人類進化論の反例
今日までハヤトが忘れていたことであったが、冬に入る少し前に世界で必ず行われる祭りが存在する。それが『ヴァルハモレアの火柱』である。
ヴァルハモレアの火柱。世界にはそんな冬の行事が存在する。ヴァルハモレアとは闇を退けたという太古の昔に存在したと言われる王の名前であり、その者が打ち立てた火柱には闇を退ける大いなる力が存在したと言われている。しかし、今では冬に入る際のお祭りのように成されていた。
もちろん、毎年恒例のことであるのでハヤトが忘れていたのにはちゃんと理由が存在するヴァルハモレアの火柱は一国一箇所で行われる祭りである。そして、ハヤトが住んでいる国ではカリシュトラ学園がその開催地なのだ。
だが今年は開催地であるカリシュトラ学園が闇の軍勢によって――便宜上――半壊したために開催が遅れているのである。
そういうこともあってハヤトはヴァルハモレアの火柱を忘れていたのだ。
「それでですね、先輩。ヴァルハモレアの火柱の開催が遅れると悲惨なことになるっていう噂があってですね。それはもうひどい有様になるようなんですよ」
「ああ、そうか。なあ、一つ聞いていいか?」
「はい、なんです?」
「なんでお前が俺の家に、しかもこんな朝早くにいるのかを事細かく一切合切教えてほしいんだが?」
現在時刻は午前七時。普段ならば起床して学園へ向かわねばならないはずだが、今は長い冬休みという状態にある。故に、ゆっくりとウィンターバケーションを満喫しようとしていた。しかし、またしてもそれを阻むのは笑顔で災厄を振りまく――本人にその意志はなく、またそう思っているのもハヤトだけである――フィールであった。
どういう理由かは定かではないが、フィールが寝ているハヤトに跨って笑顔でその演説を始めるやいなや、ハヤトは五月蝿そうに起き上がった。そのせいでバランスを崩したフィールの顔が近くになったが、焦ったのはフィールだけでハヤトは冷静に向かってくるフィールの上半身を支えた。
「危ないだろ? それに、まだ足も全快じゃない。こういう行為は控えろ」
「……先輩はこういうことされて何も思うことは無いんですか?」
「だから、怪我が悪化するかもしれないって言ってるだろ?」
フィールの怪我が悪化するかもしれないと危惧したハヤトの行動にムスッ面のフィールはそう言った。何かを思わないのかと言われれば、それは『怪我が悪化するかもしれない』と思うに違いない。よって、そう答えたのであってハヤトに悪気など一切無かった。
しかし、フィールが聞いているのはそういうことではない。こういう行為――短めのスカートで素足の美少女に跨がれて目を覚ますという状況――に何か思うことはないのかということだった。直入に言えば、下半身が物申すものではないのかということだ。
けれど言うまでもなく、鈍感大魔王であるハヤトにそんな意味が暗喩されている言葉を見破るのは至難の業である。というよりも、至難である以上見破るという面倒なことをするはずもなく、思った通り勘違いしていた。
「もういいです。ミサキさんがご飯ができているから先輩を起こしてきてと言われただけなので」
「おい? なんだよ、急にムスッとして。なんかあったのか?」
主に、今ハヤトが取った対応のせいであるにも関わらず、ハヤトはそんな素っ頓狂なことを言う。
はてさて。そんな言葉を返されたフィールがどうなったかなど言わなくともお察しが付くようなものだが、説明の余地はあるだろうか。
思い出すまでもなく、フィールは寛大だ。慈悲深く、温和で、協調性があり、少しわがままなところがあるがそれを苦にさせない優しさを持ち合わせ、何よりも『怒らない』ことで有名である。そして、普段怒らない人物が怒る時は大抵――――。
「…………? フィール、どうした?」
「………………………………先輩」
「ん? なんだよ、体プルプルさせて。寒いのか?」
「先輩の…………バカァァァァ―――――――――ッッッッッッッッ!!!!」
――――怖いものである。
ビチィィィィィィィンッッッッッ。なんて、ゴムを無理やり引きちぎったような甲高い音とともにハヤトの体が壁に突き刺さる勢いで吹き飛んだ。
無防備でそれを受けたハヤトは何がどうなったのかわからない内に壁に激突。頭を強打したが、流石かつて勇者候補であるだけの実力を持っていたことはあって気絶まではしなかった。
だが、どうして叩かれたのかは終始理解できなかったようで、それを問いただそうとするも引っ叩いた本人がもうそこにはいなかった。どうしたものか。ハヤトが悩んでいると呆れ返ったような顔で妹のアキがハヤブサを抱き抱えてやってきた。
「ああ……クソ。頭がガンガンしやがる」
「お兄。さっきのは素で答えたの? それともふざけて答えたの?」
「んぅ? 何がだ?」
「何も思わないのかって聞かれてたでしょ。その返事」
「あ、ああ。真面目も何も、足を怪我してるのにあんな体勢で座ってたら怪我が悪化するかもしれないだろ? 実際、バランス崩して倒れそうになってたし。体を按じて言ったのに、なんで打たれなきゃいけないんだ……」
「…………はぁ」
なんだろう、このバカを見る目。そう思いながら、ハヤトは首を傾げた。
前々からバカだ鈍感だどうしようもない人だとはアキも理解はしていたが、まさかここまで兄が女性に対してバカだとは思わなかったようで、呆れを通り越して可哀想になってきていた。アキとしては兄に彼女ができるなんていうことにならないので安心ではあるが、一生このままの状態が続くと考えると異性としてはやはり思うところがある。
結局、ハヤトは終始フィールの身の安全を心配していた。それはつまり、フィールを大切にしていたということにほかならない。それが無意識の行為なのか意識的な行為なのかはさておき、大切にしておきながらフィールの言葉の意味を、持ち前の鈍感さで受け取り方を間違えたとあっては正しく意味がない。
二人は少なからずお互いのことを思い合っているのにも関わらず贅沢にもその気持の交差が上手く言いっていないと豪語したのだ。そして、それに耐えかねたフィールが勘違いの末に逃亡。ハヤトはその真意にいまだ気が付かずに首を傾げている。
なんとも馬鹿らしい。いや、なんとも羨ましい光景なのだろうか、これは。アキは天を仰ぐ。ああ神よ、この馬鹿二人に幸福とは言わずとも平穏を与えたまえと唱えそうになる。
どうせ、ここまで気がついているのは自分だけ。ならば、妹である自分が頑張らねばなるまい。アキは、とてつもなく遺憾であるが、二人の仲を正常な状態へと戻そうと試みた。
「行って」
「……は?」
「いいから、フィールさんを追いかけて」
「……なんで?」
「馬鹿なの? 死ぬの? いいから、さっさと立って追いかける!」
「え、え? いや、でもまだ着替えとか……」
「早くする! 追いかけないと後悔するのはお兄だよ!?」
「お、おう」
さっさかと着替えを済ませたハヤトは、まだ引っ叩かれたダメージが残っているのに寒空の下を走らされることになった。
それを見送ったアキは、ハヤブサを地面に置くとしゃがみ込んで、ハヤブサを撫でながらふとこんなことを口ずさんだ。
「あーぁ。なんで私、こんなことしてるんだろ……」
悪い虫を追い払うチャンスであったのにも関わらず、それを応援するようなことをどうしてしてしまったのか。
考える余地なくハヤトのせいであるのは間違いない。これまで浮いた話もなく、そもそも女性に興味があるのかすら怪しかった兄があそこまで一人の女性の体を按じた姿を見てしまっては、長年兄を追いかけ続け、観察し続けたアキには分かってしまうのだ。
まず間違いなく、ハヤトはフィールのことを想っているのだと。そして、フィールもハヤトのことを想っているのだと。ならば、目標であり、自慢できる兄の幸福を願わずして何が妹であろうか。願わくば、その幸福を与える者が自分であってほしいと何度願ったことだろう。
しかし、ハヤトはアキの思い通りにはいかず、それでも幸福を手に入れようとしていた。そんな姿を見てしまっては、アキは諦める他無い。諦める以外に自身が幸福になれる余地もない。
一頻りバカな自分に嘆いた後、鳴き声を上げるお腹をどうにかするべく、出来上がっていると言っていた朝ご飯を食べるためにリビングへと向かうのであった。
□■□
それから程なくのことである。フィールを探していたハヤトは街の異変に気がついて駆けていた。
なんということであろうか。ハヤトは驚きで言葉も出なかった。それほどの惨劇が目の前で行われているのだ。天は黒く染まり、街は紅蓮の炎で焼け、人々は恐怖で飛び交えっている。その中で一人――いや一体の精霊が高らかに笑っていた。
精霊の名は『アーノルド・フィール』。そう、百八英雄の一人に数えられるアーノルド・クレールの娘であり、父の名に恥じぬ豪快な精霊機獣を持ち合わせる正しく強き乙女である。だが、フィールは今、どういうわけか精霊となっていた。
ハヤトは空が黒く染まろうとも、街が焼け果てようとも、ただ一点だけを見つめて驚いていた。
そして、思ったのだ。どうしてフィールが闇に完全に飲まれてしまったのか、と。
「お前……ほんの数分の間に一体何があったっていうんだよ」
ハヤトの目には確かな哀しみが写っていた。その哀しみは闇に堕ちた少女への哀情か、はたまた少女の悩みに気がついてやれなかった己への悲壮か。どちらにせよ、状況は芳しくない。
ハヤトは駆ける。街を襲う悪に向かってではなく、フィールを救い出すという確固たる意志を持って。しかし、それは即座に止められた。
「……やあ」
「……レオナルド・ガーフェン……さん」
ハヤトの進行を止めたのはレオナルドだった。街では混乱の渦になっているであろうに、どうしてかレオナルドは軽やかな足取りでハヤトの前に立ちふさがった。まるで、背後にいる精霊が脅威ではないと言うかのように……。
その実、レオナルドは精霊から逃げてきたのではないと言った。その言葉はハヤトの心を読み取ってのものか、それとも世間話をする手前か。そして、レオナルドはこうも言ったのだ。
「やはり、行くのだろう?」
やはり、とはどういうことだろう。ハヤトは不思議に思ったが言及している時間はどうもなさそうだった。フィールの規格外の攻撃が街を破壊するスピードを速めたのだ。このままでは自宅まで被害が及ぶ可能性がある。それだけはどうしても避けたい事案であった。何せ、ハヤトの家には家を直すだけの財産が存在しないのだから。それ以上に、フィールに詰みの上塗りを扠せたくはなかった。
「……ああ、仲間が待ってるんだ」
「それはあの少女のことかい? それとも彼女を討伐しようとしている学生さんのことかい?」
どうやら事はそこまで進んでいたらしい。この国にも戦力と呼べる精霊騎士が存在する。だというのにハヤトと同じ学生がいるということは、十中八九その学生は理事長のお気に入りが在籍する特別担任生であろう。つまり、国は――学園はフィールを見捨てたということか。
なんとも皮肉なことだ。闇堕ちしたということはそれに見合った闇があったということ。だというのに、闇を言及しようとはせず、破壊の根本であるフィールを打ち砕こうというわけだ。
正しく理事長のやり口だ。そして、それをハヤトが否定することも織り込み済みだろう。とくれば、ハヤトがすべきことはただ一つ。そう、流されることを望み、諦めて受け入れることを徹底してきたハヤトがするのはたった一つしかない。
「俺の仲間が仲間を殺そうっていうんだ。それを止めなきゃいけない」
「それが君の役割ではないとしても?」
「ああ。確かにそれは俺の役割じゃないかもしれない。出過ぎた真似なのかもしれない。だけど、それであいつらの関係を保てるのなら――俺は行く」
確固たる意思。これまでこれを阻めた者はいない。当然だ。ハヤトが意思を固めた時。それすなわち、一個人が歩むべき道を決めた時だ。それを阻止できるのは肉親、あるいは最も近き他人しかありえない。生憎にもハヤトにはもう肉親はいない。最も近き他人も今はいない。いるのはハヤトが感動を得た書籍を世に放ったしがない物書きを自称するレオナルドのみ。
されど、今回ばかりはそうはいかなかった。
まず、行動を起こしたのはレオナルド。こないだの校門での一件と同じく、レオナルドは精霊に干渉して空気を震わせた。
「君がどう思おうと構わない。だが、あれは今の君には荷が重すぎる。諦めて彼女が討伐されるのを待ってもらうよ」
ここから先は通さない。ハヤトを初めて阻んだのはまるで世界を手に取るかのように空気を震わせる老人だった。なぜ。どうして。そういう疑問は尽きない。されど、それを言及するにはハヤトには明らかに時間が足りていなかった。
今回は押し通る。瞬時に精霊機獣を召喚し、戦おうと言霊を説こうとする。
が――
「やめておけ。今の主殿では残念ながら、あの精霊には敵わない。それに目の前の御仁にはもっと敵わぬぞ」
言霊を説くよりも早くにハヤトの隣に現れたタマモによってそれは阻まれた。
どうしてとは思わなかった。タマモは神霊。呼び出さなくとも現界を自由にできる。レオナルドのことだってそうだ。あれほどの脅威をハヤトは知らない。だから武装化させたタマモで押し切ろうとした。
だが、唯一どうしてと思ったのは、自分がどう足掻こうともフィールの下にたどり着かせてくれない現状にだった。
言うまでもない。考えるまでもない。察してもらうまでもない。ハヤトはフィールのことを大切に思っている。友人の娘で、ハヤトの窮地に何かしらの代償を伴ってくれた。
そこまで自分を犠牲にしてくれたフィールにハヤトは一体何を返せたというのか。今日は怒らせた。昨日は驚かせた。焦らせた。フィールにとって楽しい思い出がいくつある? ハヤトがフィールに与えてあげられた幸せの数は先日の事件で自分を思い出させてくれたことへの感謝に匹敵するか? 断じて否である。一割にも満たない恩返しなどないも同然だ。
それなのに、今は――現在はフィールを殺すというのだ。何一つ返せていない恩を無駄にしろというのだ。我慢などできるはずがない。ハヤトは義理と人情の世で生きた武人。受けた恩を返せずして何が武人か。
それ以上に――そう、それ以上に大切な人を失うことが腹立たしい。
だからハヤトはその言葉を否定した。
「黙れよ」
その言葉を待っていたかのように、ハヤトを黒いモヤが囲う。その勢いは徐々に増していく。その様子を見て、レオナルドはとても哀れんだ目を向けた。
ハヤトを取り巻くのは闇。少量でも体に入れば精神を侵され、最終的に生きとし生けるものに終わりを与える絶対の悪。それが今、物凄い勢いでハヤトの周りを囲んでいる。まるで、主の怒りに呼応するかのように。怒りが頂点に達しようという時、ハヤトは己の意志を口にする。
「俺は一人でも行くぞ。誰の静止も聞く耳を持たない。邪魔をするなら――」
「彼女が今の君に助けに来てほしいとは思わないだろうけどね」
「なに?」
「彼女が惚れたのは君のように怒りに任せて突き進む狂人じゃないということさ。彼女が惚れたのは、どんな逆境も突き返す力強き英傑だ。決して、今の君のように自分の弱さに負けて手段を選ばない愚者ではない。国が敵と認識した彼女を、君は守りに行くのだろう? もしかすれば、君は世界の敵を守るのかもしれない。それでも、行くのだろう?」
「何を……言って……」
「今の君では彼女を助けるどころか世界に潰されておしまいさ。それで君は満足なのかい? 違うだろう? かつて、五万といる敵の進行を単騎で押しとどめ、一晩で戦争を終結させた『千人切り』と呼ばれた君がそんな愚かなわけがない」
なぜ、昔の名前が出るのだ。なぜ、レオナルドがその名を知っているのだ。ハヤトは驚愕する。そして、ハヤトはレオナルドのこないだの言葉を思い出す。レオナルドは昔の知り合いに似ているとハヤトに言った。それは、本当に似ているというレベルの話なのだろうか。
ハヤトは直感する。自分はこの男にかつて出会っている、と。しかし、それがどこだったのかを思い出せない。それでも確実に出会っているのだ。そして、レオナルドはハヤトの強さをよく知っているようだ。だのに、思い出せない。記憶が、レオナルドという存在を思い出さないようにしているようにも感じられる。
レオナルドの眼差しは、ハヤトに目覚めよと告げる。その意味にハヤトは気がついていつつも首を横に振った。
「あんたがどこの誰で、たとえ俺の過去を知っていようとも。俺があの場に行くのは決定した。俺がそう決めた。世界があいつを否定しても、俺はあいつを否定したりなんてしない。あいつを生かすのも殺すのも決めるのはあいつだ。それが困難なら、その任は俺が受け継ぐ。ほかの誰にもあいつは殺させやしない。わかったら、そこをどけ」
気がつけば闇の勢いは消えていた。ハヤトの正義感の復帰により、取り巻く闇は虚空へと消えていった。ハヤトは険しい顔のまま、精霊を震わせることをやめていたレオナルドの横を通って真っ直ぐにフィールの下へ行こうとする。
「最後に」
レオナルドが顔を向けずにハヤトに言う。ハヤトはチラリとレオナルドの方を見ると、それでも動かないレオナルドはそのままの態勢で続けた。
「最後に質問をしてもいいかな?」
「……ああ」
「君は、『なぜ、人類は進化した』と思う?」
また珍妙な問い掛けだった。人類が進化したのは結果であって、そこに確かな理由を考えるなど無用のことである。よって、答えは『生存本能の賜物』で然るべきだ。しかし、この時のハヤトには違う答えが出ていた。
「好きなやつに格好いいところを見せるために決まってるだろ」
言って、ハヤトは駆け出した。無論、それが間違えているなど微塵も思ってはいない。人類学史、あるいは進化論者からすればふざけるなと連日文句の来そうな答えだ。それなのに、今だけはこの言葉が一番しっくりくる回答だと思った。思ってしまえば、間違いだなんて思えるはずがない。
故に、ハヤトは駆けた。生涯で数少ないであろう有言実行を行うために。つまり、『フィールに格好いいところを見せるために』。




