キッチン
庭を出たメルチェはお城の塀沿いを進み、小さな屋敷の前までやってきた。
屋敷はメルヘンなデザインで、ピンク色の三角屋根が青空の中によく映える。流れる雲が尖った屋根の先に引っかからないか、少し心配になった。
「……あら? なんだかいい香り……」
煉瓦の道を歩いていると、メルチェの鼻を甘い香りがくすぐった。
焼けたスポンジと、生クリームの香り。ケーキだ。それもこんなところまで香ってくるだなんて、とんでもなく大きくて、豪華なケーキに違いない。甘党のメルチェは思わず屋敷の中を覗きたくなった。不思議の国の女王が認めるケーキを一目見たかったのだ。
屋敷は入口の扉がほんの少し開いていた。きっとそこから香りが漏れだしているのだろう。いつでも好奇心に支配されているメルチェは、蜜に誘われるカブトムシのように、ゆっくりと足を進めていく。
「ごめんくださーい」
扉を開けると、長い廊下が続いていた。頭上にはシャンデリア、壁面には扉が三つあった。そのうち一番奥の扉がまたほんの少し開いている。
「あの部屋からだわ。香りが強くなってる!」
メルチェはケーキの香りを嗅ぎながら扉へと近づき、中を覗く。
するとどうだろう。そこにはメルチェの思ったとおり、とても大きくて豪華な、天井にまで届きそうな三段ケーキがそびえたっていた。
「すごい……!」
パステルカラーをしたカラフルなスポンジに、真っ白な生クリーム。大量に塗りたくられたそれに溺れてしまいそうなフルーツたち。苺、ラズベリー、さくらんぼ……すべてが真っ赤に輝いている。
メルチェがよだれを垂らし、思わずケーキに見惚れてしまっていたときだった。
ガタン。
「……?」
音がした。不思議に思い、部屋に入ろうとした瞬間――
「!」
メルチェが見たのは、荒っぽい毛並みをした、獣の背中だった。
それは少し灰色の交じった、焦げついたような茶色をしている。ぶんぶんと左右に振れているのはボリュームのある尻尾だ。頭には三角の耳が二つ。
「いっただったきまーす!」
ご機嫌な様子で響き渡った低い声に、メルチェは驚いて肩をびくつかせる。
つぎにはガツガツと豪快な咀嚼音が聞こえ始め、その獣が女王のケーキを盗み食いしていることがわかった。カトラリーを使わず、ケーキに直接顔を突っ込んでいる。力強く伸びた腕までもがクリームにまみれていて、彼がそれをぺろりと舐めとったとき、肉球と一緒に、鋭く尖った爪が見えた。
ほとんど後ろ姿しか見えないが、メルチェにはちゃんとわかっていた。
この、獣の正体が。
「狼……」
メルチェはぼそりとつぶやいた。無意識に声を出していたのだ。しまった、とメルチェが口元を押さえたのと同時に、狼はバッと振り返る。そのとき初めて顔が見えた。
釣り上がった目元に、ギラリと光る三白眼。その瞳は深い青色をしていて、夜に降る雨のようだった。目玉がギョロギョロと左右に動き、メルチェは狼が自分のことを探しているのだとわかった。クリームのついたマズルはざっくりと裂けていて、その隙間から、ナイフのような牙が何本も覗いている。
メルチェは恐ろしくなり、急いでドアの陰に隠れた。
「……おい。誰かいんのか?」
声を殺すメルチェ。体が……動かない。
狼の足音が聞こえ、メルチェの鼓動は思いきり揺さぶられる。見つかったらどうしよう。見つかったら、見つかったらきっと――
食べられる。
そんな考えが浮かんだ途端、メルチェの背筋はぞくりと震えた。
逃げよう。狼が自分を見つけてしまう前に。出口まで全力で走ったらきっとどうにかなる。短い距離だし、きっと逃げ切れるだろう。
メルチェは脈打つ鼓動を押さえながら、一歩、ゆっくりと踏みこんだ。そして勢いよく走りだす。
――が。
「きゃあっ!」
脚がもつれる。
メルチェは何もないところで豪快にすっ転んだのだった。
硬い床の冷たさ、膝の痛みが鈍く伝わり、気づけば低くなっていた視線に、メルチェは恥ずかしさでいっぱいになる。
「お前、俺が女王のケーキを食ってるところ……見たな?」
狼の足音がすぐそばで止まり、恥ずかしさの次に恐怖が押し寄せたことは言うまでもない。
「……見て、ません」
メルチェは床に顔を突っ伏したまま答えた。冷や汗が滲むのを感じる。ついでに寿命が縮むのも感じた。
「嘘つけ!」
狼の怒鳴り声で反射的に瞼を閉じる。
嘘をつくも何も、そう言うしかないのだ。どうせばれる嘘だろうが、少しでも生きる時間を稼ぐために、そう言うしかないのだ。
メルチェは泣きそうだった。自分の一生はこんなまぬけな終わり方をするのか。何もないところで盛大に転んで狼に食べられるだなんて、誰か間違いだと言って。
絶望感でいっぱいのメルチェは、走馬灯を見るのも忘れていた。
「さて、最後に何か言い残すことはあるか」
狼はニヤニヤと笑う。そしてメルチェの細い首をゆっくりと掴んだ。爪が肌に食いこみ、死を悟る。終わった。これはもう、だめだ。さようならみんな。
人生を諦めかけた、そのときだった。
「その子を離してやってくれないか」
コツン、コツン、と、革靴の足音が聞こえる。
どうやら、誰かが来たようだった。
……助かった? 思いがけず命拾いをすることになったメルチェは、突っ伏した腕と腕の間からその影を見る。
「まったく。君は相変わらず横暴だね」
少年の声だった。彼の姿は、大きな狼の体が邪魔になって確認できない。
「あ? ……んだよ、レビウじゃねえか。ビビらせやがって」
「ふふ、どうも。いったい誰と勘違いしたんだい?」
「うるせえなあ」
狼との会話によると、少年の名前はレビウというらしい。狼は、なにやら少年にからかわれているようで、それが気に食わなさそうだ。
「それより、この間はありがとう。世話になったね」
「……お? お~? おうおう。たしかに俺あ、お前を世話してやったぜ。だったらこの状況、わかるよなあ? 兎さんよ」
ははは、まあね。と、返事をする少年。彼は、声だけでもニヤニヤしているのだろうとわかる狼に、”兎”と呼ばれていた。
――――兎。
それは、この世界では兎族と呼ばれる人々のことを指すことがほとんどだった。
兎族は天に伸びた長い耳が特徴で、街でもときどき見かける獣人種族だ。華奢な体格をしており戦闘には向かないが、とても頭がよく、忠誠心の強い一族だといわれている。
「まあたしかに、君には感謝してもしきれないけど。だけど、それとこれとは話が違うな。その子は悪くないだろう?」
「ああ? なんだよ。今日はずいぶんと生意気だなあ、レビウ。お前も食われてえのか?」
メルチェはずっと動けずにいた。
おっかない狼に襲われるのが嫌だったのと、もう少し、彼らの話を聞いてみたい気持ちがあった。自分を助けてくれた少年に、興味があったのだ。
「馬鹿なこと言ってないでその子を離せ。さもないとこの国の女王に報告を――」
「げっ! あーもう、わかったわかった!」
女王という自分よりもおっかない存在の名前を出されて、狼は焦ったように了承した。きっと、さっき焦っていたのは少年が来たのを女王が来たのだと勘違いしたからだろう。
狼はメルチェの首から手を離し、悔しそうに舌打ちをしたあと、いそいそと部屋から出ていった。足音の後で扉の閉まる音が響くと、それから急に静かになる。
メルチェは、しばらくの間だけ息を止めていた。けれどもう本当に狼がいなくなったのだとわかると、ほっと胸を撫で下ろす。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……大丈夫かい?」
まぶしい。
見上げると、少年が手を差し伸べてくれていた。けれどシャンデリアの逆光で顔がよくわからない。ぼーっと自分を見つめるメルチェに、少年は「立てる?」と差しだしていた手をさらに前にやった。長袖から伸びる手首は白く細く美しく、けれど手のひらはメルチェよりも大きかった。
「あ、ありがとう。大丈夫……!」
メルチェはドキドキしながらも少年の手を取った。その手はあたたかくやわらかい。けれど、なぜだか少し、震えているように感じた。本当は彼も狼が怖かったのだろうか。不思議に思ったメルチェだが、すぐにグイッと持ち上げられる。繋いだ手はその後離れてしまったので、彼の手が震えていたかもしれないことも忘れてしまった。
スカートについた埃を払い、改めて目線を上げていくメルチェ。足元から徐々に、「そっか、よかった」と言ってくれる少年の姿が明らかになっていく。最終的に二人の目が合うと、メルチェは思わず驚いてしまった。
少年が、とても綺麗な赤い目をしていたから。
その赤は、まるで炎のようだった。けれど、磨き上げられたばかりのガーネットのような、どこまでも濃く、どこまでも深い、何もかもを閉じ込めてしまいそうな冷たさをも感じさせる赤だった。
メルチェがこんなにも美しい赤目を見たのは後にも先にも彼の瞳が唯一で、このときは本当にびっくりしたものだ。
しかも、美しかったのはその瞳だけではなかった。赤目を持つ少年自身も、まるで絵画から抜け出してきたかのような、美しい容姿をしていたのだ。
目の色に馴染む赤茶の髪。それはさらさらと絹のような光沢を泳がし、まるで夕焼けのようだった。唇は口角がきゅっと上がっていて、波を打った形をしている。目も丸く、大きく、ぱっちりしており、長い睫毛が枝のように伸びている。
そして何より、頭から生えている純黒の長い耳――――
「……あの」
メルチェが少年に見入ってしまっていると、彼は恥ずかしそうにつぶやいた。その声にハッとして、「ごめんなさい!」と慌てて目を逸らす。
「た、助けてくれてありがとう。えっと、親切な兎さん!」
けれど、またすぐに目を合わせて微笑んだ。
少年は一瞬だけ丸い目をもっと丸くする。きらきらの瞳にメルチェが映り、ワンテンポ遅れて彼も口を開いた。
「レビウでいいよ」
カッターシャツに羽織った黒のジャケットを整え、少年――レビウは微笑む。
その笑顔になんだか照れくさくなってしまったメルチェは、ついつい俯いてしまった。目に入った彼の革靴はピカピカだ。きちんと手入れがされているのだろう。履いているチェック柄のハーフパンツと合っている。密かにセンスがいいと思った。
「……メルチェ?」
先ほど露骨に目を逸らしたせいか、レビウは心配そうに呼びかけた。
不自然だとはわかっていても、メルチェは上を向く気にはなれない。よく考えれば初めてなのだ。歳の近い男の子と話したり、ましてやさっき引き上げてもらったときのように、手を握るなんてこと。思い出してさらに恥ずかしくなってしまう。
しかし、メルチェはふと違和感を覚える。
「レビウ……どうして私の名前を知ってるの?」
頭にはてなを浮かべ、メルチェは彼の顔を見た。今まで意識していた恥じらいなんて、どこかへ飛んでいってしまう。
レビウはまた一瞬だけ目を丸くして、何かを言おうとした。
けれどすぐに唇を閉じる。そして、少しだけ寂しそうな顔で小さく笑った。揺れたのは首元の赤い紐リボン。メルチェがつけているものとよく似ていた。
「……時間だ」
レビウはメルチェの質問に答えることなく、壁に掛かった古時計を見る。
「時間?」
「うん。僕、もう行かないと」
「そうなのね……」
メルチェが残念そうにすると、レビウは先ほどと似たような困った笑みを見せる。その笑みはやっぱりどこか寂しそうで、だけどなぜそんな顔をするのか、メルチェにはわからなかった。
「また会えるといいね」
彼は名残惜しそうにそう言うと、よくわからないままのメルチェを置いて屋敷を出て行く。出口のあたりで一度だけ、メルチェの方へ振り返り、「ばいばい」と言った気がした。
またもや廊下は静かになって、残ったのは甘いケーキの香り、そして、名前を呼ばれたときの不思議な感覚だけだった。