鏡よ、鏡
アシッドは寝室に入った途端、急に倒れこんだレビウを起こそうとしていた。
「レビウ! おいレビウ! どうした、しっかりしろ!」
寝室は依然として薄暗い。
ぼんやりとしたランプの光が時々点滅して気味が悪く、アシッドは段々怖がりなメルチェのような気分になってきた。
鉄格子の前に横たわるレビウを持ち上げて脇に抱え、寝室へと入り直す。いつもはピンと伸びている長耳が、力なく地面へと垂れていた。
とりあえずこいつを寝かそうと、アシッドは奥のベッドに目を移す。
すると、どうだろう。
そこには黒いネグリジェの女が座っていた。
広い袖口から骨のような腕が生えており、手首には包帯が巻かれている。包帯には「1」という赤い文字。
「……その少年を、こちらへ寄こしなさい」
女が言った。
「はあ? お前誰だよ」
女の存在に一瞬びくついたアシッドだが、すぐに気を改め、言われた言葉に反抗した。
女はアシッドの質問に答える気はないのか、ゆらゆらと前後に揺れながら何やらブツブツと唱えている。
「その子は悪い子……邪気がすごいわ。寄こしなさい」
ランプの灯りが一つ消えた。
「やなこった」
アシッドはレビウの小さな体を担ぎ直し、八重歯を光らせ断った。
兎の耳は相変わらず落ちている。手も足も同じようにぶら下がり、まるで死んでいるようだった。
悪寒がする。威勢よく振舞ってはいるが、実のところアシッドの背中はゾクゾクしていた。けれど友人を譲るわけにも、この怪しい女に隙を見せるわけにもいかない。アシッドは必死に強がっていた。
「……あなたも悪い子。お父様の話を聞かずに家を出て、今更謝ろうだなんて遅いんじゃなくって?」
すると、女が言った。
アシッドは思いもよらないその発言に言葉を失う。
「うふふ……わたしはなんでもわかるのよ」
女は不気味に笑いながら揺れていた。
そして、また一つランプが消える。
薄闇が肌に染みつき落ち着かない。暗がりの中で自分一人が生きていて、魂のない影たちが闇の中へ引っ張ってきているようだった。
「見えるわあ。年の老いたお父様……印刷屋さんなのね。小さなあなたを必死に育てられて」
女はさっきからずっと手鏡を覗き込んでいる。
「おい……」
「仲良しだったのねえ。お仕事をお手伝いして暮らしてた」
「おい!」
女は狼の反応を楽しんでいるらしい。
煽られていると理解しつつも、アシッドの感情は荒れた海のごとく波打ってしまう。
「なのにあなたってば、本当に悪い子。どうしてこんなに怒って出て行っちゃったの?」
アシッドが固まる。
女の声はうわずっていた。手鏡を顔にくっつくほど近付けて、楽しそうな様子で笑う。
「――本当の息子じゃないって、知っちゃったから?」
その瞬間、女に向かって拳が飛んだ。
しかし攻撃に手応えはない。殴りかかったアシッドが広いベッドに転がっただけで、顔を上げると女の姿が消えている。
するとランプもまた一つ消えた。
部屋を照らす灯りはついに一つきりとなり、ほとんど真っ暗な部屋の中、狼の暗色の髪も溶け込んでしまう。
「おい、どこ行った!」
「あらあら乱暴なのね。か弱い乙女を殴るだなんて……」
くすくすくす、とどこからか笑い声が聞こえる。
アシッドはふかふかのベッドから降りて部屋の角に立った。
寝室が闇夜の暗さになったとしても、彼の目はぎらりと光る。夜行性の狼にとって暗闇なんてどうってことないのだ。すぐに反対角のベッドに座る女を見つける。
「ふふふ。可愛い狼さん、落とし物に気付いてないの?」
その言葉にアシッドはハッとした。
体が軽くなっている。レビウがいない。しっかりと抱えていたはずなのに、いつの間にか女に奪われてしまっていたらしい。
レビウは女の傍らに寝かされていた。
黒い耳に黒いジャケットが、漆黒の空間に沈んでしまってよく見えない。アシッドは何だか怖くなる。
「レビウを返せよ!」
「大切なものはちゃあんと持っておかなきゃ。あなたはいつも手放しがちね」
人のことをもてあそび続ける発言に、アシッドの苛立ちは限界を超えていた。けれど、どこかちくりと痛む。
手放しがち。
森の手紙も、今のレビウも、そして自分の父親も――――
アシッドは耳をぱたたと震わせた。挑発にのってはいけない。気を強く持たなければ。
「言われなくてもケリはつけるぜ。とにかくレビウは返してもらう!」
狼は尻尾を逆立ててそう言った。
彼のマントがばさついたとき、最後のランプがとうとう消えた。
「まあ怖い……わたしには到底お相手できないわ」
女が笑う。
すると、何の光もなくなった空間で、ゆっくりと人影が動いた。
アシッドが目をこらそうとした瞬間、目の前の空気を何かが切り裂く。見覚えのあるステッキだった。
闇夜に紛れる、真紅の瞳。
「レビウ……!?」
そう、それは兎だった。
アシッドはレビウが目を覚ましたのだと喜び、「よかった!」と腕を伸ばす。
しかしレビウはその中を素早くすり抜け、アシッドの顔目掛けていつものステッキをナイフのように振りかざした。
「うおっ! 何すんだよ!」
レビウはなにも言わない。様子が変だ。
「おいてめえ、レビウに何しやがった!」
鋭く横切るステッキを避けながら、アシッドが女に向かって大声を出した。女はいまだに手鏡と話し込んでいる。
「レビウ、俺だよ目え覚ませ!」
アシッドが懸命に呼びかける。しかしその努力もむなしく、攻撃がやむことはなかった。
ステッキを軽快に振り回し、連続して風を斬る。一振り、二振り、その度にアシッドは一歩、二歩、と後ろへ下がる。
尻尾が壁に触れたとき、狼がステッキの先を受け止めた。攻撃がとまり、その一瞬でレビウの体を掴もうとする。
ところがレビウは勢いよく床を蹴り、身を翻してジャンプした。
彼の両足はアシッドの背丈を越えて壁に着き、ステッキは狼の手中から逃げていく。次に壁を蹴ったレビウは一回転しながら宙を舞い、狼と間合いをとって着地した。
アシッドは望まぬ展開にうんざりする。
「なあ、マジで勘弁してくれよ」
レビウの表情が真顔のまま変わっていないのを暗闇の中で確認した。意識をのっとられているのか、返事を待っても意味はなさそうだ。
アシッドは女の方へと視線を向ける。おそらく彼女を倒せばいいのだろうが、レビウの攻撃で女の場所まで辿り着けない。まさか、こんなことになるなんて。
レビウがステッキを構え直す。
瞬きする間もなくその姿は正面に移動しており、再び攻撃が繰り出される。速い。いくつもの残像が連続でアシッドの喉元をかすり、暗闇を切り裂いた。
「逃げてばかりじゃ終わらないわよ、狼さん」
「うるせえな!」
反射的に言い返した瞬間、バチン! と大きな音を立ててアシッドの頬にステッキが命中した。
「いってええ!」
思わず声が出る。
アシッドは一気に熱を持った頬に手を添えながら、レビウの足を払おうと片足を豪快に回し込んだ。気付いたレビウは素早く跳び上がる。が、わずかに遅れ、爪先が少し引っかかった。視界が傾き、体がよろける。
すぐに体幹を取り戻し姿勢を立て直すが、どうしたことか、狼がいない。
「……?」
数秒前まで目の前にいたはずなのに。
レビウが警戒しながらあたりを見回し、女も手鏡と会話するのをやめた。
刹那、ベッドに腰かけていた女の頭上から狼が突然現れた。女は勢いよく蹴り飛ばされる。
ベッドの天板に乗り上がっていたらしく、アシッドは両手でぶら下がりながら女がナイトテーブルにぶつかる様子を見届けた。
その瞬間、女の手鏡が一緒に吹き飛ぶ。
硬い床に打ちつけられ、手鏡は甲高い音を立てて割れてしまった。破片が飛び散り、そのすべてが暗闇の色を反射する。
「うわあああ! 痛い、痛いい!」
女が顔を押さえながら悲鳴を放つ。
体に大きな亀裂が走り、青白い肌が粉々になっていく。そのまま砂のように崩れ去り、黒いネグリジェだけがその場に残った。
それと同時に、レビウの身体にもひびが入る。まさかと思ったときにはもう遅く、レビウの体は女と同様、砂になって消えていった。
「レ、レビウ、レビウ!」
アシッドは急いで天板から降り、彼のもとへ駆けつけた。
しかし、そこに残っているものはなにもない。
「嘘だろ……なあ……」
狼は顔面蒼白しながらつぶやいた。
ぼう、と真っ暗だった部屋が光を取り戻す。淡く照らされた寝室と、放心状態のアシッド。
消えていたランプがついたのかと思い力なく顔を上げる。しかし、部屋のランプは消えたまま。光の正体がわからず不思議になって更に顔を上げると、壁に掛かった大きな鏡が目についた。
鏡に写った寝室のランプがついている。
こちらのランプは消えているのに。
明らかに矛盾している光景に困惑しつつも、アシッドは恐る恐る壁の鏡に歩み寄った。大きくて、綺麗で、妖しい鏡。鏡面はピカピカに磨き上げられ、一切の曇りもない。まるで向こう側にもう一つ部屋が――――
気付いてしまったアシッドが三角の両耳を逆立てた。
瞬間、物凄い勢いで背中から風が吹く。
あっという間に部屋は嵐に飲み込まれ、アシッドはもちろんシーツも机も消えたランプも、すべてが掛け鏡の中へと吸い込まれていった。




