終わりの兆し
アキの五割の実力により、あっけなく事済んだ武道場では既に見るものは見終わったと観客たちが席を立ち始める。だが、武道場で立ち尽くす、アキに喧嘩を売った彼女は消え去った己の精霊機獣に哀愁のような視線を向けたかと思うと急に笑いだした。
その奇行に席を立った観客たちの視線すら集めて、彼女は狂った雄叫びを上げる。ただ事ではない。皆がそう思い始めた直後、彼女の全身から黒い靄が現れた。
「あれは……」
ハヤトの隣で異様な光景にフィールが唸る。同じく、観客たちも彼女の異常にただならぬ雰囲気を描いて、ざわつき始める。
ただ二人、ハヤトとキーマンだけが、その靄を見て低く悲鳴を上げた。その二人は知っていたのだ。彼女から立ち上がる黒い靄の正体を。そして、それが巻き起こすであろう悲惨な未来の片鱗を。
だからこそ、二人の行動は早かった。ハヤトはすぐさまキーマンに皆の非難を呼びかけるために珍しく大声を上げる。
「先生、みんなを安全な場所へ!」
「分かってる! クロサキも来い! 逃げるぞ!!」
それはできない。ハヤトは咄嗟にそう直感した。何事でもない、ただただ勅命を守る家臣の様なそんな感覚にハヤトは陥る。そう思わせる何かが、あの靄の正体であったのだ。
彼女から立ち上るのは世界を終わりへ導く精霊。かつて、悪魔王とともに世界各地に弊害を撒き散らし、数多くの命を奪った『終わりと狂乱の精霊』と呼ばれる最悪の精霊。世界を根底から覆す精霊の属性は『闇』。生きとし生ける生命の宿命とされる、終わりの要素を色濃く反映したがゆえに闇精霊は質が悪かった。
そして、その闇精霊と認識できる靄は、明らかに彼女を飲み込まんとしていた。このままでは彼女はモノの十分で生命活動が終わる。ハヤトはその事実を許容できないと断じた。
カリシュトラ学園は精霊使いを育てる学園である。つまるところ、またいつ悪魔王のような存在が現れても対処できるように『本物の勇者候補』を選出するために存在していると言っても過言ではない。
そんな学園で闇精霊に侵され死亡した生徒がいるなど、あってはならないことである。それよりも、そこへ通っている生徒――要するにアキ――の評判は下がってしまう。
それはハヤトにとっては許しがたいことであり、何よりも闇精霊はハヤトの宿敵でもある。それを前に逃げ出すなど、もはや許される愚行ではない。
よって、ハヤトは一歩足を進めた。倒すため。たとえ、秘密が漏洩しようとも、ハヤトは闇を見逃すほどの代償は存在しないと自分に言い聞かせる。否、言い聞かせる前に体が他の何もかもを投げ捨てなければならないのだと命令してきていたのだ。
「先輩!」
だが、その決心に邪魔をする存在がいるのもまた事実だった。
ハヤトの裾を引っ張るのはフィール。逃げ出すように促したために長蛇の列を成している出入り口でキーマンが待っている。見れば、武装を解除したアキもキーマンの側で待機しているではないか。
この状況で、本当に自分の真実を晒す必要があるのか。ハヤトは悩んだ。自分の真実は世界が否定しようとしたことに間違いはない。それをわざわざ晒してまでハヤトは闇精霊と戦う必要があるのか。
しかれど、ハヤトはフィールの静止を拒んだ。それは、ハヤトの意思だったのか。それとも宿命に立ち向かわんとさせる世界の絶対命令か。
されど、ハヤトを静止するフィールの邪魔は続いた。
「待ってください! アレは闇精霊なんですよね!? 世界を破壊へと導こうとした闇なんですよね!」
「ああ。俺がアレを見間違えるはずがない。アレは間違いなく『闇』だ」
「じゃあ、尚更ダメですよ! 昔は知りませんけど。先輩は今、一人なんです! かつての英雄たちがいた時代じゃないんです! ここに闇をどうにかできる存在はいないんですよ!!」
果たしてそうだろうか。ハヤトはフィールの慌てように冷静にそう判断する。
闇精霊は現代では三種類に区分けられ、更にその中でも三種類に区分けされる計九種類まで確認、仕分けされている。
もっと言えば、その区分けで彼女から立ち上る靄は最弱の部類の闇。精神汚染までを仕事とするC級精神汚染型である。
それに敗北する可能性を示唆するフィールの言葉には正直納得行かなかった。
「フィール。安心しろ。あれなら俺一人でだって……」
「ダメです! 闇との戦闘は学園生なら五人以上に教師が必ず同伴しなければ――」
「お前……さっきから、何を慌ててるんだ? お前にはアレが凶悪な化け物にでも見えるのか?」
パチンと。ハヤトが感情を高ぶらせているフィールの両頬を両手で掴んだ。
ハッとして、フィールは目をそらして嘯くようなだったので、それをハヤトが先手で止める。
「嘘を付くな。今は時間がないんだ。どうした、何がお前を焦らせる?」
「ち、ちが――」
「フィール。俺はお前をよくは知らない。でも、お前は俺をよく知っている。俺はお前の親父の友人だ。十七年前の大戦を経て今、生きている。こないだの体育館の一件で、俺が弱いと思ったか? 俺があんなちゃちな存在に負けるように見えるのか?」
「それは……」
渋る。フィールの言葉には覇気がない。ハヤトの顔色を伺うように怯えた目で慎重に言葉を選ぼうとしている。だから、ハヤトは分かってしまった。鈍いハヤトでも、フィールの怯えている内容に、慌てている理由に、検討がついてしまった。
フィールは、一人になりたくなかったのだ。と――
それに気がついてしまったがゆえに、ハヤトは怯えるフィーの頭を撫でることしかできなかった。かつて、自分が通った道をフィールが通っているのだと知ってしまったから、ハヤトにはフィールに当てる言葉が見つからない。
だが、時間がないのもある。どの道、フィールをどうにかしなければハヤトの守りたいものは守れない。ハヤトは視線でフィールに話させようとした。
「先輩……わ、私は……」
「俺はお前の前から居なくならねーよ。少なくともお前が俺から離れる、その瞬間までずっとな。お前、一人になりたくないんだろ?」
「……どうして?」
わかってしまったのだろうか。そう、わかってしまったのだ。ハヤトにはその気持ちを理解するための十分な孤独を味わった。ハヤトは人付き合いが悪いのではなく、どうすればいいのかがわからないのだ。なにせ、本国――ハヤトの故郷――ではハヤトはとある人物に出会うまでたった一人で生きてきたのだから。
ハヤトは、フィールの手を解いて何時になく大きな背中をフィールへ向ける。孤独を怖がる少女に何を見せればいいのかをハヤトは知っていた。かつて、自分がそうであったように。そして、自分が見てきたあの姿を見せればいい。ただ、それだけのことだと言い切って、ハヤトは大きく深呼吸した。
「先輩……」
「――信じろ」
「……え?」
「お前が長い時間を掛けて、いるかどうかもわからない存在を探し当てたんだ。そんな苦労してまで探し当てたのなら、お前が真に俺をかつての勇者候補の一人だと言うのなら――――ただ信じろ」
己の見つけた答えを信じ、任せよ。ハヤトは意味を与えてくれた恩人の言葉を借りてフィールへ送る。
フィールはそれ以上の言葉を出せなかった。ハヤトの背中に、確固たる強さを見てしまったからだ。そして、それに期待してしまったからだ。フィールは今まで感じたことのない不確定な感情にどうすればいいのかを考えようとしたが、ハヤトが言うように信じようと思った。
フィールに期待させてしまった以上、ハヤトはもう後へは引けない。到底、隠しきれるはずのない事実だったのだ。そう言い聞かせて、ハヤトは詠唱を紡ぐ。
「――剣よ――」
第一節はハヤトの精霊機獣の存在証明を終えて妖狐を呼び出す。
「――無限に広がる、神剣よ――」
瞬時に呼び出されたタマモの姿が解け、武装へと変換されていく。
「――この日、この時、この声に応えるならば答えよ――」
更に詠唱は続き第三節へ。タマモの本質が現れるはずの領域へ踏み込む。タマモの本質は生み出される鉄剣の謂れ。それを定める絶対の法律である。
「――最悪を退ける純霊たる輝きを以って――」
世界でも数少ない精霊騎士と呼ばれる名実ともに最強の資質を持ち合わせる者たちだけが扱うことができる第四節。精霊としてのタマモの真理を開放させて、その力を我がものとした。
「――世界よ、楽園となれ――」
そして、未だ四人しか到達することが敵わなかった、神霊と呼ばれる精霊を扱う精霊使いだけが踏み入れることができる神域――第五節――。神霊機獣と命名された世界の中核の役目を模式化し、世界真理に揺らぎを与える神理の創出。
これがクロサキ・ハヤトが勇者候補として悪魔王と戦うに選ばれた理由であり、名実ともにクロサキ・ハヤトの本気という姿である。
「さあ、世界の始りを歩もうか」
神理を纏ったハヤトは一回りも二回りも強さを誇張する。その存在の濃さこそがハヤトの強さの象徴でもあり、神霊の顕現を知らしめるものでもあった。
神霊。その存在は世界でもたった四件しか事例のない超特殊精霊の区別であった。だが、武道場でハヤトが解き放ったのは第五節、つまり神域の言霊である神性を持った言葉。それが示すことは、ハヤトが従えているのは間違いなく神霊であり、そして学園で居ない存在とされていたハヤトが神霊使いであると言う事実であった。
純黒のタキシードの輝きに金と青の鎧が右肩から手に至るまで装備されている。腰にはかつて最東端の国――黄金の国と呼ばれた伝説の国――でのみ扱われていた、現代では資料さえ残されていない武器――カタナ――。ハヤトはそれに手を掛けたかと思うと、一閃。眩い輝きとともに、精霊騎士の先鋭が本気の一撃を加えても傷一つつかない頑丈な防壁をいとも簡単に切り裂いた。
穴の開いた防壁から試合場の中へ侵入すると、闇を発している少女の下へと足を進める。
「なんで、ボクが負けなきゃいけないんだ! どうして、誰よりも努力しているはずなのに見てくれないんだ!」
闇精霊に精神を侵食されているせいか、少女は世界への恨み――付け込まれた要因――を吐き出すように嘆く。それは闇精霊を知る者ならば誰もが知っている行動である。ゆえに、まだ常識の範囲内の事柄であり、助かる道があることを示唆していた。
ハヤトはゆっくりと近寄り、少女に言葉を掛ける。
「乗っ取られるな。自我を保つんだ」
「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい!! なぜだ! どうして、ボクは認められないんだ! どうして!!」
侵食されている時間が長かったのだろう。自我を取り戻すどころか、自分の意思で闇を受け入れているように思える少女に施す言葉をハヤトは持ち合わせていなかった。
世界を恨む気持ちを理解してしまうわけにはいかない。しかし、世界を全面肯定できるほど幸運な人生を送ってきたわけでもない。ハヤトにとって、世界についての言葉など生まれてこのかた持ち合わせることを世界から拒否された。世界に、関わることを拒まれた。
――――そんな人間に、絶望した人間を救えるだろうか?
否である。世界に否定された人間は人間に非ず。息をする動く物としてでしか表現できない『紛い物』である。
なればこそ、ハヤトは退くだろうか。断じて否である。世界に否定された程度で終わる生ならば、ハヤトは勇者になど選ばれるはずもなし。ゆえならば、ハヤトの正義はどこにあるのか。あるいは、ハヤトの悪は一体何なのか。
ハヤトにとっての正義。それは総じて『生きる』という言葉にのみ存在した。
「お前が認められないのは、お前が他人を認めないからだ」
ハヤトは少女に与える言葉は持ち合わせていない。だが、少女に与える罵声は持ち合わせていた。世界は甘くない。それがハヤトが下した世界への評価である。単純に思えるかもしれないが、実際に考えてみても世界は単純なものだった。きっと、それを少女は知らないのだろう。ハヤトは自分の見てきた世界を説いた。
ハッと。少女はハヤトに視線を向けて、言葉の真意を確かめるように静かに先を待つ。
「お前が負けるのは相手がお前より強いからだ。努力をしたから周りに賞賛されるんじゃない。賞賛されたことを努力と言うんだ。自分で思った努力なんて、憎愛な自己満足だ。根本的に、お前は努力の定義を間違えているんだよ」
ハヤトは言う。満足をするな、と。満足は人を狂わせる。それがたとえ欲しい満足であっても同じである。そして、闇はそう言った人の狂いを求めて闊歩する。
少女に非はない。世界に非があるのだ。世界が、絶望という言葉を生み出してしまったがゆえに、人はこんなにも脆くなってしまった。人間は、常に希望を持って生きていなければ、簡単に飢えて死んでしまう弱々しい生き物だと、どうして世界はそう決め込んだのだろうか。
絶望を抱いて生きていけるものならば、どれだけ自由に生きられただろうか。
「お前が世界を恨み気持ちはよく分かる。だけどな、それを人に向けるな。それを闇に利用されるな。世界への恨みなら、世界だけにぶつけろ。それができないなら、諦めろ」
人間は諦めて前へ進む生物である。そう言い切るハヤトは相当な愚者であろう。だが、ハヤトが諦めを多用するのは何もそういう性格だからというだけではない。
ハヤトは人の身では成し得ないことを数多く知っている。それゆえに、ハヤトは諦めるということを日常化するに至ったのだ。他人にできることが必ずしも自分にできるとは限らない。そのことをハヤトはよく理解していた。
年の功。ハヤトには他の学生には持ち合わせることができない『時間』を持っていた。だからこそ、ハヤトは少女に諦めろと促したのだ。
「死ぬほど苦しいんだろ? 諦めきれないほど悔しいんだろ? だから、闇に体を乗っ取られそうになってるんだろ? なら死ねよ。闇に体を乗っ取られたら魂は無に帰すだけだ。もしも来世があるのなら、それに期待して死んだほうがまだマシだぞ」
「な、何を言って――」
「人生論さ。今を無駄に生きようとするお前に、人生を上手く生きるコツを教えてやるよ。死ぬほど苦しいのなら死ね。闇に手を出すほど虚しかったのなら嘆け。それがお前の限界だ。諦めて下を向いて生きていけ」
世界の害悪に手を出すほどの虚しさがどれほど暗いかをハヤトは知らない。しかし、それを考えること自体が意味のない本当の意味での虚しさだということは重々理解している。だから、ハヤトは少女の言葉に肯定の意思は見せなかった。
「じゃ……じゃあ、ボクは……」
「だけどもし、まだその願いが諦めきれないのなら――――」
ハヤトは少女に近づき、腰に帯刀しているカタナに手を掛けて願う。自分にできなかったことをどうか叶えてくれと。人類の生まれてきた本当の意味とそれに順する強さの真価を見せてくれと。
「お前の力だけで叶えてみせろ。他人に頼るな。世界中の誰もがお前に手を貸したりなんてしないのだから」
再び一閃。カタナは闇の濃い右腕へと光の如く刃を差し向け、見事に少女の右腕を切り落とす。絶叫の後、少女は痛みによって気を失った。
ハヤトは少女の恨みを否定した。完膚なきまでに自己責任だと切り捨てた。その上で『生きろ』と強要した。どれだけ過酷なことを言っているのかを誰でもないハヤト自身が深く理解している。だのに、ハヤトはそれを正しくはないのだと言いきれない。
「残念だけど、それが生きるってことなんだ」
少女、あるいは自分自身に言い聞かせるようにハヤトはそう告げて振り返る。
すると、そこには大変な騒ぎだったはずの観客席から静かに送られる驚きの眼差し。その全てがハヤトに集約されていた。
中には「なんだ、あれ」などという言葉が響く。当然だろう。学園で存在しないように扱われていた少年が突如、神霊を呼び出して闇を一瞬のうちに切り伏せてしまったのだから。そんなことは普通ありえてはいけないのだから。
あちゃーっと。ハヤトは今更になって自分がやってしまった失態に頭を悩ませた。
「先輩!」
危険が去ったことを知ると、ハヤトが開けた穴からフィールが飛び出してきた。そして、ハヤトに抱きついたかと思うとハヤトに怪我がないことを確かめるように体を触った。
それが気恥ずかしかったようでハヤトは嫌がったが、お構いなしにフィールは念入りに確かめる。当然、それをアキが許すはずもなく、大声で今すぐにやめろと叫んでいた。
誰もが、危機は去ったと思った、その時。武道館にいる一人がふと試合場に指を向けて呟いた。
「お、おい……」「なんだあれ……」「うそ……」
ぽつりぽつりと言葉が波紋する。その波はやがて津波のように事件の続きを物語ることになる。
ハヤトが切り落とした少女の右腕から瘴気が立ち込め、それは徐々に天空へ。そして、瘴気は終わりを迎え入れた。
「先輩……アレって……」
天上を覆うのは終わりの兵団。闇に染まった愚者の軍兵。百体強のC級歩兵型闇精霊と二隻のB級戦艦型闇精霊が瘴気に誘われて武道場の上へと進軍してきていたのだ。
今度こそ終末を確信した会場内の生徒たちは呆然とその光景に目を向けていた。
――――ただ一人、ハヤトを除いてだけは。