3ピース 「甘いかおりの秘密基地」
甘いかおりの秘密基地――狼崎のブレザーのなかであたしたちは、ポッキーの端と端を咥えあって、吐息がかかるくらい近くで見つめ合っている。なかでなにしてるかなんてきっと外にいる誰にも分からないけど、もしこの様を見ることができたなら、「好い雰囲気じゃん」、って思うに違いない。女の子と女の子の秘密の遊び。誰にも言えない昼休み。
けどホントはそんなんじゃない。好い雰囲気なんかどこにもない。
どっちがポッキーゲーム開始の合図をするのかを決め忘れて、ふたりしてポッキー咥えたまま狼狽しているだけだ。なんとなく、まだゲームを始めてないけど咥えたポッキーを離したら負けっぽい感じがして、互いに離していいのかどうかを窺っている、そんな状況だった。
――いや、いいに決まってるだろ。始まってないんだから。
あたしはひとまず、ポッキーから唇を離す。
「あたしが合図するから、そしたらスタートにしよう。こう、手を挙げるから、そうしたら始めってことで」
有料パーキングにあるゲートよろしく、あたしは手刀をつくって挙げる動作をした。これなら分かりやすくていいと思う。
「んん」、と狼崎はポッキーを咥えたまま、暗くても伝わりやすいようにか、オーバーに頷いた。狼崎も一旦ポッキーを離して、手にもっててもよかったのに。チョコの部分が溶け始めてるらしく、大きく頷いたせいで彼女の唇からチョコがかなり垂れてしまった。
狼崎はブレザーを脱いでるから、垂れたらブラウスが汚れちゃうよな。白だもん。
「ほら、垂れてる」、とあたしは狼崎の唇を、ちょうどポッキーを咥えてる部分を人差し指で拭いて、そのままその指を咥えた。いや、拭きとったまではよかったんだけど、これって関節キスになるだろ、って意識したときには手遅れであたしは蒸気を噴きそうなほど熱くなって、いやあたしより狼崎のほうが絶対恥ずかしがってるだろと彼女を見るとひどく俯いていた。ポッキーは唇から離されていて、机の上に転がっている。
「も、もったい……ないよ……」
あたしはなるたけ平静な感じにポッキーを拾い上げて、そのまま齧った――ってチョコのほう! チョコのほうは狼崎の唇で挟まれてたほうだし!
……あたしは一体どうしちゃったのか。いつも友達とお菓子シェアしたりしてんじゃん。さすがに誰かが咥えたポッキー齧ったりはしないけど、クレープとかパイとかケーキとかなら、普通にやってることだろ。なにを今更動揺してるんだ。
シチュエーションの違いなんだろうか。ブレザーのなか、って特殊だし、初めてのことだからどきどきしてる、とか。あるいはこんなに近くで顔寄せ合うことなんてないから、とか。
狼崎はずっと俯いたままで、なにも言わない。暗い上に、前髪で隠れて表情は見えない。
恥ずかしがってると思っていたけど。
――もしかして、傷つけてしまったんだろうか。
それは充分に有り得ることだ。「あたしに関節キスされたことがショックだった」、とか、狼崎は観念がちょっとずれてるみたいだからポッキーゲームをする覚悟がありながらそんなことを言ってもおかしくはない。
もしそうなら謝らなきゃいけない。狼崎みたいに綺麗じゃなくていいから、謝らなきゃ。
「狼崎あのさ――」
「……です」
ぽつり、と。狼崎は言葉を零した。よく聞き取れなかった。
「ん? 狼崎、今なんて――」
「恥ずかしくて息が止まりそうです!」
そう言って、狼崎は顔を上げた。暗くて、どんな表情をしているのかは分からない。――ねえ、それって、怒ってんの?
あたしは右手でブレザーを捲って、光を少し、なかへ入れてみる。
彼女の顔が、よく見えた。
狼崎は、泣きそうな顔を真っ赤に染めていた。つついたら蒸気がぷしゅー、って上がりそうな感じ。
「み、見ないでください!」、と狼崎はあたしが掴んでいたブレザーを引き下ろす。再びなかは暗くなるが、彼女が引っ張った勢いで少しだけブレザーがずれて、さっきよりは明るくなった。表情も分かるくらいに。
「わたし恋愛経験もなくて、あまり男の子と話したこともないんです。わたしから話しかけることは恥ずかしくてできないですし、かと言って話しかけてももらえません」
話しかけてくれないのは狼崎と話したくないからではなくて、彼女の雰囲気のせいだろう。お嬢様みたいで、なかなか気安く話しかけられる感じではないから。たぶん話しかけたいやつはいっぱいいただろうに。
「ですから、女の子同士とは言ってもこういう状況には不慣れなもので、ただでさえどきどきしていたのに、狐塚さんが……その……格好いいことするものですから……」
そう言って狼崎は、そっぽを向いた。もう知りません、という感じに。まるで小さい子が拗ねているみたいだった。
怒ってなかったからそれでよかったんだけど、あれは格好いいことなのだろうか。というか関節キスのことは気にしてないのか。
「いや、あの……とりあえず、ごめん……」
あたしは素直に謝っておいた。悪いことをした、って意味と、この気まずい空気を取り繕おうという意図の、ハーフ&ハーフで。
「いえ、いいんです。わたしが取り乱したのですから、謝らなければいけないのは、わたしのほうです」
「ごめんなさい」、と狼崎はあたまを下げた。とは言ってもここは、ブレザーのなか机の上。深くあたまを下げられないため、ちょこん、と会釈程度のものだ。
それから顔を上げてあたしを見つめると、狼崎はにっこり笑った。初めて見せる、素の笑った顔だった。あたしに、ティラミスタルトを下さいって頼んできたときの、財布を引っ繰り返して所持金これだけですって主張したときの、あのつくった笑い方ではない。楽しいんです、って、そう笑顔自体が言っているような笑い方だ。無邪気、って言葉に限りなく近い、子供みたいな笑顔。
なんだよその表情、すごくもったいないじゃん。教室でそんな風に笑ったときなんてあったっけ。あたしはあんまり意識して狼崎を見ていなかった、というかむしろ苦手かも、って遠ざけてたけど、それでもおんなじクラスにいるんだし、どうしても顔は合わせる。けど、こんな顔してるとこ初めて見た。いや、違う。苦手だって思ってたからこそ、それは意識して見てたってことになるのか。
思わず、見蕩れてしまう笑顔だった。
可愛いっていうのはこういう娘を言うんだって、そう思った。
あたしが狼崎を見つめたままなにも言わないから、彼女は首を傾げた。
「あの。どうかされましたか?」
そう訊いてきた狼崎が笑うのをやめたところで、あたしはやっと我に返った。あたまを軽く振って、意識を整える。
「ああ、いや……なんでもない」
「でしたら、早いところポッキーゲームをしましょう。きっともうお昼休みは、ほとんど残っていないと思います」
「うん。やろうか」
そもそも、「さあ、やろう!」、ってブレザーのなかに入ったときにはあと十分くらいだったはず。あれからずいぶん時間が経ってると思うから、今すぐにチャイムが鳴って先生が入ってきてもおかしくないような、それくらいギリギリなんじゃないだろうか。
というかブレザーで隠れてなにかしていても、誰にもなんにも言われないあたしたちって一体……。
いや、待って。なにか、忘れてる気がする。
昼休みが間もなく終わるというこの状況に訪れるのは、「チャイムがもう少しで鳴っちゃう」、「先生が来ちゃう」、という焦燥感じゃなくて、もっと身近にある危険で――
そういえば。
と、気づいたときには遅かった。
「なーにしてんのっ?」、という女の子の声がした。
それから一瞬だけ、驚いた狼崎の顔が見えた気がして――
狼崎の、まだチョコのついた唇が、あたしの唇に触れて、
ほんのちょっと、漏れた甘い吐息がかかって、
唇が柔らかいとかを感じる前に、
ふたりのおでこが、ごつん、とぶつかった。
「痛ッ」、と声を上げて、おでこを押さえようとしたあたしの掌は、中空で止まった。目の前の狼崎の様子を見て、止まった。
ぽー、っと。魂だけどこかへ行ってしまったように、ただ、黒い瞳であたしを見つめたままでなにも言わず、なんにも感じてないような、感情を忘れてしまったような、そんな表情をしていた。唇に、指先を添えて。
――今度こそ、この娘は傷ついた。
あたしはそう理解する。たぶんショックで怒ることも忘れてしまってるんだ。
なにか言わなきゃ。でもなにを言えばいい。
ごめん、って謝る? というか今のってあたしが悪いの?
たしかに狼崎は傷ついてるみたいだ。でも、狼崎が急にぶつかってきたんじゃん。さっきの声……たぶんあの娘になにかされて。だからあたしたちはキスしちゃって。それってやっぱりあたしのせいじゃなくて。
それでも。
それでも、なにか言わなきゃ。
「ろうざ――」
あたしの言葉は、最後まで紡げなかった。
狼崎はブレザーの秘密基地から抜け出して、足音を立てて駆けだした。
「狼崎っ!」
あたしも慌てて、ブレザーを引っ掴んで立ち上がる。教室から駆けだすところの、スカートを揺らしながらドアを抜ける彼女の背中が見えた。急いで追わなきゃいけない。今すぐに追いつかなきゃ、狼崎とは二度と言葉を交わすことがないような、そんな胸騒ぎがした。
「いなみん、ごめん! 私、なんかまずいことしちゃったみたい……」
狼崎が腰かけていた椅子のちょうど後ろにボーイッシュな髪の女の子が立っていて、彼女があたしにそう声をかけた。
「杏璃……」
委員会に行っていたあたしの友人、南都杏璃だった。いつも一緒に昼ご飯を食べてる娘で、さっきまで狼崎が座っていた席の主だ。いたずらっ子で明るくて、あたしがブレザーなんか被ってるのを見つけたら、なんにもしないなんてまず有り得ない。
気づくのがちょっと遅かった。時計を見ると、もうほんの数分で昼休みもおしまいというところだった。当たり前だけど、委員会は終わったみたいだ。
「あのっ、私の席でブレザー被って、なんかこそこそやってるのが見えたから、いなみんといなみんの友達だろうなって思って、私、それでちょっかい出そうとして」
――背中を押しちゃって。
杏璃はそう言った。案の定だった。
背中を押された狼崎は、わけも分からずそのままあたしとキスか。そりゃあびっくりしたよな。
「さっきのって狼崎さんでしょ? 私、やっちゃったよね……」
「ううん、杏璃のせいじゃないよ。そうだ、先生になんとか誤魔化しといてくれない? あたし五時限目遅れるからさ。あと、狼崎も!」
「わ、分かった……」
伏し目になっている杏璃を置いて、あたしはあの娘のところへ向かう。どこにいるかは分からないけど、たぶん校内にはいるだろう。
早く、見つけなくちゃ。
あたしは狼崎のブレザーを握って、ついでにティラミスタルトも持って、教室から駆けだす。
ちょうど、昼休みの終わりと五時限目の始まりを告げるチャイムが、鳴った。
たまに授業をサボることがあるあたしには、どこが見つかりにくいかはなんとなく分かっている。それに、そもそも校内で誰もいないところなんて限られているんだ。
この時間だと、図書室に行けば司書の人に見つかってしまうし、北棟の特別教室に行けば授業で使用されている可能性がある。いや、それ以前に北棟をうろついていれば、先生に見つかる可能性がある。北棟には職員室やら科目別に先生が詰めている準備室があるから、遭遇する確率は高いんだ。見つかってしまえば、「授業中になにしている?」、と見咎められるだろう。だから、北棟は選ばないと考えた。
まあ、駆けだすことに夢中な人間が冷静に思考するとは思えないけど、それでも当たりを付けて探さなくちゃいけない。
校舎の外に出られたら見つかるかどうか分からないから、あたしは、一般教室がある南棟にいると信じて探すことにした。はじめはあたしたち一年生が使う、三階から探そう。
まずはトイレだ。個室ひとつひとつを見て回ったけど、今しがた五時限目開始のチャイムが鳴ったこともあって、どこも空だった。
トイレの出入口からそっと顔を出すと、あたしのクラスに先生が入っていくところで、あたしは急いで顔を引っ込める。ここで見つかるわけにはいかない。
しばらく待ってからそっとトイレを抜け出して、あたしは次の捜索場所へ向かう。
屋上前の階段だ。
屋上には鍵がかかって出られないけど、そこへ続く階段なら誰もいないはず。あたしもたまに授業をサボったときにそこで時間を潰すことがあるけど、今のところ誰かに見つかったことはない。まさにひとりになるには相応しいところだ。
『立入禁止』の看板をぶら下げる低い柵を跨いで、あたしは屋上へ続く階段を上り始めた。
後ろを見てみたけど誰もいない。目撃されずに済んだようだ。
ゆっくりと一段ずつ上がっていき、踊り場に着いて振り返る。
と、扉の前で蹲る女の子を見つけた。
衣替えをしたのにブレザーを着ていなくて、ブラウスに赤いリボン。
腰まで届くほど長い黒髪だけど、きちんと手入れがされていて艶がある。
狼崎だった。