1葉 「お願い」
1.
ティラミスタルトを巡る、ティラミスタルトより甘いあの一件から三日経った月曜日。
朝、目を醒まし、煩いアラームを止めて階下へ向かうと、「さむい……」と震えながら毛布に包まっているほなみがいた。ガタガタ、と毛布の上からでも分かるくらいに震えている。たしかにここのところ朝は肌寒いかな、とは感じているけど、震えるほどの寒さじゃない。毛布の下になにも着ていないというのならかなり寒いかもしれないけど、しかしほなみがそんなことするのかな。いや、したところで、そこまで寒いのかどうか怪しいところか。
一応、確認させてもらおう。
ぺろん、と毛布の端をつまんで捲ってみる。なかは素肌……なんてことはなく、いつもの寝間着だった。毛布の膨らみ方からの推測に違わず、体育座りをしている。こんな時間まで寝間着でいるということは、つまりそういうことか。というか、普通はヌーディストの可能性よりそっちを先に疑うもんだよね。
「ほなみ、熱あるの?」
この震え具合からすれば、熱があった場合、かなりの高熱じゃないかと思うけど。
果たしてほなみは、こくん、と頷いてから、小声で答えた。
「……さっき測ったら、三九度ちょっとあった……さむい……」
やっぱり。
話を聞いてみると、どうやらあたしが通っていた中学校――つまり、ほなみが通っている中学校――では風邪が流行っているらしく、ほなみは誰かからもらってきてしまったらしい。昨日の夜から体調不良は感じていたようで、今朝になったら案の定の発熱具合だった、ということだ。ほなみはほとんど病気なんてしないから、こうして疲労以外で弱っているところを見せるのは、なんだか珍しい感じがする。普段はおしゃべりなほなみが黙っているのもまた、稀有だ。
さて。どうやってほなみを病院に連れて行こうかな。
かかりつけの病院まではそれなりに距離があって、自転車なら十五分くらいかかる。さすがにこの状態で自転車を漕いだら転倒は免れないし、辿りつけるかどうか疑わしい。徒歩は論外だ。だったら大人しく部屋で寝ていたほうが断然にいいと言える。
ほなみが起床する時間には既に両親は出勤してしまっているから、起きてからこの方、ずっとこうして震えていたのかもしれない。こういうとき、ギリギリまで寝ている自分が情けないなあ、と痛切に感じる。ふたりが帰ってくるのは夕方になるから、あたしがしっかりしないといけないのに。
ほなみがふらふらしながら立ち上がった。
「どこ行くの?」
「部屋」
喋るのも億劫なのだろう。ほなみは簡潔にそう言った。
ほなみの部屋は二階だ。その熱じゃ、階段はつらいだろうな。それに転落しては洒落にならない。
あたしはほなみの前で屈み、おぶさるように手で示した。
「ん。おいで。階段つらいでしょ」
渋っているのか熱でぼーっとしているのかは分からないけど、少しだけほなみは突っ立ったままでいて、それからあたしに後ろから抱きつくように、どさっ、と予想以上の勢いで体重を預けてきた。身長が低めなほなみは、体重も大した重さはない。だからあたしはふらつかずに、立ち上がる。
なんか、懐かしい感じ。
小さい頃はこうやって、わんわん泣くほなみをよくおんぶして帰ったっけ。家に着くころには、ほなみは寝てたりしてさ。
今じゃ、あたしの前では泣かないね。
泣くのかも、分からないけど。
あたしの背中がずいぶん熱っぽくなる。
その背中で、ほなみは苦しそうに呼吸を繰り返す。
そういえば、言えないことも、ずいぶん多くなっちゃったよね。
そんなことを考えながら、ほなみの腿のところを手で支えて、あたしは階段を上った。
ほなみをベッドに寝かせて、あたしはベッド脇に胡坐をかく。カーペットが敷いてあるから、お尻は冷たくはない。
ほなみが少しだけ首を回して、あたしを見た。
「おねーちゃん」
「ん。どうしたの?」
幾度か、呼吸で布団が上下する。
ほんの少しの間があって。
「遅刻しちゃうよ」
なにか頼みごとなのかと思ったら……。
そんな状態でもあたしのことを心配してくれるとか、ほなちゃんどれだけ善い人なの。あたしがほなみのクラスメイトだったら間違いなく惚れてるよ。いや、そんな限定的な範囲じゃなくて、血縁がなかったら惚れてるかもしれない。
枕元の時計に目を遣ると、なるほど平素ならそろそろ家を出る時間だった。けど、こんな状態の妹を放って学校に行こうとは思わない。
「いいんだよ。ほなみはもうちょっと甘えなって。あたし今日学校休みだから、病院連れてくよ」
「嘘吐き。フツーに学校でしょ」
張りぼての嘘はすぐに看破された。まあ、バレないなんて思ってなかったけどね。
「それに、車の免許ないじゃん」
ない――というかあたしの年齢じゃ法律で取得不可能だ。
けど。
「あたしには自転車があるよ。二人乗りしていこうよ」
「捕まっちゃうよ……」
ごもっとも。
あたしが中学生の頃はよく杏璃と二人乗りしてたよ、っていう無駄話はそっとしまっておくことにした。「どっちが彼女ポジションだったの?」って訊かれたときに、「あたし」と言うのが恥ずかしかったからなのは内緒。
「じゃあ、あたしがおぶっていこう」
「恥ずかしいよ……」
たしかに、家のなかでおんぶするのとは違って衆目があるから、そりゃそうか。中学生ともなると、やっぱりダメって言われちゃうか。いやそもそも、ほなみをおぶって病院まで歩く体力があたしにはないか……。
ほなみは、そんな少し沈んだあたし見て、俄かに微笑んだ。
「……ありがとね、おねーちゃん。お母さんもうすぐ帰ってくるから、大丈夫。あまりにも寒いから早く起きちゃって、お母さんに会ったの。だから私が具合悪いこと知ってる」
そう言って、枕元にあったケータイを操作して、母からのメッセージをあたしに見せる。そこには「今から帰るから、もうちょっと辛抱しててね」という旨の内容が記されていた。どうやらホントに帰ってくるらしい。職業的に、母はこういうときに融通を利かせられるから、別段不思議なことではない。
こりゃ杞憂ってやつだったかな。……いや。病気に関しては、無駄な心配なんてひとつもないか。
さて。病院に連れて行く心配はひとまず無くなったけど、それでもなにかしてあげたいと思ってしまうのは、やっぱりなんだかんだ言っても妹が可愛いからかな。
「なんか食べたいものとかある? 帰りに買ってくるけど」
「……ううん、特にない。そもそもおねーちゃん、お金ないじゃん」
病気の妹に、経済的な気を遣われる姉って……。
あたしは目一杯、見栄を張ることにした。実際ほなみの言う通り、そんなにお金はないけど。
「そんなことないよ。ほれ、なんでも言ってみなよ」
ほなみはしばらく、ぼーっとあたしを見つめた。買ってきてもらうもので悩んでいるというより、甘えるかどうかの脳内審議を行っている感じ。
あたしが「ほれほれ」と催促すると、ほなみのなかで意向が決まったらしい。
少し言い難そうに、あたしに要求を告げる。
「……生クリームいっぱいのケーキ」
よしきた。
「どんとこい」
まやに頼んで、生クリームを盛りに盛ったケーキをつくってもらおう。お菓子作りが趣味だから、きっと快く作ってくれるに違いない。
それからほなみに、「もう大丈夫だから学校行ってよ」と幾度も言われながらも、しばらくベッド脇で見守った。
2.
アラームできっちり起きられていたこと。どういうわけか学校に行くのが楽しみで――いや、理由は分かってるんだけどね――軽快に登校できてしまったこと。そんなこんなで、あたしは思いの外遅刻をしなかった。教室に着いた時点で朝のHRは終わっていたけど、一限目はまだ始まっていなくて、教室からはまばらな話し声が漏れている。だから、堂々と遅刻してきたところで、特に目立つようなことはない。それでも一応、後ろの扉からなかへ入った。
あたしの席は教室のちょうど真ん中あたりにある。自席まで歩いたところで、杏璃があたしに気づいて振り向いた。
「あ。いなみん間に合った。おはよう」
「これは間に合ってないと思うけどおはよ、杏璃」
あたしは鞄を机の脇にかけて、椅子に腰を下ろす。
ちらっと廊下側のとある席に目を遣ると、艶のある長い黒髪をしたクラスメイトが本を読んでいる。まやだ。カバーがかかっているからなんの本かは分からないけど、小説だと思われる。「あたし、推理小説読むんだ。まやも読む?」というベストでホットな話題を思いついた。
あ、でも、あたしのこのしょぼい推理力で、推理小説読んでるなんて言うのはちょっと憚られるか。「え。読んでてあの推理力だったんですか? 幻滅しました……」なんて蔑視されてしまったらどうしよう。「待ってまや。あたしだってホントはあんなもんじゃ――」「言い訳は聞きたくありません。わたしは推理力のずば抜けた方が好きなんです」「そんな……」「さようなら」 嗚呼、なんてこと! 「推理力のないあたしのバカバカ」って、まるであたしには似合わない乙女の所作に走る様がありありと浮かんでくるじゃん。でも嘆いたところでもうまやはあたしと「……みん」二度と話し――「いなみん!!」
「はっ……」
「大丈夫?」
「あたし、今どうなってた?」
「目が死んでたよ……」
ふるふるとあたまを振って、あたしは意識を整えた。なんだか遠い世界にいた気がする。
「いなみんがぼーっとするなんて珍しいね。体調悪いの?」
「ううん。ほなみは風邪で寝込んでるけど、あたしは特に」
「ほなちゃん風邪引いちゃったんだ」
「うん。学校で流行ってるんだってさ」
杏璃とほなみは仲が良い。あたしたち姉妹より良いかもしれない。小学生の頃はよく三人で遊んでいた。ちなみにあたしが〝ほなちゃん〟と呼ぶと「やめて」と言うくせに、杏璃がそう呼んでも訂正しない。不公平だと思う。
「じゃあお見舞い行くね。ほなちゃんにも会いたいし」
「お、さっすが杏璃、ほなみに伝えとくよ。いつにする?」
「ふっふっふ。あしたは珍しく部活休みなんだよー。だから、あしたとか?」
「大丈夫だよ。やった! 久しぶりに一緒に帰れるじゃん」
「だねー!」
あたしたちは手を取り合って喜んだ。
杏璃は放課後、基本的には部活に行ってしまうから、帰宅部のあたしとはなかなか一緒に帰ることができない。もちろんあたしが待っていてもいいんだけど、そうすると二時間くらい空き時間ができちゃうから、あたしにとってはあまり都合がよろしくない。勉強してればいいじゃんと言われてしまえばそれもそうだけど、そうなんだけど…………その通りでぐうの音も出ない……。
さて。
時計を見ると、間もなく一限目が始まるというところ。
次の休み時間に、まやに頼みごとをしてこようか。
3.
「あの……狼崎」
いきなり呼び方でミスをした。
なぜ苗字で呼んでしまったのか。……うん。恥ずかしかった以外にないでしょ。
まやは本から顔を上げると、やんわりと笑った。
「おはようございます。稲美さん」
あの夜。交差点で。名前で呼ぶことに決めたのに。あたしからそうしようって言ったのに。あたしはなにやってるんだ……。
「おはよ。ちょっと頼みがあって……いいかな?」
あれ。あたし、まやとどうやって話してたっけ……。ほんの数日前のことなのに、すっかり忘れてしまったみたいで、ぎこちない話し方になってしまう。こんな他人行儀な感じじゃなかったはず。これじゃまるで、初対面だ。
そんなあたしを見て、くすっ、とまやは笑った。
「稲美さん、緊張してるんですか?」
「うん、だってさ……」
まやがあたしに、好きかもしれないとか言うから。
どうしたって意識しちゃうでしょ。しないほうがおかしいよ。
あたしだってまやのこと――。
「話してみてください、頼みごと」
あたしが伏し目になって黙っていると、まやが柔らかい声音でそう促した。
なんだかんだ、あたしよりまやのほうが大人な感じがする。気遣いって言うのかな。
あたしは軽く咳払いをする。
「妹が風邪引いちゃっててね、生クリームいっぱいのケーキが食べたいって言うんだ。どうしても食べさせてあげたくて、だから、まやにつくってもらいたいんだけど、どうかな」
黙って、まやの返答を待つ。
人にものを頼むのって、苦手かもしれない。
断られたときのことを考えると、どうしようもなく恐ろしくなる。あたし自身が拒絶されたような、そんな気がしてしまう。
「ひとつだけ」
休み時間の喧騒のなかなのに、まやのその小さめな声は、はっきり耳に届いた。
「ひとつだけ、わたしのお願いを叶えてくれますか?」
どこか寂しさを含んだような、そんな声だったから。
あたしは反射的に頷く。
「う、うん。わかった」
なんだろ。まやのお願いって。
あたしがしてあげられることなんて、そんなに多くはない。むしろ、少ない。これと言って得意なことがあるわけでもないんだ。
まやは、ぱたむ、と本を閉じて、あたしに視線を合わせて、それから言う。
「今日の放課後、一緒にわたしの家に行きましょう」
前回の更新から、ええと……に、二ヶ月も経ったんですね……。
とりあえず、読んでくださった方、ありがとうございます。
加えて、ブックマークしてくださっている方、ほんとうにありがとうございます。
とっても励みになります。
これからもどうかよろしくお付き合いくださいませ。
さて。なるたけ早く次話を上げたいところです。
そこはもう頑張るしかないので、はい、尽力します……。
というわけで、また次話でお会いしましょう。