第5話 転生前
母様の胎内から外にでると、そこは水の中だった。
わしにとって、呼吸は必要不可欠なものではないが、それにしても一瞬驚く。
自分がいったいどんな生き物の腹の中にいたのかは、いまいちよく分かっていなかったが、どうやら水生生物の腹の中にいたらしい、とそれで分かったからだ。
だからだろう、水の中に落とされたからと言って、特に息ができない、ということもなかった。
わしの今の体は水を住処とする生き物のもので、呼吸は水の中でするものなのだろう。
水に入ると同時に、体が本能的に覚えていたらしい泳ぎをする。
周りには水草が揺れていて、美しい光景が広がっていた。
ここは、どこかの川か、海の中なのだろうか……?
そう思ってきょろきょろしてみると、まずはじめに目に入ったのは、こちらを見つめる巨大な物体だった。
いや、わしから見て、巨大に見える、というのが正確だろう。
実際はそれほどでもないのかもしれない。
しかし、今は自分の大きさが分からないので、何とも言えない。
それにしても、今のわしの、数百、数千、いや、数万倍ほどする大きさの生き物がそこにいて、こちらを覗いているのだ。
驚くな、というのが無理な話だった。
いくらわしとは言え、生まれた途端に他の生き物に滅ぼされるのはまっぴらごめんだった。
むしろこちらから攻撃して追い払いたいところだったが、それが出来るほどの力を今のわしは持っていない。
だから、どうにかして逃げなければならない、と思って慌てた。
すると、
(……だいじょうぶ)
と、どこかから声が聞こえた。
くぐもったような、しかし柔らかで優しい、魂に直接語りかけてくるその声は、母様の胎内にいたときによく聞いていたもの。
つまりは、姉妹たちの声だった。
どうやら、わしは母様の胎内から一番最初に出た、と言うわけではないようで、すでに姉妹たちが水の中を泳いでいたらしく、彼女たちはわしよりも早く状況を理解しているらしい。
とはいえ、まだわしにはよく、分からない。
何が大丈夫なのか、尋ねる。
(ここは……どこなんじゃ? 川か? 海か? それとも……湖か?)
水の中なのだ。
そのどれかなのだろう、と思っての質問だったが、そのどれにも姉妹たちは頷かなかった。
それから彼女たちは、諭すように、次々にわしに言った。
(ここは、人の作った水の庭の中よ……)
(すいそうっていうところ……)
(あんまりひろくないけど……たべものがいっぱいあって、いつもあたたかいところ……)
それは、意外な場所だった。
すいそう……つまりは水槽の中、ということだが、わしが元々住んでいた世界で、水槽というのはただ単純に水を張った容器のことだった。
その中で、水生生物を飼育する者というのも確かに存在していて、ただ、それほど長く飼育できるものではなかった記憶がある。
それは、水が一つところにとどまり続けると、淀み、腐るという性質があるためで、これを解決するには、単純に定期的な水替えや、特殊な方法としては魔術による浄化などが必要だった。
ただ、そうまでしても、ここのように、水草が元気に生い茂り、また、水生生物が自然に繁殖するような環境を作り上げることはそう簡単ではなかった。
にもかかわらず、わしの今世の母様はわしたちを身ごもり、そして産んだ。
水草の生い茂るこの水槽の中に。
それは非常に珍しいことで、わしは、もしやここはこの世界の腕利きの魔術師の住処か、とすら思ったほどだ。
そうであるならば、僥倖だとも。
なぜなら、魔術師であるならば、わしの存在の奇妙さにも気づくだろうし、気づいた以上は何かしらに利用しようと考えるはずだからだ。
魔術をわしに使おうとすると同時に、その持つ魔力を奪い、元の存在に戻る時間を短縮することも出来るだろう。
もっと運が良ければ、わしを神と見抜き、復活に手を貸してくれる可能性もある。
どちらにしろ、わしにとっては運がいい話だ。
そう思ったのだ。
だから、そんな思いつきをわしは姉妹たちにしたのだが、不思議そうな表情で尋ねられた。
(まじゅつし、ってなあに?)
(まりょく?)
(かみさま……あなた、かみさまなの?)
と、そんな風に。
これにはわしも仰天した。
魔術師や魔法使いについて、存在すら知らないとは。
神についても、どうやら知らないようだった。
人ならばともかく、自然の生き物とは聡いもので、魔術師や魔力、それに神の存在などについては生まれたときから知り、理解しているものだ。
少なくとも、わしが元々住んでいたあの世界ではそうで、このように無知なことはあり得ないはずなのだが、しかし、この世界ではこれが正しいあり方らしい。
詳しく話を聞いていけば、この世界の水槽というのは、魔法や魔術などではなく、もっと他の、かがく、というものによって制御されるものらしく、そのお陰で、ここはこんなに快適な環境を保てているらしい。
どうして生まれたばかりの姉妹たちがそんなことを知っているのかと聞けば、母様に聞いたのだという。
どうも、わしは他の世界から来た、いわゆる異物であるがためか、母様とのつながりがうすいらしく、母様とあまり会話は出来なかったが、姉妹たちは母様の腹の中で、母様と自在に会話をしていたらしい。
その母様のお話によると、そういうことだというわけだった。
姉妹たちの種族は、ずっと昔からこうやって、人に水槽の中で育てられ、繁殖させられてきた種族らしい。
それを聞き、わしはなんて酷い、それでは奴隷ではないか、と思ったのだが、姉妹たちがいうには必ずしもそうではないという。
人の水槽の中は見ての通り、非常によい環境であり、食事も定期的に与えられるために快適で、かつ繁殖もよく出来るため、それほど悪い生活ではないのだと母様が語ったらしい。
確かに、その話の通りなら悪くはなさそうで、実際、水槽の中には定期的に食事が入れられていたし、話を聞きながらわしもそれをぱくぱく食べていた。
うまい。
入れているのは、あの始めにみた、大きな生き物だ。
そしてあれこそが人なのだという。
なるほど、確かに形は人であるし、大きさはわしが小さすぎるためだろうと納得した。
ただ、姉妹たちの種族は成長しても大した大きさにならないことは、母様の体を見れば分かる。
母様は、見るからに魚で、ただ見たこともない極彩色の体を持っておられた。
しっぽはまるで羽衣のようだし、ゆうゆうと泳ぐ姿は女帝のように堂々としている。
姉妹たちは大きくなると、ああいう風になる、ということらしかった。
しかし、である。
わしは徐々に成長していく姉妹たちを見て、どうやらそうなることはなさそうだ、ということに気づいた。
と言うのも、どうも姉妹たちは、わしの近くに居すぎたのだろう。
わしの力の影響を受け、その魂が変質してしまったようだった。
そもそも、わしと会話できていることがおかしいのだ。
わしと魂を通じて会話できるのは、わしの存在が近しいもの、霊的なものだけだ。
だから、わしと姉妹たちは会話できても、母様とは出来なかった。
つまり、姉妹たちは、わしに存在が近づいているのだ。
もはや、ただの魚とは言えないようになってしまったようだ。
それは、成魚になると余計に顕著に分かった。
どう見ても、母様とは違う容姿に、この世界の普通の魚は持っていないらしい魔力を帯びているのだから。
わしも母様には似ていない。
これは困ったことになったかもしれない、と少し思った。
なぜなら、奇妙に思った人間……飼い主と言うらしい……が、わしらを調査するためにどこかに送る可能性があるということだからだ。
もしくは、その存在を外部に発表する、ということもあるらしい。
これは母様が言うには誉れであるらしいが、わしらは普通のものではない。
そんなことをされては困ったことになる、と思ったのだ。
そうなっては困る、とわしは思い、いざというときは何か方法を考えねばと、よくよく飼い主を観察することにした。
しかし、不思議なことに、いつまで経っても、飼い主はわしらをどこかに送ろうとはしなかった。
どうしたことか、と思っていると、これもまた姉妹たちが母様から聞いたことを教えてくれたのだが、あまりこういう不思議なことが起こっても気にしない飼い主、というのもいるらしいと教えてくれた。
ただ、飼い主はわしらに無関心というわけではないようで、不思議そうな表情はしているのだが、ただそれだけだった。
どうやら、静かにここで暮らせるらしい。
しばらく飼い主を観察して得た結論はそれだった。
そうなら、それでいい。
何年、何十年とここで過ごし、姉妹たちと楽しく暮らしていられれば、まぁ、それもいいだろうと、そう思った。
けれど、現実にはそうはならなかったのは、残念と言うしかあるまい。
ある日、飼い主はわしらの水槽の水を入れ替えていたのだが、その水に濡れた手のまま、水槽の外にある何かしらの装置にふれてしまったらしい。
びくり、と体をふるわせて、そのまま倒れて動かなくなってしまったのだ。
いったい何が起こったのか、わしにはよく分からなかったが、明らかに命を失いかけていることが、飼い主の生命力の減り方でわしには分かった。
今まで、一緒に過ごしていたのだ。
わしらをこの水槽の中で育んできた飼い主を、厭う感情などない。
どうにかして、助けてやりたい、と思ったのだが、振り返ってみるに、今のわしには何の力もないのだ。
ただの魚に、出来ることなどない。
しかし、それでも諦めることが出来ず、わしは自分の出来る最大限の方法……誰かの魂に、呼びかけることにした。
これは、それほど多くの力を必要ではなく、今のわしに出来る行動の限界でもあった。
効果範囲は、飼い主が住んでいる部屋のおよそ倍ほどの距離に届くかどうか、というくらいだ。
それに、わしと相性のいい者にしか聞き取ることが出来ない。
だから、望みは非常にうすい……その程度のものに過ぎなかった。
けれど、意外なことに、助けはやってきた。
「……ミズキ!」
呼びかけ初めて数分も経っていないのに、そう叫びながら一人の娘が部屋に入ってきた。
彼女はたまにこの部屋にやってくる、ミズキの幼なじみのようで、幾度かわしも顔を合わせていた。
母様の腹から生まれたときにもいたのだ。
知らぬはずがない。
そんな彼女がやってきた。
どうやら、飼い主……ミズキ、は助かったのだ。
そう思った。
けれど。
少女はしばらくミズキを見、それから言ったのだ。
「……これは、だめじゃ。蘇生が効かぬ……救急車……いや、この世界の医療ではここまで弱った者を救うことは出来ぬじゃろう……」
などと。
それでは助からないと言うことではないか。
わしは、つい、その少女の魂に叫ぶようにそう言ってしまった。
今までは魚として、そんなことはしないようにしていたのだが、あまりのも慌てていたので、そういう注意が働かなかった。
しかし、少女はその声が聞こえたらしいにも関わらず、全く不思議そうではない表情で頷き、
「そうじゃ。この世界ではのう……。わしらの世界でなら、なんとか……まぁ、このままの状態というわけにはいかん。新しい命として、しかし記憶を保ったまま、魂だけを送ると言う形になるじゃろうが、消え去るよりはよいじゃろう。わしも忘れられたくはないからのう」
などと驚くべき事を言った。
(ど、どういうことじゃ!?)
わしがそう尋ねると、少女は、
「まだ記憶が戻ってない以上、仕方ないことかもしれんが、まぁ、お主の世界とわしの世界は同じじゃと言う事じゃ。アジール族の守護神だったわしらには、まだあの一族とのつながりがある。やってできない相談ではないじゃろう。いやはや、カジャクを呪っておって助かったのう。つながりはお主の方が強いから、借りるぞ」
そう言ったとたん、少女の右手の平がわしに向けられ、左手のひらがミズキに添えられた。
そして、ぐん、と引っ張られるような感覚がしたあと、体の中に魔力が思い切りそそぎ込まれた。
それは、かつてわし自身が持っていた力で、いったいどういうことなのかと首を傾げた。
しかし少女は説明もせず、そのまま力をそそぎ込み続け、そして、
「……よし、つながった。ミズキ……聞こえるか。今からお主はわしがもといた世界、つまりは異世界に送られることになる。最近流行りの転生、と言う奴じゃな。お主も何冊か本を持っておるじゃろう。じゃから、状況はそれで分かるじゃろ。それと……まぁ、赤ん坊からやり直すことになるからのう。がんばるんじゃぞ。わしも行くつもりじゃが、二人分はちょっと手間での。時期はずれることになるから、まぁ、そこは勘弁してくれ。では……良い旅をな」
と言い、魔術を構築し始めた。
複雑だが、それはわしも知っているもの……魂を新たな輪廻に乗せるときのもので、神のみが扱えるものだ。
それを使っているということはこの少女は神、ということになるのだろう。
そして、ミズキの体からふわりと白い餅のようなものが浮き出て、少女の左手の平に飲み込まれ、そして右手の平を通って、わしの体にそそぎ込まれる。
さらに、そこから向こう側に向かって送られていくのを感じた。
数秒の後、完全にミズキの魂は向こう側へと消え、そしてこの世界に残っているのは、ミズキの魂なき体と、少女、それにわしだけとなった。
少女は言う。
「色々聞きたいこともあろうが、わしは忙しい。記憶は開いてやるから、あとは自分で考えて理解する事じゃな」
そして、今度は別の魔術を構築し始めた。
何をするのか、と首を傾げていると、わしの眼前に真っ暗な穴が生み出され、そしてそこにわしの体は飲み込まれていく。
それと同時に、何か、頭の中から色々な記憶がわき出してきた。
あの不思議な庭でのことと、記憶を消されたことがだ。
それを理解して、わしは少女が何者か分かった。
あれは、わしだ。
わしは人となって、あそこに……?
どういう経緯かは分からないが、どうやらそういうことらしい。
そしていずれ、あのミズキ、という少年と知り合い、自分の世界に送るらしい。
「お主も、良い旅をな」
真っ暗な穴に吸い込まれる直前、少女の……自分の、そんな声が聞こえた。
それに返す暇もなく、わしは暗闇に飲み込まれ、そして完全にミズキの部屋から消え去ったのだった。