第3話 あっけない最期
「ミズキ! ミズキ!」
コンロで沸かしたお湯を急須に注ぎ、湯飲みに注いでいると、奥の部屋の方からそんな声が聞こえてきた。
もちろん、それは俺の幼なじみ兼謎の存在であるあの少女のものだ。
一体どうしたのかと思いつつ、とりあえず二人分のお茶を入れてから、おぼんに載せて部屋に行くと、水槽に目が釘付けになっている少女がそこにはいた。
「ヤト……どうしたの?」
彼女の名前は、ヤト、と言った。
夜の刀と書いて、ヤト。
初めて聞いたときには、ずいぶんと物騒な名前をつけたものだと思ったが、彼女の容姿には合っている気はする。
まさに夜を象徴するような漆黒の艶のある髪に、黙っていると、どこか刀のようなひんやりとした雰囲気を出しているように感じられるその様子は、まさに夜の刀のようにも思えるからだ。
しかし、今の彼女にはそんな様子は感じられない。
俺の前にいるときの彼女は、まるきり童女のように振る舞う。
俺と同じ大学に通っている彼女は、大学にいるときはクールな様子なのだが、なぜか俺と一緒にいるとこうなってしまうのだ。
残念な美人、というものなのかもしれないとたまに思う。
まぁ、こんな美人と幼なじみであるだけお前は人生の幸福を使い果たしていると男の友人連中には言われるし、その通りだと思うので残念、なんていうのは本来許されないのかも知れないが。
そんな彼女が、俺の声に振り返って言う。
「こ、ここに小さいのがいるぞ! いっぱい」
そう言ってヤトが指さしたのは、俺の部屋にある水槽のうち最も大きな60センチ規格水槽の横にひっかけてある、小さな水槽だ。
ちょうど、大きな水槽に小さな水槽がぶら下がっているような感じになっていて、小さな水槽の中の水は管を繋ぐことによって大きな水槽の水を循環させている。
そしてその小さな水槽は産卵箱、と呼ばれるものであり、中には一匹のお腹を大きくした熱帯魚、つまりは青色に輝くグッピーが入っていて、その下の方で、確かにヤトの言うように小さなものが動き回っているのが見えた。
大きさは、ちりめんじゃこよりさらに小さいくらいだろうか。
よくよく注意してみなければ気づかない大きさだ。
それは、大きなグッピーが産んだ子供であることは明白であり、ヤトが見に来たものである。
「産まれたんだ。気づかなかったな。っていうか、ちょうど今産んだのかもね。まだ二、三匹しかいないようだし」
もしかしたら、母親であるグッピーに共食いされた可能性もがあるが、産卵箱の中は透明な仕切りで上下に二分されていて、上部にいる母親グッピーが産んだ子供、つまり稚魚は下の方に落ちて、母親と隔離されるようになっている。
よほど運が悪くない限り、これしか残っていない、ということはないだろう。
つまり、これからもう何匹か産まれるはずだ。
もしかしたら数十匹かも知れないが……。
グッピーは非常に多産で知られる熱帯魚であり、一度の出産で場合によっては百匹産むことすらあると言われる。
俺の場合、グッピーのお腹が大きくなってもほとんど放置していて、こんな風に隔離することなど滅多にないのでそれで困ったことはないが、今回はかなり困るかも知れない。
我が家には60センチ規格水槽が一つと、30センチキューブ水槽が二つきりしかない。
これでも一人暮らしの大学生の部屋にある水槽の数としては多いと思うが、50匹も産まれてしまってみんな生き残られると非常に困る。
飼育しきれない。
まぁ、このグッピーはこの間買ったばっかりの、たぶん、初産のものであると思われるのでおそらくそんなに産むことはないだろうが、ちょっとだけ不安である。
ちなみに、なんで今回に限って産卵箱なんかに隔離しているかと言うと、ヤトがみたいと言うからだ。
こうやって隔離した方が見やすいのは間違いないし、稚魚も生き残る。
様子をみたいというなら、こうする他ない。
俺としては自然に任せて放置したかったのだが、やってしまったものは仕方がない。
たくさん産まれても最後まで面倒を見る覚悟を決めて隔離したのだった。
場合によっては水槽を増やさなければならないかもしれない……。
「もっと増えるのかのう? あっ、い、今産んだぞ!」
ヤトが産卵箱の中にいる母親グッピーを凝視してそう言った。
確かに、いまぽとりと母親グッピーのお尻あたりから丸っぽいのが出てきて、落ちていき、そして途中で泳ぎだした。
おそらくは四匹目の稚魚、ということになるだろう。
この瞬間は、水生生物愛好家の最大の楽しみのうちの一つだろう。
新しい命が産まれる瞬間を、この目で見ることが出来るのだから。
熱帯魚の中には卵で生むものと最初から魚の形で産まれてくるものとがいるが、グッピーは卵胎生、つまりは最初から稚魚の形で子供を産むタイプに分類される。
メダカなんかは卵で産むものだからもう少し手間がかかるが、グッピーはこうやって隔離すればぽろぽろ産んでくれるので楽でいい。
すべて産みきったら母親だけ元の水槽に戻して、稚魚には稚魚用の餌をあげればいいだけだ。簡単だ。
問題は数だけだ。
多すぎなければ、今の数の水槽でも十分やっていけるのだ。
そう思って、
「十匹くらいで済めばいいんだけど……」
と呟いた俺に、
「百匹でもいいではないか」
と言うヤト。
しかし、そんなのは困るのだ。
スペースがもう限界で、水槽を増やすのはつらい。
電気代も厳しい。
世の中は、熱帯魚にも俺の懐にも優しくないのだ。
そういうことを言おうと思ったが、ヤトの目の輝きを見て、俺はため息を吐いて諦めることにした。
新しい命の誕生に興奮しているらしい彼女の瞳に濁ったところは一つもなく、俺の考えたような世知辛い事情を言うのは、なんだか心が酷く汚れているような気がしたからだ。
まぁ、いいさ。
たくさん産まれたら産まれたで、頑張って育てるから……。
そう思って、俺は彼女に言う。
「たくさん産まれたらいいね」
「その通りじゃ」
彼女は笑った。
◇◆◇◆◇
しかし、結果的にそのグッピーは十匹ほど産んだところで打ち止めにしてくれた。
非常に俺の懐に優しいグッピーだったわけだ。
それくらいなら、まだ許容範囲である。
幸い、60センチ規格水槽はここ最近稼働させ始めたのでそれほど魚の数はいない。
まだ養える範囲だった。
稚魚に毎日餌をやりつつ、その成長をヤトと見守る俺。
大学にもしっかりと通い、順風満帆な日々を送れていた。
そんなある日、俺はふと、水槽を見て首を傾げた。
大きな方の水槽ではなく、小さい方ーー産卵箱の方だ。
稚魚が産まれてしばらく経ち、それなりに大きくなってきていたのだが、その稚魚たちが、何かおかしいのだ。
親のグッピーと、まるで似ていない。
模様も出始めていて、容姿もはっきりと整いつつあるのだが……。
普通、グッピーは生物学の理に基づいて、親の形質を遺伝によって受け継ぐ。
そのため、親がわかっていれば子供がどういうパターンで産まれてくるかはわかるのだ。
しかし、今産卵箱にいる稚魚たちは、両親の形質から考えて、産まれるはずのないものばかり。
というか、初めて見たものばかりなのだ。
突然変異、というのもたまに起こるのでそれかな、と一瞬考えないではなかったが、あまりにも変化の仕方が大きすぎるし、一匹だけとか二匹だけとかではなく、すべてがそれぞれ違う容姿をしているのだ。
普通ではないのは間違いなかった。
まぁ、どれも綺麗であるし、見ていて面白い形をしているのでそういう意味ではぜんぜん問題がないのだが、しかし不思議だ。
水生生物愛好者の世界においては、色々な種類のものを交配して新たな模様や形をした魚を作り上げようとする品種改良が盛んだが、俺は別にそれをやってこうなったというわけではないのだ。
実家暮らしのときは、発色のいい個体同士を交配させたり、尾鰭が大きく美しくなるように、と色々と世代を重ねさせていたこともあったが、大学に入って水槽にそれほど時間がかけられなくなったので、濾過器の交換と水替え、それに水槽のコケ取りくらいしかしなくなっていたくらいだ。
それなのに、どれだけ努力しようともたどり着くのは難しいだろう、と思えるような個体が、今、俺の水槽の産卵箱の中にたくさんいるのである。
これを、奇妙と言わずしてなんというのか……。
そう思いつつも、最終的に俺は、
「……でもまぁ、いいか」
という結論に達した。
実際に産まれて育っているのだから、不思議だろうがなんだろうが、いいだろう。
綺麗な熱帯魚がいっぱいいてうれしい。
それでいいではないかと、半ば開き直ったわけだ。
ヤトも俺と同じような感覚らしく、成長して成魚になった謎グッピーたちを見ながら、
「綺麗でいいではないか!」
と言って片づけた。
そもそも彼女は熱帯魚にそんなに詳しいわけではなく、疑問を覚えたりすることもなかったからそんな感じだったのかも知れない。
そんなわけで、俺はその謎グッピーたちを育てていたわけなのだが、その中でも、群を抜いておかしな魚が一匹、いた。
もちろん、どれも変わっているのだが、その一匹は他のものよりも大きく、さらに形も派手で、色合いも極彩色というか、とにかく美しいのだ。
さらに、グッピーの子供のくせに、角のようなものやヒゲみたいなものまで生えていて、一体こいつは……と思わずにはいられなかった。
しかもそいつは、何というのか、非常に賢そうというか、いつもこちらを観察しているような、そんな雰囲気をしていた。
ガラスの向こうから、こちらをいつも見つめているのだ。
魚がそんなこと……と思うかも知れないが、俺にはそう感じられた。
俺は、ベタと言う種類の、少し大きめな魚も一匹飼っていて、そいつはまさに人間になつくようなそぶりを見せる魚として知られているので、水槽に寄っていくと近寄ってくるとか、何かこっちを見ている、というくらいなら別におかしくはなかった。
それくらいなら、ありえないことではないからだ。
しかし、謎グッピーの一団からは、どれも何か意思のようなものを感じるのだ。
明らかに、こちらを見ている。
ただ餌がほしいから、とかではなく、観察されて、かつ分析されているような……そんな奇妙な感覚がしたのだ。
俺も向こうを観察していたのである意味ではお互い様かも、という感覚があったので、そんな状況でも気持ち悪いとまでは思わず、むしろなんだかおもしろさを感じていたので良かったのだが、普通、こんなことが起こったら、奇妙に思う、を通り越して気味が悪いだろう。
場合によってはどこかの研究所とかに調査を依頼したりすべきだったのかもしれないが、俺はそれをしなかった。
やっぱり、結局のところ、俺は魚を飼育するのが好きで、珍しい魚を身ているのが楽しかったのだろう。
謎グッピーたちはよくわからない魚たちだったが、しかし、餌をやれば普通に食べるし、不健康な様子もなく、悠々と水槽の中を泳ぎ回っていたので、その意味では通常の魚と変わることがなかった。
だからこそ、余計に手放そうとは思わなかった。
それに、手放すタイミングを失ってしまった、というのもある。
ある日、俺は水槽の水替えをしていたのだが、失敗したことに、手を水で濡らしたまま、コンセントに手をかけてしまったのだ。
当然のごとく、俺の手は電気を通し、そして俺は感電してしまった。
体に流れる衝撃が、一気に心臓まで上ってきた時点で、あぁ、終わったな……と思ったのは言うまでもないことである。
暗くなる意識の中、
「……ミ……キ……しっか……る……じゃ……ミズキ!!」
と、ヤトの声が聞こえてはいたが、意識を戻すことは出来なかった。
つまり俺は、その日、感電により心臓が停止し、そしてそのまま蘇生することなく、命を失ってしまった、というわけである。