darkness
Q.もう一人の自分に出会ったら、どうしますか?
A.取り敢えず敵扱い。
(2017年12月24日加筆修正)
「突然だが、ドッペルゲンガーを知っているか」
「いきなり何だよ……」
森の奥深く、嘗て鉱石の採掘場として使われていた洞窟の中。ぽたりぽたりと滴り落ちる水滴の音と共に、二人の声が木霊する。突然訳のわからないことを尋ねてきたルイに、ユエは眉を顰めながら視線を移した。
二人は採掘場跡に一番近い小さな村で、村人から依頼を受けて此処へ訪れていた。直接依頼を受けたのはルイの方で、ユエは彼女を心配して付いてきたのだった。彼女から詳しい内容は聞いていないが、使われなくなった採掘場を訪れるということは、恐らく村に程近いこの場所に住み着いてしまった危険な動物の駆除などだろうと考えていた。
灯りとして浮かべた光球に照らされた洞窟の中には、鉱石を運ぶ為に使われていたであろうトロッコが、彼方此方に無造作に倒されていた。所々途切れたレールの上を歩きながら、足元に現れる水溜まりと頭の上に落ちてくる水滴に溜息を吐いていたユエの背に、先程のルイの質問が投げ掛けられたのだった。
何故今そんなことを聞いてくるのだろう。問いを問いで返すと、ルイはいいから答えろと言うような表情でユエの顔を見上げた。
「……知っているけど。自分の分身だとか、生き写しのことだろ? 実際にいるかどうかはわからないけど」
ルイは頷く。カタカナの言葉にはどうも弱いルイだが、数時間前に依頼をしてきた者から聞いて、彼女もそれが何なのかは知っていた。
「此処の話をしていた時に出て来たんだが……どうも、御伽噺や夢物語で済むような話じゃなかったんだ」
「どういうこと?」
首を傾げたユエに、ルイは説明した。
今から百年程前のこと。鉱石の採掘が盛んだった為、その頃は今のような寂れた村ではなく、各地から人々が訪れる立派な街であった。しかし、ある時街に現れたドッペルゲンガーによって、全て変わってしまったのだと言う。
それは、森に入った一人の少女が行方不明になったことから始まった。
「数日後に少女は見付かったが、今度はこの採掘場で働いていた者が尽くいなくなったらしい」
更に、見付かった少女はいなくなる前と明らかに様子が違っていたのだ。姿形はそのままだったが、明るかった性格は何処へ行ったのか、虚ろな目で森の中に静かに佇んでいた所を発見された。保護された時、少女の服は血塗れだったらしい。採掘場で働く人間が行方知れずになったのはその直ぐ後。住人は何か知らないかと問い掛けたが、少女は何も答えなかった。ケガこそなかったものの、血塗れになった上に性格が変わってしまうとは余程のことがあったのだろうと考え、住人がそれ以上少女を問い詰めることはなかった。
少女と同じように森の中で見付かるかもしれないと考えた住人は、隈なく森の中を調べた。結果として全員の遺体が発見されたのだが、その中にはどういう訳か、あの少女の遺体も含まれていたのだ。
ならば、住人が最初に見付けたのは誰なのか?
胸騒ぎを覚え急いで街に戻った住人達は、少女の家へと向かった。採掘場で働いていた父親は殺されていた為、母親と少女の兄、そして少女の三人で暮らしていた。
少女の家に辿り着いたものの、どういうわけか玄関の扉が開かない。呼び掛けてみるが返事もない。窓のカーテンは閉められ、中の様子もわからない。小さな窓は破っても誰も入れそうにない為、住人は斧で扉の鍵を壊して家の中へと入った。
家の中には確かに三人がいた。だが、立っていたのは少女だけ。母親と兄は血溜まりの中に倒れ伏していたのだ。そして、少女の手には包丁が握られていた。足元に転がる兄の死体を、彼女はやはり虚ろな目で眺めていた。
不意に振り返った少女の姿が、住人の見ている前で徐々に変わっていった。少し背の伸びたその姿は、少女の兄と全く同じだった。違っていたのは、やはり虚ろな目をしていたことだけ。
「殺した相手と同じ姿になる、そういうドッペルゲンガーだったみたいだ」
嫌な話だと、ユエは顔を顰める。それと今回この採掘場跡に来たことと、どう結び付くのか。ユエの疑問に、ルイはそう慌てないようにと返して話を続けた。
少女の家を訪れた住人を初めとして、必死に隠れた一部を残し、村人の殆どが惨殺されてしまった。このままでは全滅するのも時間の問題だった。
困り果てていた住人の元に、一人の魔導士が現れた。彼はドッペルゲンガーの正体が、暴走した魔具であると住人に説明した。それは魔導鏡と呼ばれるもので、人に限らずあらゆるものの姿形を写し取ることが出来るのだと言う。魔導鏡には人と同じように意志がある。住人を殺したのは何かしらの目的があったか、暴走し狂ってしまった為かの何れかだった。
魔導鏡を作ったのは誰なのかという問いには魔導士が魔術師だろうと答えたが、それがその魔導士であったのかまではわからないままだ。
住人を避難させた魔導士は森にドッペルゲンガーを誘い出し、見事元の魔導鏡として封じることに成功した。魔導士は永く封印を保つ為、採掘場に魔導鏡を封じておくことにした。働き手のいなくなった採掘場に訪れるものはそういない。入り組んだ坑道を持つその地形を利用すれば、最も奥に封印した魔導鏡に辿り着くことは格段に難しくなる。坑道には幾重にも結界が張られ、百年もの間封印され続けてきた。
「勿論鉱石が採れなくなった街は寂れて縮小した。そして今では村になっている、と」
「……それで、その話は此処に来ることになった理由に関わってるんだね?」
ユエが確認すると、ルイは頷いた。むしろ、今の話が此処に来た理由なのだと彼女は告げた。彼女はポケットから四つ折りにされた紙を出すと、ユエに広げて見せる。受け取ったそれは古い手紙らしきものだった。文字は大分掠れてしまっていて、内容の大半ははっきりとは確認出来ない。差出人の名前と思われるものが最後の方に記されていたが、それも消えかかっている上に何やら難しい文字で書かれていた。
「うーん……全然読めない」
「私にも読めないよ」
食い入るように手紙を見つめるユエに、ルイは苦笑いを浮かべた。ユエの左側に移動した彼女は、彼の肩の方に頭を傾けて手紙を覗き込んだ。右手の人差し指を手紙の上に滑らせて文章に目を向ける彼女の、癖のある銀髪がユエの頬を擽る。……こそばゆく感じるのは、彼女の髪が当たることだけが理由ではない。ユエは頭の片隅でそんなことを思った。
「ユエ、此処を見てくれ」
手紙のある一点で指を止めたルイが、視線をユエへと移す。ユエが言われた通りに彼女の指先を見てみると、其処には辛うじて読めそうな文字が書かれていた。左、右、前などの方向を示すもの――道順だろうか。問い掛けると、ルイはその通りだと頷いた。
地図として書かれていたなら一目瞭然だが、文字だけで書かれると意外にわかりにくいものだ。ちらりと手紙を眺めただけでは、道順が書かれているのには気付けない。手紙を盗み見されても多少問題のないようにしてあるのだろう。差出人は頭がよさそうだと、ユエは考えていた。
「この道順通りに進んだ場所に魔導鏡があるらしい。其処に辿り着けないようにきちんと結界が働いているのか、確認してほしいと頼まれたんだ」
「……その依頼人、大丈夫なの?」
ユエは呆れてしまう。もし結界がまともに働いておらず、頼んだ相手に魔導鏡を盗まれたりしたらどうするつもりなのだろう。悪用される可能性を考えていなかったとしたら、依頼した相手がルイで本当によかった。彼女ならそんなことをする心配はない。
少し考えるような素振りを見せたルイはユエの言いたいことを察したようで、大丈夫だと返した。
「魔導士なら魔具の扱いには慣れているはず。それなのに封印せざるを得なかった代物だ。その辺の悪党に扱える訳がない」
「でも、その魔導士が大したことのない奴だったとしたら」
「封印と多重結界を同時に行えるのに?」
返す言葉が見付からず、ユエは閉口する。ルイは彼の手元から手紙を抜き取り、一番上に書かれた短い文章――受取人の名前らしきものを眺めた。
嘗て魔導士からこの手紙を受け取ったのは、先代の村長だ。そしてこの手紙は受け継がれ、現在の村長の手元へとやってきた。ルイに依頼をしてきたのは、その現在の村長だ。
今生きている者の中で、直接封印も結界も確認したことがない、手紙と口伝えでしか知られていない魔導鏡の存在。普通の村民がそれを確かめに森や坑道に入るのは危険過ぎると考えたからこそ、村長は旅人であるルイに依頼したのだ。並の魔導士や魔術師では結界を弄ることは出来ても、封印を解かれた魔導鏡を扱うことは無理だと、彼は充分に理解している。寧ろそのことは彼にとって好都合だろう。悪用される心配が少ない上に、結界が破られていた場合は張り直して、安定した封印を保てるのだから。
「私は魔術師じゃないから、同じような結界は張れないと言ってある。もし結界が充分に機能していない場合は、仮の結界を張って一旦村に戻る。依頼人を連れてきて確認してもらったら、例の魔導士を呼んでもらうさ」
「百年前の人間が生きてるとは思えないけどね」
それなら他の奴を呼ぶしかないだろう。ルイは苦笑混じりにそう呟いた。
ユエは来た道をちらりと振り返り、再び視線を前に戻す。それなりに奥まで来たように思えるが、道中に結界らしきものがあった覚えはない。まだ此処は全体的には手前の方で、この先から結界があるのか、それともこの辺の結界は既に機能していないのか。ルイに問い掛けると、彼女は困ったような表情を浮かべた。
「私も結構奥には来ていると思う。しかし……全く結界らしいものは感じない。何らかの力は働いているように感じるけど、多分結界じゃない」
ある程度結界がなくなっているだろうとは、ルイも予想していた。だが、実際の状態は彼女の予想を遙かに越えていた。率直に言ってしまえば、結界は全くないのに力だけは働いている、奇妙な状態だった。
人を寄せ付けないことが目的の結界ではないのか――そう考え始めたルイの前で、不意にユエが足を止めた。彼は驚いたような顔をして、前方を注視していた。
「どうした?」
「……ルイ、此処までの道順、覚えてる?」
ルイは手紙を確認する。今までに選んできた道と、書かれている道順を照らし合わせていくと、この道を選んだ場所が、道順の文章の一番最後になっていた。
「少し前に通った別れ道が、最後の分岐点だったみたいだな」
「じゃあ、やっぱり……」
ユエは額に手を当て、呆れたように溜息を吐いた。その言葉にルイが首を傾げていると、彼は静かに前方を指差した。彼の指先から徐々に前に視線を向けて、ルイは彼が何故溜息を吐いたのかを理解する。
其処は随分開けた場所だった。今まで通ってきた坑道よりも圧倒的に広く、見上げた天井は闇の中に溶け込むように消えていて、どれ程の高さなのか目視ではわからない。壁に沿うような形で二人の背丈程の水晶の柱が並んでおり、ぼんやりと光っている。水晶柱の生えた地面には幾何学的な模様が幾つも描かれ、透き通るような光を放っていた。円形に並んだそれは間違いなく、魔法が使われている証である陣だった。水晶柱の根元から黒い鎖が陣の中心に向かって張られ、其処にある『何か』を封じている。ルイが感じていた力は、これのものかもしれない。
二人はゆっくりと陣の中へと足を踏み入れた。足元の陣を壊さぬよう、慎重に中心部に近付く。一歩踏み出す毎に、黒い鎖に雁字搦めにされた物の正体が少しずつ見えてくる。
残り数歩で中心に辿り着く所で、ルイが立ち止まった。ユエはその隣で不思議そうな顔をしたが、彼にも理由は直ぐにわかった。
「……何か聞こえる」
「私も聞こえた」
何かいるのかと辺りを見渡すが、特に気配は感じない。この空間にいるのは、確かにユエ達二人だけだ。
言い知れぬ不安を覚え、ユエは外に出ようとルイを促した。直感的に、長く此処にいるのは危険かもしれないと判断したのだ。それに、依頼されたのは結界の有無を確認すること。これ以上進む必要はないはず。
ルイは少し迷っているようだったが、ユエに手を引かれると、何も言わずに応じた。
声が聞こえたのは、二人が踵を返そうとした、正にその時だった。
――……い。
先程よりもはっきりと聞こえたその声に、思わず振り返る。彼らの背後では黒い鎖が微かに揺れ、擦れ合うような金属音が響いていた。徐々にその音は大きくなり、同時に空気が張り詰めていく。
急いで離れようとした二人の横で、水晶柱が粉々に砕け散った。次々と割れていく水晶柱と共に、黒い鎖に罅が入り、弾け飛んでいく。
突然のことに驚いて目を見開くルイの手を後ろに引き、ユエは彼女を庇うように前に立つ。そんなユエの耳に、彼とよく似た声が届いた。
――許さない。
足元の陣が目も開けられぬ程に輝き始め、二人は思わず目を瞑る。やがて陣は光の粒となり、空気に溶けるように消えた。
ユエはそっと目を開ける。視界は白くぼやけていたが、徐々に色を取り戻していった。
地面の至る所で、砕けた水晶の欠片が紅い光を宿していた。だが、先程までと比べると、相当暗い輝き方だと感じる。また、黒い鎖は陣と同じく、跡形もなく消えていた。
陣の中心であった場所には、何時の間にか人らしい姿があった。袖のない紫の外套を羽織り、右手には長剣を、左手には短剣を握り締めている。紅い髪はユエと同じぐらいの長さだろうか。俯かせた顔は見えず、どのような表情をしているのかはわからない。
ユエはふと、自分の腕を掴むルイの手が微かに震えたのに気付く。どうしたのかと振り向けば、彼女はユエの背に隠れるように身体を縮こまらせていた。
「……最悪だ」
呟いたルイのその言葉が何を意味しているのかを、ユエは察した。破砕された水晶柱に、消えてしまった黒い鎖と陣。それはつまり、封印が彼らの予想を遙かに越える状態――いつ破られても可笑しくないまま、今まで耐えていたことを。そして、とうとう限界を迎えてしまったことを。
背後に立つルイに、もっと後ろに下がっているようにと告げ、ユエは腰に差していた長剣を抜く。鞘と金属の擦れ合う音に反応したのか、俯いていた相手の肩が微かに動いた。ゆっくりと顔を上げると同時に、その紅い髪が揺れる。少々長めの前髪と、女とも男とも思えるような、整った顔立ち。
二人はただ驚愕の表情を浮かべるしかなかった。相手は、ユエと同じ容姿をしていたのだ。服装や髪の色は違うが、それは紛れもなくユエの姿だった。徐に開かれた虚ろな瞳は鮮血のような紅色を呈し、硬直する二人を映す。
目の前に立つ紅い容姿のユエは間違いなく、此処に封じられていた魔導鏡だった。二人の姿を暫し見つめていた彼は、やがて静かに目を細めた。
「――彼奴は、何処にいる」
ユエよりも幾分か低い、落ち着いた雰囲気の声だった。
不意に質問を投げ掛けられたユエとルイは、互いに顔を見合わせる。『彼奴』とは、誰のことなのだろう。心当たりと言えば、魔導鏡を封印したという魔導士ぐらいだが、彼らにはわからないとしか答えようがなかった。
沈黙したままの二人に対し、問い掛けた彼は長い息を吐いた。この二人は何も知らないようだと判断して、彼は二本の剣を構える。ユエが逸早く反応し、牽制の為に長剣の切っ先を向けてきた。
魔力を感じない。表情を強張らせるユエの様子を眺め、彼はそんなことを思った。光の力こそ感じるが、魔力ではない。反対に、後ろに立った少女は強大な魔力と、彼が初めて感じる力を宿しているようだった。
『ユエ』としての記憶が、ふと脳裏を過ぎる。自分の写し取った者の名前と、此処数年間の記憶――少女の名前に、彼女が何者なのか――ユエの見聞きしてきた情報が、次々と頭の中に浮かんできた。そして、こうして封印が解けた理由に、彼らが関わっていることも知る。
封印が解けた今、自分がすべきことは決まっていた。だが、それには力が、魔力が足りない。百年もの封印は、自分の魔力を相当奪ったようだ。
それならば――。
警戒心を露わにして長剣を構え続けるユエと、隠れるように後方に立つルイを見据える。二人のその反応は、得体の知れない存在である自分に対する怯えからだろう。嘗て何人もの人々が、彼に対して同じ反応をしていた。……何年経とうとも変わらないのだな。強がりを見せるユエを面白可笑しく感じて、彼は口角を吊り上げた。
ユエの肩越しに様子を窺っていたルイは、彼の浮かべた笑みに違和感を覚えた。ユエと同じ姿をしているが、全く違うと感じるのだ。色合いも、浮かべた表情も、醸し出す雰囲気も、ユエであってユエではない。Dユエとでも呼ぶべきか。
対峙する二人の『ユエ』を交互に見て、ルイはどうしようかと思案する。自分の力で再びDユエを、魔導鏡を封印すべきかと考えたが、そんなことが出来る気はしなかった。今、彼は鏡ではない姿を得て、両手に武器を携えている。呪文を唱えなければ攻撃出来ないルイでは、彼を相手にするのは難しい。此処はユエに任せるべきだろう。
ちらりとユエの顔を見れば、彼は緊張した面持ちでDユエを見つめていた。恐らく、何時攻撃を受けても対処出来るように集中しているのだ。
不意にDユエが地を蹴り、走り出した。長剣を持った手を引いたかと思うと、ユエに向かって勢いよく振り下ろす。ユエは瞬時に反応して自らの長剣で受け止めるが、相手が片手で振るったにも関わらず、腕に掛かった力は思いの外強かった。
体格の問題ではないと、ユエは直ぐに悟った。相手はその身体での、最も効率のいい攻撃の仕方を知っているのだ。ドッペルゲンガーとして、余程多くの姿を写し取ってきているのだろう。
どうにか押し返そうと、ユエは長剣を両手で握り、力を掛けた。剣身が擦れ合い、微かに火花が散る。だが、交えた長剣越しに見えたDユエは、その笑みを崩してはいなかった。
「その程度の力か。『ユエ』も大したことはないようだな。……今は、貴様の相手をするつもりはない」
「なっ、」
自分の名前を知られていることに驚く間もなく、ユエは思わぬ力で突き飛ばされる。Dユエに蹴られたのだと気付いたのは、腹部に鈍い痛みが走ったことからだった。蹴ると同時に長剣を弾かれ、バランスを崩したユエの身体は地面に仰向けに倒れ込む。強かに腰を打ち付け、今度は痺れるような痛みが身体を駆け抜けた。自分を心配するルイの声が聞こえたが、言葉を返す余裕もなく、ただただ苦悶の表情を浮かべるしかなかった。
慌てて彼に駆け寄ろうとしたルイの前に、Dユエが立ち塞がった。咄嗟に足を止めた彼女の耳元に口を寄せる。
「――悪いな」
何時の間にかDユエが手にしていたはずの長剣は消えていた。腕を掴まれたかと思うと、ルイは強い力で引き寄せられる。抱きかかえられるような形で収まった彼女の首筋に短剣が押し当てられた。皮膚から伝わる冷たい刃の感触に、彼女の顔からさっと血の気が引く。
「ルイに手を出すな!」
今にも頸動脈を切り裂こうとする短剣を見て、ユエが声を上げた。Dユエはそんな彼にちらりと目をやり、それは無理な相談だと一蹴する。
立ち上がったユエは長剣を構え直して詰め寄ろうとするが、ルイが半ば人質となっている以上、下手に動くことは出来なかった。少しずつ距離を縮めようと歩を進めると、Dユエはくるりと身体の向きを変え、ルイの背後へと回り込んだ。短剣を押し当てた様をユエに見せ付けるように、彼女の頭を片腕で抱えて押さえる。Dユエの腕を反射的に両手で掴んだが、彼女の力では引き剥がすことは到底出来なかった。
息苦しく感じてルイが小さな声で呻くと、彼女を押さえ込んでいた腕の力が少しだけ弱まった。Dユエの腕の中からその顔を見上げると、彼は大人しくしているようにと溜息混じりに囁いた。
突然、ルイは全身の力が抜けるような感覚に襲われる。足はふら付き、立っていることもままならない。首筋にひりつくような痛みが走ると共に、刃が触れた白い肌にじわりと紅い血が滲む。Dユエの瞳が血の色を映し、一段と紅い輝きを増したように感じた。
其処で意識が途切れ、ルイはその場に頽れる。倒れ伏した彼女の頬に、鮮血が短剣を伝って滴り落ちた。
ユエは青褪めた。出血の少なさからは彼女が殺された訳ではないとわかっていたが、それでも失神してしまった彼女が心配だった。駆け寄ろうにも、Dユエの短剣はその切っ先をルイの方に尚も向けている。迂闊に彼女に近付こうとすれば、そのまま短剣を彼女の元へ落として……などということもあり得るのだ。
動けないままのユエに一瞬だけ視線を向けてから、Dユエは目を閉じているルイをどうしようかと考える。このまま彼女の魔力を奪い、殺してしまうのは簡単だ。しかし、彼女がいる為にユエが何も出来ないでいる今の内に、彼を殺してしまう手もある。ルイが気絶する前に少量だがその魔力は奪い取れた。最低限の力で以ってユエを葬る方が効率はいいだろう。
少々迷ったが、やはり先にルイから片付けることに決めた。ユエがどのような力を使うのかは知っている。彼が使うのは光属性の力。ただし、それは魔力ではなく、本来ならルイが持っているはずの、天使と同じ力だ。完全に記憶を写し取れなかった為に、どういう経緯があってそんな力を持っているのかはまではわからない。一方で、Dユエが使うのは闇の魔力。この世界の理で、光ある所に闇が必ずある以上、光属性は闇属性に不利である。従って、負けることはまずあり得ない。それならば、ユエよりもルイを優先すべきだろう。Dユエには、ルイの得体の知れない力の方が余程危険であると感じられたのだ。
彼が魔力を込めると、短剣は黒い霧を帯び始める。霧を纏った短剣はその刀身を大きく伸ばし、長剣へと姿を変えた。
先程ルイに付けた首筋の傷に、ゆっくりと切っ先を当てる。後は深く刃を突き刺し、その細い首を切り裂くだけだった。
だが、不意に覚えた頭痛にDユエの手が止まる。魔力を奪うことには何の抵抗もなかったが、殺すことには躊躇いが生じた。殺そうとする意志に反して、手は全く動かない。
Dユエの様子が変わったことに気付き、ユエは首を傾げた。どういう訳か、先程まで放っていた殺気が消えている。何かに戸惑っているように見えた。
今なら攻撃出来るかも知れない。ユエは意を決して、自分の長剣に力を集中させる。長剣は柄から剣身に向かって銀の光を纏った。ユエの瞳の蒼がより深い色に変わり、長剣の銀の光を受けて、まるで星の輝く夜空のような、神秘的な輝きを放つ。両手で柄を握り締めると、Dユエに飛び掛かった。
流石のDユエも、この状況で攻撃を仕掛けられるとは予測していなかったのか、僅かに切迫した表情を浮かべる。ユエの動きを止める為に、ルイを傷付けようとするが、やはりそのまま剣を引くことは出来なかった。仕方なくルイをその場に置いて、ユエの攻撃が当たる直前に跳躍する。
避けたDユエの方に向け、ユエは長剣を薙ぐように振るう。剣の軌跡が銀色の弧を描き、勢いよく飛び出していった。銀の光の粒で出来たそれを、Dユエは自分の長剣で受け止める。光の粒が弾け飛ぶと共に、彼の身体に痺れが走った。手足に上手く力が入らず、地面に片膝を付く。先程受け止めたそれが、麻痺させる為の術だったことに気付き、Dユエは舌打ちする。
その隙にユエは長剣を鞘に収め、倒れていたルイを抱き起こす。彼女の身体を抱え上げて、周囲に視線を飛ばした。
彼らが通ってきた道は、Dユエの背後にある。自分の斜め後ろに他の道が一本あるが、外に繋がっているかわからない。だが、迷っている暇はなかった。
ユエは自分の背後の道へと駆け出す。道に入ろうとした所で、後ろから飛んできた短剣が、彼の頬を掠めた。はっとして振り返ると、Dユエが長剣を手に立ち上がろうとしていた。普通ならば痺れて暫く動けないはずだが、人ではないからか、術の効きが悪いらしい。
一歩ずつ近付いてくるDユエに合わせて、ユエも一歩ずつ後退する。
「そう簡単に逃げられるとでも?」
細められたDユエの紅い瞳が、怪しく輝く。ユエの頬を、切り傷から流れた血と共に冷や汗が伝った。
しかし、Dユエはそれ以上ユエ達に近寄ることは叶わなかった。火花の散るような大きな音がしたかと思うと、Dユエが驚いたような表情を浮かべて二人から離れた。彼の服の袖口には、僅かに焦げたような跡が残っている。ユエが目を凝らして見ると、何時の間にか彼らの間には結界が張られていた。Dユエはこれに邪魔され、進めなかったのだ。
「忌々しい……!」
唇を噛み、憎々し気に呟くDユエの言葉で、彼にはこの結界が破れないのだとユエは悟った。そして、今まで結界らしきものを感じなかった理由にも、同時に納得する。この採掘場に張られていたのは、人を寄せ付けない為の結界ではなかったのだ。働いていた結界は、魔導鏡を外に出さない為のもの。今目の前にあるそれが、封印よりも余程強く働いているのが、ユエには感じ取れた。何にせよ、この好機を逃す訳にはいかない。
立ち止まってしまったDユエに背を向け、ユエは再び走り出す。後ろから彼の声が聞こえたが、構わずに走り続けた。
敷かれたレールや水溜まりに足を取られないように気を付けながら、どんどん奥へと進む。分岐した坑道を幾つか通り、レールの敷かれていない道へと入った。今まで通ってきた所とは違い、独特の湿気は感じるものの、水の滴る音は聞こえない。
注意深く観察すると、周りには多くの木箱が山積みにされ、錆び付いたシャベルや鶴嘴が壁に立て掛けてあった。此処は恐らく、倉庫代わりに使われていた場所なのだろう。坑道を広げたような形をしている為、来た道の向かい側には更に奥へ続く道がある。
ルイを木箱に寄り掛からせると、ユエは腰のポーチから薬や包帯を取り出す。必要最低限の量しか持ち歩いていない為、彼女のケガが大したことのないものでよかったと、心の底から安堵した。彼女の頬に付いていた血を拭い、首筋の傷には締め付け過ぎないように包帯を巻いておく。自分の頬の切り傷は出血も殆どなかったので、そのままにしていた。
手当てを終えても、ルイはまだ目を覚ましそうになかった。溜息を一つ落としたユエは、彼女の隣に座り込み、これからどうしようかと思案する。通ってきた道を戻る訳にはいかないが、無闇に先に進むのも得策ではない。
困ってしまったユエはふと、ルイが持っていた手紙のことを思い出す。ちょっとごめんね、と呟いて、彼女のポケットから食み出していたその手紙をそっと抜き取った。広げた手紙と暫し睨めっこをする。掠れてしまった文字を目で追い、時には前後の文から判断して、どうにか内容を補う。よくよく読んでみると、手紙に書かれている道順は一つだけではなかった。書かれていたことを整理すると、ユエが逃げる為に通ってきたこの坑道の先が、彼らが入ってきた入口に繋がっているとわかったのだ。
この道を使うしかない。ユエは手紙を自分のポケットに仕舞うと、ルイを優しく抱き上げる。慎重に様子を窺いながら、再び坑道を進み始めた。別れ道に出る度に、手紙に書かれていた道順を頭の中で思い出す。
後一つ別れ道を過ぎれば元来た場所に戻れるという所で、突如として大きな音が鳴り響いた。何かが崩れるような音が、坑道中に反響する。ユエの腕の中で瞼を閉じていたルイが、音に驚いたのか目を覚ました。
「な、何かあったのか?」
「わかんない……。それより、ルイが起きてよかった。大丈夫?」
鳴り響いた音の正体は気になったが、ルイのことの方が心配だったユエは、ほっとした表情で彼女に目を向けた。ユエの顔を見上げながら、彼女は静かに頷く。
地面に立たせてもらったルイは、自分が気を失っている間に何が起こったのかを理解していないようだった。ユエが手短に今までの経緯を説明すると、彼女は首筋の包帯を確認するように手を添え、申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんな顔しないでよ。俺は別に気にしてないから」
苦笑しながらルイの頭を撫でると、彼女はスカートをぎゅっと握り締めて、すまないと呟いていた。ルイのせいでこうなった訳ではないのだが、責任の一端は自分にあると考えているのだろう。確かに、此処に来なければこんな目に遭わなかったかもしれない。
「運が悪かったってだけ。こんなことになるなんて、俺も思ってなかったし」
彼奴が出てくるかもしれないって、考えておくべきだったのかもしれないけど。口には出さず、ユエは心の中でそう付け足した。
ルイは少し迷うような素振りを見せた後、ぽつりと呟いた。
「……彼奴は、ただのドッペルゲンガーじゃない」
「え?」
包帯に添えていた手を見つめて、ルイは眉を顰める。Dユエの腕を、この手で掴んだ。彼はルイが息苦しそうにしているのに気付き、力を弱めたのだ。彼としては大した意味のない行動だったのかもしれないが、それ以上に不可解なことがあった。
――何故殺さなかった。
ルイはあの時、自分が殺されたのだと思っていたのだ。冷たい刃が皮膚を裂く感触と、それに合わせるように抜けていった身体の力。それが死に近付いた為に起きたものだと。意識を失った後、こうして再び目を覚ますことになるとは考えていなかった。
耳にしていた魔導鏡の、あのドッペルゲンガーの情報は、もっと残虐な性質を持った存在だということだった。聞かされた昔話からも、それは窺い知れた。姿形が同じだけで、元の姿の持ち主のような優しさは持ち合わせていない。平気で人を殺せるような、そんな恐ろしい存在だと。
それなのに、何故。
ちらりとユエを見やると、彼は困惑しているようだった。ルイの言葉の意味が、わからないのだろう。
何方も同じ『ユエ』の姿でありながら、ルイを守ろうとする本物と、彼女を殺そうとする偽物。実は全く異なる存在。それが彼らの関係だと思っていた。
だが、もしも偽物と雖も、記憶や意識すら共有する『ユエ』であったなら。少なからず本物の意志が働くことも、あり得るのだろうか。ただ姿を写し取るだけのドッペルゲンガーではないとすると、その可能性はある。
考え込んでいたルイに対し、ユエは取り敢えず先に進もうと彼女を促す。片手を差し出すと、彼女は逡巡した後、そっと握り締めてきた。
「さっきの音だけど……もしかしたら何処かが崩落したのかも。足元まで崩れてたりすると危ないから、気を付けて」
ルイは首を縦に振り、すっかり忘れていた光球を灯し直す。何時の間にか消えてたね、とユエは苦笑していた。道中では逃げるのに必死で、暗いと感じる暇もなかったらしい。
前を歩くユエの周りを旋回するように光球を飛ばした。坑道の中をぼんやりと照らされるだけで少し頼りないが、余り強い光を使えば、Dユエに居場所を気付かれるかもしれない。何時までも大人しくあの場所にいるとは、到底思えないのだ。
数分歩き続けると、二人は見覚えのある道に出た。確か、魔導鏡が封印されていた場所に最も近い別れ道だっただろうか。
「こっちに進むと出口、だよね」
ユエは足元のレールが重なり合う点を見て、二つのレールが一本になり続いている方を指差す。
「何ごともなく通れるといいんだけど……」
鳴り響いたあの音が落盤によるものだとすると、何方の道は確実に塞がれてしまっているはず。それが出口方面でないことを祈って、二人は進んだ。
案の定、やはり落盤によって坑道は通れなくなっていた。よりにもよって、出口に続いている側の道が。
散乱する岩とその破片を前に、ユエは頭を抱えてしゃがみ込む。何故事態は悪化する一方なのか。このタイミングで落盤が起きるとは、運命の操り人に死ねとでも言われているようだ。
「態と、かもしれないな」
ルイの呟きに顔を上げると、彼女は岩の破片の中から何かを拾い上げ、ユエに見せる。彼女の手の中で煌めくそれは、鉱石らしい結晶の欠片だった。仄かに魔力と、他の力を感じる。
「多分、これが結界を張る力の源だったんだろう。あの場所の水晶と同じように。もしこれを壊そうとするなら、多大なエネルギーが必要になる。自然に壊れないようにしてあるはずだから、物理的な攻撃だと弾かれると思う。そんな強さの魔法で壊すなんて、こんな古い坑道が耐えられる訳がない」
「じゃあ、ドッペルゲンガーの奴が壊したせいで崩れたってこと?」
「だろうな。崩れて坑道が使えなくなれば、結界がなくても外に出ることは不可能。つまり、魔導鏡は永遠に封じられたままになる。しかも最初に来たとき、此処にこれがあると私達は気付けなかった。見付け難いように、幻術で隠していたのかもしれない。……例の魔導士、相当頭が切れるみたいだな」
これ程までに必死に封じられてしまうと、Dユエが少し不憫に思えてくる。やはり、それ程までに封印しておかなければならないような存在なのだろうか。
一際大きな岩に手を触れ、ルイは頭上を見上げる。岩盤に生じた罅割れから、砂と水滴が落ちてきている。彼女の力で岩を吹っ飛ばせれば楽なのだが、この岩の数々はこれ以上坑道が崩れないように押さえているのだ。無理に退かせば、崩れて生き埋めになるかもしれない。この道からの脱出は諦めざるを得ないだろう。
ルイは溜息を落とした。Dユエが結界を壊した為に、この道は塞がれてしまった。つまり彼は今、あの結界の張られた場所から出て、自分達を追ってきているはずだ。しかも、結界を壊しても彼は外に出られないでいる。最初に聞いた『許さない』の言葉からも察するに、魔導士に対する恨みが相当溜まっていることだろう。……八つ当たりをされなければいいが。
このまま来た道を戻れば、Dユエに鉢合わせするかもしれない。あの魔導鏡の封じられていた場所を経由して、他の出口を探すべきだ。ユエにそう提案すると、彼もその方がいいだろうと頷いた。
坑道を歩いていると、彼方此方で結界が壊されてしまっているのか、今までに感じていた力が消えてしまっていることにルイは気が付いた。出口が全て塞がれてしまうのも、時間の問題だ。他の出口が残っている内に見付けなければと、二人は足を急がせた。
* * *
今まで通り敷かれた古いレールに、頭上にぶら下がる壊れた照明。延々とそんな同じような道ばかりが続き、ルイもユエも段々とどう歩いてきたのかわからくなってきた。別れ道には目印を残しているが、一度も目印を見ていない。同じ所を回っている訳ではないということだが、それにしても出口が見付からない。行き止まりには何度か突き当たったが、まだ通っていない道も多いだろう。どの道が出口に続いているのか把握出来ないまま、二人はひたすら歩き続けていた。
「相当歩いたと思うんだけど……どれだけ広いんだよ、此処は」
疲れたようにぼやくユエの隣に立ち、ルイは壁に手を触れる。彼女が険しい表情を浮かべているのに気付き、ユエも壁の方を見る。特に何の変哲もないようだが、何かあるのか。問い掛ければ、困ったような表情と共に彼女は振り返った。
「やっぱり、此処にあるのは結界だけじゃないみたいだ。幻術が働いているせいで、迷宮みたいになっている」
こんなに広いはずがない。彼女は溜息混じりにそう付け足して、手を付いていた壁を数回叩く。堅い音が返ってきたが、ユエはその音に違和感を感じた。余韻が少し長めに感じたのだ。彼も自分の手で叩いてみると、やはり長く響いているように感じる。
成る程、とユエは心中で呟く。ルイに少し下がっているように告げて長剣を構え、その剣身に自らの力を集中させる。ルイが先程まで触れていた壁に勢いよく長剣を振り下ろすと、銀の刃が一際輝き、硬質な音が鳴り響いた。何かが皹割れる音に続き、目の前の壁に亀裂が入っていく。やがて壁は一枚の硝子の板に変わり、砕けて消えた。先程まで壁だったその向こうには、新たな道が続いている。レールが敷かれていない所を見ると、坑道とは関係のない道なのだろう。
「まあ、こういうことだな」
足元に散らばった硝子の破片には、鉱石の欠片らしきものも混じっていた。これは結界を張っていたものではなく、幻術により道を隠していたものだ。この採掘場跡に働く力は結界と幻術の二種類だったが、結界が壊されて少なくなったことで、今は幻術に力が使われているのがはっきりとわかるようになっていた。
属性に関係なく、何らかの力を使えば幻術も結界と同じように突破出来そうだ。しかもわざわざ隠されているとは、この道を使えば外に出られる可能性もある。此処に関わった魔導士が切れ者であるのは、既にわかっている。魔導鏡が二度と外に出られなくとも、魔導士自らも二度と中に入れないようにはしないだろう。その為の道を、こうして隠していたのかもしれない。
ルイの手を引き、ユエが先導して歩く。坑道よりも幾らか新しいように感じる道を進んでいくと、別れ道に残してきた印の書かれた壁が見えた。先程通った際は、隠されていたこの道に気付かなかった為に、印の方に進んだのだ。
「近くに同じような道が隠されているかもしれない。手分けして探そう」
ルイの提案に頷き、ユエは周囲の壁に手を触れながら、幻術による微かな違和感を探す。ユエは余り気配などに敏感ではなく、努力すれば感じ取れる程度だ。時間が掛かるかもしれないと考えた矢先に、ルイが彼を手招きした。
「此処にあるみたいだ」
彼女が指差した壁を見てみるが、やはり見た目では普通の壁にしか思えない。それでも先程と同じように力を加えると、やはり幻術で出来た壁はあっという間に砕け散る。
直ぐに気付けるとは、ルイはかなり敏感なようだ。現れた道に危険がなさそうなことを確かめて、ユエは後ろに立つ彼女に視線を向ける。早く進もうと急かす彼女に背を押され、再び歩き出した。
覚えのある坑道を時には横切り、或いは新しく現れた道を進んでいく。今まで複雑に入り組んだ所を彷徨っていたが、意味は特になかったようだ。そんな坑道の数々を突っ切るように、この道は続いていた。
休憩を挟みながら歩くこと数十分。二人の視界の先に、僅かに光が見えた。微かに風が頬を撫でていくのを感じる。
漸く出口らしいものが見えたことで、ユエは坑道の狭さに今更ながら息苦しさを覚えた。外の光を見ることが、久しぶりのようだ。
ルイはいても立ってもいられなくなったのか、ユエの横を擦り抜けるように外に向かって走り出した。彼女を追い掛けようとしたユエだったが、不意に彼女の足元の水溜まりが不自然に煌めいたのに気付く。
「ルイ、待って!」
彼女の名前を叫び、その腕を掴む。自分の方へ倒れてきた彼女の身体を抱えた次の瞬間、彼女の前を塞ぐように、無数の針が水溜まりから現れた。勢いよく壁や頭上に向かって伸びる様子を見て、危うく突き刺さる所だったと、二人は冷や汗をかく。
「流石に当たらないか」
響いたその声に振り返れば、長剣を手にしたDユエが、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
まさか結界を全て破り、此処まで来たのか。彼が追ってきていたのは予想通りだったが、結界は少なくなかったはず。幾ら何でも早過ぎると、ユエは思わず舌打ちをした。
「全く、結界など小賢しい真似を……。弱るまで魔力を使わせるつもりか」
呟かれたDユエの言葉は、ユエ達に宛てられたものではなかった。あの魔導士への悪態だろうと考えたユエの服を、ルイが軽く引いた。
「私がこれを壊す。だから、少し時間を稼いでほしい」
道を塞ぐ針の数々を指差しながら、ルイが見上げてくる。わかったと頷いて、ユエは長剣を構えた。
背後でルイが詠唱を始めたのを確認すると、ユエは長剣を両手で握り締めて走り出す。勢いよく地面を蹴って、長剣を振り翳した。
切り掛かってきたユエの刃を、Dユエは冷静に自分の長剣で受け止める。ユエは直ぐに長剣を弾いて後ろに飛び退くと、再び地を駆け、切っ先を突き出す。
ユエの攻撃を淡々と受け流しながら、Dユエはちらりとルイに視線を送った。彼女は間もなく詠唱を終えようとしていて、その両手の間には、既に術が完成している。
逃がすものか――Dユエは長剣を持たぬ方の手に、魔力を集中させる。そして、ルイが術を放ったのを見て、彼も素早く魔力の塊を手にした。
「避けて!」
針が粉々に砕けるのを見ていたルイは、ユエの声にはっとする。彼女に振り返る間も与えず、Dユエは魔力を放った。
雷鳴のような音が轟くと同時に、魔力の塊がルイに直撃した。痛みこそ感じなかったが、彼女は力なくその場に座り込んだ。手足が痺れ、立ち上がろうにも力が入らない。
ユエは慌てて彼女の元へ走り寄る。大丈夫かと彼女に声を掛けてしゃがみ込んだその首筋に、冷たい刃が押し当てられた。切っ先から剣身へ、更にその先へと視線だけを向ければ、Dユエが笑みを浮かべているのが見えた。
「残念だったな」
唇を噛み締め、ユエはルイを守るように抱きかかえる。Dユエを睨み上げるが、彼は動じることなく、ゆっくりと長剣を振り上げた。刃に反射した光が、如何に鋭利なのかを物語っていた。
まさか、こんな所で殺されるなんて。ルイを抱き締めるユエの手には、自然と力が籠もる。このまま二人とも切り殺されるのか。長剣が風を切り振り下ろされる音に、思わず目を瞑った。
だが、何時まで経っても身体が切り裂かれるような感覚も、刃物が突き立てられるような感覚もない。
そっと目を開けると、Dユエは長剣を下ろして何故か頻りに周囲に視線を飛ばしていた。そしてユエの腕の中では、ルイも同じように何かに怯え、周りを気にしていた。
二人の行動に疑問を抱いた瞬間、ユエは背筋が凍り付くのを感じた。重苦しく強大なプレッシャーに、肌が粟立つ。先程までDユエの放っていた殺気とは比べものにならない、逃げ出してしまいたくなるような恐ろしい気配だった。
敏感なルイは、ユエよりも先に気付いていたのだ。しかし、そんな重圧を感じさせるような存在は近くには見当たらない。
Dユエが舌打ちをして長剣を仕舞う。彼はルイの方を一瞥すると、出口に向かって走り出した。
「殺すんじゃなかったのか……?」
緊張させていた腕の力をゆっくりと抜きながら、ぽつりとユエはそう口にした。彼の呟きに、Dユエは足を止める。逡巡するような間があった後、振り返らないまま静かに答えた。
「貴様らに構っている暇はなくなった。だが、諦めた訳ではない。その娘の魔力は、何れ必ず俺のものにする」
殺すことは出来ないかもしれないが。口には出さず、Dユエは心の中でそう付け足した。彼にとって最も重要なのは、封印される前と同等か、それ以上に強い魔力を手に入れること。出来ないのであれば、無理にルイを殺す必要はないだろうと考えていた。
それだけを言い残して、Dユエは二人の前から去っていった。彼の後ろ姿を見送り、ユエはルイに視線を戻す。まだ立てそうにない彼女を抱き上げて、ユエも出口へと向かう。
「行こう。此処にはいない方がいい」
ルイはそっと頷き、ユエの胸に凭れ掛かった。疲れてしまったようで、彼女は少し休むと伝えて目を瞑る。
溜息を落としたユエは、一度背後を振り返る。真っ暗な道が続いているだけで、人影などは確認出来ない。そもそも、Dユエが全ての結界を壊してしまったのなら、此処以外の出口はなくなっているはずだ。何処から来ているのかはわからないが、恐ろしい気配は消える所か、徐々に近付いてきているように感じる。接触するのは危険だろう。
急いで外へと出ると、既に陽は傾き掛けていた。山々の向こうからオレンジ色の光が差し、ユエ達の影が長く伸びる。出てきた場所は、川沿いの小さな洞窟の前だった。子供の背丈程の大きさの木々が、洞窟を隠すように生い茂っている。
遠くに見える山の並び方には見覚えがあった。坑道は複雑だったが、村とはそう離れた場所ではないのだろう。今朝村から見えた景色を頭の中で重ね合わせながら、ユエはそう考えた。
Dユエの姿は既に近くには見当たらなかった。彼すら恐れていたあの嫌な気配は、外に出てからは感じない。まだ採掘場に残っているのだろう。人か動物かも判断出来なかったが、何時目の前に現れるのかもわからないので、早々に立ち去ることにする。
それにしても、とんでもないものを野に放ってしまった。本来封じるのが目的だった魔導鏡は、ユエの姿を得て外に出てしまっている。彼の言葉から察するに、また二人の前に現れるつもりだろう。
「ルイを、守らなきゃ……」
出来れば、永遠にDユエが現れなければいい。これから戻る村にも、この先訪れた先でも。ユエはそう祈りながら、重い足取りで帰路に就いた。