4ピース 「あたたかい、告白」
「パンツ丸見えですよー、狼崎さん」
あたしは踊り場から、階段のてっぺんで膝を抱えて俯いている狼崎を見上げて、そう声をかけた。屋上の扉を背にしているから、窓からの逆光でちょっと眩しいけど、太ももの間に白い下着が確かに見えている。スカート丈があたしより長めとはいえ、あの体勢をすれば見えてしまうのは当然か。
「やっ――」
慌てて顔を上げた狼崎は、スカートのお尻のところを撫でつけて下着を隠してから、太ももを抱える体勢に変えた。それからまたすぐに俯いてしまう。
あたしは狼崎のところまでゆっくりと階段を上がっていって、すぐ隣に腰かける。
「はい、忘れもの」、と狼崎の肩にブレザーをかけた。彼女は俯いたまま少し首を回して、かけられたのが自分のブレザーだと視認すると、「……ありがとうございます」、と呟いた。
「さっきは、その、ごめん。あたしとキスなんかしたくなかったよね。狼崎の背中を押したのはあたしの友達なんだけど反省してたからさ、赦してあげて欲しい。あの娘の分は、あたしがここで代わりに謝るよ。ホントにごめんなさい」
あたしはなるたけ深くあたまを下げた。そもそも、了承を得たとはいえポッキーゲームを提案したのはあたしだから、あたしには非がある。さっきだって、ホントはすぐに謝れればよかったんだ。
視界の隅っこで、狼崎が顔を上げた。
「……いえ、狐塚さんはまったく悪くないです。もちろん背中を押した――南都さんにだって悪気はなかったでしょうし、謝ること、ないんです」
どうやら泣いてはいないようで、胸を撫で下ろす。けど、あまり生気を感じさせる声ではなかった。
それからしばらくふたりしてだんまりで、あたしは狼崎が言葉を紡ぐのを待った。
「……わたしホントは、狐塚さんとお話したかったんです」
「あたし?」
「はい。先日の文化祭のときにクレープを買っていただいて、そのときにふたりでよもやま話をしましたよね。あのとき、わたしはまた狐塚さんとお話がしたい、もっとちゃんと話したい、とそう思いました」
先月の文化祭。あたしは狼崎に世話になって、お礼にクレープを奢って、ふたりで他愛ない話をした。ホントに取り留めのない話だったと思う。次の日には忘れてしまうような。
「ですが、あれから今日で――六日ですか?」
「うん」
「六日間、狐塚さんに話しかけていいのかどうか迷っていました。わたし、あまり人に好かれないですから、狐塚さんにも嫌われているんじゃないかと思いまして」
狼崎は弱々しく笑ってみせた。自嘲しているのかもしれない。
確かにあたしには苦手意識があった。ただそれは、文化祭のときにした世間話だけじゃ、あたしには狼崎がどんな人なのか分からなかったからだ。容姿と雰囲気で判じれば、この娘のはお嬢様のそれだったから。あたしはお嬢様って感じのやつは嫌いだから、どうしても狼崎を遠ざけてしまっていた。
「そんなときでした。お昼休み――さっきですね。水道で手を洗って、お弁当を食べようと教室に戻るとき、ティラミスタルトを手に持った狐塚さんを見かけたんです。わたしは甘党ですから、これはお話のタネになるかもしれない、って思いました」
そう言って狼崎は表情を緩めて、「そして、頑張って話しかけてみたのですが、失敗しました」、とクスクス笑った。
あたしは首を傾ける。
「失敗って、なにが?」
訊くと狼崎は、こほん、と咳払いをして、抱えていた脚を伸ばした。
「『ティラミスタルトはいっときの夢でした。つまるところそれはわたしたち乙女とおんなじように、極めて短命の生ものだということです』!」
狼崎は目をつむって胸に手を当てながら――ときに身振り手振りを交えながら、演劇でもするような口調で言う。わざとらしく、凛とした声音にして。
「『けれどその夢も今日でおしまい。どうか狐塚さん、わたしにその夢をくだ――くだ――』」
最後まで言い切れずに、狼崎は頬を膨らませて、それは笑うのをこらえているらしくて。
あたしも口を手で覆って、なんとか笑うのをこらえていて。
ふたり目が合うと、一緒になって笑ってしまった。お腹がよじれるくらいに。
そこには、久方ぶりに心から楽しいと感じているあたしがいた。
涙を指で拭いながら、狼崎は言う。
「おかしすぎますよね、もう……。クラスメイトに、あんな台詞。あれじゃ、ただの痛い女の子でした」
お腹をさすりながら、あたしは言葉を返す。
「それを言われて真顔のあたしもどうなんだよ、って感じだけど」
「ホントですよ。狐塚さんあのあと、ツーン、って感じでしたよね。わたし、なんとかお話を続けようと、お金払うとか言っちゃいました」
「あのハッタリね。でも、あれってタルト食べたくて言ったんじゃないの?」
「…………すみません、その通りです。最初は狐塚さんに話しかけられればそれでよかったのですが、机上のタルトを見ていたら、どうしても食べたいという欲求が強まってしまいまして」、と狼崎は頬を掻いて、「も、もちろん、お話を続けるためでもあったんですからね!」、と言い足した。
「ふうん。けど、持ち合わせ三○○円しかないのによく言ったもんだよ。あたしと色違いのしま○らの財布なのにね」
「からかわないでくださいっ! というか、しまむ○ら関係ないです!!」
狼崎は、握った両手振りながら抗議した。それから、「ん。あれ色違いなんですか?」、とあたしを見て訊く。
「うん、たぶん一緒。あたしも、しま○ら好きだから。あとで確認しようよ」
「はい。ぜひ!」
狼崎は手を合わせて、嬉しそうに頷いた。それから彼女は、肩にかかっていただけのブレザーに、袖を通す。さっきの身振り手振りのせいで、ずり落ちてしまっていたからだ。
その様子を見ながら、あたしは告げる。必ず言わなくちゃいけないことだから、前置きなしで言うことにした。
「……あのさ。あたし、初めは狼崎のこと、苦手だなって思ってたんだ」
狼崎の動きが一瞬だけ止まったけど、すぐにブレザーのボタンを留めはじめた。
「……やっぱり、そうでしたか」
俯いていると狼崎は、髪で顔が隠れて表情が分からない。寂しそうな雰囲気はあるけど、声音は落ち着いている感じだ。
「うん。だけど、いい? 聞いてね?」
狼崎は最後のボタンを留めて、あたしのほうを見た。
「あたしはお嬢様って感じの娘が嫌いで、狼崎のこともそんな風に思ってた。だけど昼休みに狼崎が話しかけてくれて、それでちゃんと言葉を交わしてみると、いつの間にかすっごく惹かれてたんだ。あたしもびっくりだった。お嬢様じゃない、って分かったからというのもあるけど、それだけじゃなかった。生理的に、この娘好いな、って。苦手な娘だと思ってたのにね。変だよね。一緒にいて心地好いって言うのかな、息が合ってさ。ずっと話してたい、って感じ。狼崎のブレザーのなかは秘密基地みたいであったかい気持ちになったし、ポッキーゲームだってちゃんとはやってないけど、どきどきして楽しかったし、ほら、さっきのキスだって――」
狼崎は目を見開いた。
――あたし、今なんて言おうとしたんだ。
あれは事故だったはずだ。杏璃が狼崎の背中を押したせいで起きた、事故。したくてやったキスじゃない。
「キスだって……。えっと、させちゃって、その、ホントにごめん」
自分で自分に戸惑ったあたしは、その場凌ぎであたまを下げた。もう一度謝っておきたかったというのもあってのことだ。
「もう……」、と言って狼崎は嘆息をもらす。
「狐塚さんは気にしすぎです。大丈夫ですから、あまり謝られても困っちゃいます」
顔を上げて狼崎を見ると、膝を抱えて眠たそうな顔で笑っていた。よかった。取り繕っているだけかもしれないけど、傷心している感じは受けない。
「…………狼崎、さ。キスは、初めてだった?」
訊いてからあたしは恥ずかしくなって、「いや、あの、だってさ!」、と手を振りながら付け加える。
「初めてだとしたら尚更じゃん。ファーストキスって大事でしょ? その相手がよりにもよってあたしだなんて、サイアクじゃんか……。だから……だから訊いたの!」
「もう、キスキス言わないでください! 恥ずかしいじゃないですか! ちゅー、って言ってください!」
「それもっと羞恥だよ!!」
素で言ってるとしたら、やっぱり狼崎は観念がおかしい。けど、この娘がつくるそういう空気が心地好いんだって、あたしにはもう分かってる。わがままなんだけど疎ましい感じじゃなくて、抜けてるんだけど呆れる感じじゃなくて。
膝に、柔らかい頬を潰すようにくっつけて、狼崎は小声で言う。
「…………初めてでしたよ」
それがどんな感情を込めて言ったのか、あまりにも小さい声のせいで分からなかったけど、怒ってはいなさそうだった。でも、ちょっと拗ねてる感じだ。
「そっか」、とあたしは呟いて、また謝ろうとしたんだけど見透かされたのか、狼崎に遮られた。
「狐塚さんも、初めてでしたか?」
目を合わせるのは気まずくて、あたしは中空を見ながら答える。
「うん」
強がったりするつもりはなかった。ホントに初めてだったし、狼崎も正直に答えてくれたみたいだから、あたしも狼崎に応えてあげよう、って。ここで嘘をついてからかってもよかったけど、ファーストキスを奪っておいて、さすがにそれはできなかった。
「おんなじですね」、と狼崎は微笑んだ。
「そうだね」、とあたしも笑う。
ほんのちょっと、くすぐったい。
あたしは照れ隠しに、言葉を紡ぐ。
「そういえば、杏璃がしょんぼりしてたから、あとで声かけてあげたら?」
「あ、そうですね……彼女には申し訳ないことをしちゃいました。たぶんポッキーゲームでちゅーしたのなら、恥ずかしいってなるだけだったんですけど、背中を押されての突然のことでしたので、とても驚いてしまって……」
「じゃあ、傷ついて駆けだしたわけじゃないんだ?」
「はい、そうです。逃げ出してから、わたし何してるんだろ、って落ち込みました。これじゃ、狐塚さんを傷つけてしまったかもしれないって。だって」
――狐塚さんとのちゅーが嫌だったとかじゃ……ないんですから
尻すぼみになりながら言った言葉は、それでもちゃんと聞き取れた。
それってつまり、ええと、なんだ、狼崎はあたしと話したい話したいって思ってて昼休みに話しかけてきてタルトください夢くださいって言ってきて杏璃のせいであたしたちはキスしてだけどあたしとのキスは嫌じゃなくて狼崎はあたしと話したい話したいって思ってて――ああ、もう、ぐるぐるするなあたし!
あたしは狼崎のあたまに、本日三回目の手刀を落とした。「んにゃっ!」、と豊かな反応のバリエーションを持つ彼女は、そう声を上げた。
「……どうしてわたし今、叩かれたんですか」、と頭頂部を押さえながらしょぼくれた声を出す。
「それは……狼崎が恥ずかしいこと言うから……」
クスッ、と笑った狼崎は、あたしを見て、言う。
「わたし、狐塚さんのことが好きなのかもしれません」
「なっ――――」
息が詰まって、あたしは噎せる。出し抜けにあまりにおかしなこと言うもんだから。
好きって言ってくれるのは嬉しいけど、その好きはどういう好きなの?
「文化祭のときから気になってはいたんですが、こうして話してみるとやっぱり…。あ、でも狐塚さんは、わたしのこと嫌いですもんねー」
語尾を伸ばして、あたしのことを刺激するように言う。嫌味なやつめ。
「嫌いじゃないって! 初めは苦手だと思ってたの。それだけだよ」
「じゃあ今はどうなんですか?」
「今は……さっきも言ったじゃん。一緒にいて心地好くて、ずっと話していたいって――」
「それはつまるところ、二文字で表現できるんじゃないんですか? そんなまだるっこしい言い方じゃなくて、もっと簡潔に言えるんじゃないんですか?」
「二文字……二文字……。〝ラブ〟?」
「それ好きより重いですから!」
狼崎にツッコまれた。この娘が真面なことを言うなんて…。
「ホントはまだよく分からないんだ。だって数十分前まで苦手な娘だと思ってたんだから。狼崎の好きは、どういう好き?」
「わたしの好きは……手を繋ぎたいとか抱きつきたいとか、そういう好きだと思います。……こんなの、おかしいですよね」
「ううん、全然おかしくないじゃん。素敵なことだよ」
どんな〝好き〟でも素敵なことだと、あたしはそう思う。
「……よかった。わたしもまだはっきりとは分からないんです。ですから――」
「いっぱい話をしよう。ホントにどうでもいいことから、大切なことまで」
話さなくちゃ、分かんないから。どんなやつかなんて知れないから。
「はいっ」、と狼崎は破顔して頷いた。
「あたしたちは、これからなんだからさ」
そう言って、あたしは立ち上がる。ちょっとした照れ隠しだった。
首を回してスカートのお尻のところを見てみると、白っぽくなっている。定期的に掃除されている場所とは言え、うっすら埃が積もっていたからだ。あたしは手でそれを払って、それから持ってきていたティラミスタルトをポケットにしまった。
「ティラミスタルトは放課後でいい?」
「え。わたしも食べられるんですか?」
あたしは当然のようにふたりで分けるつもりだったけど、狼崎にとっては意想外だったようだ。
「当たり前でしょ? だって……その……キスって引き分けだし!」
「……そ、そうですね!」
立っているあたしとまだ座ったままの狼崎は、互いに顔を背けた。
「ほ、ほら、そろそろいかなきゃ。そうだ。五時限目始まって、どれくらい経ってるんだろ」
狼崎が慌ててケータイを取り出し、時刻を確認する。
「おおよそ十五分過ぎてますね。あ、わたし、初めての遅刻です……」
「あちゃー……。ごめんね……」
「いえ、お気になさらずに。遅刻は承知の上でしたし、あのとき駆けだしたのはわたしですから」
言って狼崎も立ち上がる。ふわっと、甘いにおいに混じって、ちょっぴりコーヒーのかおりがした。
「さ、行きましょう!」と歩き出した狼崎に、「待て待て」とあたしは言って、彼女のお尻についた埃を手で払い落した。この娘もかなり白くなっていたから。これで教室に入るなんて恥ずかしい。
「あ、ありがとう、ございます。そ、それじゃあ、いきましょう!」、となぜかたどたどしい言い方をして、狼崎は階段を降りはじめた。もしかしたら、恥ずかしがっているのかもしれない。可愛いやつめ。
あたしは立ち止まったままで、話しかける。
「狼崎って、コーヒー飲むの?」
数段下で足を止めた狼崎はあたしを振り仰いで、不思議そうな表情で首を傾げた。
「急にどうされたんですか? コーヒーは飲まないですね。わたしは専ら紅茶です」
「ふうん……」
なにかが引っかかっている気がする。
どこかに違和感があったんだ。
とても、簡単なことを見逃してしまっているような。
なんだろう。
「狼崎、あのさ――」
声をかけようとして、あたしは思い出した。
――もしかして、そういうことなのか?
この真相が分かったところで、「だからどうした?」、という感じだ。これを明かすのは、ただあたしが気になっているから、それだけの動機しかない。誰かが傷ついたとかなにかを失ったとか、そういうことは微塵もなかった。だから触れずに終わってもいいんだ。
だけど気になってしまう。狼崎に関することだから、尚更なのだろうか。
あたしが名前を呼んだから、彼女はあたしのことを見つめている。
やっぱり、言うべきか?
けど、確かな繋がりが見つからない。あるいは、どれも関係ないのかもしれない。
――いや、違う。そうか。
あたしのなかにある仮説の正否は、ひとつだけ質問をすれば分かるんじゃないか?
間違っていたら真相は不明なままだけど、合っていればきっと反応を示すはず。
偶然で真相を明かしてはいけないと言うけど、あたしは探偵じゃなくて探偵役でもなくて、ただの女子高生だ。別に問題はない。
たぶんそれは、こう訊けばいいんだ。
「四つ目のティラミスタルトを食べたのは、もしかして狼崎なんじゃない?」
あたしの問いかけに、
一瞬の間があってから、
狼崎は驚愕の表情を浮かべた。
ビンゴだった。