エピローグ
果たして、屋上でハヤトを待っていたのは車椅子に座ったフィールだった。
なぜ、車椅子に座っているのかなど聞かなくとも見ればわかる。足には包帯が巻きつけられており、幾分にも治療された形跡があった。きっと、まだ足がうまく扱えないのだろう。そこまで察してハヤトはフィールがいる場所まで歩く。
やがて、二人は隣同士になって屋上から地上を見下ろした。
「先輩、体の調子はどうですか?」
まず最初に声を掛けてきたのはフィールの方であった。何のひねりもない、普通の質問。ただし、それは今回ばかりは場違いなものになっていた。
ハヤトはフィールの体の幾箇所に巻きつけられた包帯を見て、再び地上に目を下ろしてから「もうなんともない」と素っ気なく告げた。その態度に少しだけ疑問を持ったが、フィールはすぐに自分の体のほうがどう見ても重傷だということに気がついて、たははと笑う。
「……お前の方はどうなんだ?」
他に話すこともなく、だが会話を途切れさせたくなかったハヤトは代わりにそんなわかりきった言葉で延長を望んだ。
対して、フィールは自身の膝を擦って、多少言いづらそうに口篭ってから話し始める。
「実は……あまり良くないみたいです。膝の骨はぐちゃぐちゃになっているみたいですし、吹き飛ばされたときに肋骨も何本か折れてたみたいで、もう少しで内蔵を傷つけるところだったそうです」
「そりゃあ……災難だったな」
「はい。すごく災難でした」
戦いの最中は痛みを感じにくい。それはハヤトがよくわかっていることだった。敵に剣を突き刺されても、戦いの最中であれば痛みは通常の半分か、それ以下の痛みになる。それは脳から生成される物質がそうさせているのだと本で読んだが、実際はどうなのかはよく知らない。
とにかく、戦いの最中に何でもないと思っていた怪我が本当は重傷だった、なんてことはよくあるのだ。そして、それが今回のパターンだったということに違いない。
ハヤトは結局のところどういう感じになっているのかを無粋を承知で聞いてみた。すると、
「少なくとも今後歩けなくなるというのは確実らしいです。まず以って精霊使いにはなれないでしょう。あと、激しい運動も今後は控えなければならないらしいです」
「……そうか」
分かっていたわけではない。ただ、僅かにそうじゃないかと思っていただけだったが、本当にその答えが返ってくるとは予想していなかったハヤトは気落ちしたように返す。その様子を見て、フィールは何が面白いのかクスクスと笑いながら車椅子を動かした。
「冗談です♪」
「………………は?」
「だから、冗談ですよ。肋骨に関しては手術で無理やりくっつけましたし、膝の完治には半年かかるそうですけど、歩けなくなる程ではないみたいです」
「お前……騙したのか」
「先輩は人を疑うことを学んだほうがいいですよ?」
――――ただでさえ、騙されやすいんですから♪
言って、フィールはハヤトの手を掴んだ。何がどうしてそうなったのかがわからないハヤトは手を振り払おうとしたが、フィールがその前に言葉を続けた。
「まあ、歩けるようになるにはリハビリをしなければならないですし。走ったりするのは随分と先の話になるでしょうって言われちゃいました。肋骨の方も二、三ヶ月くらいは衝撃を与えると取れちゃうみたいなので、激しい運動は控えるように言われたのは本当ですけどね」
「……あながち嘘じゃないってことか。でもまあ、生きてて良かったな」
最後に「お互い」と付け加えて、ハヤトはフィールの手を振り払った。フィールもその行動がハヤトらしいと少しばかり思いながら「そうですね」と相づちを打った。
生命を奪っていく冬が始まる。その前兆はまず寒さからやってくる。しかし、ハヤトとフィールはその寒さに耐え凌ぐことのできる『何か』を得る寸前であった。
それは内面的温かさを持った何か。お互いがお互いを温め合う両立された暖房。『アイ』という形容し難い感情に、ハヤトとフィールは温かさを見出しつつあったのだ。
「先輩」
「……なんだ」
「私の右手の甲にあるもの。これって、契約印ですよね?」
言って、フィールはタマモと交わした契約印を見せた。それをちらりと見てハヤトは静かに肯定の意を示す頷きをする。何を契約したのかは自分にはわからないと、そう告げてハヤトはフィールに神性と何を契約したのかを聞き出そうとした。だが、フィールはそれを頑として言わなかった。
自分の命を対価にハヤトの命を救う。そんなことを望んでしまった自分の感情に理解を着けられないがゆえに、フィールは本当のことを言い出せなかったのだ。
「その紋章は俺の命の繋ぎ目だ。対価にしたものは俺の命が消えるときに消滅する。逆に、対価にしたものが壊れれば俺も死ぬ。そういう契約だ」
「……そう、ですか」
良かった。フィールは心の中で思った。今すぐ死ぬわけじゃないという安心感よりも、誰かに黙って死んでしまう危険性が無いということに安堵したのだ。誰に自分の死を知らせるかなど当然決まっていないが、少なくともハヤトに黙って死ぬのは嫌だと思っていた。
英雄は帰ってこない。それがフィールの当初の考えだった。自分を見守ることをせずに世界のために死んでいった父親を卑下するために結論づけた結果だった。だが、それを否定してくれる存在を探していたのもまた事実だった。だから、父親の残した微かな矛盾に全てを賭けて『クロサキ・ハヤト』にやっとたどり着いたのだ。
結局、フィールは自分の父親が自分のために何かをしてくれたのだという確固たる『愛情』を求めていたのだ。世界などというものよりも自分という娘に対しての『愛』を求めたのだ。
見事に、それは証明された。ハヤトの言葉によってフィールは父親に愛されて生を受けたことを知った。父親のおかげで今、ここに息づくことができたのだと確信することになった。
産まれたその時から貴族として父親の『愛』を知らない人生であり、他人からの『愛』など見ればすぐにお金目的だとわかるほどに低俗なものである散々な人生のスタートだと思っていたが、結果的に父親は最後にクロサキ・ハヤトという存在に出会うチャンスを与えてくれたのだ。
「先輩」
「今度はなんだ?」
「スキって、なんですか?」
「スキ……? 僅かな気の間とか?」
突然のフィールの質問に、あまりよろしくない頭を捻らせて的確な答えを探すハヤトにフィールは「スキ有り」と言って、ハヤトのネクタイを引っ張って顔を近づけたかと思うと口にキスをした。
触れるだけのキスではあったものの、その破壊力と言えばハヤトを数分固まらせる程のものであった。一体何が起きたのか。それを理解するにはハヤトはフィールを――否、フィールの内面を知らなすぎた。
「えへへ♪ 少しは分かってくれました?」
「……おま、なに、して……」
困惑を見せるハヤトにフィールはスッキリしたような面持ちでギュッとハヤトの腕に抱きついた。無理やりそれを振りほどこうとしたが、そのせいでフィールの怪我に響いたら困るとやるにやりきれないでいた――本当のことを言えば、それほど悪い気はしなかった――。それをいいことに更に体を感じさせてくるフィールにホトホト困り果てているように見せると、
「先輩」
「だから、何なんだ……」
「生きててくれて、ありがとうございます」
「……ああ」
フィールは初めて『愛情表現』をしてみようと思った。しかし、ハヤトには何のことだかさっぱりわからなかったようで、とりあえず返事をしてみるという程度で終わってしまった。ハヤトはフィールが愛情表現とはどうするのかを分かってはいなかったためにこんな事になってしまったことを知らない。そもそも、フィールがハヤトに命を賭けた理由が『唯一何の利益を顧みずに自分に優しくしてくれた』からだということなど、誰が想像できようか。
それほどまでに、フィールにとっての人生に『愛』が足りていなかったのだ。もちろん、『愛情』がなければ、これほどまでに優しい性格にはならないので最低限の『愛』は受けてはいた。しかし、圧倒的に赤の他人からの《無償の愛》が足りていなかったようだ。
でなければ、ハヤトに惚れるなど、タマモに言わせてみれば『隕石が地球を割るほどあり得ない』らしいし、実際の性格などを見てみても当然のことである。
冬の到来を待ちくたびれている今日では風がめっぽう冷たい。どうやら体を冷やしたらしいフィールが可愛らしいくしゃみをした。
「くちゅんっ」
その様子を見て、ハヤトは自分が羽織っていた制服をフィールに羽織らせると、ぽんと頭に手を置いて、感慨深そうにフィールを見つめた。
ハヤトもハヤトで先程のフィールの行動の意味を深く知ろうとしていたのだが、終始それはわからず終いだった。ハヤトもまた、それを知るには世界からのアイが足りていなかったのだろう。アイを強かに熱望する少女とアイの存在意味の定義付けを知らない少年の細やかな時流は過ぎていく。
「……」
「ど、どうかしました?」
「いや、中には入ろう。きっと、どこぞの部屋で俺の歓迎会でもするんだろ?」
「ど、どうしてそれを――!? ……はっ! まさか、今の一瞬で頭の中を読みましたね!?」
そんなことができるかバカ。そう毒づいて、ハヤトはフィールの車椅子を押す。フィールはキーマンがハヤトと一緒にパーティーグッズを買ったことを知らなかった故にどうしてバレたのかを考え込んでいるが、それを教えるのはもう少し後にしようと、ハヤトは早速温かい室内へと足を進めた。
――――クシナダ。俺は今、生きてるぞ――――
過去へと別れを告げたハヤトは、フィールという新しい姫を守るという強い意志を固めていた。それは過去を振り切った証拠になり、そして新たな一歩を歩むための決別でもあった。
もうすぐ冬が来る。別れには恰好の機会だ。ハヤトはかつての故郷を、主君を、仲間たちを、それらの忌々しい過去をしまい込み、新しい風の吹く『未来』へゆっくりと足を進めるのだった。




