眠らない街
――ここは、どこかしら。
ゆっくり瞼を開けると、メルチェは知らない庭に立っていた。こんなこと、ついこの間もあったような。不思議な気持ちになりながら、キョロキョロとあたりを見渡す。
大きな植物が、何本も生えている。どこかで見たことのあるような植物もあれば、初めて見るような植物もあった。それらは人一人歩けるほどの小さな道を空け、のびのびと育っていた。植物の伸びた先を見上げると、かなり高いところに硝子張りの屋根があることを知る。そうか、ここは温室か。
植物の葉っぱを観察しながら、メルチェは恐る恐る温室の道を進んでいく。ブーツの裏に、赤い土が張り付いた。時々水の音がする。それは丁寧に敷かれたタイルの溝を流れる、細い小川のせせらぎだった。青々と茂る緑たちは本当に自由で、もう何年も成長し続けているようだ。
しばらく進んでいくと、丸い石の足場に出た。先ほどの小川の到着地点で、浅い池になっていた。池の底にも綺麗なタイルが敷き詰められている。池の水面に植物の葉先から水滴が落ちるたび、タイルの色が模様を作って揺れていた。
「あれは……」
その池のほとりに、人影が見える。メルチェは一瞬立ち止まり、しかしまたすぐに足を踏み出した。
「こんにちは」
メルチェが挨拶をしたのは、赤茶の髪に、赤い瞳の少年だった。
そして見慣れた、黒い長耳。
「メルチェ……!」
少年はそう言って驚いた。どうやら覚えてくれていたようだ。前に会ったのは、知らない豪邸のキッチンだった。
「えっと、あのときはありがとう」
少年が優しく、嬉しそうに笑った。
「そんなのいいのよ」と、メルチェもつられて微笑む。
「あなたは……レビウよね」
そして少年の目をまっすぐ見つめ、そう言った。
少年はとても驚いた顔をしたが、すぐにさっきの優しい表情に戻る。そしてこくりと頷いた。
やっぱり――
メルチェは少年が自分の知っている黒兎と同一人物なのだと確信する。だけど、前にも思ったようにいつもの彼よりは少し幼い。背丈も、顔つきも。以前のようなやつれた雰囲気は少しましにはなったが、それでもまだ、暗いものを纏っているような気がした。あのとき言っていた彼の言葉を思い出す。生きていても、仕方がない。
「ねえ、まだ、元気ない?」
メルチェは幼いレビウに問いかけた。
自分のことのように悲しそうな顔をする彼女に、レビウは思わず「大丈夫」と焦って答える。しかし疑うように顔を覗き込まれ、初めは負けじと見つめ返すが、しばらくすると「嘘ついたかも」と困ったように笑ってみせた。
温室の天井は高く、淡い青の空がとびきり遠く感じた。鳥の声も、外の様子も、ここからでは確認できない。周囲には水と葉の揺れる心地いい音だけがさざめいて、まるで世界のいろんなものから守ってくれているようだった。
「悲しいときに、笑わなくたっていいのよ」
メルチェは真剣な顔をしてレビウを見つめる。
「まだ大丈夫だって、心が勘違いしちゃう。全然大丈夫じゃないのに」
そう言われたレビウは、赤目を丸くした。一瞬だけ、池の水面と同じように波打った気がした。
「でも、今はほんとに大丈夫。メルチェが、来てくれたし……」
少年は言葉を詰まらせる。少し俯いた後に沈黙があって、しばらくすると「そういえば」と思い立ったようにポケットへ手を入れる。
「これ。返すの忘れてて」
ハンカチだった。キッチンで泣いていた彼に渡しっぱなしだったらしい。「私も忘れてた」とメルチェが無邪気に笑う。それを受け取ったとき、なんだか少年は寂しそうな顔をした。
「……気に入ってたならあげるわよ?」
「え!? い、いや、ずっと返そうと思ってたから、そんなつもりじゃ」
もう一度ハンカチを握らせても、全然いいのにと言っても、結局少年はそれを受け取りそうもなかった。なので、メルチェはひとまずハンカチを返してもらう。再び俯いてしまった少年。心配になったメルチェが、再び彼の顔を覗き込んだときだった。ある違和感に気が付く。
「あれ……リボン、なくしちゃったの?」
レビウがいつも首元に付けている赤い紐リボンがない。自分のリボンととてもよく似たデザインだったので、おそろいみたいだな、と実は日頃から嬉しく思っていたのだ。
「リボン?」
しかし、レビウは幼い顔を傾けてきょとんとする。
「つけてないの?」
「うん、正装しなきゃならないときに時々ネクタイならしてるけど……」
おかしいな。だけどそういえば、この前キッチンで会ったときにもつけていなかった気がする。
メルチェはレビウのネクタイ姿も見てみたくはあったが、彼にはやっぱり赤いリボンが似合うと思った。黒い耳と黒いジャケットに映える、目の色と揃ったあのリボンが。
メルチェは少しの間悩んでから、「おそろいじゃなくなっちゃうけど、いい?」と聞いた。レビウがなんの話かと思っていると、メルチェは自分のリボンをしゅるりと首からほどきとる。
「ハンカチ返してもらったし、代わりにこれをあげるわね」
えっ、と声をあげて戸惑うレビウの襟元に、メルチェはリボンを結んであげた。
「やっぱり似合ってる!」
にっこり笑ったメルチェ。レビウは結びたてのリボンに指を添え、「いいの……?」と頬を染める。もちろん、と笑ったメルチェに、少年も嬉しそうに笑い返した。
――メルチェ
そのときだった。どこかで名前を呼ばれた。目の前の少年はリボンに夢中だ。
――メルチェ、起きて
誰? そう問いかけようとしたとき、あたりがパアッと明るくなった。まぶしい光に包まれて、温室の景色が瞬く間に遠のいてゆく。
また、会えるから……会えるからね!
言葉にできていたかはわからないが、心で強くそう思った。
.
「……――メルチェ、メルチェ」
まどろみの中で、さっきの声がまた名前を呼んでいた。
ゆっくり瞼を開けると、薄暗い部屋にキラキラと光の粒が。星のようにちらついて、まだ夢の中かと思ってしまう。月光のあたった黒石の壁は鏡のごとく美しく、あたりを照らす澄んだ光は、今も月夜のさなかであることを教えてくれた。
「おはよう、メルチェ」
そして、聞き慣れた優しい声。
ぼんやりと金色の瞳がピントを合わす。少年だった。月明かりが逆光となり、彼の長い睫毛や赤茶の髪を透かしてみせた。棺の黄金、装飾された宝石の輝きは、その燃えるような赤の瞳に映り込む。チカチカ煌めき、まるで硝子玉のようだった。さっきまで、いや、もっと前から、この瞳をずっと眺めていたような気がする。
「王子様……?」
そっとつぶやいたメルチェ。
予想外の言葉に少年は一瞬たじろいだ。しかしすぐに調子を取り戻し、仕方ないな、と息を吐く。
「あーもうっ、メルチェ! 寝ぼけてないで早く起きて!」
その大声に、眠り姫は今度こそ目を覚ました。
「レビウ!」
「やっと起きた。そんなに寝心地がよかったのかい?」
棺の中から起き上がったメルチェに向かって、レビウはため息まじりに言う。「ごめんなさい」といたずらっぽく笑うメルチェ。彼女の襟元の違和感に、少年はハッとする。
「メルチェ、リボンが……」
レビウに言われてブラウスを確認すると、いつもの赤い紐リボンがなくなっていた。メルチェはすぐさまレビウの首元に目を移す。きちんと固く結ばれた、赤いリボンがそこにはあった。
「人にあげたのよ」
メルチェはにっこり笑ってみせた。レビウはなにかを悟ったような顔をし、けれどそのあとつられて笑う。
「まったく、心配かけて! おてんばなお姫様」
「本当にごめんなさい! でも、あなたはいつでも助けてくれる」
そりゃそうだよ、と言おうとしたレビウ。しかし、メルチェが棺の淵に手をかけて、こちらをじっと見つめるのに気付いたとき、思わず返事を忘れてしまった。
「レビウは私の王子様よ」
胸の奥が、ぎゅっとする。
「……ありがとう」
レビウは優しく、嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑った。
「さて、お城の外に出るとしようか。王の娘の眠り姫はアシッドが救出してくれたんだよ」
照れた顔をごまかすように兎は立ち上がった。アシッドの活躍を聞かせてもらおうと、メルチェも続いて立ち上がる。眠っていたのがもったいないな。いい夢だったけど――そう思いかけて、リボンのことを思い出した。夢じゃ、なかったのかもしれない。
メルチェはレビウの横顔を見て、王子様、と自分の言葉を思い返す。なんだか恥ずかしいことを言ってしまったな、と一人勝手に赤面する。ただ、メルチェにとってその言葉に語弊はなかった。それと同時に、あの温室の少年を思い浮かべる。
「――王子様だからって、強くなくてもいいからね」
「どうしたの?」
メルチェのつぶやきにレビウが反応する。「ううん、なにもないわ」と微笑んでみせたメルチェの隣、赤いリボンが優しく揺れた。
.
お城の前では、数年ぶりに姿を現した姫が大勢の人々に囲まれていた。街の住民は眠り姫の目覚めだと大騒ぎして駆け回り、歓声と紙吹雪はやむことを知らない。門の向こうのシャロイからファンファーレの鼓笛隊がやってきた。本当ならば眠っているはずの街なのに、今夜はイロクもシャロイも関係ない。街のみんなが姫の再来に嬉々として起こされた。
「メルチェー!」
メルチェとレビウがお城の入口まで戻ってくると、ジャスターがソワンを背中に乗せて駆けてきた。
「ジャスター! さっきはありがとう!」
「ううん! それより、本当に姫を起こしちゃうなんてすごいよ。びっくりしちゃった」
ジャスターがニコニコしながら髪と尻尾を揺らしている。興奮した様子でソワンと顔を見合わせた。
「ジャスターから聞きましたよ。本当にすごいです。アシッドさんが塔の上から降りてきたときはさすがに腰が抜けるかと思いましたけど」
冷静な印象があるソワンも声がうわずっている。どうやら今日ばかりは気分が高揚しているようだ。ジャスターがぴょんぴょん跳ねるたびに彼女の眼鏡もバウンドするが、気に留める様子は微塵もない。
「他の姫候補の子たちもオーディションのことなんて忘れちゃってるよ! ごはん屋さんはどこもタダでごちそう配ってるし。ねっソワちゃん、昨日の酒場もっかい行こ!」
「わかったわかった。それじゃあ二人とも、またあとで!」
蹄を鳴らしながら二人は人混みに消えていき、その勢いにメルチェとレビウとは目を見合わせて笑った。
「いたいたっ。レービウー! メールチェー!」
するとまた、騒がしい中から騒がしい声が聞こえてきた。
「オルエッタ!」
「いやもう、体張りすぎでしょ! 姫様が二人にお礼を言いたいって言ってるから早く来て! あの狼くんもいる!」
慌ただしく急かされた二人はオルエッタに引っ張られて人波を掻き分ける。たくさんの背中に押されて迷子になってしまいそうだったが、それでも歩くたびに跳ねる黒と薄紫の長い耳が、メルチェにとっては可愛い目印となった。おかげで行く先を見失わずに済む。
しばらく進むと開幕で使われたマイクなど、放送用のセットが見えてきた。城の入口から実際そんなに距離はないのだろうが、人混みのせいでものすごく遠く感じた。
「おい、遅えぞ!」
ようやくオルエッタが足をとめたとき、待ちくたびれたような低い声が飛んできた。メルチェが最後の背中を追い越すと、そこには腕組みをするアシッドと、棺の中と変わらない、輝くような美しさのお姫様が立っていた。周囲の人々が姫を一目見ようと集まってくるのを、オルエッタが水色トラックの仲間たちと必死になってとめている。
「連れ出してくれた狼さん、父をとめてくれた兎さん、そしてわたしを見つけてくれたお嬢さん。助けてくれて、本当にありがとう」
徐々に人だかりが整備されていく中で、姫は微笑みながらお礼を言った。ウェーブの髪や白い肌を、月光ではなく、今は街灯りのオレンジが爛々と照らしている。
「兎さん……父は?」
「剣を振るい合ったあと、塔を降りていきました。おそらくこのお城のどこかに身を隠しているでしょう」
「そう……あんな人間でも、母が亡くなってただ一人の肉親。街のよき王ではあったようだし、みんなにはまだ、父のことは黙っていようと思います。あとのことは、父と話し合ってから決めることにします。もう懲りただろうし。本当に、三人ともありがとう」
姫の言葉を聞き、レビウとメルチェはにっこり笑った。あくびをしていたアシッドを、メルチェは肘で思いきり殴りつける。
「ハイハイみなさんご注目ー!」
アシッドが「いってえ!」と叫んだときだった。
マイク越しにオルエッタの声が響き、騒がしかった街のざわつきは少しずつ静かになっていく。メルチェたちは気付けば人混みの円の中心になっていた。姫と話しているうちに、トラックのエンターテイナーたちが人の流れを整えてくれたのだろう。
「目覚められた姫様に、お言葉をいただきたいと思いまーす!」
オルエッタは姫にマイクを手渡した。自分たちを囲む大勢のギャラリーが姫を見つめる。その人だかりは途絶えることなく、門の向こうまで続いている。
「みなさん、お久しぶりです。ある呪いで眠らされていたわたしを、この方たちが目覚めさせてくれました」
姫が、強く、透き通った声で言った。
「長い夢から救い出してくれた三人の雄姿に、大きな拍手を!」
その瞬間、拍手とともに歓声が上がる。メルチェは嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちがごちゃ混ぜになり、ちらりと隣の兎を見た。彼も同じような気持ちらしく、微笑みながらも頬を染めている。狼は……言うまでもなく、帰りたそうに耳をガシガシ掻いていた。
.
「――ハイリス、ブリランテからわざわざ出張か?」
可愛い宿屋の屋根の上、怪しい帽子をかぶった白髪の男が立っている。
男は長い髪をなびかせて、月の光を浴びていた。そしてそのすぐ真下には、バルコニーの柵に背中を預け、白い長耳を夜風に揺らす少年の姿。
「お前が役立たずだからだろう、ウィアルド」
ウィアルドと呼ばれた男は、ハイリスの冷たい物言いに肩をすくめた。
「はーあ。ほんとこの頃の兎族はどうしてこんなにも辛辣なんだろう。これでも一応プロの殺し屋なんだけど」
悲しくも何ともないくせに、男はしくしくと涙を拭く仕草を見せる。ハイリスは屋根の上の白髪がどんなことをしているのか見えないが、きっと白々しい芝居をうっているのだろうと呆れた気分になった。
「魔法の無駄遣いばかりして遊んでいるお前が悪い。あのお方に首を撥ねられるぞ」
「あっはっは! デティシラに? なーんにも怖くないね、そうなったら魔法で撥ね返してやろう」
ウィアルド――もとい魔法使いは、ハイリスのセリフを馬鹿にするように爆笑した。それが気に障ったのか、ハイリスは怪訝な顔をする。
宿屋から眺める街は明るかった。これまでにないほどお祭り騒ぎでとっ散らかっているこの景色を、ハイリスは冷めた表情で見下していた。
ふと、窓際のベッドに目をやる。メルチェの姫オーディションを見に行きたいと言っていたディアだが、昨日今日と歩き回ったせいで疲れが出たのか、少し体調を崩してしまったため夕方から眠りこけていた。真っ白いシーツに広がる、銀色の巻き髪が天使の翼のようだ。
「……似てないな」
そう小さくつぶやいたハイリスの声を、ウィアルドは聞き逃さなかった。
「君らがなんでそんなにあの女王――デティシラに捉われているのか、ほんとに理解できないよ。おもしろいなあ」
愉快そうに煽る声。白兎がさらに眉間をしかめたその瞬間、魔法使いは「あの黒兎くんもね……」と付け足した。
「結果は変わらないというのに、あいつは無駄なことを」
ハイリスは今朝の広場でのレビウとのやり取りを思い出し、よりいっそう不機嫌になる。そして、ディアの寝顔を見ながらつぶやいた。
「――――ディア様は、女王になる」




