ヤノウエ店長
ホラーというほど怖いものではありませんが、ちょっとした体験談です。
私には、いわゆる“霊感”という能力が一切ありません。霊を見ることはもちろん、不思議な光を見たり、奇妙な音や声を聞いたり、といった経験は一度もありません。
私の周りにも、そういった体験をしたという人は一人もいません。家族にも友人にも職場にもです。
そんな私の交遊録に、たった一人だけ、頻繁に心霊現象に遭遇する人がいました。
それが、ヤノウエ店長(仮名)です。
二十代前半、私はある進物菓子店に勤めていました。入社して数年後、異動辞令で支店に配属されました。そこに、ヤノウエ店長がいました。
交流の途絶えた人の顔はすぐに忘れてしまう私ですが、店長のことだけは今でもよく覚えています。パーマのショートヘア、赤い口紅、豪快な笑い声、方言全快の陽気なおばさん店長でした。
支店は、建物の一階が菓子販売店舗、二階から上が商品倉庫や事務所になっています。
販売店舗には、私と店長を含め、四人が勤めていました。支店とはいえ、繁忙期や仏事の大量注文でもなければ、忙しくはない所です。暇な時間は(誉められたことではありませんが)おしゃべりで時間を潰していました。
そんな空いた時間に、ヤノウエ店長はよく、ご自身の不思議な体験を話してくれました。
「七ツ枝くん、窓はちょろっと開けとったらいかんよ。窓がちょろっとしか開いとらんかったら、そこからしゅっと入ってきんさるけね」
店長がよく言われていたことです。
窓をわずかだけ開けて隙間を作っていると、その隙間から霊が部屋の中に入ってくるのだそうです。だから、窓を開ける時は、しっかり開けておけ、と。
また、押入れなどの戸も、少しだけ開いているのは良くない、とも話していました。少しだけ開いた隙間から、“覗く”のだとか。
ヤノウエ店長は当時、会社が所有する唯一の社宅に住んでいました。社宅は二階建てで、一階が支店と同じように販売店舗として稼動しており、二階が居住部分でした。
その社宅に、頻繁に“出る”のだそうです。
何かの気配を感じたり、一階の店舗から物音が聞こえてきたり、そういうことがよくあったそうです。
部屋に入ってくることもしばしばだったと。
ヤノウエ店長には、除霊できるほどの力はなかったので、そんな時は、
「私には何の力もありません。お助けできません。どうぞお帰りください」
と、手を合わせているそうです。そうすると、帰ってくれるのだとか。
店長の話を聞いても、窓に隙間を作ってしまっても、霊感皆無の私が霊体験をすることはありませんでした。ですが。
店の裏側は箱や備品のストック置き場になっていて、その片隅に休憩場所があります。
休憩場所は、店とストックをつなぐ出入り口の前にあるので、ほぼ丸見え状態です。暖簾で隠しはしていますが、扉がないので風は入ってきます。
ある夏の日、休憩していた私は、机に顔を伏せて仮眠を取っていました。出入り口――店側に背中を向けている状態です。
うとうとしていると、突然ものすごい冷気が流れ込んできて、背中を撫でました。
あまりの冷たさに飛び起きた私は、何事があったのかと、あたりを見回しました。が、何も変わったことはありません。
クーラーの風だったんだろうか、でも正常に動いているクーラーの風が、あんなふうに休憩場所まで流れてくることなど、今まで一度もなかったが。
それにクーラーにしては冷たすぎた。鳥肌が立つほどに。
不思議に思っているうちに休憩時間は終わり、私は店に戻りました。
すると、ヤノウエ店長が両目を見開き、私に言いました。
「七ツ枝くん、さっきなんか通って行きんしゃったばい」
不思議な体験は、後にも先にもそれっきりです。
私の背中を撫でていった“何か”の正体は、分かりませんでした。