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拐かされるなら、やはり、夏至の夜

作者:ハナダ
 玄関のドアを開ける前から、声と音は聞こえていた。
「ね? 中に入りましょう」
 玄関とは反対側にある庭から届いた声は、提案に見せかけた脅迫。
 いや、白々するほどの懇願だった。
 (あおい)はリビングに入るとランドセルをソファーに投げ、耳障りな機械音に眉を寄せた。
 ただいまをいう相手は、アラームの鳴り続ける携帯をテーブルに置いたまま庭にいる。
「葵!消しといて!」
 投げ掛けてくる声に舌打ちし、母親のピンクの携帯のボタンを乱暴に押した。アラーム画面が切り替わり、プツンと受信メールが現れる。
(えっ?)
 葵は無意識にメールの文字を読んでいた。

「夏至の夜。あの場所で会いましょう」

 送信日時は一週間前だった。
 送信者はmidnight summer。
(怪しさこの上ないんだけど)
 不潔感から逃れるように、携帯を急いでたたんでテーブルに戻した時、
「お帰り」
 母親が庭から帰ってきた。
(れん)は?」
「だめみたい」
 首を降り、母親は携帯を開く。
 葵がちらりと覗き見た庭で、五歳の男の子がしゃがんだまま動かないでいるのが見えた。青い花をつけた紫陽花の下で、ほとんど置物みたいだった。
 携帯をいじる母親の面差しと、よく似たうつむき加減の蓮は、葵と目をあわせたりしない。
「おやつは冷蔵庫に入っているから」
 相変わらず携帯画面にかかりきりの母親を睨み付けながら、葵は黙って冷蔵庫を開けた。
 蓮は七歳年下の弟だ。見た目は普通だが、扱いにくくて、母親はてを焼いている。
 何より、もう五歳のくせに、ほとんどしゃべらない。
「葵、どこいくの」
 おやつの皿を持ったままリビングの階段を上がる娘に、母親のきつめの声が飛ぶ。
「部屋で食べる」
(あんたのいるところで食べなくない)
 負けずに跳ね返し、葵は階段を急いでかけ上った。
 子どもと顔を合わせられるように、リビングこ真ん中に作ったという階段。
 葵は大嫌いだった。
(親って自己中)
 部屋に入り、ふと、壁のカレンダーをみる。
「夏至って、今日じゃない」
 何故だろう。胸騒ぎがして、その文字から目をそらした。



 父親が帰る前に、葵は夕飯も風呂も済ませ、また部屋にこもっていた。 母親とのギクシャクは今に始まったわけではない。
 蓮が産まれてから、ろくなことがなかったから。
 母親はいつもピリピリしている。
 父親は、何もかもに逃げ腰だ。
 休みの日に遊びにいった公園も、ショッピングモールも、ほとんどいかなくなった。
 そして、いつからか病院へ行く日が妙に増え、母親は携帯をみてばかりになり――家から逃げたい気持ち生まれても、変じゃない。
 父親だって逃げているのだから。
 そんなモヤモヤの中で、一つのぬぐいきれない疑問があった。
(midnight summerって誰?)
 あのメールが、心に残っている。
 一階のリビングから、母親の声が聞こえた。歯磨きしようとしない蓮に必死に話しかけている。鳥肌がたつほど、優しく、丁寧に、ゆっくりと。
 殴りたくなるほど、媚びた声。
 でも、返事は、聞こえない。
 そのうち階段を上る音がして、葵の部屋のドアを叩いた。
(最悪)
 母親だろう。蓮に手こずり、時々、葵に助けを求めるときがあった。
 大体は父親の夕食の支度を手伝うことになる。
「なに?」
 面倒なことを頼まれるかもしれないから、内心嫌だった。しかし、ガチャリとドアが開いて、葵は立ち尽くすことになる。
「……蓮!」
 ひょろりと痩せた幼稚園児が立っていたのだ。
 大きな目は明後日の方を向いている。
「なに?」
 蓮が訪ねてくるなんて、こんなことは初めてだ。
「どうしたの?」
「……よ」
「えっ?」
「……きょう、げしだよ」
 心臓を握られた気がした。
(しゃべった!)
 意味があることを、こちらに向かってしゃべったことなど一度もなかった!
「お母さん!」
 叫びながら、葵が階段を降りる。
「蓮がしゃべった!」
 階段の途中にいる葵に、キッチンの母が振り返った。
 そうして葵は後悔した。
「どうして葵に?」
 きっと驚いて、喜ぶと思った。
 しかし、母親は今にも崩れ落ちそうなほどに肩を落としている。
「私には話してくれないのにね」
 再び葵に背を向ける。
 リビングからテレビの音が聞こえる。ニュースを読むに深刻なアナウンサーの声が、父の声の代わりだった。
 母親の気持ちが落ち着くまでは、完全無視を決めている、父の無言の声。
 面倒は嫌だ。ヒステリックな母と話す気はない。適当にあしらえばいい。
 そういう声が、テレビの音として聞こえてくる。
「知らない」
 葵は再び階段をかけのぼった。
 蓮はもういない。寝室に入ったのだろう。
 自室のドアを乱暴に閉め、葵はベッドにうつ伏せた。
(もうやだ、こんな家)
 自分の両目からぽたぽたと涙が落ちるのさえ、何だかもう疎ましかった。



 「あおい」
 夢の中で、幼い声がした。声だけの夢だ。
「あおい、あおい、おきて」
 夢のくせに執拗で、葵は目を覚ましてしまった。
(寝付けないでいたはずなのに)
 いつの間にか寝ていた。時計に目をやると、23時53分。
 鼻や喉に少し、涙の味が残っている。
「ああぁ」
 思い出した。
 母親が卑屈な顔で吐き捨てたこと。
 瞼の重いまま身体を起こせば、深夜の闇に目が慣れ始める。 何となく、部屋は青く沈んで見える。
 ふと、ため息がこぼれた時だった。
 ドアが開く音がして、葵はギクリと振り返る。
 部屋のドアが十センチほど空いていた。
 寝る前に閉めたかどうだか忘れてしまったが、十センチの闇は妙に深い。
 閉めようか、このまま寝てしまおうか。迷い始め葵の視界に、ふと、何かが横切った。
 途端に怖さが栓を抜いたように消えていった。不思議な感覚に落ちていく。
(あれは、誰?)
 見えたのは人の姿だっただろうか。
(人? でも、背中のあれは何? それに……浮いていた?)
 一メートルくらいの女の子だったような気がする。虹色に光る、羽根が、はためいていた気がする。
 葵はベッドから起き上がり、惹かれるまま、ドアを開けた。
 すると、深夜の階段を母親が降りていくところだった。
(お母さん!)
 足音もなく視界から消えていく母親を、慌てて追いかける。 淡く光っていた羽根つきの女の子の姿は無く、母親は一人でキッチンヘと入っていった。
「母さん」
 小声でよんだが聞こえないらしい。
 わざとらしく音をたてて階段を下りると、レンジからは淡い光がにじみ出ている。扉が開いているようで、その前に母親が立ちはだかっている。
頭の中には、midnight summerと言う文字が浮かぶ。
(まさか、本気で誰かに会いに行く気じゃ……)
そんなはずないと、母親に駆け寄ろうとした葵だったが、
(えっ!)
 そこから動けなくなった。
 光を浴びた母親の背がみるみる縮んでいったのだ。
 おろしっぱなしの乾燥しがちだった髪は、幼児特有の繊細な艶を帯びていた。
 パジャマ姿は水玉のワンピースに変わっていた。
「いらっしゃいませ」
 レンジの脇から聞きなれない男の声がした。
「あちらの世界の入り口へようこそ――五歳からやり直す覚悟はできましたか?」
 階段の扉の影から目を凝らすと、闇に溶けた男の姿がぼんやりとだけ見える。そのシルエットに向かって幼児に変身してしまった母親はうなずいていた。
(五歳から、やり直す?)
 眉を寄せた葵に、ふと男の視線が刺さる。見えないけれど、確かに目があった。そして、嘲笑った気配だけが、ざらざらと背中を這っていく。足がガクガクと震えて止まらない。
 そんな葵をお構いなしに、母親をレンジの中へ促した。
「……母さん!」
 飛び出しても遅かった。男がレンジの扉を閉じてしまったのだ。
「何するの!」
 男の手を払い、レンジを慌てて開ける。
 電子光が淡く照らしていた。中は、空っぽで、四角い箱の形をしていた。
「どうして……」
 わけがわからない。
 母親が、五歳になって、電子レンジの中に消えていった。
 それは、見た。
(見たけれど、でも)
 目の前で起きた出来事なのに、わけがわからない。
「あちらの世界へいってしまったのですよ」
 ふと、男の声が降ってくる。
「母さんをどこへやったの!」
 振り返り、声の方へと怒鳴り付ける。しかし、そこにはもう誰もいなかった。気配すら消えていた。
「……母さん」 腰が砕けてその場にしゃがみこむ。
「夢でしょ?」
 言っても空々しい。
 夢じゃない。
 夢なんかじゃないことなんて、皮膚に触れる空気でわかる。わかっている。
「いって、しまったね」
 背後から声がした。
 驚いて振り返ると、サッカー選手のユニフォームみたいな青いパジャマを着た弟が立っている。
「……蓮」
 何でいるのよ、と、悪態をつこうとするが、口が動かない。いつも、どこを見ているかわからない、虚ろげな蓮のほうが、今は、しっかりと葵を見ていた。
「僕、つかまえる」
 蓮は、はっきりと言った。
「かあさん、むかえにいく」
「はあ?」
 普段しゃべらないくせに、こんなときになってぺらぺらとしゃべることに、葵の胸に苛立ちが立ち込めた。
「なにいってんの。レンジはもう普通のレンジに戻っているし、男は消えちゃったし、どうやってむかえにいくの」
「ふね」
「へっ?」
「ふねだよ」
 蓮が挑発的な笑みを浮かべた。唇が描いた弧に、強い意思と確信があった。
「あおい、きて」
 忍び足で蓮が走り出す。葵はわけがわからないまま、弟の後を追った。
 蓮が向かったのは葵の部屋だった。入るなり、急いで窓を開ける。湿った夜の風はカーテンを揺らし、栗の花のつんとした甘い匂いをわずかに漂わせた。
「勝手に入って何を……」
 文句を言おうとした葵だが、腕を素早く掴まれて黙った。蓮の眼差しは真剣だった。
「ふね」
 ベッドを指差す。
「えっ?」
「のります」
 引っ張られ、二人はベッドの上に立った。
「船って、ベッドが?」
 何をふざけているのか、と。呆れたのは一瞬だった。仄かに白く光り始めた葵のベッドが、ゆっくりと宙に浮いていく。
「うそ!」
 いつの間に、ベッドはベッドでなくなり、弓形に弧を描く、白い小舟になっていた。
「ちょっと待って!」
 蓮にしがみつく。
「何これ!」
 しがみついて、蓮と目があった。
(目が合うって……)
 姉弟の身長差は五十センチ。いつも見下げていたはずだ。
「わたし、背が縮んでない?」
「midnight summerのまほうにかかったんだよ」
「あんた、何でそんなに冷静なの? こっちは頭がおかしくなりそうだよ」
「ネジバナの妖精が、昨日教えてくれたから」
「はあ?」
 平然と返す蓮の脇から、そっと姿見に映る自分を窺う。そして、声を失った。縮んだだけではない。
「わたしまで五歳になってる!」
 あの頃お気に入りだったピンクのスカート姿になっている。自分が顔をベタベタさわってみれば、鏡の中の五歳児も同じように頬に触れている。幼稚園児にしかみえない。
「やだ!」
「あおい、うるさい。出航するよ」
「しゅっこう?」
 振り返った時、足元がぐらつく。白い小舟に変身したベッドが、スピードをあげて窓を飛び出した。
「どこいくの!」
「midnight summerのところだよ。今日は夏至。あいつが母さんを惑わして、つれさったんだ」
「midnight summerって何よ」
「悪い妖精だよ。母さんを幼稚園からやり直させてあげるっていうんだ」
「どうしてよ?」
「……僕のせいだ。母さんは今、幸せじゃないんだ。だから、やり直したいって」
「そんなこといったらわたしたちはどうなるの?」
「消えちゃう」
「はあ? 勝手すぎない? だいたい蓮はなんで止めないの。本当はしゃべれるなら、教えてよ。全力で止めてよ」
 あんたのせいで、どれだけ皆が迷惑しているか、わかっているの?
 そういいかけて、口をつぐむ。言ってはいけない言葉だと思ったから。
 蓮はまぶたを伏せた。
「しゃべれるのはmidnight summerの世界にいるからだよ。朝になったら、またしゃべれなくなる」
「どうして」
「わからない。声がでないんだ」
「寝る前、出ていたじゃない」
確かに、「げしだよ」と言った。驚いて、母に教えにいったら、ひどく睨まれたのだ。
「あおいにどうしてもつたえたかったんだもん。今夜起こること」
「信じられない。こんなにスラスラしゃべっているくせに」
「でも、あおいはしゃべれないほうがいいでしょ」
「えっ?」
 蓮の大きな目から注がれる視線は、鎖のように葵の心臓をきつく縛りつけた。何故か責められている気がして、思わず顔をしかめる。
「何それ」
 しかし、それ以上蓮は何も言わない。言わなくてもわかっている。
 ずっとずっと弟が疎ましかった。
(五歳に戻りたいのはわたしのほう)
 小舟は梅雨の曇り空を飛んていた。
 屋根よりずっと高くにいるはずなのに、不思議と怖くなかった。 
 気まずく黙った姉弟を乗せた舟は、やがて灰色の雲に近づいていく。
「ぶつかるよ」
 葵は、蓮の袖を引っ張った。
「大丈夫」
 蓮は、進行方向から目をそらさない。
 雲はぐんぐん近くなる。迫ってくる灰色の塊を、もう黙って見上げるしかできない。
 ぶつかった瞬間は、霧がかって冷たい。
 思わず目を閉じていた。
 それが、ほんの数秒間だったのか、数時間だったのか。
 葵は目を開けた。
「うわぁ……」
 思わず声が出た。
 視界は晴れていた。現れたのは、星の光に浮かび上がる一筋の黒い川と、一面の薄紅の花畑だった。
「ネジバナだ」
 穏やかに流れる黒い川へと蓮が身を乗り出す。
「ネジバナ?」
 葵は首をかしげた。
「そうだよ、あの花の名前だよ」
「へー」
 川の両岸には小さなその花がびっしりと咲いていた。細い茎に、螺旋階段のように絡み付くピンクの花を、葵はどこかで見たことがあった。でも、思い出せない。
「見えた」
 ふいに、蓮が立ち上がって指差した。
「母さん!」
 蓮の人差し指の方向に目を凝らす。小舟が見える。母さんは五歳児に変身したまま、小舟に乗っている。そばには黒のタキシードの男が立っていて、ゆっくり振り返り、葵たちを見つめた。
「あいつ、母さんに何か言っているよ。腹が立つ!」
 葵は怒りをぶちまけるが、蓮は首をかしげる。
「何故、midnight summerに怒るの」
「はぁ?」
「僕は母さんに怒っている」
 キッと前を睨み付ける蓮の隣で、葵は振り向きもしない母にただ見いった。
(いってしまう)
 五歳の姿では、本当にあれは母親だろうか、だんだん危うくなってきている。
 そんな自分に、身体の真ん中辺りが軋むように痛いのに、声もあげられない。蓮のように怒れない。
(わたしは悲しいんだもん)
 心の底に「おいていかれて悲しい」という感情を、葵はただひたすらに溜めていくだけだった。
「危ない!」
 突然、舟が大きく揺れた。
 投げ出されかけた身体を、蓮が引き寄せる。
「今の、何?」
「……前をみて」
 黒く、滑らかに光る水面から、巨大な何かが頭を覗かせていた。
(何? 島?)
 島ではない。動いている。
 徐々に水面から姿を現れたそれは、糸のように細い眼を光らせた黒い大蛇だった。星明かりに照らされ、鮮やかに艶めく鱗にびっしり覆われている。口から長く、細く、赤い舌がチロチロと出している。
「あいつ、midnight summerの手下だ。邪魔ものを消すんだ」
「逃げなきゃ!オールないの!」
「母さんはどうするの?」
「死んじゃったら意味ないじゃない!」
「じゃあ、僕が大蛇を捕まえているから、葵は先にいって」
「えっ?」
 葵は蓮を見つめる。沈黙する二人の間を、シューシューという蛇の息遣いが通り過ぎていく。
「まってよ」
 葵の声は震えていた。
「あんたが死ぬじゃない」
「でも、葵。僕がいなくなればいいって、思っていたでしょ?」
「……!」
 見開いた姉を、弟は冷静に悲しく見つめていた。
「母さんも、葵と一緒だよ」
 蓮は微笑んでいた。
「いってくる」
「蓮!」
 飛び込んだ水飛沫が、葵の顔を濡らした。目の前の水面で、蓮は小さな身体で懸命に大蛇にしがみついている。
 尾で激しく水を叩く音は、葵の耳を支配していく。
 その姿を、呆然と見つめる事しかできない。
「そんな」
 これは嘘だ。夢だ。
 そう言い聞かせて、この光景から逃げようとする自分がいることに、涙が滲む。
 蓮の力など儚かった。
 大蛇に連れられ、そのまま水底へ消えてしまった。
 馬鹿みたいな静寂の中に、穏やかに通り過ぎていく水と風の音だけが渡っていく。
「蓮……」
 いってしまった。
 弟を止めることも、助けることもできなかった。蓮は最後、姉を責めていた。あんなに寂しそうだった。
「蓮! 蓮! 蓮!」
 身体の底から声が湧き出る。
「蓮の馬鹿!」
 叫び終わったら、次は涙が押し寄せて来る。気付けば大声で泣いていた。子どもみたいに、わんわん泣いていた。悲しくて、悲しくて、悲しくて、ただ、声をあげて泣いた。
 ふと、誰かの手が肩に触れた。
「誰!」
 身をすくめて振り返った。
「泣かないで」
 そこには、五歳のままの母親が立っていた。
(母さん!)
 いつのまに来たのだろう。泣きじゃくる葵の肩を抱きよせ、
「大丈夫よ」
顔を覗き込み、優しく背を撫でた。
その途端、葵の目にまた涙が込み上げる。
 さっきのとは違う。もっと熱を帯びた涙だった。
「midnight summerのところへいったんじゃないの?」
「ううん。いかないわ」
 母親の声は力強い。
「やり直したら、葵と蓮を産めなくなる。そんなの絶対イヤなの」
 微笑んだ母親はまだ五歳だけど、もう五歳じゃない。
「あなた達も帰りたいの?」
 訊ねる母親に、葵は涙を拭きながら頷く。
 葵を葵と気付いていないだろうか。でも、訪ねる勇気はなかった。
「帰りたい」
 葵は五歳の母親を見つめて言った。
「それなら、一緒にあの子を助けにいきましょう」
「どうやって?」
「一緒に」
 確信を秘めた答えに釣られ、手を差し伸べた。二人で手を繋いで、何の迷いなく、水へ飛び込んだ。
 表面は黒いが、川の中は透き通っている。妙に生ぬるい水中を、二人でどんどん泳いでいく。
 すると、目の前に黒ずんだ大蛇の影が見えた。
「いたわ!」
 母親もきゅっと唇を結んでいる。
「わたしが大蛇を倒すから、蓮をお願い」
「大丈夫?」
「弟が一人で立ち向かったのに、姉の私がやらないでどうするの」
「……わかった」
 母親は、葵の手を離す。
「頑張ってね」
 葵も温もりが残る手を振った。
「うん」
 母親は、遠ざかる葵をじっと見つめていた。その視線を振り払い、葵は大蛇に向かっていく。
(蓮を返して!)
 しがみ付いた葵を振り払おうと、激しく暴れる大蛇。
(蓮!)
 思えば、今日初めて蓮の目をみて話した。
 思えば、ちゃんと蓮と遊んだことなかった。
 無理だと思っていた。
(蓮、ごめん)
 決めつけついた。
(ごめんね)
 母さんも、戻ってきたよ。
 なにもしなくても、ちゃんと戻ってきた。
 わたしたちを産みたいって。
 だから、みんなで帰ろう。
 その時、葵の頭を大蛇の黒い尾が強くたたきつけた。
 悲鳴もあげられず、視界が霞んでいく。
「あおいーーー!」
 遠くで声がした。蓮と母親が手を繋いで、こちらへ向かってくるのを、遠くに見た気がする。
(蓮! 母さん!)
 温かい何に包まれ、葵の身体は上昇を始めていた。


 朝の光りが窓から降り注いでいる。
 開いたままのカーテンが緩やかに揺れていた。
 気づくと、葵はベッドの上だった。
(あれ?)
 目が重たい。泣きながら目覚めたようだ。
 しかし、不思議と爽快で、ちょうどいま見える、窓の外の青空みたいな気分だ。
 起き上がって自分の両掌を、見つめる。その肌には、黒い川の水温がまだ生々しく残っていた。
(夢だったのかな)
 姿見が写し出すのは、十二歳の葵。
(そんなはずない)
 葵は頭をふる。
 昨夜、手に触れたたくさんの温もりが、自分の夢で済まされるなんて……
(嫌だ!) パジャマのまま部屋を飛び出し、葵は一階へ急いだ。
 足音がいつもより大きく聞こえる。
 リビングに降りると、誰もいなかった。
「お母さん」
 キッチンにも洗面所にも気配がない。
 朝の空気だけが清々しく漂って、葵の不安を確かにしていく。
「母さん!」
 思わず叫んだすぐあとに、
「なによ」
 背後から声がして、振り返る。
「おはよう、葵」
 そこにはエプロン姿の母親が立っていた。
「朝から大きい声出して。どうしたの?」
「……うん」
 どんなに見つめても、何の変わりのない、母親だった。五歳でもない、タキシードの男もそばにいない。
「なんでもない」
「葵、変だよ」
 微笑む母親の手の中には、ライトグリーンのレタスが握られていた。その葉の影に、ピンク色の花がチラリと見えた。
「ねじばな」
 その声に、葵と母親は一緒に振り返った。 
 そこにいたのは蓮だった。サッカー選手見たいなブルーのパジャマを着たまま、ぼんやり立っている。
 そして、二人を見比べ、それから顔をくしゃくしゃにして、
「かーさん、おはよう」
 蓮はそう、はっきりと言った。
「おはよう! 蓮!」
母親はすぐにかけより、弟をしっかりと抱きしめる。
「よく挨拶できたね。偉いよ! 偉い、蓮!」
 母親は、泣いていたかもしれない。
 葵は何となく、居た堪れなくて、邪魔者な気がして、そっとベランダへと向かった。
(蓮、頑張ってしゃべったのね)
 昨夜の寂しそうな顔が蘇り、再び弟のほうを見やった。
「蓮、母さん、あのさ」
 ――昨日の夜のこと、覚えている?
 聞こうとした時。
「あおい」
 ふと、呼ばれる。蓮は母親に見えないように、唇に人差し指に手を当ててみせた。
(しーっ)
 悪戯な笑みを浮かべている。
(昨日のことは、ナイショってこと?)
 もうあさっての方を見ている蓮に、うなずいて見せ、葵はおもむろに庭へ出た。
(あっ!)
 青々とした六月の庭の中に、ひっそりとしたピンクがあることに気付いた。
 それは目に入らない程にささやかな野草に違いない。ちょうど紫陽花の足元。ネジバナは咲いていた。
(思い出した)
 ここで、この家で、葵はネジバナを見たのだ。
 それは蓮がお腹にいるとき。母親と一緒に此処でしゃがみ込み、見た花だ。
(わたし、蓮が産まれるの、楽しみにしていたっけ)
 花を見ながら、母親と生まれて来る弟の名前を考えた。何故、忘れていたんだろう。心の中が明るい薄紅色に満ちていく。
 ピンクの螺旋を描く花に向かって、葵は問いかけていた。
「もしかしてさ、midnight summerはいい人? 失いかけた絆を取り戻すために、わざと試練を与えるとか」
 少しポジティブすぎるかな? と、にやけながらしゃがみこむ葵の頭上で、舌打ちがきこえた。
「ずいぶん都合がいいのね」
 いつの間に目の前に立っていたのは、虹色の羽根の少女だった。
「誰?」
おそらく昨日の夜、ドアの隙間からみた妖精だった。
「ネジバナの妖精」
 あまりに平然と言うので、葵は何の言葉も返せない。
「あなたたち狙われたのよ。心を弱くして楽なほうへ逃げようとするダメな人間を、あちらの世界へ連れてくるために。夏至の日の夜は、扉が開かれる日なの」
「扉?」
「こちらとあちらをつなぐ扉よ。世界中で拐かしが起こる」
「でも、なんで」
「食べるために決まってる」
「何を?」
「人間に決まってるでしょ!」
「人を、たべるの?」
「人間を補食する生物がいないなんて、どれだけ思い上がっているのかしら」
 皮肉な笑みを落とし、
「気をつけることね」
 捨て台詞を残し、少女が煙のように消えてしまった。
(今の、何だったんだろう)
 浮かれていた葵の頬が、一瞬で冷たくなった。
 葵の背中を、黒い川の温もりが撫ぜていく。
 昨夜起きたことを、もう一度思い返してみる。
 母が去ったこと。
 蓮を犠牲にしたこと。
 蓮の言葉。
――葵。僕がいなくなればいいって、思っていたでしょ?
(嫌だ)
 そんなこと、もう嫌だ。浮かれている場合じゃない。
 力強く振り返り、家へと戻る葵を、蓮はじっと見つめていた。
「二人とも!」
 ふと、母親の声がした。
「着替えてきたら、朝ごはん食べなさいね」
 そんな姉弟を見つめる母親の視線が穏やかになったことと、携帯を見なくなったことを、二人はもう少し後で知ることになる。

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