栄光なる者
五体ものメタルゴーレムを相手に傷一つ負わずに難を逃れたハヤトであったが、問題は根本的な部分にあった。それは、ハヤトにとっては見られたくないものをよりにもよってフィールに見られたことであるが、現在そのフィールはメタルゴーレムたちとの戦闘の跡が激しい体育館で正座させられていた。
「どうして、こんなことをやらせた?」
「それは……」
答えを渋るフィールにハヤトは武装をチラつかせた。フィールも成績的にはトップ層なのだが、さきほどの圧倒的なまでの戦闘スキルと速度を見てしまっては勝ち目など微塵も見出すことはできなかった。ゆえに、何も言わず、悟られず押し通るというフィールの思惑は頓挫したことを告げる。正しく、根負けのようにフィールは話し出す。
「私の父……アーノルド・クレールを知っていますよね?」
「……ああ、聞いたことある名前だな。確か、百八英雄の一人で――」
「そうではなく、実際に会っていますよね?」
フィールの一言にハヤトは固まった。ハヤトは情報として『アーノルド・クレール』なる人物を知っていると言いたかったのだが、フィールはそれを否定した。情報としてではなく、実物媒体としての記憶の方を聞きたがっているようだったのだ。
百八英雄は十七年前には英雄となっている――すなわち、死んでいる。そして、ハヤトの年齢は十七歳。どう考えても出会うことなど不可能なのだ。
だが、フィールの目には確かな事を見つけたという光を持っていて。逆にハヤトからはだんだん汗がにじみ出る。正座をさせられたフィールが叱りつけていたハヤトを今度は押し返している。立場逆転の最中、今度はフィールの攻撃が開始した。
「あ、会うも何も。俺はお前の親父さんが英雄になったときには生まれてなんかいないだろ?」
「ええ、『年齢的』にはそういうことになっていますね。でも、先輩は何らかの方法で会っているはずなんです」
「……どうして、そんなことが言えるんだ?」
焦りを悟られまいと、ハヤトは流れる汗をそのままにその真意を聞き出す。きっと、それがハヤトがフィールに自分のことを知られたくない理由に直結することだとわかったからだ。
もちろん、武装を使って話を無理やり終わらせることもしようとハヤトは考えたが、いつの間にか人型に戻っていたタマモが自身が砕いたメタルゴーレムを補食しに行ってしまっては脅しは効かない。フィールを脅すものがなくなった途端にフィールはハヤトの間合いへと入ってきた。
「私の父は日記を付けるのが日課でした。それは悪魔王討伐隊として派遣されてからも同じだったようで、つい一年ほど前に遺物と一緒に日記も返却されたんです」
まさか、と。ハヤトは徐々に焦りだす。ハヤトにとって、バレることは絶対にないと思っていた事実をフィールは知っている、と。ハヤトはそう思わざるを得なくなってくる。フィールがそう思わせてくる。
ハヤトのにじみ汗が隠しきれないほどになる頃、フィールはカバンからファイルやらノートやらと資料を出して、その中の一部をハヤトに渡す。
「私は父の顔を知りません。だから、日記なんて渡されても、と思っていましたけど。その日記に興味深い一文があったんです」
もしも、と。ハヤトは心の中で仮定する。手渡された日記と思われる手帳の一ページ一ページに書かれた、その日に行われた詳細な出来事にそれを言葉にする『アーノルド・クレール』なる人物の面影の一部を見ながら、ハヤトはフィールの確信の真意に近づいていく。
もしも、自分が思っているとおりの現象が起きていたとして。もしも、その情報を元に無いはずの存在を探し当てるほどの財産があるとして。もしも、その存在を本当の意味で探し当ててきたとするならば……。
ハヤトは生唾を飲む。やっぱり、フィールには出会わないほうが良かったのかもしれない。そう再度思いながら、ハヤトは己が出したであろうフィールの打ち立てた過程の全てをぶつけられた。
「その一文はこうです。我々『百九名』の戦士たちは徐々に悪魔王の根城へと近づいている。おかしいと思いませんか?」
「な、何が?」
「英雄たちは百八英雄と呼ばれることだけあって『百八名』です。なのに、日記には百九名と書かれているという点ですよ」
お前の親父さんの書き間違えとかじゃないのか? と。かなりきれいな筆記であるために間違いなど微塵も存在しない日記を手に苦し紛れな言葉を加えて、ハヤトはどうにかやり過ごそうと試みる。が、その対応は考えてあったことのようで、フィールは更に論を進める。
「だから、私調べたんですよ。歴史、というものを。十七年前、世界が結託して悪の権化である悪魔王を討伐しようと協力しました。その際、世界から悪魔王に対抗しうる最高の精霊使いを一カ国一人の英雄候補……当時では勇者候補を必ず出すことが義務付けられ、そしてそれは叶えられました」
「……歴史の授業のまんまだな」
「ええ。ですけど、問題はここからです。当時、世界では百九カ国……つまり、百九の国があったそうです」
ハヤトは返事をしない。ただ、本当に行き着いてしまったのだと、フィールのその熱心さに圧倒されてただただ頬を引きつらせていた。
フィールはハヤトを床に座らせると、逃さないためか体を近づけてハヤトの顔の近くで続きを話す。
「百九の国。そして、各国から一名ずつの英雄候補。それはつまり、百九人の戦士たちってことになりませんか?」
「……そ、そうだな。単純な算数だ」
「でも、実際は百八人の英雄たちとなっている。…………先輩、もう一度だけ聞きますね。アーノルド・クレールを知っていますか?」
「………………」
答えず。否、答えればボロが出てしまうことを恐れての黙秘。ハヤトにとって、その事実だけはバレる危険が一番なかったことであった。よって、この事柄に関して言えば、ハヤトは何一つとして前もっての対抗し得る武器を持っていなかった。対して、フィールは確実にハヤトの喉笛を掻き切ることのできる確信のある事柄が存在する。
誰がどう見てもハヤトに勝てる見込みなど無く、全会一致でフィールに勝機が向いている。
かくして、フィールはまくし立てる。
「かつてあったその国は今では闇精霊によって完全に滅ぼされています。でも、偶然生き残りの方を見つけて、話を聞いてみたんです」
そして、フィールは一枚の白紙を取り出すと、ペンで学園では絶対に学ぶことができない失われた文字を拙い書き方で書いていく。その一線一線に見覚えが有り、それが完成していくに連れてハヤトの目は驚きで見開かれることになる。
やがて、四つの文字によって形成された言葉をフィールはハヤトへとぶつける。
「十七年前までは最東端に位置する島国であった、黄金の国と呼ばれた場所でのみ使われていた文字。『黒崎颯人』。これで、クロサキ・ハヤトと読むそうですよ」
その紙を突きつけたフィールの目には眩しいくらいの強い光と確信めいた深い決意が目に見えて分かった。だから、ハヤトは逃げることはできず、そして諦めることをやむを得なくさせた。
ハヤトは深いため息とともにフィールの肩を掴んで引き離すと、本当に面倒くさそうな目で天井を見上げる。そこへ、五体のメタルゴーレムを殆ど食べ尽くしたタマモが歩み寄ってきて、
「わっはっはっは! なんじゃなんじゃ、貴様の思惑は十七年で頓挫かの! ええ、出来損ない? クククッ」
「何がおかしい、タマモ。俺は今、随分と頭にきてるんだ。お前のもふもふな尻尾を鷲掴みにして枕にするくらい造作も無いぞ?」
それはやめろ。タマモが本気の目でそう威嚇する。ハヤトもハヤトで威嚇などなかったかのようにタマモを抱き上げて自分の膝に座らせると、近くにあったメタルゴーレムの破片をタマモの口に持っていって食べさせる。
そうやって少しばかり気を紛らせてから、ハヤトは重い口を動かした。
「正直、お前の中ではどこまで分かってる?」
「先輩が百九人目の英雄であることは確実に。ですけど、その先がわからないんです」
その先。ハヤトはそれを聞いて、やっぱりかと思った。
まず間違いなくハヤトが十七年前に悪魔王討伐隊に居たことはバレている。立証はされてはいないが状況証拠はそれを画然と記していた。
逃げられない状況に、諦めるということが常になっているハヤトはノックアウト寸前。否、もうすでに重かった口が軽々と秘密を平びやかにする手前であった。
「その先……つまり、お前の考えていることが本当だとして、俺がどうして十七歳なのかってことか?」
「はい。最初は見た目が若く見えるだけなのかと思いましたけど、それにして若すぎます。……先輩は、何者ですか?」
何者か。つい昨日もそんなことを聞かれた気がして、ハヤトは息をつく。自己存在の証明は最もハヤトが不得手とするものであり、また一番目を向けたくないことでもあった。
なぜ、2日連続で自分とは何ぞ、という質問に真剣に考えなければならないのだろうと思わざるを得ない。しかし、フィールの眼差しはそれを避けるには輝きすぎていて、明るさに目がくらんだハヤトはついついフィールのペースに乗ってしまう。
「俺は……お前の考えている通りの存在じゃないよ。確かに、あの時あの場所に俺は立っていた。でも、お前が考えるような『英雄』じゃない。俺だけが生き残った……いや、俺だけが生かされた。理由はわからない。気がついたら、俺は生まれ変わっていた」
「生まれ……変わった……?」
静かに告げて、フィールの疑問をそっちのけでハヤトはタマモを抱き抱えたまま立ち上がる。それに置いてかれまいとフィールもすぐに立ち上がろうとするがバランスを崩して倒れそうになった。ハヤトはそんなフィールを片手で掴んで引っ張ってやると、体育館の出入り口を顎で示す。
「とりあえず、どこかゆっくりできる場所に移ろうか。お前さん、授業は?」
ハヤトはずっと体育館に座っているのが嫌になって違う場所に行こうと提案した。普通、授業があることを気にするが、生憎とハヤトは授業に出ようが出まいが教師には存在していないように扱われる身だ。それに、授業に出たところで質問すら聞いてくれない教師よりは妹に教えてもらったほうが何十倍もマシなので学園などアキを送り迎えする程度でいいと考えていた。
でも、フィールはそうではないだろうと思って聞いてみたが、どうやらフィールはそんなこと気にしていないようで……。
「あ、授業のことなら大丈夫ですよ。私、すでに卒業単位は取れてるので」
「……あ、そう」
想像以上に天才な後輩に、一瞬だけ勉強を教えてもらえないかなと思ってしまったハヤトであった。
場所は体育館から学園近くのカフェへ。朝ということもあって、今は仕事に行く前の少しの時間を有意義に使おうとしている大人たちが数名いる程度でハヤトにとっては好都合だった。
適当な席に座って、ハヤトは早速話を始める。
「何を聞きたい? 俺を探し当てたご褒美みたいなもんだ。生憎と金はないんでね、お前の欲しい情報を提供することで手を打ってくれると助かる」
「もちろん、そのつもりです。あ、先輩。このケーキ美味しいんですよ、食べます?」
なんとも自由なフィールに天を仰ぎそうになったが、甘いものが無性に欲しくなったので奢ってくれるならという条件でコーヒーとケーキを頼んだ。
それから、注文したものが来るまでは『黒崎颯人』に至るまでの詳しい経緯と経費について聞いた。そこで、ハヤトはとんでもないことを知る。
「……なあ、今。情報提供してくれたのはクロサキ・ミサキって言ったか?」
「はい。間違いなく先輩のお母様です!」
「あんのバカ……ほいほいと俺の情報を……はあ」
なんと、情報を漏らしたのはハヤトの正体を知っている数少ない人物の一人であった母親だった。口を酸っぱくするほど人には言うなと言い続けてきたはずなのにそれをあっさりと言ってしまう辺り、ハヤトはそこで詰んでいたのかもしれない。
まあいい、と。ハヤトは頼んだ品が届いてウェイターが離れていったことを確認してから本題に入った。
「それで? 知りたいことは?」
「三つほど、いいですか?」
「ああ、そのかわり俺のことは他言無用で頼む」
あっ、と。フィールはハヤトの発言に対して質問をする。
「まさにそれです。どうして他言無用なんですか? 自分が十七年前の悪魔王討伐隊の唯一の生き残りだって言えば、今頃は……」
「言っただろ? 俺は生き残りじゃない。生かされた身だ。俺にもどういうわけかはわからないけど、今生きている。俺はあの時、絶対に死んだはずなんだ」
「死んだ……そういえば生まれ変わったって言ってましたけど、それはどういう?」
あー、と。ハヤトは答えにくいような声で何もないところに視線を向けた。
その行動に疑問を持って、フィールはもしやと思いついでにそこについても触れてみた。
「もしかして、覚えていないんですか?」
「あ、ああ。なにせ、気がついたら赤ん坊だったからな」
申し訳ないと思いつつ、ハヤトにもその疑問は未だ晴れなかった。それを他人であるフィールに解き明かせるわけもなく、引き続き次の質問へとシフトさせていく。
美味しそうに濃厚なチョコで作られたケーキを食べるフィールを見ながら、ハヤトはそんな顔もするんだなと小声で言うと、
「何か言いました?」
「いいや、可愛いなって言ったんだよ」
「ふぇぇ!?」
ガタッと、ハヤトが冗談で言った言葉を聞いて倒れそうになったフィール。ハヤトはそんなに驚くことかと言いそうになって、顔を真赤にするフィールに少しだけ見とれてしまった。
普段は妹以外の女子とはお近づきになるはずのない学園生活を送ってきたせいで女性というものにほとんど興味を失った――されど、可愛い女子の胸を見るのだけはやめられなかった――ハヤトだが、この瞬間だけは顔を真赤にして恥ずかしがっているフィールに少しだけ気を取られた。
徐々に通常を取り戻していくフィールは手で顔を仰ぎながら「ふざけないでください」と、ほんのり上気した頬を冷やそうと頑張っていた。
「すまんすまん。ちょっと遊びたくなったのさ」
「まったくもう、まったくもう……先輩はデリカシーっていうものをちゃんと持ったほうが良いです。そうです。だから、モテないんです……かっこいいのに」
「? 最後の方、よく聞こえなかったけど。なんて言ったんだ?」
なんでもありません! と。怒気を含んだ声にハヤトはそんなに怒ることないだろと少しばかり茶化しつつ、気圧されて話を元に戻した。
「それで? 残り二つは?」
「一つ目は、どうやって悪魔王を討伐したのか……だったんですけど。その様子だと、どうやらわからないみたいですね」
「ああ、すまないな」
そう言って、ハヤトはコーヒーに口を付けた。想像以上に甘かったチョコケーキに驚いて、口の中を調整したのだが、その他にも顔を顰めたくなるようなことがあったようで、コーヒーの苦さの中にそれを隠すようにした。
ケーキを食べながらフィールが最後の質問に移ろうとしたが、フォークの進みが遅くなるに連れ、フィールの口も重くなっていく。そのことに気がついて、ハヤトはどうかしたのかと聞いてみた。
「いえ、その……最後の質問なんですけど。答えたくなければ答えなくてもいいです」
「俺が答えられる範囲のことなら答えるさ。まあ、俺に答えられることなんて殆ど無いんだけどな」
「じゃあ……その、私の父はどういう人でしたか? 日記は第三者の視点で書かれた議事録みたいなもので、父の感情というものが全然伝わってこなかったんです。私は……アーノルド・クレールという人物を本当の意味で知りたいんです」
なるほど、話が重くなるわけだ。そう思って、ハヤトは思い出すことは無いだろうと考えていた古い記憶をこじ開ける。
アーノルド・クレール。勇者候補――後の英雄――たちの中でも高身長で人当たりがよく、面倒見も良かった。問題事の際は大抵、彼が仲裁に入って解決することが多かった。皆からの信頼も厚く、団長は他にいたが、頼れるリーダーという点においては才能とも思えるほどだった。また、誰よりも絆を大事にしており、仲間の大事には率先して助けに行くほど仲間思いで、まさに勇者という言葉が相応しい人物だった。何より、彼が作った飯が団員の誰もが作った飯よりもうまかった。
そんな他愛もないことから、『踏み荒らす百万もの巨兵』という彼の精霊機獣にちなんだ通り名についてのこと、ほとんど誰とも話さなかったハヤトがこちらの国で主流だった言語を教えてもらっていたこと、生まれてくる娘を自慢するようなことがあったなど、たくさんの彼についての話をした。
その後、父親が如何にみんなから信頼を得ていたのか、そしてフィールの誕生を望んでいたのかを知って、フィールは言葉にならないという顔で、最後の一口のケーキを口にする。
「そう……ですか。父は……そんなことを」
「ああ、間違いなくお前の親父さんは……アーノルド・クレールは英雄だ」
誰からも信頼される頼りがいのある友人。それがハヤトにとってのアーノルド・クレールの立ち位置であった。しかし、と。ハヤトは心の中で呟いた。昔の記憶の中にあったアーノルド・クレールの最後の姿にハヤトは言葉を当てられなかった。
「ですけど、先輩。英雄は帰ってこない人のことを言うんですよ。私の父は、弱かったんです」
それは違う、と。ハヤトはフィールにデコピンを食らわせた。痛いと言いながら頭を擦って、少し涙を浮かべた目はハヤトを見つめる。こんな時、格好のいい言葉の一つや二つ言えれば上等だが、ハヤトはそういうことが苦手だった。
だから、代わりに自分の考えを提示した。
「確かに、強いやつは戦場では死なない。だけど、強いやつは何者にもなれない」
きっと、フィールは父親に生きて帰ってきてほしかったのだろうと察してもなお、これだけは伝えねばならないとハヤトは思った。
アーノルド・クレールは決して弱い人間ではなかった。力だって国内で一位を取るほどの実力者であることは世界が認めている。それを弱いと言わしめるのは一様に悪魔王討伐のせいだった。
英雄は帰ってこない。なるほど確かにそうだ。しかし、百八人の英雄たちが戦い、それで救ったのは世界だったのだろうか。断じて否である。勇者候補として戦いに出ていたハヤトだからこそ、この言葉を言う責任がある。生かされた身であるハヤトだからこそ、言わねばならない。
英雄たちが守ろうとしていたものは世界などというものではなく、自分たちの愛する者たちであったという、その汚れなき事実をこのか弱き少女に教え込まなければならなかったのだ。
「自分の弱さを知ってもなお、自分の愛する者のためだけに命を張って戦場に向かう。それが、『英雄』だ」
「……じゃあ、私の父は――」
「まず間違いなく、お前の安寧を願って戦っていた。生まれてくるお前のために、命を張って戦場に向かった。だから、そんなかっこいいやつを弱いなんて言ってやるな。どれだけ無様に戦おうとも、誰かのために戦えたのなら……それに勝る『栄光』なんてないだろうよ」
ハヤトは告げた。英雄たちの思いを。世界が誤解しているであろう、英雄たちの真価を。
所詮、英雄だって人間だ。人の子である限り、世界のために戦うなどという大それたことはできはしない。たとえ、人間のように扱われなかったとしても。
その言葉を聞いて、フィールは満足そうにコーヒーを飲み干した。そして、ハヤトにお礼を告げると、時計を見て何かを思い出したかのように忙しなく身支度をし始める。
「何か用事でもあったのか?」
「あ、はい。これからちょっと人と会う約束がありまして……男の人じゃありませんよ?」
「別に俺は気にしねーよ。ていうか、さっさと行け。代金は置いていけ」
「分かってますよ。先輩のお財布はいつだって氷河期ですもんね」
そこまで寒くねーよ、と。笑って、ハヤトはフィールを見送った。と、再び何かを思い出したかのようにフィールがガラスの向こう側で、ハヤトに向かって何かを言う。生憎その言葉はハヤトには音として伝わらなかったが、ハヤトは不思議とその言葉を読み取れた。
『また明日』
そう言われたような気がして、ハヤトはまた笑う。
今度こそ、走っていってしまったフィールに、ハヤトは不思議なやつだなとつぶやきながらコーヒーの最後の一口を飲み干したのだった。