第9話 そして始まり
「う、生まれたのか!?」
そう呟きながら、ウラガは妻であるカリハのいる部屋へと続く扉へと近づく。
しかし、扉の前に立ちながらも開けようとはしない。
開けていいものかどうか、判断しかねたからだ。
出産は女にとって命がけの行為であり、気を遣って遣いすぎることは無い。
中にいる産婆なりその手伝いの女性なりが入ってもいい、というまでは、先ほどのような緊急事態でもない限り勝手に入るのは気が引けた。
ただ、それでも今すぐにでも中に入りたい。
赤ん坊の泣き声が、中から聞こえてきているのだから。
そんな葛藤がウラガの心を乱すが、しかしそんな時間もすぐに終わった。
――がらり。
と、扉が開き、そこからジャハルユーレンの仲間、エッセとエテルノレガが出てきたからだ。
それから二人は、
「産婆殿のおっしゃることには、もう中に入っても構わないそうですよ、ウラガ殿」
「はやく行ってあげてくださいな」
と言い、ウラガに道を空ける。
ウラガは二人に礼を言いつつ、しかし急いでカリハのもとへと駆けていく。
その後ろから、バヒールも続いた。
そして、ウラガは対面する。
この世の宝に。
今まで出会った何よりも大事で、命をかけて守るべきものに。
「おぉ……おぉ……!!」
「ウラガ。抱いてやってくれ。お前の子だ」
涙を流しながら、生まれたばかりの赤ん坊を見つめるウラガに、赤ん坊を抱いていた、疲労困憊の女性がそう言った。
この女性こそがウラガの妻であるカリハであり、たった今、出産という偉業を成し遂げた女傑である。
出産後だというのに意識ははっきりとしていて、疲労は見えるもののどこか力強さすら感じられるその姿は、嫋やかな女性というよりはむしろウラガやバヒールなど戦士に近い雰囲気を感じられる。
実際、カリハは戦士だった。
しかも、集落で最強に近いウラガやバヒールと並ぶほどの。
戦う姿は、そのよく鍛えられた刀剣のような鋭さを感じさせる美しさと相まって、戦いの女神に例えられることもあるくらいである。
そして、そんな彼女でも、出産という一大事業は精も魂も尽き果てさせるらしい。
赤ん坊を支える腕はしっかりしていても、その背中は産婆とその補助を務める女性に支えられていた。
ウラガはそんなカリハから赤ん坊をそっと受け取る。
赤ん坊の顔が見えた。
サルのようで、その顔立ちはまるでウラガにもカリハにも似ていないように思えるが、よくよく見つめているとすっと通った鼻筋や鋭い眼はカリハに似ているような気がするし、眉の力強さや耳の形などはウラガに近いような気もする。
自分と、カリハの子。
実感が徐々に湧いてきて、何か胸に温かいものが広がっていく。
ウラガはそれから、カリハの肩にそっと触れ、言った。
「カリハ……よく、よくやったな……。俺たちの子を、よく、産んでくれた。お前も無事で本当によかった……」
そう言ったウラガの目からは、普段の彼からは信じられないほどの大粒の涙が流れている。
ウラガが泣くことなどまずなく、カリハもバヒールもほとんど見たことのないことだ。
だから、バヒールは驚きつつも、やはりこの男も人の子だったかと微笑み、カリハは、大げさな、とむしろウラガよりも男らしく笑い飛ばす。
「出産という大事業とはいえ、私がそうそう簡単に死ぬはずがないだろう。それはお前の方がよく分かっていると思っていたが?」
「そうは言うがなな……今回ばかりは色々と肝を冷やした。カリハ、お前は気づいてはいなかったのか?」
ウラガの言い方に、カリハは首を傾げて、
「……ん? 何がだ?」
「出産に際して、通常のそれとは異なるものがあったことにだ。産婆殿、そうだな?」
ウラガが産婆の女性を見てそう言うと、彼女も頷いて、
「ええ、カリハ様のご出産は通常のそれとは大きく違いました。お子様の魔力が大きすぎたのか、カリハ様の体に強い負担をかけていて……わたくし共も肝を冷やしました」
「何? そうだったのか……出産というのはみな、これくらいに苦しいものかと思っていたのだが、そんなことがな。だが、無事に産めたではないか。なら大した問題ではなかったのでは?」
カリハがそう言うと、産婆の女性はとんでもない、という顔をし、それから部屋の扉のところに立っている二人の女性、エッセとエテルノレガを見て、
「あのお二人が力を貸していただけたからこそ、何とかなっただけです。わたくしどもだけでは、どうにもなりませんでした。あれほどの力を抑えることは、わたくしたちには……」
言われて、カリハややっと、知らない顔があることに気づいたようだ。
普段ならまず、そんなことはあり得ないのだが、やはり出産直後ということもあって注意力も散漫らしい。
普段通りに見えて、実際のところはひどく疲れているのだと再認識したウラガは、しっかりと妻を見ていなければならないなと心を改める。
カリハは、二人の女性の方を向き、言う。
「……そこのお二人、その話は本当か?」
すると、二人は、
「一応、本当です。これでも治癒術についてはちょっとしたものと自負しておりますので、貴方と赤ん坊に、絶えず治癒をかけ続けさせていただきました」
「妾わらわは防御系に長けておってな。二人のその身を壊さぬように守らせてもらった」
と、さらりと返答する。
その言葉には嘘はない、とカリハは判断したようで、笑顔になって、それから頭を下げた。
「それは、大変にご迷惑をおかけした。貴方がたのお陰で私は命を失わずに済んだらしい。なにか礼をしたいのだが……」
しかしこの言葉に二人の女性は首を振る。
「いえ、お礼をしたいのは私たちの方です」
エッセがそう言い、
「ウラガ殿とカリハ殿がいなければ、妾わらわたちとかの方の繋がりは永遠に途切れたままでしたからね」
エテルノレガがそう言った。
その言葉の意味はカリハにはよくわからなかったようだが、首を傾げつつも、
「ふむ……? だがどんな事情があるにせよ、私と、私の子の命を救ってくれたのは確かだ。やはり何か礼をしたい」
そう言った。
これにエッセとエテルノレガは少し悩んだようだが、その後ろから、
「ならば一つお願いをしても?」
と野太い声が響いてきた。
ジャハルユーレンのものだ、とウラガとバヒールは気づく。
「貴方は……誰かな?」
少し顔がのぞいたが、当然見覚えがなかったらしいカリハがそう尋ねると、
「俺はジャハルユーレン。この二人の仲間だ」
エッセとエテルノレガを示してそう答えた。
それから、
「近づいても?」
と尋ねる。
流石に許可を得ず中に入り込む気にはなれなかったようで、これにカリハは、
「もちろんだとも。私と私たちの子供の恩人のお仲間ならばなおのことだ」
そう答えた。
それからカリハは、
「それで、お願いとは何かな? 出来ることならお応えしたいと思うが、すでに夫のいる身だ。流石にこの身をと言われれば断らざるを得ないのだが……」
と若干の冗談を挟みつつ尋ねる。
これにジャハルユーレンは豪快に笑って、
「はっはっは! ウラガ殿、奥方はウラガ殿よりも冗談が通じるのだな」
とウラガにいう。
ウラガは、
「俺とて冗談が通じないわけではないぞ! ただ、今日はな……」
流石に冗談を言う気にはなれなかっただけだ。
その点、カリハはウラガよりも豪胆だと言えるのかもしれない。
ジャハルユーレンはウラガの言葉にさもありなんと頷き、それからカリハに肝心なことを言った。
「俺は妻はいないが、流石にカリハ殿を望もうとは思わん。これほど似合いの夫婦もいないしな……俺たちが頼みたいのは、そうではなく、カリハ殿とウラガ殿の子に、祝福を授けさせてはもらえないかということだ」
「ほう……」
カリハはジャハルユーレンの言葉に意外そうな顔をした。
祝福、というのは呪術師や高名な魔術師、それに司祭などが生まれてきた直後の子どもに授ける幸運の祈りである。
その効果は色々だが、強力な魔力を持つ存在であればあるほど、強い祝福を授けられると言われている。
とは言え、人に授けることの出来る祝福にはさしたる効果はない。
どちらかと言えば気休めというか、前途の幸運を祈る、というくらいの意味合いしかない。
カリハが意外そうな顔をしたのは、お願いと言いながら、カリハたちにとってありがたいことを言い出したからだ。
金銭や宝物を要求されても答えるつもりだったのに、これでは肩すかしである。
しかしかといって断るような類でもない。
友人や親族に祝福を授けてもらえるのは、新たに生まれた赤ん坊の権利であり義務である。
それが、特に命をつなぐために尽力してくれた者からのものならば、余計に受けなければならないだろう。
だから、カリハは頷いた。
「ありがたく受け取らせてもらおう。ウラガも構わないな?」
「もちろんだ……。だが、本当にそれでいいのか?」
ウラガがジャハルユーレンたちに尋ねるが、三人とも深く頷いてそれに答えた。
それから、赤ん坊の前に並び、一人一人が祝福の言葉を唱えた。
「……では、失礼する。我が名はジャハルユーレン。漆黒と闇と武を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
「我が名はエッセ。純白と炎と治癒を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
「我が名はエテルノレガ。新銀と月と守護を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
それはその場にいた全員が聞いたことのない祝福の言葉だった。
ただ、内容は悪いものではない。
確かに祝福を与えようとしていることは分かる。
けれど一体どこの祝福の言葉なのか、それがまるでわからなかった。
しかしジャハルユーレンたちは特に説明しない。
それぞれの言葉の直後、彼らの体が輝き、そこから赤ん坊の体に何かが流れ込んでいく。
「これは……?」
カリハはその光景を不思議そうに見つめた。
赤ん坊に流れこんでいるもの、それもまた悪いものではないことが直感的に分かる。
赤ん坊もきゃっきゃっとして笑っていて、苦しそうでもない。
つかめない光に手を伸ばして、機嫌が良さそうだ。
これなら問題ないだろう。
が、やはりどういうことなのかはよくわからない。
それからしばらくして、ジャハルユーレンたちの体から噴き出た光が消えていった。
ジャハルユーレンはそれを確認して、
「……これで、祝福は与えた。俺たちの用事は終わりだ。ウラガ殿、カリハ殿。大変なところにいきなり押しかけて、ご迷惑をおかけした。俺たちはもう元いたところに戻るゆえ、いついつまでも健やかに過ごされるよう……」
そう言って頭を下げた。
エッセとエテルノレガも同様に深く頭を下げ、それから即座に踵を返して出口へと向かっていく。
たった今見た、奇妙な光景にぼんやりとしていた一同だったが、流石にジャハルユーレンたちがもう帰る気でいることに気づくと、慌てて彼らの後を追った。
特にウラガは、妻と子供の恩人にこの嵐の中、帰らせるわけには行かないと慌ててジャハルユーレンたちを追いかける。
せめて、今日一日、いや、数日は集落に滞在してもらい、礼をしなければならぬと思って。
しかし、そんなウラガが追い付くよりも早く、ジャハルユーレンたちは家の外へと続く扉を開けて出て行ってしまった。
扉の閉まる音が聞こえ、ウラガはそれでも追いかけようと扉をがらりと開ける。
その途端、暴風と激烈な雨がウラガの顔に吹き付けるが、それくらい戦士であるウラガには何ともない。
それどころか、すぐにジャハルユーレンたちに追いつけるだろう……と思ったのだが、外に出てもジャハルユーレンたちの姿は見ることが出来なかった。
こんなに早く、この嵐の中を歩けるはずがない。
少なくとも、まだ見える位置にいるはずだった。
それなのに、まったく姿が見えない。
「どういう、ことだ?」
ウラガがそう言うと、後ろから追いついてきたバヒールが、
「おい、あの方たちは……!?」
そう尋ねた。
それにウラガは、
「いや、姿が見えん……もう行かれてしまったのか……?」
そう答えたが、ふと、雷が光り輝く。
そして、それと同時に、巨大な影がウラガとバヒールを覆っていることに二人は気づいた。
――雲ではない。上に、何かいる。
そう気づいた二人が上を見上げると、そこには、
「……ウラガ、あれは……」
「あぁ。龍だ……しかも相当な年月を経た古龍だぞ! 馬鹿な! なぜ三匹も……まさか!?」
言いながら、ウラガはその三匹の姿が、どこか見覚えのあるもののような気がした自分に気づいた。
闇よりも暗い巨体に、灰色の理知的な瞳を持った龍、暗い空の中を照らすように白く輝く赤眼の美しい龍、そして体のすべてが銀色に覆われた雷すらをも反射しそうな体を持つ龍。
その色合いは……。
「ジャハルユーレン殿、エッセ殿、エテルノレガ殿!?」
口からついて出たのは、先ほどの三人の名前である。
これに、龍たちは答えるように一鳴きして、それから、
『……ウラガ殿、よく分かったな。まぁ、そういう訳だ。畑などには被害は出さないゆえ、心配しないように。それから体には気を付けるように奥方にもお伝えしておいてくれ。ではな』
と、近所の友人のような気やすいことを言って、雲の中に消えていった。
ウラガとバヒールはその荘厳な姿を目に焼き付けながら、彼らが消えていった後も唖然とした表情でお互いを見つめ、
「……夢では、ないよな? ウラガ」
「夢ではないだろうよ、バヒール……」
そんなことを何度も語り合ったのだった。