第1話 プロローグ
暗くじめじめとした森を歩きながらも、じくじくとした痛みを右腕に確かに感じている。
当たり前の話だ。
自分は……自分たちは、先ほど、罪深いことをした。
もはや、死ぬまでの人生すべてを捧げたとしても、償うことのできない罪が、この身に刻まれてしまった。
そう思わずにはいられなかった。
「……願わくば、我らが裔にこの呪いが引き継がれないことを」
苦くぽつり、とそう呟いた、肌が多く露出した民族的な衣装を身にまとう男、アジール族の青年カジャクは、達成した偉業を喜ぶこともなく、ただ無念そうな表情をその複雑な刺青の刻まれた顔に浮かべた。
その背には巨大な大剣が背負われ、盛り上がった筋肉やむき出しの足に浮かぶ筋が、この男が誰よりも優れた戦士であることを伝えている。
そんな彼に、彼とよく似た格好をした、しかし剣ではなく槍を持つ長髪の男から声がかかる、
「カジャク……それはお前のみが背負うことではない。むしろ、一族すべてで背負っていくべきこと。裔に受け継がれぬことは俺も願わないではないが……もはやことは成ったのだ。今更どうしようもないことだ。しかし……かの存在は確かに、我らが崇めるべき神だった。いくら荒神に成り果てたとはいえ、我らが自らの手で滅ぼすべきではなかったことには、俺も同意しよう……」
「神を滅ぼした無念は私にもわかります……しかし、それでもオルダ様の言う通りです。カジャク、貴方は一族最強の戦士として、なすべきことをなした。そのことは誇りこそすれ、恥に思うようなことではありません。私も、そしてオルダ様も、その偉業を子々孫々まで語り継がせていただきます。貴方の名が、世界のみならず、かの神をすら救った者としてよく伝えられるように……」
オルダに続いて口を開いたのは、一行の中でただ一人の女性であるノミナエであった。
男性陣二人と同じように浅黒い肌を持っており、服装も胸の谷間や魅惑的な足の覗く露出の激しいものである。
その肌は滑らかで美しく、また長く伸びた髪は太い三つ編みに結ばれて背中を走っていて、彼女が妙齢の女性であることを一目で理解できる。
しかし、そんな若く美しい彼女も、この場においては例外ではなく、しっかりと武具を帯びていた。
腰には短剣を、そして背中には大弓を。
実のところ、その理由は、はっきりしている。
それは、ここにいる三人は、アジール族の中でも選りすぐりの戦士であり、右に並ぶものはいないほどの使い手であるから、というものだ。
それは、女性であるノミナエも含めてである。
ありとあらゆる勇士を切り倒す恐るべき剣術の使い手カジャク、いかなる魔物も一撃で突き殺す暴風のような槍の使い手オルダに、狙った獲物は絶対に外すことはない大弓の使い手ノミナエ。
そんな、一人でも一騎当千と称えられるほどの技量を持つ彼らが、三人そろってこんなところに出張ることになった理由は他でもない。
それは、静かなる森の民アジール族を遥か昔から守護してきたと言われる神、龍神ア=ガリジャが近年、荒神へと成り下がり、一族は言わずもがな、森の外でも災いを撒き散らしていることが明らかになったためだ。
ア=ガリジャが一族を滅ぼさんと活動している、ただそれだけだったのなら、カジャクは言うまでもなく、一族の者たちはみな、それこそが自分たち一族の運命の終わりとあきらめ、宿命を受け入れたかもしれない。
しかし、ア=ガリジャは外の国にまで被害を及ぼしていると聞いては、龍神を鎮め、奉じる一族として、義務を果たさないわけにはいかなかった。
龍神を倒すための旅を始めてから、もう五年になる。
当時、二十をいくつか超えたくらいだったカジャクとオルダは三十近くになり、まだ少女だったノミナエも美しい女性へと変わった。
使命とは言え、ノミナエは一行の中でただ一人の女性である。
女としての幸せを考えてやりたいと年長者二人は思い、何度か故郷に戻り、家庭に入るようにと説得したのだが、ノミナエは一切その忠告を聞くことなく最後までついてきた。
好きな男がいるわけでもなく、また仮にいたとしても、自分は女である前に戦士としての使命を全うしたいのだという彼女の言葉には深く納得できるものがあり、無理に説得を続けることも躊躇われ、結局、ノミナエは故郷にいればすでに子がいてもおかしくない年齢であるにも関わらず、未だ独り身である。
カジャクやオルダが言えたことではないが、使命が終わった今、彼女には幸せをつかんでほしいと深く思わずにはいられなかった。
そんな彼女に顔を向けながら、カジャクは言う。
「ノミナエ……それには及ばん。俺のやったことは、ただの殺しだ。本来敬い、鎮め、崇めるべき存在を身勝手な理由で弑しただけだ。それは偉業ではない。しかし、それでも俺は、自分のしたことを、忌まわしいこととも言わん。一族が生きるために森で鳥獣を狩ることと同じことで、生きるために必要なことだったと俺は思っているからだ……だから、もしお前が俺のしたことを誰かに伝えるというのなら、それは偉業としてではなく、ただの何の色も持たない一つの歴史として、伝えてくれ。そして、もう二度とこのようなことが起こらぬよう、よく神を鎮めるよう、若いものを導いてくれ……」
「そんな……それでは、カジャク様の名が残りません。貴方様は英雄なのです! それも含めて伝えなければ……」
言い募るノミナエの肩にオルダの手がそっと添えられ、そしてオルダが首を振った。
「……ノミナエ。これはカジャクの意思だ。それを否定することはまかりならん。英雄の意思は何よりも尊重される。お前がカジャクを英雄だと思うのなら、カジャクの言葉は何よりも優先されるのだ」
「オルダ様……しかし、それではカジャク様があまりにも……」
泣きそうな顔で言葉を続けようとするノミナエであったが、彼女の言葉を遮ってカジャクが笑った。
「なに、俺のことなど、どうでもいいのだ……そんなことよりも、今重要なのは、これの方だろう……」
そう言って真剣な顔になったカジャクが見たのは、自らの右腕。
そこに痣のように刻まれた複雑な文様であった。
オルダとノミナエはその文様を注視し、言う。
「……龍の神の呪いか。なぜお前だけに刻まれることになったのだ……?」
「私とオルダ様も共に戦いましたのに、カジャク様だけになど……公平ではありません」
そんな二人にカジャクは首を振り、
「荒ぶる神に公平さを求めるなど意味のないことだ……しかし、俺一人だけでよかった。お前たちにまで呪いが刻まれていたら、申し訳がなかったからな。本当なら俺一人で挑まねばならなかったものを、お前たちがついてきてくれてどれほど助かったか……改めてだが、礼を言う」
「水臭いことを言うなよ、カジャク。俺はお前ほどの者が死ぬのが惜しいと思ったからこそついてきたのだ。お前の人徳が、俺をついてこさせた。それだけだ。だから礼など必要ない」
オルダが笑顔でそう言うと、ノミナエも続けた。
「その通りです。カジャク様。私も、貴方様を失いたくないと、心から思ったからこそ、ここまで参りました。これは私の事情ですから、礼など……。むしろ、こうして生きていてくれて、私の方がお礼を申し上げたいくらいですわ……呪いは残念なことですが、しかし、龍神は貴方様がその呪いによって死ぬことはないと、そう言っていました……それならば」
「それならば?」
何か言葉をつづけようとしたノミナエがはっと気づいたように言葉を飲み込んだことにカジャクは気づき、首を傾げて先を促した。
しかしノミナエは何も言わず、ただうつむいてしまう。
それを見て、オルダがため息を吐き、カジャクの肩を叩いて言う。
「……お前も鈍感だな。龍神を屠る旅だ。目的を果たすまでは黙っているといったノミナエの意思を尊重してきたが、もういいだろう。カジャク……ノミナエがなぜ、この旅についてきたかわかるか?」
「……俺の命を惜しく思ってくれたからではないのか……?」
突然の話に目を白黒させるカジャクだったが、オルダは構わずつづける。
「それは……間違ってはいないが、正確でもない。ノミナエはな、昔から、お前が好きなんだ。好きな男を守りたいと思って、ついてきたんだよ」
オルダの断言に、ノミナエは何も言わないでうつむいたままだ。
ただ、若干、露出した肌が赤く染まっている気がする。
しかしそれでもカジャクは苦笑して首を振った。
「何を言っているんだ、オルダ。ノミナエが俺などを愛するはずがなかろう。昔から武術の鍛錬ばかりしてきた俺だぞ。女が俺を好くなど、そんなことがあるはずが……」
そう言って。
そこまで来て、これは処置なし、とオルダは思ったらしい。
額を叩いて、
「カジャク……鈍感もそこまで来ると罪だぞ。お前のことを好きな女が集落にどれだけいたと思ってる? フェレンカに、ニワダ、ジールもそうだ。他にもあげればキリがない……あぁ、これは言いたくないが、ウィラフイもそうだぞ。それを俺が口説き落として縁を結んでもらったわけだが……」
「……そ、それは冗談ではないのか……?」
カジャクが先ほどまでの勇ましい態度とは打って変わっておびえるようにそう言ったのは、オルダの挙げた名前の威力であった。
どれも、集落で指折りの器量を持つといわれる女性ばかりであり、集落の男の誰もが彼女たちに恋をするとまで言われるくらいだった。
それに、最後に挙げられたのは、オルダの妻である。
彼女もまた、素晴らしい美貌と気立てを持つ、良い女なのだが、大恋愛の末に結ばれたと聞いている。
それなのに、その彼女が自分のことを昔のこととはいえ、想っていたなどと聞いてはどう反応していいかもわからなかったのだ。
オルダは呆れたように言った。
「掛け値なしの本当の話だ。まったく、何が悲しくて妻のかつての想い人に塩をおくってやらなければならないのだ……まぁ、それはいい。ともかく、だ。女として最も華やかな時間をすべて、お前のためになげうったノミナエの気持ちも考えてやれ。そして、出来れば……もらってやれ」
そう言って、オルダは一行を離れ、先を歩いて行ってしまった。
向かっているのは宿のある街だ。
黙っていてもオルダの武勇なら魔物などものともせずにたどり着くだろう。
心配は不要だった。
問題は、残された二人である。
カジャクとノミナエ。
二人ともどうしていいかわからず、黙りこくってしまった。
恨めしいのは引っ掻き回すだけ引っ掻き回して逃げたオルダである。
しかし、それでもカジャクはこの場面でさらに逃げを打つほどに臆病な男でもなかった。
一族随一の英雄は、恋愛ごとには一切の経験を持たないが、それでも神に挑んだ時よりも多くの勇気を奮い起こしてノミナエの肩をそっとつかんだ。
ノミナエは驚いたように顔を上げる。
カジャクはその表情を見てはっとした。
涙にぬれ、少し赤くなった頬は、森に沈んでいく夕日よりも、朝露に濡れるオリヌの花よりも美しいと、そう思えたからだ。
心は、決まった。
「……ノミナエ。女であるお前にこんなこと自らの口から言わせようとするのは間違いかもしれないが……先ほどのオルダの言葉は、本当か?」
カジャクの言葉に何を思ったのか、ノミナエは申し訳なさそうな表情になり、
「……申し訳なく存じます。カジャクさま。私は……神に挑むという崇高な使命よりも、貴方様のお命の方が大事でした。貴方様が生きてくれるならば、他の何を擲っても構わないと、そう思い……自らの恋心のみを原動力として、ついてまいりました。不純な私のことを、蔑んでください……」
この旅は、今までアジール族に伝わってきたどんな伝説よりも崇高であり、難しく、そして重要なものだったことをノミナエは知っていた。
だからこそ、決して不純な気持ちでついてきていいものではなかったのだ。
それを、ノミナエは、むしろ不純な気持ちのみでついてきてしまったと、自分を責めているのだった。
そのことが、カジャクには察せられたが、しかしカジャクは首を振って、言う。
「お前は、悪くなどない。元来、我らは自由なものだ。何を思い、どうやって生き、そして何のために行動するのか。そのすべてを自身で決めることを許されている。森では多くの掟があったが、それは心を縛るためのものではなく、ただ、森と共に生きるために必要なものだったからに過ぎない。俺たちはこの旅の中で、様々な土地を見ただろう? いろいろな者がいて、それぞれの生き方があった。人とはもともと、そういうものなのだ」
「カジャクさま……。ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、私はこの旅についてきて、心から良かったと思えました。あなたが生きて集落に戻り、英雄として迎えられ、集落でもっとも優れた者を妻として迎える姿を見ることを、楽しみにできます……」
そう言って、ノミナエは涙を流した。
しかしカジャクはさらに首を振り、
「何を言っている。俺の妻は、お前だ、ノミナエ」
そう断言した。
ノミナエはカジャクが言った突然の言葉に、頭があまり働かずに、
「……えっ……あ、あの……カジャク、さま……ちょっと私、耳がおかしくなったようで……」
慌てるノミナエに、カジャクは笑い、
「なんだ? それならもう一度言おう。ノミナエ、俺の妻はお前だ。お前以外には考えられない。結婚してくれるか」
再度の断言に、ノミナエはやっと事態を理解したらしく、
「そ、そんな……カジャクさま! 私など、私など貴方様にはふさわしくはありません! オルダ様もおっしゃっておられましたが、集落に戻ればフェレンカやニワダやジールなど、指折りの器量持ちが貴方様に迎えられるべく待っているのです。彼女たちは女の私から見ても、非の打ちどころのない良き女たちです。それを……」
そう叫ぶノミナエに、カジャクはおおらかな態度で顎をさすりながら、
「ふむ……確かに彼女たちが美しく、また良き女たちであることは間違いない……」
そう言った。
その言葉にノミナエは救われたように言う。
「でしたら……!」
「しかしだ。俺にとっての一番は、まぎれもなくお前だ。ノミナエ」
「カジャクさまぁ……」
甘えるような、泣きそうな、困ったような、いろいろな感情の込められたノミナエの哀願の声に、カジャクは笑う。
しかしその主張はまるで変わらないようだ。
彼は理由の説明を始める。
「ノミナエ。考えてみろ。この旅についてきてくれ、俺の命の危機を幾度となく近くで救ってくれたのは誰だ?」
「そ、それは……」
「他の女たちが俺のためにそこまでしたか?」
「いえ、けれど、私はたまたま、弓の才に恵まれただけで……」
「いや、違うな。俺はこう見えて、馬鹿がつくほどの武術好きだ。お前の技量が才のみに基づくものか、そうではないのかは、はっきりとわかる。正直なところ、お前よりも才に恵まれた者は何人も俺は知っている。だが、その誰よりも、お前の弓の腕は優れている。それは、お前の努力の力だ」
「カジャクさま……」
このとき、ノミナエは心からうれしいと思った。
女としてもそうだが、それ以上に自分の認める最高の英雄に武術の腕を掛け値なしに褒められているのだから。
これだけで今すぐ死んでもいいと思ってしまうほどである。
それなのに、それに加えて彼は言うのだ。
「他の女ではなく、お前がここにいるのはお前の努力によるものだ……お前が頑張ったからだ。だから、たまたまではない。それに、仮にそれがたまたまだとして、だ。俺はお前が俺の供を名乗り出た時のことを覚えている。集落の多くの者が、お前は行くべきではないと言ったのに、来ただろう? 俺もオルダも止めたが……それでもお前は来たのだ。あのときななぜあれほどに危険な目に好き好んで遭いたいのかと不思議に思ったが……俺のことを考えてくれたからだと今はわかる。そんな勇気を、俺のために出そうとしてくれた女は、お前だけなのだ……そうだな?」
「……カジャクさま。それ以上、それ以上おっしゃらないでください……私は……」
「なんだ?」
「私は、これ以上貴方様に褒められたら、その胸に抱き付いてしまいます。いえ……もう、我慢が出来ませんわ……」
「そんなこと……我慢する必要はない。最後に、もう一度言おう。ノミナエ。お前は、俺の妻になるのだ。この胸は、お前の胸であり、俺はお前のものだ。さぁ、来るがいい」
そう言って、カジャクは手を広げる。
「カジャクさまっ……!!」
ノミナエは、即座にその胸に飛び込んだのだった。
後々、カジャクはオルダにそのときのことを語った。
「やはり、ノミナエは旅で腕を上げた。その飛び込みときたら、体中のバネが利いていて、踏ん張っていなければそのまま吹き飛ばされかねないほどのものだった。俺の妻にふさわしい武勇だ」
と。
オルダは頭を抱え、なんだこの夫婦は、と言いかけたが、しかし幸せそうに子供を抱くノミナエと、それを見つめるカジャクの優しい笑顔に口をつぐんだ。
しかし、二人の子供の腕に生まれながらに刻まれた、龍を象った漆黒の刺青に不安を覚えなかったわけではない。
この刺青は、龍神の今際の際の言葉によれば、今すぐに命を奪うことはないのだという。
しかし、いずれ龍神が戻ってきたとき、刺青を持つ者は龍神の忠実なしもべに成り果てるというのだ。
いつかの神が戻るかはわからない。
しかしそのとき、龍神が荒ぶる神のままであれば、そのとき、カジャクとノミナエの一族はアジール族最大の敵となるだろう。
それを考えると……。
けれど、当の本人であるカジャクはその可能性を気にしていないらしい。
「そのときは、そのときだ。それに、龍の神はきっと、良き神として戻ってきてくれる。その忠実なしもべになれるというのなら、これほどうれしいことはないだろう」
そう言って。
確かに、アジール族は龍神ア=ガリジャを崇め奉る一族だ。
そのしもべであるのは言うまでもない。
今回は荒ぶる神として、世界に大きな影響を与えたのは確かだが、今までかの神は、アジール族を守護してきた。
自らの神を信じようと、カジャクは言っているのだ。
信仰の正しさを、オルダはそのとき、知った気がして、頷く。
「確かにその通りだ……カジャク。俺たちの子供たちの、そのまた子供たち……子孫が生きている世界で、龍の神と俺たちの子孫がよき関係であることを、俺も信じたいと思う」
「それでこそ、龍討の三英雄の一人というものだ」
カジャクはそういって笑ったのだった。