寛解 2
しばらくして夜も濃くなった頃、ついに病室の扉が開いた。
「目を覚ましたわよ」
看護師のセリフを聞いてすぐ、兎は病室を飛び出した。狼が余裕ぶりながら看護師に「ありがとな」と言って、そのあとの急ぎ足はスキップのようにも見えた。
レビウが先ほどの診察室に来ると、医者はおらず、カルテの隣に飲みかけのコーヒーだけが残されていた。
パーテーションの奥、人影を感じる。後ろから来た看護師がその仕切りを縮めると、ベッドに腰かけたおさげの少女がブランケットを膝にかけ、汚れたブラウスを整えているところだった。血色が戻り、薄ピンクになった頬の色。
「メ、メルチェ」
レビウが小さく声をかけた。
「レビウ!」
レビウの声に反応し、少女がパッと顔を上げる。
メルチェだ。本物の。
明るいひだまりのような、花の咲いたような笑顔を見て、レビウはメルチェにゆっくりゆっくり歩み寄った。
「メルチェ、よかった、本当によかった、よかったよ……」
膝をつき、小さな体を抱きしめる。
「レ、レビウ」
メルチェは久しぶりにレビウの姿を見た気がした。自分をぎゅっと抱きしめる兎が、不思議で、少しくすぐったくて、思わず照れてしまう。心臓が小さく飛び跳ねた。
「ご、ごめんね、心配かけて。お医者さまから事情は聞いたんだけど、私、途中からあまり覚えていなくって、それで……」
「いいんだよ。そんなこと。メルチェが生きていてくれたら、僕はもうなんだっていい……」
抱きしめられる、腕の力が強くなる。こんなレビウを見るのは初めてだった。
自分が覚えていたのは魔女との舞踏会まで。赤い靴のステップを、いまだに体が覚えている。魔女と踊りながら考えたレビウのことも、もちろん覚えている。彼が特別だと、彼が好きだと気付いたこと。だから、いつもより胸がドキドキした。
「レビウ、ありがとうね。……また、助けてもらっちゃった」
メルチェは兎の肩越しに言った。
「ううん。ちゃんと守れなくて、ごめん」
二人の体が自然と離れる。その間には二人だけの優しい空気が膨らんで、レビウの赤い瞳が微かに揺れる。潤んだそれにじっと見つめられてしまうと、メルチェは余計にドキドキした。けれどそれ以上に、彼をとても心配させてしまったことが申し訳なく、言葉にできない気持ちになる。レビウを守りたいと思っていたところなのに、結局また自分が助けられてしまった。
「こっちこそ、レビウに心配ばかりかけちゃって」
「違うよ。僕がしっかりしてないから」
「そんなことない、私が……」
永遠に同じやり取りを続ける二人に、アシッドは「俺もいるんだけどな」と何度か会話を割ってみる。しかしレビウもメルチェもアシッドを気に留めることはなく、見つめ合ったままである。もはや慣れっこの狼は、治療の片付けをする看護師の様子をあくびしながら眺めていた。
「メルチェのことが、一番大切なのに……」
何度目かのやり取りのすえ、レビウがそっとつぶやいた。
「えっ」
メルチェが思わず聞き返す。
するとレビウも「え?」と聞き返し返した。
「一番?」
メルチェが混乱しながら確かめた。
「うん、そうだよ。一番大切」
「私のこと?」
「え? う、うん」
「そうなの?」
「気付いてなかったの?」
「え、えっと……」
「おいお前ら、俺もいるからな、俺も」
いい加減に強い口調でアシッドが言った。「わかってるよ」とようやく返事をしたレビウの傍ら、メルチェは、困惑と、嬉しさと、少しの安堵を感じていた。
ハイリスの言っていた、レビウの特別な、大切な人がブリランテにいたという言葉。今でもすごく気になっているし、本当のところはどうなのかちゃんと知りたい。だけど、レビウが自分のことを一番大切だと言ってくれた。その言葉は、本物なのだ。今まで守ってくれたのだって、助けてくれたのだって、ちゃんと自分を大切に思ってくれていたからなんだ。
メルチェはそれがわかって胸の奥がぎゅっとなる。自惚れない。自惚れたりなんかしない。きっとレビウの言う“一番”と私の“一番”は種類が違うから。だけど、大切な人に大切だと言ってもらえるのは、とても嬉しかった。
「呪いが完全に消滅したわけではないから、気を付けるようにねって先生が」
目尻の皴を層にさせ、ふふふ、と微笑みながら看護師が言った。
アシッドの存在は忘れていなかったが看護師の存在は少し忘れてしまっていたレビウ。恥ずかしそうな様子で「わかりました」と返事をすると、メルチェも同じように恥ずかしくなってしまった。アシッドはいい気味だと笑った。
「馬鹿もんが! 駄目じゃと言っとるじゃろ!」
すると突然、隣の診察室から声が聞こえてきた。しわがれた声。医者だ。別の患者を診ているのだろう。
「問題ない。手当てが終わったのなら帰らせていただく」
「そんな体で帰すわけにいかん!」
「迅速な処置、感謝する。お代はこのくらいでいいか」
「怪我人は医者の言うことを聞かんかい!」
どうやら揉めているようだ。三人は顔を見合わせ、目をぱちくりとさせる。この冷たい声。
「……あなたたちの言ってたこと、信じなくてごめんなさいね。宮殿は本当に大変だったみたい」
もしかして、と思っていた三人は、看護師の言葉で予想が確信に変わった。思わず立ち上がって隣の診察室を覗きに行く。看護師もなにかを察してとめようとはしなかった。見ると、薄いパーテーションに、長い耳のシルエット。
「ハイリス!」
レビウが彼の名前を呼んだ。
パーテーションをも覗き込んだ三人に、長耳の患者は呆れた様子で振り返り、予想していた彼らの反応にため息を吐いた。
「うるさいな。疲れているんだ、静かにしてくれ」
冷静にそう言った、医者の前で丸椅子に座っていたのはハイリスだった。
血だらけになったシャツやベストをきちんと畳み、半裸の体に太い包帯が何重にも巻かれている。頬や腕にもガーゼが施されていたが、すでに鮮やかな赤が滲んで染みていた。
「無事だったのね! よかった、ディアも一緒!?」
レビウの背を越え大声で尋ねてきたのはメルチェ。その元気そうな姿を見て、ハイリスは驚いた顔になる。
「……それはこっちのセリフだ。お前、もう起きたのか」
煽っているわけではなく純粋に驚いた彼の顔を、メルチェとアシッドは初めて見た。戸惑って、「ええ、私はこの通りよ!」とメルチェが答えるまでに少し間が空いてしまった。ハイリスはどうでもよさそうに「そうか」と言った。
「ねえ、ディアは?」
「ディア様ならご無事だ。先に馬車でお送りした」
「あのあと見つかったのね。よかった」
「ああ、魔女に捕らわれていたがなんとか殺った」
「ええ!?」
メルチェとハイリスの会話を遮り、医者が大声を上げる。
「今度は何だ」
「宮殿の魔女とやりあったじゃと!?」
「だからそうだと言っているだろう」
「信じられん……どうりでこんな有様じゃ、余計に帰せんわい!」
ハイリスと医者のやり取りは何百回も続き、頭が固すぎるハイリスにとうとう医者が折れる形で決着がついた。医者は何度もハイリスに痛み止めや塗り薬の説明を繰り返し、必ず言いつけを守って忘れずに服用することを条件に、帰宅を許した。
診察が終わり、ハイリスはそそくさと帰り支度を済ませる。出口まで見送りをしに行くと、ハイリスは心底嫌そうな顔をしていた。オレンジ色のライトがその表情を明るく照らす。
「こんな夜中に帰らなくてもいいじゃないか」
「迎えの馬車を呼んである」
心配そうなレビウに返すハイリス。
大怪我を負っているにも関わらず、彼はそんな素振りを一切見せない。シャツもベストもビシッと着直し、髪もいつも通り整え直してあった。切れ長の目がより凛々しく見えるのは、彼の強さにより触れたからか。
「レビウ」
メルチェがそのタフさに驚いていると、冷たい声がもう一匹の兎の名を呼ぶ。
レビウは黒の長耳をピンとさせ、「なんだい?」と微笑みのような、困った顔のような、よくわからない顔で返事をした。ハイリスはふう、とため息を吐き、レビウと向き合ったあと、
「俺は今でもお前のことがわからない。だが、好きにやればいいだろう。お前は弱いんだから、そこの野蛮な狼と、強剛な小娘にでも守ってもらえ。じゃあな」
と早口で言った。
「え……強剛って、私のこと!?」
ハイリスは不服そうな叫びを上げるおさげを無視し、足早に砂丘を下り始める。
納得いかないメルチェの隣でやれやれと呆れるのは狼。碧眼がちらりとレビウを盗み見すると、その目は灯りの光を浴びてキラキラと波を打っている。「ハイリス!」と呼び止めた少年の声は、数多の植物の鉢植えを飛び越えて、白兎の背中に届いただろう。足をとめてはくれないが、きっとそうだとレビウは思った。
「僕はメルチェを守るよ。それがしたいことだから。ハイリスも、自分のために生きてくれ。どんな形でもいいから」
そのあと「約束だから!」と言った大声に、ハイリスはやはり振り向いてはくれなかった。けれど、少しだけ耳が動いていた気がした。
レビウは「あいつ、真面目すぎるから」と言った。メルチェは、二人の間には二人にしかわからないことがたくさんあるのだろうと思った。ハイリスの言葉にいつも困った顔をしていたレビウだが、今日はなんだかすっきりした顔をしている気がして、アシッドはなんだか安心した。
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「荷物は持ったかい?」
砂漠の朝。喉が渇いて、メルチェは起きた。
治療の薬を作ったせいでビーズの髪飾りがなくなってしまったので、ただのゴムでおさげを結うときになんだか自分の一部が足りていないような気がした。髪飾りなんてしていなかった、レビウと出会っていなかった頃の自分がどんな感じだったのか、今はよく思い出せない。
「ラクダ車に乗ろう。少し高くつくけど、体力の温存を優先させた方がいいと思う」
荷造りをし、レビウの言葉に頷きながら病院を出た。出るときに、薬と一緒にパンと野菜ピクルスを看護師が持たせてくれた。医者はメルチェに、できるだけ夜に出歩いたり暗い場所に近付いたりしないようにと言いつけた。残ってしまった呪いの副作用で、暗闇ではよくないものが寄ってきやすいからと。心配してくれているようだった。
ラクダ車に乗り込む頃にはもう日が高く昇り、また焼けるような暑さがメルチェたちを襲った。レビウの脱いだジャケットやアシッドの髪に日光が集まり、じりじりと乾いた熱が立ち込めた。
オアシスから次の街への道のりは長く、山に囲まれ雨の降り注ぐそこへ着くのは明日以降になるだろうとラクダ車を動かすおじさんは言った。残りの砂漠を突っ切るのは夕方頃、それから山を越えるのに半日ほどかかるようだった。メルチェはまた歩き続けなければならない覚悟を決め、ラクダ車に揺られ続けた。
昨日の疲れや体調の悪さが全快せず、メルチェは乗り込んですぐ眠りについてしまった。また喉が渇いて目が覚めたが、暑さは多少ましになっており、レビウが膝枕をしてくれていたおかげかよく眠れた。空は紫色に染まり、砂の地面はミルク色の海面のようだった。徐々に短い草が生え始めている。
「よく寝てたね。もうすぐ着くよ」
「おいていこうかと思ってたところだぜ」
メルチェが焦って髪を整えた。遠くの方を見ると、いつの間にか山が見えるようになっている。深い緑色をしていて、連なっている様がラクダのこぶのようだった。
しばらくして、ラクダ車は幅のある川に突き当たった。薄い板でできた簡単な橋の前にラクダがとまる。ここから先は足を踏み入れないように教えられているようだった。よく訓練されていて、賢いなあとメルチェは思った。
「山を一つ越えられれば、コッツ・ブロワに着くからな」
ラクダ車のおじさんがお代を受け取るときに言った。三人はお礼を言って、オアシスへと戻っていくおじさんとラクダたちを少しの間見ていた。
「行こうか」
降りた場所は山の麓だった。川の向こう、すぐ目の前に、先ほど眺めていたと思われる山がそびえ立っている。見たことのない木々が根を生やす赤い土と、こちら側の砂漠の砂とを繋ぐ、先ほどラクダが踏み入れなかった橋。メルチェたちはためらわずに進んでいく。
川は浅く流れも緩やかで、橋からは底にある石や砂の色がはっきりと伺えた。水草のそば、小さなカニが隠れている。橋の向こうは草むらだった。山道に続いているのか、人が歩き潰した地面が道になって山と山の間に伸びていっている。赤い土に砂利が埋もれてタイルのようだ。涼しくなった夕闇が、山の裾に降りてくる。砂漠の渇きに別れを告げて、三人の旅人がラクダのこぶを越えていく。




