悪魔王の真実
歩みだしたハヤトを止められる者など誰一人としていない。現実化した夢の世界。その中においてハヤトとフィールは不滅に近いのだ。ゆえにこそ、誰にも二人を止めることはできないと、誰よりもハヤトが自負していた。
だが、予期せぬものとは果たしてこういう場合にのみ現れるものだ。現にハヤトの足は止められた。否、空間――あるは時間という概念――を止められたという方が適切だろうか。ハヤトを取り巻く全てがハヤトを放り出したように全てが止まった。
「やあ、また会ったね。と言っても、今度も偶然とは言い難いが」
全てが止まった場所で、ハヤトを待ち受けたのは他ならぬレオナルドだった。レオナルドはいつもの調子でおっとりと話し始める。
もちろん、ハヤトはもうレオナルドをただの人間だとは思っていない。最初の出会いの後あたりからレオナルドは只者ではないと確信していた。そして、それはここに至ってやっと確証を得たことになる。
「どういうつもりだ、レオナルド」
「いや、いや。今更、君の行動を制しようとは思わない。無論、その逆は十分にあり得る話だけれども、それは得策ではないと、君なら十二分に理解しているはずだ。何しろ、君の武力が今に至っては機能していないのだから」
ハヤトの横を共に歩んでいたタマモとキュウビの動きが止まっている。どうやら、ハヤトとレオナルドしか、この時間には動きを肯定されていないらしい。そう悟ったハヤトは負けたと言って、話をすることにした。
「それで?俺の邪魔をしにきたんじゃないんだったら、今度は何をしにきたんだ?」
「まあまあ、そう怒らないでくれたまえよ。別に、僕は君の邪魔をしているわけでも、つもりもないんだから」
怒るなと言われたところで、ハヤトは現に邪魔をされていた。お互いに邪魔はしていないと言いつつもこうしてハヤトは立ち止まらざるを得なくなっている。それは紛れもなくレオナルドのせいであり、そしてそれが邪魔でない理由が探しても見当たらない。
故に、ハヤトは厳密に言えば邪魔をされているというわけである。
「君はヴァルハモレアの火柱を知っているかい?」
「……? 年に一度執り行われる行事だろ?」
「そう。じゃあ、なぜ行事なのか知っているかな?」
「それは……」
レオナルドは歩み寄りながらヴァルハモレアの火柱についての会話を展開していった。
「元来闇精霊はその特性上、冬に勢力を増す。終わりを告げる時期。闇長き時期。搾取される時期。それが闇精霊の大元にほど近い。そして、大昔の人類もそれを理解していた」
ハヤトの前まで来ると、レオナルドは微笑んで近くの瓦礫に掛けた。ただの瓦礫だったのだが、レオナルドが座ることによって、どうしてかその存在が濃くなっていくような感じがした。
レオナルドは腰掛けたところで話を続ける。
「ある男が、いた。闇精霊を憎み、生涯を賭して根絶やすと誓った愚鈍が。その男がなぜ闇精霊をそこまで憎むに至ったのかはもう遥か昔の話でわからないが、その男が結果的に闇精霊を衰弱させる方法を編み出したのは事実だった。それが天に届く火柱を上げる『ヴァルハモレアの火柱』。そして、その男の名は『レオナルド・ヴァルハモレア』。僕の弟だ」
今、なんと?
ハヤトは耳を疑った。ヴァルハモレアの火柱は少なくとも数百年以上前には存在した祭りだと聞いている。それはヴァルハモレアという王が数百年以上前には死んでいることになる。つまり、レオナルド・ガーフェンは数百年以上生きているというのである。
言うまでもなく、レオナルドは見た目こそ老人に見えなくもないが、どう見たって百歳は超えているようには見えない。
誰だ。レオナルド・ガーフェンとは一体誰なんだ。ハヤトは焦る。タマモはこの御仁には敵わないと言った。レオナルドは精霊に強い干渉力を有した得体の知れない人物だ。ハヤトのことも知っているような口ぶりもあった。
ハヤトはレオナルドに出会っている。ではどこで? 思い出せない。思い出そうとしているのに、記憶の欠如よりは記憶の消去のような違和感。記憶にない人物による過去の話。ハヤトにはレオナルドを思い出す術がなかった。
「君が僕のことを覚えていないのはわかっている。覚えていれば殴りかかって来ることも。それでも僕は君の前に現れなければならなかった。覚えている、いないに関わらずね。僕は君を知っている。君が忘れたがっている君を。君の過去の大罪の詳細を。そして、遺憾ではあるけれど、それを思い出させなければならない立場であることは明白だ。――さあ、王の話をしようか」
まさか。ハヤトは震える。レオナルドが覚えていることはハヤトの過去の大罪だと言った。それに該当するのはたった一つしかない。ハヤトにとって一番忘れたがっている記憶といえば悪魔王との対戦以外には存在しない。
「君は忘れているだけだ。君が何者であるのかを。君が何をしてきたのかを。君が何に愛され、何に恋したのかを。思い出したまえ、絶対悪。君に成せないことは無い。君はその名を持って恐れられ、その歩みを持って従え、その瞳を持って全てを淘汰してきた!! そう!! 君こそが悪魔王!! 全ての遍く有象無象の悪を敷く絶対の悪!! ならば!!!! ならば、あの程度の極小の悪に負けてなるものか!! さあ、思い出せ『正義をもたらす最も優しき究極悪』!! その名を持って立ち上がれ!! その歩みを持って再びの後に世界へ轟かせよ!! その瞳を眩き正義の光で満たすのだ!! 迷うな、クロサキ・ハヤト!! 君の後ろにこそ人道はでき、君の前にこそ確かな選択肢が存在する!! 故に!!!!!!!! 故に、君の歩みこそが覇道なのだ!!!!」
大演説。天を仰ぎ、地を踏みしめ、腹の底から放たれた叫びは世界に向けてのものだった。世界に、終わりはまだやって来ると告げる言葉は正しくハヤトを巻き込んだ。
ハヤトが隠したかったことはたった一つ。自身が英雄でないと言い張る理由もたった一つ。ハヤトこそが世界を恐怖へと叩き落とした悪魔王であるからだ。
確かにハヤトは勇者候補だった。最終的には悪魔王を倒したのもハヤトだった。その過程や肩書きなどハヤトには無用だ。どう見繕ったところでハヤトが仲間を殺したことには変わりなどないのだから。
そして、ハヤトがそれを忘れられないでいたのはひとえにフィールの存在があったからだった。
「……それを知った上で俺に戦えと?」
「もちろんだ」
「……俺が人類の最大の敵だとしても?」
「もちろんだ」
「あんたの弟が嫌った闇精霊の親玉だとしても?」
「それでも僕は君に賭けたんだ。世界は君を許しはしないが、理は君を崇拝するだろう?」
闇精霊の王。すなわち、神霊。それがハヤトであると言い切った。それは当たっている。ハヤトは悪魔王。その性質は『現実の介入』。万物に平等な絶望を与える闇である。
ハヤトは縋るようなレオナルドにどうしてと問う。
「世界は狂い始めた。真理を止められるのは『夢を終わらせる』ことができる君しかいないと思っている。ならば、君に望みを託すしかないだろう? 世界の命運は君を含めた神霊諸君らの手にある。真理を改竄するためには神理が必要だ。そして、真理を打倒するには君と言う特異性が必要だ。だから、君にここで死なれては困る。無論、彼女もその対象になるけれどね。その目的達成のために、君には残念だけど目覚めてもらった。おはよう、クロサキ・ハヤトくん。十七年の夢は存外つまらないものだっただろう?」
なるほど。今に至ってもレオナルドの肩書きはしがない物書きで止まっているが、少なくともハヤトが考えているようなくそったれではないと判明した。
しかし、だからと言ってハヤトがそう簡単に闇に戻るかといえばそうではない。むしろ、冷静さを取り戻したハヤトには闇は寄り付かない。
それ故に、ハヤトは非常に残念そうな声で答えた。
「すまない。俺はあんたの要望には答えられない。もちろん、フィールは助け出すけど。俺は俺だ。フィールがそう言った。そうあってほしいと言われた。俺は主の言葉には逆らえない。そう育ったからな。そんなに俺を闇に落としたければクシナダでも連れて来るんだな」
「そうかい。いい返事だ。さあ、行きたまえ劣等生。君の戦いだ。新しい君の二度目の窮地だ。さて、君はこれをどう回避する?」
レオナルドの笑みには明らかな悪意があった。どうにもできないだろうという意味の悪意が。だからハヤトは肩をすくめてこう返した。
「まあ、どうにかするさ。レオナルド。俺はあんたの要望には答えられないが、あんたの期待には答えるつもりだ。見て行けよ。あんたの縋った行為が正しい行為であることを証明してやるよ」
言って、ハヤトは動き出した世界を歩む。目の前には今も暴走を続けるフィールの姿。そして背後には撤退しているリルたちの姿。
レオナルドの横を過ぎるところで再びレオナルドは質問をしてきた。
「最後に一つだけいいかね?」
「ああ」
「君は『勇者と英雄の違い』を知っているかな?」
「?」
「勇者は希望を救う者だが、英雄は絶望に挑む者なのさ。君は一体どっちかな?」
「……はっ。どっちでもねーよ。俺はただ後悔をしないように絶望し続けるだけの、ただの愚か者だ」
ハヤトは歩みを再開した。
王道は捨てた。邪道など元より通るはずもなし。なれば、もう進むべきは覇道のみ。この歩みは止められない。それがクロサキ・ハヤトの決断ならば、その歩みを止められるのはクロサキ・ハヤトだけなのだから……。
けれど、覇道を突き進むのは容易い事ではない。それは重々承知していることであったとしても、ハヤトにはそこを進まねばならない理由があるのだ。
元来、ハヤトは奪う側だった。財を、地位を、名声を、そして命でさえも。例外なく奪っていくハヤトに唯一できないことと言えば、『守ること』に他ならない。
しかし、今回ばかりはそうも言っていられない状況だ。好かれている女子を、失ってはいけないと心が訴える少女をハヤトは失いかけている。世界が彼女を否定した。
世界に愛されない人間は生きる術をなくしたも同然なのだ。生きる価値のない魂なのだ。それでも――そう、それでもハヤトは救う道を選んだ。それが『覇道』。常人が選ぶことすら困難な鬼の道。それこそが、ハヤトが選んだ地獄である。
「――今宵は闇に」
なればこそ、ハヤトも常の手など使ってはいられない。誰に文句を言われようとも成さねばならないことがある。それが例え世界に捨てろと強制された禁忌であったとしても。それが、かつての罪を体現しているとしても。
「――其は夢に惑う一指しの光」
ハヤトを覆うのはフィールの心を覆い隠した光のない闇。全人類が大敵であると口にする闇精霊である。されど、それらがハヤトを飲み込むことはせずに、ただ徘徊する。
「――悠久の倫理に人は無し」
その闇たちは我が王を敬うかのように舞い上がり、その歩みに歓喜するかのように踊り、その瞳に憂うかのように敬拝する。その中を悠然と歩むハヤトは、まるで別人のような風格を醸し出していた。
「――無限の理由に人は成す」
ハヤトが唄うのは世界の始まり。眠りを妨げる耳障りな雑音。それがもたらすのは不平等が平等に訪れる平和なひと時。かつて、人が目指した平らな世界。そして、人々が辿り着くことができなかった理想の成れの果てであった。
「――かくも悲しき時の果て」
それに伴ってハヤトの姿も徐々に変わっていった。頭には二本の雄々しいツノが生え、服装も殺伐とした黒色のコートに。タマモは消え去り、その場にはキュウビのみが残った。
「――我、幾億の現実を起こす者」
手には何も言わずとも姿をカタナに変えたキュウビが収まった。目の前には狂ったフィールがハヤトの風貌に恐れるように見つめていた。
当然だろう。フィールの中に居座っているのはS級闇精霊だ。悪魔王を知らないはずがない。ハヤトの姿を知らずとも、ハヤトという存在を知らないはずがないのだ。
そして、ハヤトはその真実を晒した。忘れようと試みた過去の罪を公開した。その事実こそが、何よりもフィールの中にいた者に感銘を浴びせたのだ。
「――さあ、世界の始まりを歩もうか」
一瞬。まさしく一瞬だった。ゆっくりだったハヤトの歩みが一瞬にしてフィールの懐へと潜り込ませた。回避など不可能だった。目の前にいるだけで圧倒的過ぎる存在は、動くことすらままならなくさせるほどの絶技だった。
歩みこそがハヤトの最大の攻撃であり、懐に潜り込んだ後のハヤトの一撃は誰もが絶望した悪夢を瞬く間に斬り伏せた。
「孤独による閉塞した夜。お前はまだ早すぎた」
「あ、あぁ……ぅう……せ、んぱい?」
突き刺さったカタナと悶絶するフィール。それを抱きしめたハヤトの容貌は実にシュールなものであった。
しかして、カタナから血は流れず。痛みによる涙こそあれど、絶命には至れない。
それもそのはず、ハヤトが斬り伏せたのは絶望に他ならず、フィールを斬り伏せたわけではないのだ。
最初から最後まで、ハヤトはフィールを殺す気などなかった。ただ、強過ぎるが故に痛い目に遭わせないことができないと断じただけ。つまり、やりようはいくらでもあったのだ。最善の方法は一つだけ。だが、それを取らねばならない理由はどこにも一切なかった。
故に、ハヤトは己を侮蔑した。最善を尽くせなかった自分に嫌気がさした。
フィールは痛みで気絶してしまっている。念のために病院に送らねばならないだろう。しかし、ハヤトにはまだやることがあった。ハヤトが呼び出した闇が辺り一面を終わらせようと生を吸い取っているのだ。
まずはそれを止めさせ、あるべき場所へと帰らせようとするが、久々の現界に闇たちがハヤトの言葉を無視した。
「クソッ!! このままじゃ!!」
制御しきれぬ力に翻弄される。こんなことならば、などと考えるのは業腹だ。わかってはいても、これ以上闇に暴れさせるわけにはいかない。なんとかして闇たちを止めようと試みていると、轟音を上げて背後で何かが立ち上った。
「あ、れは……」
激しく燃え上がる火柱。天まで届きそうな全てを照らさんとする神撃。闇精霊を衰退させると言わしめられている究極の呪い。『ヴァルハモレアの火柱』であった。考えるまでもなくレオナルドの案だろう。またしてもレオナルドに救われたことを悟って、ハヤトは少しだけ癪な感じがした。
それは置いておいても、その光は全ての闇を等しく衰退させる。それはハヤトの起こした闇も例外ではない。見る見るうちに弱り切っていく闇をハヤトは今度こそ、あるべき場所へと帰らせることができた。
そして、手には眠っているフィールの姿が目に焼きつく。成し遂げたと、ハヤトは疲れた顔でフィールの頬を撫でたのだった。
「クロサキ……」
全てが終わった場所にて、ハヤトは珍しい顔を見た。キーマンだ。手には剣が握られている。相当な業物のようで輝きからして違いをはっきりとハヤトに分からせた。
なぜ、などとは言うまでもない。キーマンは学園関係者。ならば、やることは一つしかないだろう。尻拭いだ。生徒にできなかったことの尻拭いに駆り出されたに違いない。
即ち、フィールの抹殺が目的であるのは自明である。
「キーマン先生。こいつはもう脅威じゃない。だから――」
「んなこと言ってる場合か。アーノルドの服、解けてきてるぞ。さっさと何かで隠してやらんと冷えるだろ」
どうやら、ハヤトはまたも勘違いを起こしたようである。キーマンは確かに尻拭いに来た。だが、その尻拭いがハヤトであるという些細な違いを除いては。
ハヤトはキーマンがここまで熱血な教師であったことを知らない。無論、熱血なのかと聞かれれば普段の態度からそうは思われないが、仮にも国を守る立場にあったキーマンに熱意がない方が考えてみれば不思議なものである。
キーマンはハヤトの上着で裸を免れているフィールを抱き上げると、疲れているハヤトに手を貸した。だが、差し出された手にハヤトは拒否を示す。
「フィールをよろしくお願いします。どこも怪我はしていないと思いますが、念のために病院に連れて行った方がいいでしょう」
「なんだ、そのここで分かれるみたいな言い草は。お前も病院に行くんだろ?」
「ええ。でも、今はまだやらなければいけないことがあります」
「自分の命より大切なのか? お前のことだ。怪我なんざしちゃいないんだろうがな。念のためと言うのなら、お前だって病院に行った方がいいだろう」
「まあ……そうなんですがね。でも、困ったことにこれが――――」
――――命よりも大切なことなんですよね。
ハヤトの滅多に見せない笑顔にキーマンは絶句した。清々しいほどに若い笑顔は、短いながらもハヤトの面倒を見て来たキーマンでさえも驚かせるものなのだ。仏頂面で常につまらないというオーラを放っていたハヤトが、今は活力を得たかのように謳歌している。
なるほど。キーマンは理解した。ハヤトがしていることではなく、ハヤトが成そうとしていることでもなく、それはハヤトが欲したものだった。
だから、キーマンは早く行けとしか言えなかった。フィールが言っていた『ハヤトの英雄説』は真相こそキーマンは知らないが、それでもあの姿を見てしまったらキーマンはかつて勇者候補を目指した親友、アーノルド・クレールのそれと同じに見えて仕方ない。
故に、世界は残酷なのだと、しみじみキーマンは呟いた。
「なあ、アーノルド。お前が言っていたことは正しいよ。英雄は、いつだって俺たちを置いて行っちまうんだな」
荒廃した場所にて、キーマンは少年の比類なき成長に少しだけ心を痛めるのだった。




