執事としての白兎
自分が無力だと、思い知らされたことはあるか。
俺はある。
自分なりに努力して、やりつくして、それでもなお、自分以上の才能を持ち合わせたやつがそばにいたとき。自分よりも認められ、頼られているやつを目の当たりにしたとき。別に、そいつのことを嫌いになるわけじゃない。才能のない、努力したって伸びしろのない、こんな醜い嫉妬を感じている自分自身が嫌になる。なんて無力で、無能で、なにも持っていない人間なんだろうか。俺が、ここにいる意味はあるのだろうか。
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俺が現在の王国の姫君――ディア様の付き人となったのは、彼女の体が今よりももっとひどい状態の頃だ。
その頃の彼女は今の王宮とは別の屋敷で暮らしていて、満足に飲み食いすることはもちろん、息をするのも絶え絶えだった。そのため、自室から、否、ベッドから出ることさえできなかった。そんな彼女の母親――現在の王国の妃。あのお方は、多忙なせいでディア様のお顔を見に来られることはめったになかった。
ディア様の面倒を見ていたのは昔からの使用人である年老いた侍女。侍女は去年亡くなったが、話し方がゆっくりで、丁寧で、とても優しい人だった。姫は本当はあのお方の娘であるけれど、どちらかというと侍女の影響を受けて育ってきたのではないかと思う。
その二人の間に放り込まれた俺はというと、今でこそディア様に絶対的な関係を誓ってはいるが、最初の頃は、正直言って執事業務に煩わしさを感じていた。明日にでも死んでしまいそうな体の主人と、明日にでも死んでしまいそうな年齢の侍女。なにが楽しくてそんな二人に混ざろうというのか。あのお方の命令だから業務に専念していただけで、ほとんど寝たきりのディア様とは話すこともそんなになかった。
「兎さん……兎さん、どこ?」
ただ、夜中になると、ディア様がうわごとのようにそうつぶやくことがあった。こういうときは侍女がどれだけあやしても無駄で、必ず俺が行かなければならなかった。
「ハイリス、ハイリス。ディア様がお呼びですよ」
「はあ。また俺ですか」
俺は正直うんざりとしていた。この頃は俺もまだまだ未熟な子どもで、子どもが子どもをあやすのかと、とても面倒な気持ちがあった。
「……兎さん」
「ディア様、私のことを兎さんと呼ぶのはおやめください」
「だって……」
「ハイリスです」
「ハイリス……」
俺は眠そうなのに眠らないディア様の首元まで毛布をかけ、背中を撫でてあげた。早く寝てほしくて、侍女がいつもやっていることを見よう見まねで覚えてはやってみていたのだ。ちなみに俺がどんなに不器用でも、ディア様や侍女が俺を嗤ったり馬鹿にすることはなかった。
「ディア様、どうして私なんです? 侍女様の方が、背中を撫でるのは上手なはずです」
開いた窓から夜風が吹き込む。俺はディア様の背中をトントンしながら、あからさまに億劫そうな態度でそう尋ねた。けれどディア様はそんな俺の態度に悲しむ様子はなく、
「ハイリスじゃないと駄目だよ」
と、はっきりした口調で答えた。そしてさらに手を握ってほしいとまでねだってくる。俺はディア様の言葉に動揺しつつも、その痩せた手を握った。
「ハイリスの宇宙みたいな目とか……冷たい手がね。すっごく安心するの」
夜の十二時を過ぎても、ディア様は瞼を閉じなかった。
カーテンの向こう側には街の夜景が明るく、ランプをつけなくても互いの顔がよく見える。俺の瞳の黒が深く、深く、ディア様の真っ白な顔を映し込んでいた。
「侍女さんはね……ふふふ。わたしより先に寝ちゃうんだよ」
黙ってディア様の顔を見つめたままの俺に、彼女は可笑しそうにそう話して笑った。
俺は侍女がもう年老いていることを思い出した。それでも仕事はきちんとこなしているイメージだったが、そんな一面があったとは。まるで本当の孫とお婆さんのようだと思った。
「ハイリス……いつも、お屋敷の裏で剣技の練習してるよね」
侍女の話に俺も少し可笑しくなってしまっていたとき、ディア様が唐突に言った。
「え?」
「ここのお風呂場の窓から見えるの」
俺は驚いた。
たしかに、毎日決まった時間に人気のない場所で剣技の練習をしていた。だけどまさか、見られていたとは。すごく嫌な気持ちだった。自分に才能がないことを知られてしまったと思った。
よりいっそう、ディア様に一刻も早く寝てほしくなった俺は、「絵本でも読みましょうか」と床に転がっているいくつかの絵本を手に取ろうとした。けれどディア様は「嫌だ。ハイリスの話がいい」と謎のわがままを言って聞かず、俺の手をぎゅっと握りしめた。
「ハイリスは剣技が好きなの?」
「いや……好きというか、必要だからやっているだけで」
「必要?」
「ええ、まあ。ディア様のことをお守りしなくてはならないので」
いつまで経ってもつまらないことばかり聞いてくる彼女に、俺は皮肉のつもりで刺々しくそう言った。しかし、ディア様は翡翠の瞳をキラキラさせて笑顔になった。
「わたしのために練習してくれてたの……!?」
その反応に俺はぎょっとする。いまだ握られている手が、熱い手にどんどんあたためられていっていた。
「人のために努力ができるなんて、ハイリスはすごいなあ……」
俺は、この人は、なんて世間知らずなんだろうと思った。
自分の部屋からほとんど出たことがなく、親とすら満足に話したことのない、弱くて、小さい、この世のことをなにも知らない姫君。自分と歳が近くても、見てきたものや触れてきたものが全然違う。綺麗な服や宝石、おいしいごちそう。ハッピーエンドばかりの絵本や映画。だから、才能もない、無力な俺のことを、そんなふうに思えるのだろう。
「……違います。ただ、役に立つと思われたいだけで。自分のためです」
俺はキラキラの瞳から目を逸らして言った。とても惨めだ。膝をついた床が硬く、冷たかった。
「それでも、すごいよ。毎日努力ができるなんて……」
そんな俺に、ディア様は目を瞑って言った。
「すごいね……ハイリス……」
そのまま眠ってしまったディア様の手を、この夜は離すことができなかった。
毛布にうずめた顔は青白いほど透き通る。銀色の長い髪がシルクのシーツに広がって、まるで雪原のようだった。汚れのない、まっさらな存在。世間知らずで、弱くて、小さく、なによりも美しい。
ハイリスじゃないと駄目だよと、そう言った声を思い出した。
自分が無力だと、思い知らされたことはあるか。俺はある。自分なりに努力して、やりつくして、それでもなお、自分以上の才能を持ち合わせたやつがそばにいたとき。自分よりも認められ、頼られているやつを目の当たりにしたとき。別に、そいつのことを嫌いになるわけじゃない。俺は、才能のない、努力したって伸びしろのない、こんな醜い嫉妬を感じている自分自身が嫌になるし、無力で、無能で、なにも持っていない人間だけれど、与えられたものを無下にして、本当になにもかもをないがしろにしたら、それこそ本物の馬鹿だろう。
この日から俺は少しずつ変わっていった。
ディア様との会話が増え、彼女の純粋さは、俺の冷たい心をあたためた。俺は、この先未来永劫、ディア様がなにからも汚されなければいいのにと思った。この世のことなんか、知らなくていい。ディア様が笑うと自分のすべてが許されるような気がした。彼女のためならなんでもできると思った。自分がディア様を守らなければ。
身を捧げよう。なにを失っても、誰を裏切ることになっても。
それはあなたのためだけに。
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馬車が停車した。
ハイリスが砂漠を出たのは真夜中だったが、王国に着いた頃にはもう朝になっていた。
馬車を降りると、手入れの行き渡った庭園の先に、そびえたつ山のごとく大きな王宮。朝日を浴び、黄金の屋根が光り輝いている。その豪華さに、彼が初めてここへ来たときは柄にもなく驚いたものだ。
庭の緑と踏みなれた白石の道。先月入ってきたばかりのメイドがその広さに絶望の顔を浮かべながら掃き掃除をしている。朝からいい運動になることだろう、なんて横目で眺めていると、王宮の門がゆっくり開くのが見えた。入口に、ドレス姿の女性がいる。
あのお方だ。
彼を含むまわりの従者たちは急いで彼女のもとへ駆け寄り、すぐさま跪いて首を垂れた。
このタイミング――――自分のことを待っていたのだと思った。あたたかいお出迎え、なんてものではないということを、彼はちゃんとわきまえている。
「おかえりなさい、ハイリス」
ドレスの女性が言った。
「ただいま戻りました。デティシラ様」
彼はさらに深く頭を下げる。体に染みついた動きだった。白い長耳が革靴の先に付く。体を屈めると、折れた肋骨がひどい痛みを滲ませた。けれどそんなことは関係ない。今は目の前にいる彼女がすべてだった。彼にとって一番特別で大切に思っている――否、一番特別で大切に“思わなければならない”人だから。
「……わたしがなにを言いたいか、わかっているわよね?」
ドレスの女性、もといデティシラは機嫌が悪いようだった。
「はい。大変申し訳ありませんでした。私の失態です」
ハイリスははっきりした口調で言った。その様子を見、デティシラはため息を吐きながら腕を組む。
「謝ってなんとかなることなのかしらね」
「いえ」
「そうよね。今までなんのミスもしてこなかった完璧な執事のはずのあなたが、まさか王国の姫を魔女に攫わせてしまうなんて。誰にも予想できなかったわ」
「申し訳ございません」
「いいわ。頭を上げなさい」
デティシラの言葉のあと、ハイリスはゆっくりと頭を上げた。
漆黒のドレスについた、パールや宝石がギラギラと揺れている。爽やかな朝日とはまた違った輝きだった。デティシラは短く切った銀色の髪をもギラギラさせて、娘と同じ、緑色の瞳でハイリスを見下げる。
「まあ、ディアを取り戻してくれたのもあなたではあるし。その怪我に免じて処分はなしと考えているわ」
その言葉に、従者の数人が隣の人と目で会話する。
デティシラはそのあと髪を鬱陶しそうに耳にかけ、ハイリスにしか聞こえない声で「あのクソ魔法使いのせいでもあるし……」と言った。けれど次には大きな声で、
「ただし、二度目はないわ。今度ありえないミスを犯したら、耳なんかじゃなく首が跳ぶと思いなさい」
と、圧のある空気をさらに圧迫するように言った。ハイリスは再び頭を下げ、再び詫びたあと、構文のようなお礼を言った。張り詰めた時間が糸を張る。
ついにデティシラがハイリスを眺めるのをやめた頃、城外へ出掛けるのか、デティシラは歩き出した。ようやく顔を上げることのできたハイリスは、能面のように無表情だった。この少年はまだ十五歳だというのになぜこんなにも動じないのかと、二人のやり取りを見ていた従者たちは毎回不思議でたまらなくなる。
「あ、それと」
急にデティシラが振り向いた。その隣、彼女のことを豪華な扇で扇ぎながら歩いていたメイドは、びっくりして慌てながら一歩下がる。
「今日からしばらく、ディアの世話はメイに任せるわ」
「!」
その言葉の瞬間、ハイリスの切れ目が微かに見開く。
「あなたにはあの件に集中してもらおうと思って。メイにはもう話してあるから、よろしく頼んだわよ」
「…………承知いたしました」
今度こそ、デティシラは数人の従者を引きつれて城外へと出掛けて行った。その一行が見えなくなった頃、跪いていたほかの従者たちは肩を撫で下ろしてようやく持ち場へと戻っていく。立ち上がったハイリスだけが、しばらくその場で両手の拳を握りしめていた。
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いつものように姫の部屋に向かう。今日だけは、少し足取りが重くなった。しかしシャツの襟を整え直し、ベストもスラックスも皴一つないようチェックする。気合を入れよう。この件に関する仕事が終われば少しは落ち着けるのだろうし、それまでは全身全霊で、力の及ぶ限り業務をこなす。疲労も感情も押し殺してきたハイリスは、革靴を鳴らす音のテンポを上げた。
姫君の部屋が見えてきたとき、扉の前で誰かがうろついているのがわかった。
紺色のワンピースに白いフリルの伝統的なメイドの制服。お団子頭にはめ込まれたカチューシャの端、金色のピンが三つついている。
「なにをしている。まるで不審者だぞ」
ハイリスは冷たい声で注意した。挙動不審な動きをしていたメイドはハッとする。ハイリスを見るや否や血の気を引かせ、「す、すみません!」と大きな声を出す。
「ハイリス様、あの、わたくし、今日から……」
「失礼いたします」
メイドが何やらモゴモゴと話すことを微塵も聞かずに、ハイリスは大きな扉をノックした。するとすぐに「どうぞ」と聞きなれた返事。
「ハイリス……!」
ハイリスが部屋に入ると、窓辺の朝日を浴びる姫君が飛び起きた。寝癖もついていない銀色の髪を揺らしながらブランケットを放る。
「ディア様、突然起き上がっては……」
こちらへ急いで駆け寄ろうとした姫君・ディア。彼女がネグリジェの裾を踏んでしまった瞬間、すばやくハイリスがその軽い体を受け止める。
「ハイリス、体は大丈夫なの? わたしがぼーっとしていたせいで、ごめんね、ごめんねハイリス……」
ディアは体調が悪そうだった。顔の色は青白く、目の下に隈ができている。そして震える指で包帯だらけのハイリスの体をさすっていた。昨日の夜は眠れていなかったようだ。
「ディア様、私に謝罪などいりません。謝罪しなければいけないのは私の方です。私が執事としてしっかりしていなかったから……この怪我は、自業自得で負ったもの。ディア様を危険に晒してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
ハイリスはディアに向かって深く深く頭を下げた。ディアは母親と同じ、緑色の目でハイリスを見つめた。
「……今日は、ディア様にご報告があって参りました」
ディアの体を抱きかかえ、ベッドに座らせるハイリス。小さく宝石のついた髪飾りで彼女の長い前髪を留めたあと、よくわからない顔をしたディアから目を逸らし、先ほど自分と一緒に緊張の色を見せながら部屋に入ってきたメイドのことを見やる。
「メイ」
「はいっ!」
メイドはまた大きな声を出す。いい返事だった。
「お初にお目にかかります、ディア様! わたくし、今日から侍女としてお仕えさせていただくことになったメイと申します。よろしくお願いいたします!」
メイド――もといメイは、大きな、かつ、うわずった声で硬い挨拶をした。
ディアは一瞬驚いた様子であったがすぐに天使のような笑みを見せ、
「そうなんだ……! メイ、気を遣わずに、よろしくね」
と優しく言った。メイは母親とはまったく違う雰囲気の姫君に戸惑いながらも、その可愛らしい微笑みに少し緊張が和らいだ。
「ハイリスも一緒だし、緊張しなくても大丈夫だから」
ディアがもう一度笑った。メイが言葉を詰まらせる。それに気付いたハイリスが、「ディア様」と口を開いた。
「私は、今日から別件を中心とした業務に異動します。私に代わって、メイが来ました」
淡々となされた説明に、ディアは「え……?」と笑顔を失う。戸惑いを隠せないその表情に、ハイリスは目を合わせられない。
「ハイリスは、もうわたしのそばにいないってこと?」
「しばらくはそういうことになります」
「お母様に言われたの?」
「はい」
高い天井まで広く張られた硝子の窓は、今日も曇り一つなく磨かれていた。たまご色の光に包まれた王国の景色が煌びやかに広がって、そのもっと遠くに、水平線が濃く張った鏡のような海が臨める。
そんな美しい景色を背にしたディアは、逆光のせいで顔が影になり真っ暗だ。ハイリスはまた「ディア様」と主人の名を呼び、跪いて彼女の背中に手を添える。
「なにも、二度と会えなくなるわけではありません。ディア様に不自由のないよう、ほかの従者にも指導は行き渡らせます」
「そんなことは望んでな……」
「きっとメイもなんでもします」
「はいっ! なんでもやります!」
ディアとハイリスの会話を黙って聞いていたメイだったが、突然また大きな声を出したので、ディアとハイリスはびっくりする。
「……元気、なんだね。ふふ」
ディアはそのやる気になんだか可笑しくなってしまって、思わず笑ってしまった。
メイは「すみません!」と焦りながらも、やっぱり母親とは随分と雰囲気の違う彼女のやわらかさに多少安心しつつあった。
「ハイリス、無理せずにお仕事頑張ってね」
すると、ディアが言った。ハイリスの目をまっすぐ見つめるエメラルドの瞳。よく見ると、デティシラとは少しだけ違う色の緑をしているようだ。ハイリスは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「メイ」
ハイリスが頭を上げると、次にディアは新しく侍女になったメイドを呼んだ。今日何度目かわからない大きな返事をした彼女は、ぎこちない様子でディアの前までやってくる。跪いて頭を下げると、ディアがそっと手をとってきた。
「今日からよろしくね。女の子同士、たくさんお話相手になってくれると嬉しいな」
メイは胸がいっぱいになる。この主人のために、頑張ろうと思った。
一方ディアは、新しく友達ができた気分だった。もっと話をしたり、出掛けたりしたい。夜になったらメイにメルチェの話をしよう。そして、今度メルチェに会ったらメイの話をしよう。ハイリスがいないのは寂しいけれど、いろんなことを楽しもう。ハイリスが戻ってきたら、楽しかった話をたくさんしよう。
ハイリスとメイは仕事の引継ぎをするためディアの部屋をあとにした。ハイリスは、不安がっていたメイに「お前はメイドとしての経歴も業績もあるから大丈夫だ。デティシラ様に選んでいただいたのだから胸を張れ」と言った。メイは驚いた。この人も、こんなふうに励ましてくれるのだな、と思った。
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王宮の夜は静かだ。というのも、この王宮が城下町よりも高い土地に建っているから、街の喧騒が届かないのだ。けれど街のことなど、興味はなかった。ハイリスにとってはこの王宮がすべてだ。
「こんばんは、白兎さん」
狭い自室で書類仕事を片付けていると、小さな窓から白髪の魔法使いが覗いてきた。ウィアルドだ。いい加減寝床に入って体を休めようと思っていたハイリスは、うんざりとした様子で黙って窓を閉めようとする。
「ちょっと、ひどいことしないでよ」
「こんな夜中に迷惑だ。俺はもう寝る」
簡単な魔法で壁をすり抜け、窓を閉められても図々しく部屋に侵入するウィアルド。「相変わらずなにもない部屋だなあ」などと本当にベッドと机と椅子以外なにもない部屋にコメントをしながらハイリスの肩をぽんと叩いた。そして、
「砂の迷宮、楽しんでくれた?」
と言った。
ハイリスの思考が停止する。迷惑な魔法使いなんて、無視して寝ようと思っていたのに。
「……まさか、お前がやったのか?」
その声色は、いつも以上に冷たくなった。しかしウィアルドはにっこり笑う。
「宮殿の呪術を利用したんだよ。もう少しで殺せたんだけどなあ、あのおさげ!」
殺し屋兼魔法使いは愉快そうに話を始めた。指先で魔法の光を線にしてもてあそび、その輝きが大きくなると、手のひらで思いきり握り潰して灰に変える。ハイリスは眉間に何重もの皺を作ってその様子をただただ見ていた。瞬きをすることも忘れてしまう。
「お前、自分がなんのために雇われているか理解しているのか? ディア様を巻き込むなど、ありえないだろう!」
そして氷点下の域に達する冷たい声を出した後、思いきり怒鳴ってみせた。
ウィアルドは「まあまあ、そんなに怒らないでよ」とハイリスの怒りを軽くあしらう。
「俺は宮殿に少し邪悪な魔力を足しただけ。もともとの魔女の力が強すぎて勝手に暴走しちゃってさあ。ずっと様子を見てたんだけど、レビウは傑作だったんだよ! 絶対夢から出られないと思ったのに意外とあっさり魔女倒しちゃって。でも案の定メンタルやられてるんだよね」
ペラペラと御託を並べるウィアルドは悪びれない様子である。ハイリスの怒りが増加していく。
「そんなことはどうでもいい! なぜディア様を危険に晒したのかを聞いている!」
長耳を纏う短い白毛が逆立った。鋭い目がさらに鋭くなり、ナイフのようにウィアルドの姿を切りつける。そんなハイリスを見ても、ウィアルドはやはり悪びれない。
「なーに言ってんの。俺の仕事はおさげを殺すってことだけだよ。ディアを守るのはお前の仕事だろう」
そして、兎の痛いところをついた。
ハイリスは言い返せなかった。なぜなら、彼自身もその通りだと思っているからだ。
静かになったハイリスに対し、ウィアルドは「まあいいや」と笑顔を見せる。
「おさげの呪いはまだ解けてないだろうし、今度こそ殺せるかなあ。そろそろ本気で始末しないとデティシラもうるさいからね」
ウィアルドは黒よりも黒い色をしたコートの中から杖を出した。くるくると手の上で回して見せる。本当は杖なんてなくても魔法は使えるのだが、なんでもそれらしく見えるように振舞うのが彼のモットーだ。ちなみにコートやとんがり帽子も同じ理由で見につけている。
「本格的にハイリスもこっちの協力してくれるんだって? 執事の休みとるって聞いたから挨拶しに来たんだけど、体を休ませるのが最優先みたいだね」
両手をぐっと握って目を伏せているハイリス。先ほどの言葉が効いているらしく、もうウィアルドと目を合わせる気はないらしい。ふう、と息をつき「いい夢見なよ」と言った魔法使いは、杖の先を軽快に振った。怪しい光の粒が現れたかと思えばあっという間に長身の彼を包み込み、白い髪一本残さず部屋から消える。
「……クソ」
ハイリスは一人つぶやいた。
なにもない部屋に放たれたそれを聞いたものは誰一人おらず、か弱く灯った蝋燭の火も吹き消された。部屋は暗闇に埋もれるかと思われたが案外窓の外は明るく、王国の情景が彼の小さな部屋を照らした。カーテンがないので、夜は本当の意味で彼をこの世から隠してはくれない。
寝床に入ったハイリスはゆっくりと目を瞑った。起床時刻まであと三時間を切ってしまったが、今日はまだ眠れる方だ。けれど、寝付きの悪い予感がした。いつもより布団が硬くて冷たい感覚。
あの熱い手を握って眠れたら。誰かが背中を撫でてくれたら。眠れるだろうか。そんなことを、めずらしく考えた。




