手紙
吊り橋から少し歩いたところに、ティークの祖母の家はあった。ツヤツヤの木で建てられたログハウスで、玄関にはランプが灯っている。
可愛らしい扉に駆けていったティーク。そのあとを、なんとか抱っこから降ろしてもらったメルチェが、ゆっくり歩いてついていく。二人の様子を眺めながら、アシッドは小さく言った。
「……そんな怒んなよ」
目を見て話そうとしない彼を、レビウは冷たく「怒るよ」と睨む。
「メルチェに何かあったら、僕が許さない」
いつもならば柔和なはずのその瞳は、鋭いナイフのようにアシッドを刺した。アシッドは更に視線を合わせなくなり、黙ってレビウの隣を歩くだけになる。
「……なんて、僕が言えたことじゃないけど……」
しかしレビウもすぐに長い耳を垂らした。そのつぶやきは、誰にも聞こえていなかったようだ。
「ごめんくださーい」
レビウとアシッドが扉の前までやってきたとき、二人の少女は玄関を開けた。ふんわりと香る木の香り。ログハウスの中は思ったよりも広かった。
「おばあちゃーん?」
ティークが家の中を見渡して声を張る。しかし返事はなく、誰もいないようだった。
「いないのかい?」
「そんなはずない。でも困ったわね。おばあちゃんに鍵を貰わないと、暖炉の部屋に入れないの」
その言葉にアシッドが少し焦りを見せる。
「探しましょう!」
メルチェが即答した。ティークはめずらしく素直に頷き、早速別の部屋へと消えていった。アシッドも、手紙のためだと渋々動き出す。
すると、同じように捜索に取り掛かろうとしたメルチェの腕をレビウが掴んだ。
「メルチェは足を休ませた方がいい」
「少しくらい平気よ!」
「駄目」
レビウは近くのソファにメルチェを座らせる。ソファはやわらかく肌触りのいい生地で、とても座り心地がよかった。けれど、随分と古いデザインだ。よく見ると、置かれた家具は年季の入ったものばかり。部屋の隅に立つ古時計なんて、どれほどの時間秒針を刻んでいるのだろうか。
「ねえレビウ」
ふと、メルチェが口を開く。
「あなたとアシッドって昔からのお友達なの?」
メルチェはずっと疑問に思っていたことを尋ねてみた。レビウは質問の内容がなんだか可笑しくて、口元を緩めてしまう。
「どうしたの急に」
「だって、優しいレビウと凶暴なアシッドが仲良しだなんて!」
眉間に皴を寄せながら真剣に考えるメルチェ。レビウはついに声を出して笑ってしまった。メルチェの頭をぽんぽんしながら、長耳を微かに動かしてみせる。そのあと時計の針を穏やかに眺めた彼の目は、なぜだか遠くの方を見つめているような気がした。
「ああ見えて、アシッドはとてもいいやつだよ」
「そうなの?」
「少し乱暴なところもあるけどね。優しい狼さ」
レビウの言葉に、やはり不思議そうな顔をするメルチェ。
「メルチェもきっとすぐにわかるよ」
時の刻みから目を離し、レビウが再びメルチェに微笑んだ、そのときだった。
「きゃあーっ! 誰か、誰か助けて!」
突然の甲高い叫び声。
それは兎の長耳を劈き、檸檬色の三つ編みを揺らした。何事かと思い、二人は顔を見合わせる。
「今の声、あの小娘だよな!?」
するとアシッドも声を聞いてやってくる。
「ああ、上の階からだ。行こう」
階段を上り始めるレビウに、アシッドとメルチェもついていった。
「ティーク!」
階段を上った先、扉の開いている部屋に駆けこむ。
そこは、ぱちりと火の音を立てている暖炉の部屋だった。部屋の隅の方に、腰の曲がった老婆と怯える赤頭巾の女の子がいる。そのティークの手にはアシッド宛ての手紙が握られていた。
そして、そんな二人を追い詰める、一つの背中――――
「おおかみ……」
そう言ったメルチェに、アシッドは青ざめた表情で付け足す。
「しかも狼族じゃねえ。本物の、野生の狼だぞ!」
瞬間、狼は猛獣の鳴き声を上げてティークたちに襲いかかる。たくさんの肉を食らってきたであろう鋭く尖った牙をむき出しにして、大きな顎を思いきり開いた。光の無い真っ黒な瞳がティークを捉える。汚く逆立った毛並みの腕は太く、硬い石のようになった爪が見えた。そして尻尾を上げ、唾を纏った舌をべろりと垂れさせる。このときの恐怖を、きっと一生忘れない。
「嫌ーっ!」
狼が腕を大袈裟に振り上げた、そのときだった。
「この野郎!」
ドカン、という音を響かせて、アシッドに背中を蹴り飛ばされた狼は床に転倒した。
黒い獣は驚いて、よだれを滴らせながらアシッドを睨む。しかしすぐに立ち上がった。再び暴れだそうとした狼に、アシッドは近くにあったワイン瓶を思い切り投げつける。瓶の割れる高い音と、降りかかる濃紫の雨。
狼は慌てた素振りでふらつくと、一目散に窓から飛び降りた。どうやら森の奥へ逃げていったらしい。
「おお……! なんとまあ、勇敢な!」
騒ぎの静まった暖炉の前で、老婆はアシッドの手を握ってお礼を言った。彼女はティークの祖母だろう。
「暖炉の火を飛ばして追い出そうとしたんじゃが、狼の毛皮が分厚くて敵わなんかったんじゃよ」
「おばあちゃん! 何そいつと握手なんかしてるの!?」
すると、先ほどまで肩を震わせていたティークが立ち上がる。老婆とアシッドの間に割り込み、繋がれた手は離された。
「ティーク、命の恩人になんてこと」
「だって自慢のワインが!」
一同はきょとんとする。そして、粉々に砕けた瓶の欠片と飛び散ったワインの水溜まりに目を向けた。深いアルコールの匂いがあたりに充満している。
「これはお父さんが作ったワインの一本なのよ! もう数が少ないのに……アンタもさっきの狼と同じ、野蛮な獣よ!」
ティークはむきになっているようだった。狼に襲われたことで気が動転しているのか、必要以上にアシッドを責める。その手が握られ、アシッドの手紙がぐしゃりと皺になった。
「おい、俺の手紙!」
それに気付いたアシッド。ティークの持つ手紙に腕を伸ばすが、ひょいとかわされる。
「自分勝手なのよアンタ!」
木を燃やしながら弾け飛ぶ暖炉の火の粉。炎は赤く赤く燃え上がり、それは挑発のようにも思えた。部屋の気温は次第に上昇し、そのせいかアシッドの感情も熱を帯び始める。
「勝手なのはお前だろ!」
かあ、とティークは頭に血を上らせた。意地を張ってはいるが、自分でも図星だと感じているのか赤面する。だが、自らの恥ずかしさに気付いたからといって素直になれるような子ではない。それどころか熱さは余計にヒートアップした。
「そんなこと知ってるわよ!」
涙を滲ませて言い放ったかと思えば、ティークは手紙に目をやる。
「こんなもの……!」
――そして、両手で引き裂いた。
ビリビリと残酷な音を立てながら、便箋は小さい塵となり、ハラハラと宙を舞う。
破り捨てられた紙切れは、ごみの残像として古びたフローリングに散った。その数枚がワインの紫に染まっていく。
「……は」
アシッドは感情を失くしたような顔で膝を落とした。
失望、落胆、もう声を出すこともままならないほどに、絶望の味がゆっくりとやってくる。遠い故郷、忘れてしまっている香り。父親が入院している病院の名前や、場所、部屋の番号などが書かれた大切な手紙。唯一無二の家族の元へ帰るための、たった一つの手掛かり。
アシッドは途端悲しみがあふれだし、眉を下げて目を見開いた。
「俺の……手紙が……!」
両手で紙切れを拾い上げるも、空気の重みで軽々と吹き飛ばされる。それほどまでに千切られた手紙に、アシッドはもうどうすればいいのかわからなくなっていた。
「あれ~? みんな何やってるの~?」
そのとき、聞き覚えのある声が降ってきた。
今まで透明だった場所に煌めく粉を振り撒きながら、声の主は現れる。
「エシャ……!」
メルチェに名前を呼ばれたのは、しま柄のマフラーを巻いた白い猫。ふさりとした長い尻尾をくねらせ、不思議な笑みを浮かべている。
「どうかしたの~?」
「なに言ってるんだ。本当はぜんぶ見てたんだろう」
そう言うレビウにエシャは涼しい顔。そしてまた煌めきつつ姿を消した。
「あ! そうだわエシャ。あなた、魔法が使えるんじゃない!」
次に彼が現れたのは、突拍子もなく手のひらを打ったメルチェの背後。後ろから彼女の頬を肉球で挟むと、その唇はやわらかに尖がり、小鳥のくちばしを連想させた。
「魔法……?」
アシッドは膝をついたまま顔を上げた。
「そうよ! 魔法でこの手紙を元通りにすることもできるんじゃないかしら!」
変なくちばしを作ったままで話し続けるメルチェに、レビウは少し笑ってしまう。
エシャはまた気まぐれに空気と化し、再び現れたのは床に散らされた紙屑の上だった。軽やかに空中浮遊をしつつ、尻尾で滑らかな曲線を描く。
「元に戻せる……のか?」
目を潤ませたままのアシッドが、祈りを込めたような声で問いかけた。
「おやすいごようだよ~」
にたりと笑ってみせたエシャ。
柔い毛並みを綺麗に艶めかせ、猫目をそっと閉じた――と、次に瞼を開けたとき、彼の瞳は怪しい光を宿していた。夜空のような、アメジストのようなその眩しさに一同は息を飲む。
「すごい……」
魔力をいっぱいに纏ったエシャは、またも尻尾をくねらせた。弧を描いたそれは輝く霧を薄く広げ、不思議な香りを淀ませる。
するとどうしたものか。
塵としてばらけていた紙切れたちがめくれ上がった。森で見た蝶のように舞いながら、魔法の霧の中を漂う。紙屑たちは互いに集まっていき、パズルのピースみたく破れ目を繋ぎ合わせていった。
そうして手紙は元通りになった。
「すごいすごい! ありがとうエシャ!」
感嘆の声を上げるメルチェは、手紙とエシャを交互に見てはしゃぎ出す。そのときにはもうエシャの瞳は黒色に戻り、光もなくなっていた。
「直った……! ほら、見てみろ直ったぞ!」
嘘のようにくっついて元通りになった手紙を手に取り、アシッドは嬉しそうに笑顔を見せる。頬を染め、緩んだ口元に八重歯が覗いた。
「ありがとな、猫! レビウ、メルチェ、行くぞっ」
「えっ、もう!? ちょっと待ってよ……って、あれ?」
大喜びしながら部屋を出るアシッド。そのあとを慌てて追おうとしたメルチェだが、なぜか驚いた表情になった。
「足が痛くないわ!」
目をキラキラさせながら、メルチェは飛び跳ねる。きっとエシャがついでに治してくれたのだと思い、知らないうちに見えなくなっている彼に向かってもう一度明るくお礼を言った。が、返事はない。
このことを予想していたメルチェは、照れ屋さんね、と苦笑する。そして一回転したあと、元気にアシッドを追いかけていった。それに続き、老婆も微笑みを見せながら部屋をあとにする。
「お、おばあちゃん!」
レビウと二人きりになった気まずさから逃げるため、ティークも扉の方へ駆けようとした。
が。
「ティーク!」
呼び止められる。
暖炉の火は弱くなり、真っ白な灰に赤い花が咲いているようだった。小さな花弁を懸命に燃やし、枯れてしまうことを必死に拒んでいるように思える。レビウはそんな花には目もくれず、立ち止まったティークを見つめていた。フローリングに革靴の足音を軋ませて、彼女に歩み寄る。
「君のお母さんが心配してたよ」
気遣ったような少年のその言葉に、ティークは反応を見せた。
「ママが……?」
そう、この家へ向かうため森へ入りかけたとき、レビウはルートヴィヒに呼び止められていた。
「手紙のこと……ごめんなさいね」
穏やかな森の家を背に、彼女の母親は立つ。
白い切り株が足元の花畑に根を下ろしていた。小鳥がさえずる。
「いえ、こちらこそ。大切な娘さんに乱暴してしまってすみません」
レビウは申し訳なさそうに頭を下げた。
桃色の子鹿が木の間からこちらを伺っている。細いツノで草をいじり、木の実を落として食事をしている最中だった。青い空には羊雲がぽっかりと浮かび、和やかな昼下がりを演出する。爽やかな風になでられ、ルートヴィヒはため息まじりに言った。
「確かに狼さんにはびっくりしたけど……きっとあの子も嫌な態度を取っていたのでしょう」
そしてレビウと同じように頭を下げる。
「あの子、根はいい子なんだけど、父親を亡くしてからすごく反抗的になってしまって……。素直になれないばかり」
母は娘を心配していた。昔からずっと仲のいい家族だったのに、突然父という大きな存在が欠け、ティークの心も欠けてしまったのだ。
「レビウさん」
彼の死を思い出したのか、それとも幸せだった日々を思い出したのか、ルートヴィヒは涙ぐみながら目の前の幼い少年に頼み事をした。
「少しの間だけですけど、ティークと仲良くしてあげてちょうだいね」
そして微笑む彼女には、母親としての強さがあるのだと、レビウは思った。
「ティーク」
暖炉の灯火が消える。
それでもなおあたたかみが充満したこの部屋を、素敵だなあと思える。
「アシッドのために、狼がいる中、暖炉から手紙を取り出したんだろう?」
レビウが優しく問いかけた。ティークは照れ隠しに頭巾のリボンを結び直す。俯き、口を尖らせた。彼女はどうしてだか泣き出しそうになっている。
「きちんと伝えなきゃ、もったいないよ」
微笑みながらレビウは言った。そして彼も部屋を去っていく。幼いティークはあたたかいこの場所で一人、自分自身の冷たさについて思い巡らせていた。
家の前で、メルチェとアシッドがレビウを待っていた。お待たせ、とはにかむ彼に、メルチェは嬉しそうに笑った。ここから遠くに見える森の出口を指差して、早く行こうよと急かしてばかりいる。
「待って!」
メルチェたちが森に別れを告げようとしたとき。
勢いよく家の玄関が開け放たれる音がした。綺麗に光るランプの下に、頬を染めた赤頭巾がいる。振り返るアシッド。メルチェはにっこりしながらレビウに目配せをした。
「手紙のこと……ごめんなさい」
とても気まずそうな顔をしながら、ティークは服の裾を握る。真顔でいるアシッドに、ティークは少しの間黙ってしまいそうになった。けれど怯みたくはなかった。心を決めて大きく息を吸い込む。森中に届くように。
「助けてくれてありがとう!」
思いきって出した大声。
言ったあとには恥ずかしさでいっぱいになり、ちっぽけな後悔も押し寄せたようだが、なんだかんだ、ティークは笑っていた。アシッドも笑っていた。
「ティーク、またね!」
メルチェが大きく両手を振る。
去っていく三人に、ティークも金髪を揺らしながら手を振った。きっと、彼女は明日から少しだけ素直になれるだろう。幼い女の子の心は、森のように清く、暖炉のようにあたたかく燃えていた。
「この先の街ってどんなところなの?」
メルチェがスキップをしながらレビウに尋ねてみる。
「行ってからのお楽しみ」
無邪気にそう言ったレビウを見て、アシッドは少し呆れた。
傾き始めた太陽が黄金に輝く。森は別れを惜しむようにざわめき、メロディーを奏でた。 若葉の香るこの道を、今日も走り出す赤頭巾の姿があった。




