と、出会えますように。あなたの未来が、どうか、輝かしいものになりますように。
声はどんどん遠くなる。
――あなたが強くなれるまで、この記憶は思いださなくていい。受け入れられるようになるまで。永遠の……さよならの意味を、理解できるようになるまで。ずっと、ずっと、忘れたままでいい。だから、どうか。幸せに――
嫌だ、行かないで。そばにいて。一人になりたくない。このままずっと、傷ついた足で歩いていくなんて嫌だ。誰か、私を見つけて。どこでもいい、自分の居場所をちょうだい。自分が自分である意味をちょうだい。だから、私を姫に……
涙が溢れそうになったときだった。
――メルチェ。
さっきとは違う、別の誰かに名前を呼ばれる。
すると、ふわりと風が吹いた。
その瞬間。
暗闇は消え去り、視界がクリアになっていく。風は泉のようにメルチェの心を洗い流していった。どこかの糸がプツンと切れて、メルチェの肩は信じられないほどに軽くなる。まるで、羽が生えたようだった。あたたかい。安心する。私の名前を呼んでいるのは誰? 私に羽をくれたのは――
「誰……?」
夢から覚める。
うっすらと、かすかに開いた目。空は鮮やかな橙で、金色に輝く小さな満月が浮かんでいた。花の香りが鼻腔をくすぐり、変わったきのこの数々や、のびのびと枝を生やした木々たちが、メルチェの顔を覗きこんでいる。
私、眠っていたの? ということは、そうだ、ここは迷いの庭だ。もう夕方……時間どおりに広場へは行けなかった。女王はさぞかし怒ってることだろう。それに、憂鬱な夢を見た気がする。昔の夢をたまに見るから。だけど、今日は気分が悪くない。異様にすっきりしているくらいだ。どうしてだろう? 枕元がやわらかくて、あたたかいからかな。
……不自然だった。
迷いの森の芝生はいたずら。倒れたメルチェのうなじを、ちくちくとくすぐるくらいはするはずだった。やわらかくてあたたかいなんてありえない。まるで、誰かが膝枕してくれているような――
メルチェは、ハッとして目を見開いた。
「おはようメルチェ」
そこには見覚えのある少年の顔。
赤い瞳と目が合った。
「レビウ!」
メルチェは勢いよく起き上がる。すると、ゴチン! と、かたい音がした。
「痛っ!」
メルチェの顔を見下ろしていたレビウの額と、起き上がったメルチェの額が思いきりぶつかったのだ。鈍い痛みが互いの額にじんわりと伝わって、二人はしばらく自分の額を押さえていた。けれど、涙目同士でもう一度目が合うと、可笑しくなって笑い合った。
「レビウはどうしてここにいるの? もしかして、長い時間、ずっとそばにいてくれてたの?」
メルチェの質問に優しく微笑んだレビウ。どうやらメルチェの言うとおり、眠っている間はずっと膝枕をしてくれていたらしい。
「ごめんなさい! 私、迷惑かけちゃって……」
「メルチェが謝る必要ないよ、僕が勝手にしたことだから。気分はどう?」
「だ、大丈夫。ありがとう」
とんでもなく優しい言葉に、メルチェは少し戸惑ってしまった。長い時間そばにいさせてしまったことが申し訳なくて、だけど長い時間そばにいてくれたことが嬉しくて。会ったばかりの人間に、どうしてこんなにも優しくできるのだろう? 不思議だった。
メルチェがいまだ額を押さえながら考えていると、レビウが少し暗い表情になる。
「……アリスが、不思議の国の姫に選ばれたんだ」
「えっ!」
「森の奥で女王の鍵を見つけたらしい」
森に行ったのなら、メルチェとお城の前で別れたすぐ後。アリスは、あのまずい薬を飲んだ甲斐があったということだ。
メルチェの心に、悔しさと悲しさが同時にやってくる。けれど、いつもよりはましだった。優しい兎さんが、そばにいてくれたから。
「女王が招集をかけたのは、このことを報告するためだったんだ。メルチェが庭に閉じこめられてるって小鳥に聞いて、僕が代理で行ってきた」
「そんなことまで……本当にありがとう」
レビウのおかげで女王に叱られずに済んだ。レビウのおかげで深く落ちこまずに済んだ。レビウがいてくれなかったらきっと。
「また泣いちゃってたかも」
「え?」
「ううん、なんでもないわ」
西の空に太陽はもうない。その代わりに瞬き始めたのは星。散りばめられた金平糖のように、先ほどよりも少し動いた月の隣で、きらきらと輝いていた。
「それにしても、あの白猫さん……エシャって、何者だったのかしら」
メルチェはぐしゃぐしゃになった三つ編みをほどきながら言った。レビウはどこからかブラシと髪飾りを取りだして、「結んであげるよ」と後ろにまわる。どこまでも思いやりのある、優しい人だな、と、メルチェは思った。
「しかも、いつの間にか眠っちゃってたし。ほんと、今日は不思議なことばかりだわ」
「ふふ。たしかに、不思議だね」
檸檬色の癖っ毛を綺麗に解きほぐし、さっき編まれていたよりもきれいにおさげを編むレビウ。そんな彼の返事を聞いて、「レビウだって」とメルチェは言った。
「え?」
「だから、レビウだって不思議よ。どうして私にこんな優しくしてくれるの?」
二人のそばでは、薔薇の妖精たちが夕食の花びらを集めている。
メルチェの問いかけに、レビウは一瞬怯んだような様子になって、「えっと、あの、それは」と歯切れ悪く返事をした。
「そう、あの。女王。女王に頼まれたんだ」
「女王? ……って、不思議の国の?」
「う、うん。姫候補で困ってる子がいたら助けてあげてほしいって」
「なんだ、そうだったの」
レビウはなぜだかしどろもどろになっていたが、メルチェはそれを聞いて納得したようだった。なるほど、女王に頼まれていたからなのか。メルチェはうんうんと頷いていたが、それならみんなに優しくしていたんだな、と、なんだか少し残念な気持ちになった。
「よし、できた」
そんな彼女の髪は、あっという間に結われている。見ると、結び目には知らない髪留めが。砂のように小さなビーズで組まれたその紐は、まだ赤い夜陰の色を浴びている。
「これ!」
「えっとこれは、オーディションを頑張った人に贈呈されるもので……」
長い耳を揺らして言ったレビウはまたしどろもどろになっていたが、メルチェが嬉しそうに笑っているのを見ると、同じようににっこりと微笑んだ。
「……メルチェ、これはお守りだよ。きっと君を守ってくれる。だから、絶対手放さないで」
微笑みの次に、レビウは真剣な表情で言った。けれどメルチェは、髪留めに夢中で気がつかない。
髪留めはきらきらとしていて、偏光交じりの金の光が艶やかに、世界を乱反射させているようだった。ビーズの一粒一粒が宝石のようで、それはメルチェの瞳に似ていたが、レビウの瞳にも似ているような気がした。
「ありがとう!」
一通りそれを眺め終わったメルチェは嬉しそうに顔を上げる。
けれど、レビウはもういない。
「……また会えるわ。きっと」
なんとなくそう思ったメルチェは、一人でつぶやいた。
薔薇の妖精が庭の出口を教えてくれたので、メルチェは帰ることにした。港町へ帰るのはいつも憂鬱。今日も何者にもなれなかった。だけど、素敵な出会いがあった。おかげで、明日は今日よりも少しだけ、いい日になる気がした。
夕闇に沈む不思議の国。メルチェの髪留めだけが、星の色に染まっていた。