木苺屋さん 2
メルチェたちはコッツへと繋がる東の橋を渡る。
途端に雨が降ってきて、タルモは自転車から傘を外した。
「はい、可愛い傘をどうぞ」
「でもタルモが……」
「私はコートに帽子がついているから大丈夫なんだ。いつもこうしている」
ありがとうと傘を受け取ったメルチェは、彼の横顔を覗き見て、もし自分の父親が生きていたらこんな感じなのかな、とこっそり考えた。
雨は優しく降り注ぎ、みずみずしい果実をシャワーのように濡らしている。
民家と畑の連なった坂道を登っていくと、しばらくして、白いレンガの高台が見えてきた。
「コッツは東西南北、山の麓に高台があるんだ。私たち兵士が外地からの侵入者を把握するため、番をするのに使っている」
はじめメルチェたちがやってきたときも、南の高台からロンが様子を眺めていたようだった。バディの兵士に番を任せ、あとを追ってきたんだとか。
「そうだったの! だから昨日広場で――」
「あ! タルモ様ー! ……と、旅人さん!?」
ロンの話をしていると、高台の上からハツラツとした無邪気な声が降ってきた。どうやら本人に見つかってしまったようだ。
「なんでお二人が一緒してんすかー!」
子犬のように駆け降りて来たロンは、茶色い軍服をパタつかせ、見えない尻尾を振っている。乾いていたコートに雨の雫が色を落とした。
「ロン! こんにちは。今日は甲冑じゃないのね?」
「えっ!? そ、それは言っちゃ駄目っすよ!」
メルチェがロンをからかっていると、タルモは「山で着る甲冑がどうしたんだ?」とニヤニヤする。
「絶対リーシュ様から聞いてるじゃないっすか~!」
騒ぐロン。
「――へえ、君が噂の旅人さんかあ」
すると高台の陰から、パシャリと水たまりを踏む音がした。
見ると、そこには耳の尖ったエルフ族の青年が。
「テオドル!」
青年は、彼をそう呼ぶロンやタルモと同じ軍服を着て、メルチェを見るなり細い目をして綺麗に笑った。見た目はアシッドよりも少し年上くらいに見える。スラリと立つ姿が大人っぽい。
「想像より百倍可愛いね。どこから来たの?」
しかし、口を開いた兵士のノリは綿毛よりも軽かった。レビウとはまた違ったキザさを感じさせ、メルチェは一瞬たじろぐ。
「もー! テオドルは上で見張っとけって言ったじゃないっすか!」
「ロンだけ女の子とお話するのはズルいでしょ。ねえタルモ将軍、旅人さん?」
軽めなエルフの兵士――テオドルは、薄い唇の口角を上げてメルチェにウィンクした。ヘアセットした長めの髪が毛先を巻いて遊んでいる。きっと、自分の美しい容姿を理解しているのだろう。
「おいお前らあ! 旅人さんナンパすんじゃねえ!」
次に飛んできたのは太いガラガラ声。
振り向くと、巨漢の大男が雨の地面をザブザブ踏んで、豪快にこちらへと寄ってきた。
すると大男はタルモに気付くなりビシッと姿勢を整え、「タルモ将軍! お疲れ様でございます!」と大声を出してお辞儀した。
「ああ。バルバラク、お疲れ」
バルバラクと呼ばれた大男は、「お前らもっとちゃんとしろ!」と言って、ロンとテオドルの背中を叩く。太い手足が丸太のようで、軍服の袖がパツパツだ。もみあげに繋がった濃い顎鬚が、手入れされていなくて少し汚い。
「バルバラク隊長ひどいっすよ! テオドルみたいなチャラ男と一緒にしないでほしいっす!」
「ロンはそんなんだからモテないんだよ」
「はあ!? マジでウザいっすよそういうの!」
「女の子は余裕のある男の方が好きなんだから。ねー?」
メルチェが兵士たちの勢いに飲まれていると、タルモは「はっはっは」と声を上げて笑った。
「お前たち、久々の旅人さんだからってはしゃぎすぎだぞ」
タルモの言葉に、テオドルが「だって~」と頬にかかった雨粒をぬぐう。
「こーんな可愛い旅人さんだなんて思わなかったんだもん! あとでお喋りしよーね。お名前くらいは、聞いてもいいでしょ?」
二度目のウィンクにメルチェはまたドギマギしてしまったが、すぐににっこり微笑んで、騒がしい兵士たちに挨拶をした。
「私はメルチェ! よろしくね。今日は木苺を届けに来たの」
お行儀よく挨拶したメルチェに、テオドルは「素敵な名前だね、メルチェちゃん」と語尾にハートをつけて言う。
すると、さっきから軽すぎるテオドルにうんざりしたロンが「もー、テオドル!」とキャンキャン吠えた。
「ガールフレンドが何人もいるくせに、メルチェさんにまで媚び売らないでほしいっす!」
「うるさいなあ。お前はクロエちゃん一筋なんだから、関係ないでしょ?」
ロンとテオドルの言い合いに、メルチェは思わず「えっ!?」と大声を出す。
「クロエと恋人同士なの!?」
ガールフレンドが何人もいるという話にも驚いたが、そのあとの言葉――クロエちゃん一筋――に反応したメルチェが、目をキラキラとさせる。こういった類の話に食いつくところが年頃の女の子だなあ、とタルモが思う。
「まあ……そんなところっすね!」
頭を掻いて照れ笑いするロン。
すると即座にテオドルが、
「こいつの完全なる片思いだから騙されないでね」
とキツめに返した。
「いい加減にしろお前らあ! 早く高台へ戻れ!」
二人の勢いは尽きることなく、隊長である大男――バルバラクが怒鳴るまで兵士たちのやりとりは続いた。
「仲良しなのね!」
とメルチェが笑うと、ロンとテオドルは不服そうにまたなにか言い始めようとしたが、バルバラクに睨まれて大人しく高台へと戻っていった。
「――のどかな町なのに、こんな立派な高台があるなんて……」
騒がしい兵士たちが去ったあと、二人が登っていった高台を見上げるメルチェ。
その様子を見て、タルモは「不思議だろう?」と微笑んだ。
本来このような高台は戦や攻め合いのある国に建っていることが多く、メルチェは疎開先のコッツに高台があることを不思議に思っていたのだ。
「この町は土壌が豊かだから、昔は作物が大量に採れるこの土地をめぐって乗り込んでくる街がたくさんあったらしい。そのなごりのようなものだ」
タルモの話を聞いて、メルチェはへえ、と納得する。
たしかに白いレンガは近くで見ると年季が入っており、相当昔に建てられたものだとわかる。所々色は禿げ落ち、レンガの隙間に苔も生えている。
「この高台が残っているおかげで、我々はこの町を見渡せるんですな!」
大声で言ったバルバラクに頷くタルモ。
メルチェがもう一度高台を見上げると、町を臨める屋根付きデッキに二人の兵士が戻ってきたところだった。メルチェに気付いたテオドルが、ゆるく手を振っている。
「さっきも話したとおり、ここ百五十年ほどはもう平和になって、今は本当に見渡しているだけだがな」
そんな兵士の姿を見て、将軍様は陽気に笑った。
メルチェは、この町が平和でいられるのはタルモ率いる兵士たちがいるからなんだと思った。ここは美しい果実も薔薇も、自然豊かなところがとても素敵な町だが、メルチェがなにより素敵だと思ったのは、人々が親しみやすくてあたたかいところだった。
「――まあ、最近は変な輩も湧いてきてますがなあ」
高台を見上げる首が痛くなる。
雨が顔に落ちて、メルチェが高台から目を離したとき、バルバラクが低い声で言った。
「変な輩……?」
今までとは打って変わった不穏な雰囲気に、メルチェは思わず聞き返す。
「ああ……近頃山の奥から町を覗いてくる奴らがいるんだよ」
雨はさっきよりも強くなり、分厚い雨雲が山頂から流れ込み始めた。メルチェの持つ傘に弾ける、雨の粒がバタバタと音を立てる。
「時々だから、大丈夫だぞ」
タルモがメルチェの肩を優しく叩いた。
メルチェはハッとし、自分の顔が強張っていたことに気付く。なんだか不安になってしまう空気だった。「本当に大丈夫だよ」とタルモに念押しされ、少しだけ気分が軽くなる。
「おそらく盗賊かなにかだろう。それくらいならロンでも倒せる」
穏やかに微笑んだタルモ。
その横で、バルバラクも頷いた。
「我々はそのために日々鍛錬しておりますしな! 警備も強化するつもりなんで安心してくだされ!」
頼もしい兵士の幹部たちが胸を張り、メルチェはホッと安心した。
こんなにも優しくてあたたかい町にはずっと平和でいてほしい。美しい果実も薔薇も、人々も、山の麓の癒しとして生き続けてほしい。メルチェは心からそう思った。
.
東の高台から南の高台へは、山の淵をぐるりと辿ればすぐだった。
タルモらと別れ、雨の中自転車を漕いだメルチェは南の高台の下でラズと再会する。
「メルチェ~! ありがと~、ほんっとに助かったよ!」
ラズはニコニコしながらメルチェの手を取った。
どうやらメルチェが見えてきたあたりから待っていてくれたらしく、彼のジャンパーが少しだけ雨に濡れていた。
「大丈夫だった? 迷わなかった?」
「ええ、なんとか! 教会でタルモに会って、東の高台まで案内してくれたの」
メルチェの話を聞き、ラズは「そっかそっか」と笑顔で頷く。図体は大きいが、雰囲気はなんだか小動物のようだと思った。
木苺屋は本当に高台の真正面にあった。タイルの小道を挟んだそこには、可愛いテント屋根の下、広い台に木苺の入ったかごがたくさん並べられている。木苺は赤だけでなく白や黄色、紫もあって、すべてが宝石のように輝いていた。
「うちの旦那が迷惑かけたみたいで悪かったな」
メルチェが傘を畳んで店に入ると、レジカウンターから声をかけられた。
見ると、そこにはエプロンをつけた狼族の女性。お腹が大きく、どうやら妊婦のようだ。
「おれの奥さん、エミナだよ!」
ラズの紹介で尻尾をひらりと振った奥さん――エミナは、八重歯を覗かせメルチェに笑った。よいしょと椅子から立ち上がり、麻のエプロンを整える。
「はじめまして、旅人さん。昨日町に着いたばかりなのにすまなかったな。助かったよ」
男勝りな奥さん・エミナは、湿気で広がった髪を一つにしばった。メルチェのそばまでやってくるのに、ラズが少し手を貸した。
「いいえ、こちらこそお手伝いさせてもらえて楽しかったわ!」
メルチェは夫婦ににっこり笑う。愛想のいいおさげ娘に、エミナもつられて笑顔になった。そして、「少ないけど、これは貰っておいてくれ」と小さな巾着を渡してくれた。今日働いた分のお金だった。
「私、そんなつもりじゃ……!」
「わかってるよ。でもこれはアタシらの気持ちだ、受け取ってくれ」
メルチェは何度か断りながらも、最後はエミナの押しに負けて遠慮がちに巾着を受け取った。小さな手の上、硬貨の重みがずしっと伝わる。
「いつもはアタシが配達してたんだけど、腹の中の赤ん坊がデカくなっちゃってさ。さすがに臨月は安静にしてろって医者に言われちまって、今まで店番してたラズが配達してたんだ」
「でもおれ、自転車漕ぐの遅くってすんごい時間かかっちゃうんだよねえ」
呑気に笑う旦那を見て、「どんくさすぎるんだよお前は」と呆れる嫁。メルチェは自転車で転んで泥だらけになっていたラズを思い出し、少し笑ってしまった。
雨は少し弱くなり、同時に外の景色は夕方の色へと変わりつつあった。川の向こう、ブロワの黄色い空と、高台の上、コッツの空の水色が、木苺の粒の一つ一つに映り込んでいる。雨の匂いと一緒に漂う、熟れた果実の甘美な香り。
「ラズから聞いたんだけど、仕事を探してるんだって?」
貰ったお金でひとかご買って帰ろうかとメルチェが店内を吟味していると、レジに戻ったエミナが言った。
「ええ、そうなのよ」
赤い木苺もいいけど別の色もめずらしくて素敵だわ。メルチェはジュエリーショップを歩く気分で品台を眺める。店には果実だけでなく、木苺で作ったジャムやスイーツも置いていた。宿屋で働く二人へのお土産に、なにか買って帰ろうか。
「よかったら、ここで働かないか?」
すると突然、エミナが言った。
思いもよらぬ提案に、メルチェは瞳をぱちくりさせる。驚くメルチェの表情を、覗きこんだラズがニコニコしながら見つめている。
「メルチェ、お仕事探してるんだったら、うちでどうかなあと思って!」
「この町を出るまでの間、毎日じゃなくてもいいからさ。旅人ってのは入り用なんだろ? うちもラズの配達が遅くて困ってるしな」
エミナがにんまり笑う。ウィンウィンだろう? とでも言いたいような顔だった。メルチェの答えは考えるまでもなく。同じようににんまり笑った。
「ぜひ、喜んで!」
天から舞い降りたと言わんばかりの提案。メルチェは竿にかかった魚のように食い付いて、そんな少女の瞳の色が、今朝摘み取った黄色い木苺のようだと夫婦は思った。
.
「ねえ聞いて! お仕事が決まったの!」
金色の瞳の輝きは宿屋に帰ってからも失われることはなく、部屋に戻るなりメルチェは大声ではしゃいでいた。
一日中こき使われてクタクタになった兎と狼。夜になっても元気いっぱいなおさげと違い、シャワーを浴びたあとは部屋のベッドで泥のように溶けていた。
「お前マジでうるせえよ……死んじまうっての……」
「高台の近くの木苺屋さん! 配達するのよ。とっても優しいご夫婦が雇ってくれたの!」
体中バキバキに痛んでいるアシッドの疲労など無視して、一方的に話しかけているメルチェ。
今朝の様子を気にしていたレビウは、いつもの調子に戻った彼女に安心していた。疲れた体をベッドから起こし、「よかったね」と長耳を揺らす。
「配達なら、オーディションまでに町の人に顔を覚えてもらえていいかもしれないね」
そして続けたレビウの言葉に、メルチェは「本当ね!」と笑顔で答えた。
「お前の仕事が決まったんなら俺はもう働かないぜ。明日は昼まで寝る」
すると、狼が大きなあくびをして枕を抱いた。まだ夕食前だというのに、アシッドがごはんを気にせず寝ようとするなど、相当疲れているらしい。
「せっかくお土産買ってきたのに! 働かない人は食べられないわよ」
しかしメルチェがそう言うと、「く、食いもん……」と言って布団の中から這って出てきた。
メルチェのお土産は木苺の紅茶葉とフルーツサンド。硬めのクリームと小さな実がぎっしり詰まったふわふわのパンを見るなり、アシッドは掴みかかって丸呑みしようとする。「ごはんを食べてからよ!」と怒るメルチェの傍ら、レビウは可愛い缶に入った茶葉を見て、自分が紅茶を淹れるから買ってきてくれたのだろうか、と少し期待した。
外はずっと雨模様だが、三人は窓を開けっぱなしにしていた。部屋と外を隔つのは薄いレース一枚だけ。雨の音も湿った香りも、心地いいものだと気付いたからだ。
夕食までにお風呂に入りたいと言ったメルチェは、急いでバスルームへと消えていった。おさげの騒がしさに一層疲れてしまったアシッドは、再び枕を抱いて寝始める。けれど、
「……遅くならないといいけど」
レビウが少し心配そうにつぶやくと、
「飯まで時間あるし大丈夫だろ」
目を瞑ったまま返事をした。
レビウは「違う、お風呂じゃなくて仕事の話だよ」と言いながら、テーブルの上のフルーツサンドを戸棚に直し、茶葉の缶をポットの近くに置いた。その手前に食器とフォークを三つずつ準備する。夕食のあと、すぐにデザートを食べられるようにだ。
「あいつの仕事に反対なんだな」
「いや、そうじゃなくって……メルチェが楽しんでるのは僕も嬉しいよ。ただ……」
「医者が言ってた呪いの話か?」
レビウはこくんと頷いた。
目を瞑っているアシッドにはそれが見えないが、返事がなくてもそうだとわかった。
たしかに医者は、メルチェに夜や暗い中、一人で出歩かないように忠告している。呪いのせいで、よくないものが寄ってくる。夜はすべてのものを包み込み、隠してしまうからだ。今夜だって、細い雨が落ちているのは街灯の光がなければわからない。山の色も人の影も、暗くてなにもわからないのだ。
けれど、暗がりにも美しいものがたくさんあって――例えば夜の屋台、洞窟の花、砂漠の星空――メルチェはもう、気軽にそれを見ることはできないのだろうか。そう考えると、レビウは悲しい気持ちになった。
「お前がついてたら大丈夫だろ」
枕から顔を上げ、レビウに言うアシッド。
曇り果てた浮かない顔に、「そんなに心配なら仕事終わりにでも迎えに行ってやれよ」と茶化す感じで言ってみる。
するとレビウは少しだけましな顔になり、「あたりまえじゃないか」と言い切った。
「呪いがなくてもそうしてたけど」
いつでもブレない兎に対し、「相変わらず過保護だぜ」と狼は呆れてみせる。それくらい強気な方がいいんじゃねえの、とこっそり思った。
「……だけど僕は、アシッドのことだって心配してるよ」
アシッドがやれやれと枕を抱き直すと、突然、話の矛先が自分に向いた。狼は驚いて「なんだよ急に」と焦りだす。
「本当によかったのかい? 先を急がなくて……」
真剣な顔をするレビウに、またその話か、と飽き飽きするアシッド。「メルチェも気にしてたよ」と付け足されると、「ああそうかよ」と頭を掻いた。
「俺は別に、お前らのためだけにここに残ってるんじゃねえよ」
朝、仕事のときに替えたシーツ。枕に顔をうずめると、中のビーズにも柔軟剤の香りが移っていた。
アシッドはなんだか眠る気になれなくなって、大の字で天井を見つめる。隣のベッドに戻ってきたレビウが言葉の続きを待つように腰を下ろした。
「……親父に会うための覚悟が、まだ決められてねえだけだ」
碧眼が、どこか遠くを見ていた。
部屋にはアシッドの低い声と雨音が静かに木霊している。
「俺は家出さながらブリランテを出てきた。自分は捨て子で本当の息子じゃねえって、親父に隠されてたことを知ったからだ」
レビウは黙っていた。赤眼も、どこか遠くを見ている。
「親父の体が悪くなってることはわかってた。なのに一度も帰ってねえんだ、薄情だろ。でも、親父に会ってどんな顔をすりゃあいいのか、まだわかんねえ。ここまで旅してきた今も、わかんねえんだよ」
アシッドは届けられた手紙のことを思い出した。綺麗な便箋に包まれた、綺麗な文字の手紙。
どこの誰だかわからない他人でさえも気にかけるような病状なのに、自分はまだ、それでも素直に帰る気にはなれない。その人が看てくれていたのなら自分なんてお呼びじゃないのではないかとも思う。罪悪感と、無力感と、ほんの少しの会いたさがくすぶった。
アシッドが俯きかけたそのとき、
「薄情なんかじゃないよ。アシッドはいい狼だ」
レビウがアシッドを見つめて言った。
「なんだよそれ」と童話のような言い回しに思わず笑ってしまったいい狼に、兎は「真面目に言ってるんだよ」と微笑んだ。
「自分にとって大きなものほど、向き合うまでには時間がいるものだから……」
そして小さな声でつぶやいた彼は、少し切なそうな目をした。けれどすぐにいつもの顔に戻り、
「アシッドはしっかりしてるから、きっと大丈夫だよ。どうしても駄目だと思ったら、僕とメルチェと一緒に行こう」
そう言って微笑み直した。
アシッドはその大人びたような、大人びたように見せたいような少年の姿にムカついて、「ガキのくせに生意気だな」と笑った。少しだけ、体の疲れが取れた気がした。




