表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/45

精霊の地

ルイが過去を語ります。


(2018年3月8日加筆・修正)

 ユエは、不機嫌な表情を浮かべているルイの後ろを、少し怯えながら歩いていた。彼からはルイの背中しか見えないが、醸し出される重い空気だけでも、彼女の機嫌が悪いのがわかる。


「えっと……ルイ?」


 声を掛けても返事はない。一時間程前からずっとこの調子だ。この様子だと、不機嫌というより相当怒っている、の方が適切だろう。

 いい加減、彼女を怒らせないように気を付けた方がいいかもしれない。軽はずみな行動を取ったことを、ユエは後悔していた。

 怒っているルイとの間には気まずい空気が流れているが、彼女はそれでもユエに気を使っているようで、彼から距離を置くような歩き方はしていなかった。少し離れれば、直ぐに互いの姿を見失ってしまうからだ。

 今、二人の周りには深い霧が立ち込めている。霧が出そうな天気だったのに、ユエが思い付きで朝から森に行くと言い出したのだ。案の定、森は霧に包まれてしまい、完全に道に迷ってしまった。これでルイが怒らない訳がなかった。


「ご、ごめんね? 俺が無理言ったから……」


 ルイの背に謝罪の言葉を投げ掛けると、彼女は足を止める。呆れたように肩を竦めると、ユエの方を振り向いた。


「……反省しているのならいい。今はこの状況をどうやって切り抜けるか考えろ」


「う、うん」


 どうやら、漸く許してくれたようだ。彼女の態度が少し優しくなったのを感じ、ユエは取り敢えず安堵の息を吐いた。


「その……無駄に歩き回るのって、得策じゃないと思う」


 今更だが、霧が濃い中で動き回るのは危険だ。こうも視界が悪いと、何処に向かって歩いているのかわからない。余計に道に迷うだけでなく、突然崖に出て落ちる、ということもあり得る。

 それに、霧の中は肌寒く、歩いている内に体温も奪われる。これ以上は下手に動かない方がいいだろう。

 ユエはそう考えを纏め、ルイを手招きする。取り敢えず木陰に座って、霧が晴れるのを待つことにした。彼が地面に座ると、ルイは隣に腰を降ろす。彼女はポケットからハンカチを出して、濡れた髪を拭き始めた。霧の中を大分歩いたからか、髪だけでなく、服もかなり濡れている。

 彼女の長い銀髪が揺れる様を眺めていたユエは、思わず彼女の髪に手を伸ばしていた。手からさらさらと流れ落ちる髪は、露を光らせていて綺麗だった。

 ルイが不思議そうな表情でユエの方を見てくるが、彼は彼女の髪を手にしてはそっと流して落とすと言うことを繰り返していた。


「……ユエ?」


 声を掛けると、彼ははっとして手を止める。数瞬の沈黙の後、ルイの髪を指先に絡めながら、彼ははにかむように笑った。


「綺麗だったから、見ていたくなった」


 ルイは自分の髪とユエの表情を交互に眺めて、そんなに見ていたくなる物だろうかと首を傾げた。長い髪が流れるのは彼女には見慣れた光景だが、ユエの目には物珍しく映るのかもしれない。

 髪に触れていたユエの手が、不意に彼女の頬に当てられる。何なのかと目を瞬かせる彼女を、彼はそっと引き寄せて抱き締めた。

 突然のことに、ルイは顔を赤くして慌て始める。


「ゆ、ユエ!?」


「寒くない? 頬、凄く冷たくなってる」


 ユエはそう言って、ルイの頭に頬を擦り寄せる。ルイが自分の頬に両手を当ててみると、確かに其処だけ体温が低く、冷たく感じられた。言われてみると、少し寒いようにも思える。

 羽織っていた外套を掻き寄せたルイは、そっとユエの胸元に寄り掛かる。彼が抱き締めてくれたのは、優しさからの行動だ。そのことに何故か気落ちしている自分に気付き、ルイは慌てて首を横に振る。自分は何を期待していたのだと。


「どうかしたの、ルイ」


「あ、いや……。気にするな」


 顔を覗き込みながら問い掛けられ、ルイは視線を逸らして誤魔化した。


「まぁ、何でもないならいいけど。それにしても綺麗だよね、ルイの髪。さらさらしててさ、気持ちいいよ」


 ルイの髪を撫でて、ユエは彼女に微笑み掛ける。彼の笑顔は、やけに眩しく感じられた。

 暫く彼の腕の中でじっとしていたが、ルイはふと、彼を突き飛ばして立ち上がる。勢いよく木の幹に後頭部をぶつけたユエは、痛みに呻きながら彼女を見上げた。


「いたた……。いきなり何するんだよ」


「霧が晴れている。今の内に戻るぞ」


 とっとと歩いていこうとするルイの背を、ユエは慌てて追い掛ける。確かに彼女の言う通り、何時の間にか霧は晴れ、木々の隙間からは太陽の光が差し込み始めていた。

 しかし、ユエは周囲の景色に違和感を覚える。先程まで深い森の中にいたはずだったが、直ぐ目の前には花畑が広がっていたのだ。振り返ると、あれだけ生い茂っていた木々は、影も形もなくなっていた。

 ルイも異変に気付いたのだろう。ユエの方を向き、疑問の視線を投げ掛ける。

 次の瞬間、ユエの頭に何かがかなりの速度でぶつかり、彼は痛みに悶絶しながらその場にしゃがみ込んだ。木に頭を打ち付けた先程よりも衝撃が強く、彼の頭上には星が回る。

 大丈夫かとユエを心配するルイの視界の端で、蛍のような光が舞っていた。


「な、何でこんな所に人間が!」


 そう叫んだ蛍をよくよく見てみると、それは小さな人型の生き物だった。両手に収まってしまいそうな大きさの身体に、尖った耳。背中に生える透明な羽が特徴的なその生き物は、二人の顔を見て喚いていた。

 ルイは目の前で羽ばたく小さな生き物を見つめながら、何処かで見た覚えがあると感じ、記憶を探っていた。昔読んだ本の挿し絵に、似たような生き物が描かれていた気がする。


「……もしかして、精霊か?」


「えぇ、これが?」


「『これ』って……ただの人間の癖に失礼な! ちゃんと『リル』って名前があるです!」


 ユエの言葉に、精霊――リルは、不満そうな声を上げた。彼女が動く度に、羽から小さな光の粒が舞い落ちる。『飛ぶ為の物』という点は同じであっても、ルイの翼とは全く違う形態をしている。喚き散らす精霊の姿に、ルイはそんなことを思った。


「聞いたことはあったが、実際に見るのは初めてだ。しかし、何故中央界に?」


「何を寝ぼけたことを言ってるですか、此処は聖清界です!」


 そう言われて、ユエとルイはお互いに顔を見合わせた。二人共、中央界から移動するような術を使った覚えはない。しかし、確かに此処は先程までいた森ではないし、たった何歩か歩いただけで周囲の景色がこんなにも変わるはずがない。リルの言ったことは本当なのだろう。


「あの霧は聖清界への入口だったのか。だから私達は此処に……」


 ぶつぶつと呟くルイの後ろで、ふと、巨大な影が揺れた。ユエが目を向けてみると、此方を睨み付ける金色の瞳と視線が絡み合う。嫌な予感がする――ルイに注意を促そうとした瞬間、彼女の背後にいたそれは、大きな唸り声を上げて二人に襲い掛かった。

 驚いた表情で立ち竦んでしまったルイを抱きかかえて、ユエは慌ててその場から少し離れる。彼の外套を掠めるように、巨大な影は二人の傍を通り過ぎていった。風圧に花弁が散り、二人の髪や服が揺れる。

 影は二人の元に直ぐに引き返して、数歩離れた場所に降り立つ。目の前に現れたことで、漸く全体像がはっきりと見えた。


「あれって……竜!?」


 鋭く光る切れ長の金の瞳。鱗に包まれたやや細めの身体には、大きな翼が生えている。長い尾をゆっくりと揺らしながら、竜は首を伸ばして二人をじっと見つめていた。


「多分……。けど、何か変だ」


 竜という生き物は普通、魔に属する存在だと聞いている。故に魔力を糧として生きるのだが、ルイが感じられる限り、今目の前にいるこの竜からは魔力が感じられなかったのだ。代わりに感じたのは、精霊が持つはずの力、所謂霊力だった。

 二人におかまいなく、竜は今にもその口から火や毒の霧を吐き出しそうだった。

 そう言えば、先程からリルの姿がない。どうしたのかと思って周囲を見ると、離れた所を飛びながら、竜を応援するような言葉を叫んでいた。


「リル……酷い奴」


「当然だろうな。彼奴にしてみれば、私達は敵な訳だし」


「敵って、何で?」


 ユエの疑問に、ルイは手短に説明した。昔は人間に友好的な精霊も多かったが、人々の暮らしが栄えるに連れて精霊は聖清界へと姿を消すようになった。精霊の力は自然の在り方に大きく影響される。人々の手によって森等が減ってしまうと、当然その地にいる精霊の力も弱まってしまうのだ。最悪の場合姿を維持することも出来ず、自然の中を漂うだけの霊力の欠片になってしまう。そういう経緯があってか、現在は人間と深く関わりを持っている一部を除き、殆どの精霊が聖清界にいる状態だ。リルの反応からして彼女は間違いなく人間によって聖清界に留まらざるを得なくなったのだろう。

 だが、それらしい姿を見せていないとは言えユエもルイも人間ではない。勘違いである点は訂正させてほしいものだ。一先ず落ち着かせなければ話も出来ないと、ルイは深呼吸をして一歩前へ出る。静かに詠唱を始めると、彼女の両手の間に光の球が現れる。

 まさかあの竜を相手にするつもりなのか――彼女の行動に、ユエの頬を冷や汗が伝う。巻き込まれては適わないと、彼女の背後で大人しくしていることに決めた。

 詠唱を終えたルイが叫ぶと同時に、彼女の手から大きな水の渦が生まれ、竜の方へと飛び出した。水の渦は竜を飲み込もうとしたが、竜は素早くその場から飛び上がり、避けてしまう。

 しかし、ルイは落ち着き払っていた。間を置かずに次の詠唱を始め、完成させた技を解き放とうとする。彼女が片手を竜に向けた瞬間、突然竜の動きが止まった。彼女が技を放つ前に、竜は自らの意志で攻撃をやめたのだ。

 何故、と首を傾げたルイの後ろで、ユエもまた、何なのかと疑問を浮かべていた。


「――貴方達は、敵ではありませんね」


 透き通るような美しい声が二人の耳に届く。それは、僅かに開かれた竜の口から出た物だった。その雄大な姿からは想像出来ない、優しい女性の声だ。

 竜が大きく頭を擡げたかと思うと、その身体が光り始める。何をするつもりなのだろうと、二人は少し身構えた。

 竜の身体は、輝きながらその大きさを変える。やがて輝きが消えると、ユエ達より少し背の高い女性の姿へと変化した。女性は先程の竜と同一人物とは思えない、優しい微笑みを見せる。


「先程は失礼しました。リルが余りに騒ぐので、敵かと思ったのです」


 その言葉から察するに、威嚇の為に竜の姿に化けていたようだ。あれだけ喚いていれば、確かにそう思われるか。尤もだと感じて、ユエは苦笑した。

 彼が納得する一方で、ルイは女性に不審感を抱いていた。霊力を持つ竜など、聞いたことがない。一体、この女性は何者なのだろう。

 ルイの疑惑に気付いたのだろう、女性は慎ましくお辞儀をして、名前を名乗った。


「私は水の精霊、メルアと申します。此方は植物の精霊のリルです。貴方達は、何者ですか? どうやって此処に?」


 メルアに尋ねられ、ユエはどうしようかと悩んだ。自分達のことを、此処で素直に全て話してもよいものだろうか。自分はまだしも、ルイは天界から逃げてきた身だ。彼女に判断を任せた方がいいかもしれない。

 彼がルイの方に目を向けると、彼女はその視線の意味することを察したのだろう。精霊には特に隠さなくてもいいと言うので、自分達が何者なのかと、此処に来るまでの経緯を簡単に説明した。

 ユエの話を聞き終えるとメルアはルイの方を向き、真剣な表情を見せる。心を見透かしそうなその眼差しに、ルイは少しだけ身体を強張らせた。


「貴女は、堕天使なんですね?」


「……そうだが」


「貴女が先程使った力……天使の力が僅かに含まれていました。けれど、貴女の持つ力は別の物に感じます。その水の力は……もしかして、水の加護を受けているのですか?」


 水の加護。その単語を聞いたユエの頭に浮かんだのは、四大元素の一つである水を司る、大天使の名だった。

 息を呑んだルイの手は、緊張から勝手に震え始める。この後言われるであろうことを予想して、彼女は唇を噛み締めた。

 水に限らず、元素の力を特に強く使う、或いはその元素に守られるようになる方法は一つしかない。その元素を司る者に認められて、力の一部を授かる。それはつまり、その元素の力を完全に操れるようになるということだ。


「到底、並みの者に出来ることではありません。天使の中でも極限られた者だけ。そう、それはこの世にたった一人……」


「もういい、それ以上言うな!」


 ルイはメルアの言葉を遮り、怒鳴った。珍しく感情的になっている様子に、ユエは驚いて彼女を見る。彼女の表情からは、少し焦っているようにも感じられた。

 暫し冷静さを失っていた彼女は、はっとして口元を押さえる。感情任せに怒鳴ったことを、後悔しているようだった。


「ルイ? 大丈夫?」


 ユエに声を掛けられ、彼女は顔を俯かせた。申し訳なさそうな表情を浮かべている。

 一体どうしたのだろうか。ユエは疑問を抱いていたが、メルアは理由を察したようだ。ルイに対して、彼女は謝罪の言葉を口にしていた。


「申し訳ありません。こんな所で話してもよいことでは、ありませんでしたね……」


「あの、話が見えないんだけど」


 会話に付いて行けないユエがそう言うと、ルイは静かに目を細めた。聞きたいのかと問い掛けられ、彼は困った表情と共に頬を掻く。気にならないと言えば嘘になるが、聞かない方がよいのであれば、話さなくてもいいと考えていた。

 ルイにそのことを伝えると、彼女は考え込むように唇に指先を当てていた。やがて黙ってユエの袖を握り締めると、メルアの方を見た。


「騒がせて申し訳ない。私達は中央界に帰るから……」


「いえ……。あの、もし宜しければ、もう少し此処にいてはどうでしょうか。その……リルも謝りたいと言っているので。此方にどうぞ」


 リルの方を見ると、彼女は軽く頭を下げながら、ユエ達をじっと見つめていた。まだ完全に警戒を解いた訳ではないのだろう。

 先を歩き始めたメルアに付いて行こうかとユエが悩んでいると、ルイにそっと耳打ちされた。


「取り敢えず、彼女の言う通りにしよう。お前に話したいこともあるしな」


「話したいことって……さっきの続き?」


 首を傾げるユエに構わず、ルイは既に歩を進めていた。会話の内容にも彼女達にもすっかり置いて行かれてしまったユエは、困惑しながらその後を追った。


 * * *


 メルアに案内されたのは、森の中に建てられた古い洋館だった。テーブルに用意された紅茶を口にしながら、ユエは溜息を一つ落とす。ちらりと隣に座るルイに視線を送ると、彼女は思い詰めた様子で窓の外を見つめていた。森の木々と近くに見える小さな湖を眺める彼女には、何時ものような気丈さが感じられない。


「此処なら、盗み聞きをする者もいません。安心して話せますよ」


 紅茶に砂糖を溶かしながら、メルアはそう告げた。他の精霊に騒ぐことはないと伝えるようにリルに頼み、メルアは紅茶を一口含む。

 リルが何処かへ飛んでいくのを見送ってから、ルイは窓から視線を外す。躊躇うように口籠もっている彼女が真剣な表情を浮かべているので、ユエも少し緊張しながら彼女の話に耳を傾けた。


「私のこの力について天界で研究されていたこと、お前は知っているだろう?」


 ユエは頷く。詳しくは聞いていないが、初めて会ったあの日、ルイはそれが理由で天界から逃げてきたのだと言っていた覚えがある。

 本当は、逃げ出してから直ぐに中央界に来た訳ではないのだと、彼女は口にした。彼女が施設にいたのは、物心が付いた辺りまでだ。


「私はある大天使に育てられたんだ。七歳の時から、ずっと。……それまでは、その研究所に隔離されていたから、外のことは殆ど知らなかった。あの時、私が研究所から逃げ出すまではな」


 * * *


 白い壁に白い床。中にいるのは白衣の研究員。そんな白だらけの部屋の中央に、ルイは座っていた。無造作に長く伸びた銀髪の間からは、虚ろな双眸と包帯が覗く。

 両手に抱えたぬいぐるみを撫でながら、彼女は暇だと感じていた。特に何も置かれていない部屋の中ではすることがなく、何時も呆然と考えごとをするか、何かわからない実験やら研究やらに付き合わされる日々。

 外の世界に行きたい。ずっとそう思っていたが、彼女がこの部屋の外に出られるのは、白衣の男達が来た時だけだった。それでも、連れて行かれるのは外ではなく、よくわからない機械の置かれた部屋だ。彼女と同じように連れてこられた子供の天使が、機械の傍で何やら悲鳴を上げているのを、彼女は度々目にしていた。

 ルイには、今でも忘れられない光景がある。

 白衣の男達の隙を見て、一度だけ部屋を抜け出した時のことだ。部屋の外には、白く長い廊下が続いていた。白衣の男達は廊下を走ってきた彼女に驚き、立ち止まって彼女を凝視していた。

 彼らが運んでいる物を見て、ルイの背を冷たい汗が伝った。それは、実験や薬の投与に耐えられなかったのか、見るも無残な姿になった天使の子供。自分も何時かこうなるのかと考えると、嫌悪感から吐き気を覚えた。

 その後、彼女は捕まり、部屋に連れ戻された。逃げ出した罰として、殴られたり蹴られたりもした。

 だが不思議なことに、痕が残るような傷を負わされたことはなかった。間違っても殺すことのないように、最低限の実験で済んでいたようにも思える。恐らく、同じような特殊な力を持つ者がいなかったからだろう。

 また、制御しきれない危険な力故に、他の子供達とは隔離されていた。同じ天使の子供に会うのは、無惨な姿で運ばれているのを見た時と、機械のある部屋でだけだ。

 隔離されていたからこそ、彼女にはもう一度、逃げられる機会が得られたのかもしれない。

 彼女はその日もまた、白い部屋の中央に呆然と座っていた。部屋を出入りする白衣の男達が、何故かその日は何時もより少なかった。彼女が首を傾げていると、白衣の男達はふと、一人だけをルイの部屋に残して何処かへ行ってしまった。残っていたのは、眼鏡を掛けた十五、六歳程に見える少年だった。

 少年は白衣の男達がいなくなるや否や、ほっとしたような表情を浮かべてルイを見た。


「まさか適当な嘘で入れると思わなかったなぁ……。いいや、取り敢えず行こう」


 不意に少年に腕を掴まれ、ルイは部屋の外に連れ出される。彼が向かったのは毎回連れて行かれる機械の部屋ではなく、この施設の外へと繋がる扉の前だった。

 突然のことに唖然としていたルイは、後ろから聞こえて来た数人の足音に身体を震わせた。逃げ出したのがわかれば、また体罰を受ける羽目になる。同じような痛みを味わうのは御免だ。


「は、離してっ」


 慌てて少年の手を振り解くと、彼は心底不思議そうな表情を浮かべていた。


「何で離すんだ? 此処から出たくないのか?」


「でも……」


 口籠もるルイの言葉を最後まで聞かずに、少年は再び彼女の手を取って走り出した。

 結局彼に引かれるがまま、ルイは外に出た。人工的な光とは違う、明るい太陽の光が彼女の視界を一瞬だけ遮る。

 もう少しだけ頑張ってくれと、少年は呟いた。息を切らせて暫く走り続けていると、徐々に周りの景色が変わっていった。人工的な建物の並ぶ場所を通り過ぎ、彼女達は噴水が幾つも立ち並ぶ庭園へと辿り着いた。

 一体此処は何処なのか。彼女が困惑の表情を浮かべていると、少年は彼女を庭園の方へと軽く突き飛ばした。どうしたのかと視線を動かすと、彼は焦ったように早口で告げた。


「此処からは自分で行くんだ。大丈夫、向こうにはお前の見方がいる。俺は此処で追っ手を食い止める」


 ルイは暫し迷っていたが、頷いて走り出す。ふと、途中で足を止め、少年を振り返った。


「その……ありがとう。えっと……」


「リウェト。俺は発明の天使リウェトだ」


 彼の名前を何度か脳内で繰り返し、ルイは微笑みを浮かべた。


「……ありがとう、リウェト!」


 遠くなっていく彼女の背中を見送ってから、リウェトは安堵の息を吐く。

 あの施設で唯一、正面に生きている少女『ルイ』を助けてほしい――リウェトはそう頼まれて、あの施設へ向かったのだ。研究の様子を見せてほしいと言って、漸く施設に入れたが、まさか自分がルイを連れ出しに来たとは、研究員の誰も予想していなかっただろう。

 頼まれた仕事はこなした。後のことは、この庭園にいる『彼女』に任せるべきだろう。

 追ってくる研究員に吐く嘘を考えながら、リウェトはぽつりと呟いた。


「全く、ジブリール様も中々無茶なこと言ってくれるよな」


 * * *


 走り続けた為に上がった息を整えながら、ルイは茂みの中に隠れた。後ろから追っ手の気配を感じて、少し奥へと身体を移動させる。そして、これからどうしようかと思案した。

 先程リウェトが言っていた通り、この辺りに自分の見方がいるらしいが、それらしい人影は何処にも見えない。

 追っ手の足音が段々と近付いてきたので、彼女は更に身を縮こませる。

 ふと、彼女の耳に、先程とは全く違う足音が聞こえてきた。その高い音から想像するに、どうやら女性のようだ。女性の足音は追っ手のそれよりも確実に早く、彼女に近付いていた。 見付からないように、茂みの中からそっと顔を出して様子を見る。少し離れた所に、一人の美しい女性が立っていた。長い髪を揺らし、彼女は何かを探しているようだった。

 ルイはその女性に見覚えがあった。いや、この天界において、彼女を知らない者はいない。水のように透き通る美しさを湛えた、この大天使を。


「ジブリール、様」


 四大元素の一つである水を司る大天使、ガブリエル(ジブリール)のその名を。

 思わずルイが名前を呟くと、ジブリールは彼女の存在に気付いたようだ。茂みの方に歩み寄り、慌てて隠れた彼女に声を掛けた。


「よかった、此処にいたのね」


 ジブリールの言葉の意味がわからず、ルイは目を瞬かせる。ふと、大勢の足音が直ぐ近くで聞こえ、彼女は怯えた表情を浮かべた。

 ジブリールはルイに、茂みの奥へ隠れるように囁いた。まだ混乱していたが、ルイは兎に角言われた通り、膝を抱えて茂みの中で縮こまる。

 足音はやがて茂みの傍で止まった。ジブリールは茂みの前に立ち、身に纏った長いドレスの後ろに、ルイの居場所を隠していた。ルイにはよく聞こえなかったが、ジブリールと一言二言話した後、追っ手の者達は皆何処かへ走り去った。

 そっと茂みから顔を出すと、ジブリールは溜息を一つ落としてルイを見た。


「ごめんなさいね、時間が掛かってしまって……。無事でよかった」


 ジブリールの手がルイの頭に優しく置かれ、彼女を撫でる。目を瞬かせている彼女に微笑むと、名前を聞いた。


「正式名称は沈黙の天使(シャティエル)よね。その名前でいい?」


「……違い、ます」


 ルイが否定すると、ジブリールは不思議そうな表情を浮かべた。


「誰が付けたのかもわからないけれど……私の名前は、ルイ。ルイ・ミローズ」


「……可愛い名前ね。いいわ、ルイ。此方へいらっしゃい。貴女は、私が面倒を見るわ」


 ジブリールに差し出された手をそっと握り、ルイは茂みから出る。ふと視線を動かすと、疲れたような顔で此方に向かってくるリウェトの姿が見えた。


「あら、リウェト。ちゃんと足止めしてもらわないと困るわ。こんな所まで追ってきたわよ」


「勘弁して下さいよー、これでも頑張ったんだからさー」


 リウェトは溜息と共に頭を掻いていた。ジブリールの手を握るルイの姿を確認して、彼は苦笑する。ルイが空いている方の手を彼に差し出すと、彼は手を繋いでくれた。兄貴になったような気分だと、彼は呟いていた。


 * * *


 それからルイは、ジブリールの元で過ごすようになった。と言っても、普段は大天使の仕事で忙しく、共に過ごす時間はそう多くはなかった。代わりにリウェトがルイの遊び相手、または勉強を教わる相手になっていたのだ。

 勉強の合間にリウェトに聞いたことだが、ジブリールはあの施設の研究について、ずっと心を痛めていたらしい。あの施設に収容されているのは、片方の翼しかない、或いは翼を持たないといった、天使らしからぬ姿の子供達だ。同じ天使でありながら、進歩の為に研究されて犠牲となる。そんな子供達を救い出そうと、ジブリールは仲間と共に動いていたのだと。

 その名の通り、『発明』を司るリウェトも、天界の更なる発展の為に尽くしてきた身だ。だが、同じ天使が犠牲になることには、彼も反対していた。彼は施設の見学として訪れる度に、その酷い有様を変える手立てを探していたのだ。

 あの施設の中で正気を保てていた天使は、ルイ一人だった。他の者は投薬と度重なる実験の影響により、外では正面に生きられない身体にされていた。

 それならば、せめてルイだけでも。手遅れになる前に彼女だけでも救おうと、ジブリールはリウェトに頼んだのだ。

 だが、ジブリールの元で過ごす時間も、そう長くは続かなかった。ルイが十五歳になった頃、彼女を匿っていたことが露見してしまったのだ。

 ルイがジブリールと最後に会ったのは、逃がす為に時間稼ぎをすると言って、何処かへ行ってしまう直前のことだった。リウェトも逃げ道を確保する為に尽力してくれた。二人はルイと別れる際、守れなくて申し訳ないと、最後まで謝り続けていた。


「それから中央界に逃れるまでのことは……正直、思い出したくない」


 虚空を見つめるルイの横顔が寂しそうに見え、ユエは聞くべきではなかったかもしれないと、密かに溜息を吐く。ルイが今までに過去の話をしなかったのは、ジブリールの立場がなくなってしまうようなことを、周りに知られたくないと思ったからだろう。それに、もし他の世界を訪れている天使達の耳に入れば、中央界への追っ手も増えてしまう。

 ルイの話を聞いて、メルアは納得したように頷いていた。


「水の加護を受けているから、もしやとは思いましたが……。やはり貴方とジブリール様の関係は、簡単に話せるものではなかったのですね」


 無理に聞き出してしまったことを、メルアは後悔している様子だった。気にしなくてもいいと、ルイは微笑みを浮かべる。


「水の加護があるかどうかわかるなら、それなりの実力のある人だ。言わなくてもわかってしまうだろうとは思っていた」


 それにルイは、機会があればジブリールのことをユエに話すつもりでいたのだ。会ってからまだそんなに時間が経っている訳ではないが、ユエのことは心から信頼している。彼になら話しても問題ないだろうと考えていた。もしかしたら、優しくしてくれたユエに、面倒を見てくれていたリウェトの姿を重ねていたのかもしれない。

 ユエは少し照れ臭くなって頬を掻く。信頼していると、ルイの口から微笑みと共にそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。

 だが、彼の頭からは、どうしてもルイの寂しそうな横顔が消えない。彼女の微笑む姿を見ても、無理をしているのではないかと心配になる。出来れば、またジブリールとリウェトに会わせてあげたい――そんな想いが込み上げてくるが、ユエにはどうしたらいいのかわからなかった。

 紅茶のカップをテーブルに置き、メルアが徐に立ち上がった。彼女は小さな箱を手にすると、ルイにそっと差し出した。


「貴方の為に、預かっている物があるんです。受け取って下さい」


 小箱を受け取ったルイは、ゆっくりと蓋を開けて、中身を確かめる。彼女が驚くように目を見開いたので、ユエも箱の中を覗いた。

 箱の中に入っていたのは、菱形の青色の宝石だった。その輝きに、ユエは見覚えがあることに気付く。


「これは……」


「流星石です。ジブリール様から預かりました」


 同じ水に属する者として、メルアはジブリールと面識があった。この流星石は、数年前にジブリールから送られてきたらしい。天使とは違う不思議な力を持つ、銀髪の少女。もし彼女に出会えたら、渡してほしい。ジブリールはそう言っていたと。

 ルイが旅立たなければならなかった日、ジブリールは彼女に対して、流星石の情報しか与えられなかったのだ。それまではジブリールの張った結界の中で過ごしていた為、彼女の力が暴走する可能性は低かった。だが一人で旅立つとなれば、流星石は確実に必要となる。ジブリールが実物を手に入れるまで時間が掛かってしまった為に、メルアに預けることになったのだ。

 顔を俯かせて、ルイは目元に手を当てる。ジブリールは自分のことを、こんなにも想ってくれているのだ。それが嬉しくて、涙が出そうだった。


「ルイさんもわかっているかもしれませんが、貴方の力を抑えるには、最低でもこれと同じ大きさの物が七つ以上は必要になるでしょう。……私達も、出来る限り協力します」


「……ありがとう」


「ルイ」


 ふとユエに名を呼ばれ、ルイは彼の方を振り向く。先程まで何か考えていた様子だった彼は、今は笑っていた。


「決めた。何時か、二人に会わせてあげる。ジブリールは無理でも、せめてリウェトのことは捜すよ」


 もしかしたら、天界にいては危ないと考えて、リウェトも中央界に逃れているかもしれない。ユエに出来るのは彼の情報を集めること位だが、何もしないよりはいいだろう。

 ユエの胸中にあったのは、ルイには笑っていて欲しいという想いだった。彼女の笑顔の為なら、自分に出来ることは何でもしてあげたい。ルイのことは大切だし、仲間以上の感情が、少しずつ大きくなっているから。


「ユエも、ありがとう」


 心からの笑顔を見せるルイに、ユエの頬は自然に赤くなる。誤魔化すように少し顔を背けると、彼女が不思議そうな表情を浮かべていた。どうしたのか聞かれたが、何でもないと呟くだけで、今は振り返れそうにない。

 そんな二人の遣り取りを、メルアは笑いながら見ていた。それから申し訳なさそうに眉を顰めると、二人の顔を覗き込んだ。


「その……協力する代わりに、一つだけ頼みたいことがあるんです」


 * * *


 帰ってきたリルに案内されて、ユエ達は最初に訪れたあの花畑の中を歩いていた。リルと何やら話しながら歩くメルアの背中を眺めてから、ルイは手の中の流星石に視線を落とす。青い結晶の中に、虹色の光が煌めくのが見えた。歩を進めるに従って、その煌めきは段々増しているように感じる。何かに反応しているようだ。

 変わったことはないかと辺りを見回していると、ふと、前を行くメルア達が足を止めた。


「この辺りで貴方達に会ったとリルが言っていましたが……恐らく、この泉の為でしょう」


 メルアの言葉に、ユエもルイも彼女が指差す先を見つめる。傍目には湖と思える程に大きな泉が、花畑の片隅にあった。澄んだ水を湛える泉の底には、何か光る物が見える。

 ルイの手の中で、流星石が一段と強く煌めいた。間違いなく、流星石はこの泉に反応しているのだ。


「この泉は、流星石の衝突により出来た物です。数年前、この場所で中央界との交わりが起きました。流星石はその時に降った物ですが、上手く砕けなかったのか、交わりは解消されませんでした。この泉の底に、流星石は今も大きな結晶として残っています」


 中央界で発生していた霧は、この泉から発生した物。流星石が機能しない為に、この世界から中央界に流れ出したのだ。

 だが、普通の人間が二つの世界の間を行き来することが可能な程、交わりが強い訳ではない。元々複数の世界を移動出来るユエ達だからこそ、僅かな綻びから移動したのだろう。無意識の内に移動してしまった、と言う方が正しいかもしれない。

 ユエは泉に近付き、水の中を覗き込む。見覚えのある大岩の影が、水底で揺れていた。

 もしかして、頼みたいことって――以前ルイに頼まれたことを思い出し、ユエの顔は少々引き攣る。流星石に、霊力を使う精霊達。この二つから連想される頼みとは、一つしかない。


「この流星石を、砕いて頂けませんか?」


 小首を傾げながら、メルアはユエの方を見る。彼女の傍らで、リルも頭を下げていた。

 予想通りの頼みに、ユエは溜息を落とす。水底まで行き、流星石を砕けとは。中々難しいことを言ってくれる。

 困ったように眉を顰めたルイが、縋るような目を向けてきた。彼女からもお願いしたい、ということだろう。

 仕方なくユエは長剣を抜いた。水の中では思うように剣は振るえない。期待はしないでほしいと思いながら水面を見つめていると、メルアが徐に泉の前にしゃがみ込んだ。


「潜る必要はありません。ユエさんは、流星石を砕いて下さるだけで大丈夫です」


 メルアの言葉の意味がわからず、ユエは首を傾げる。

 水面に手を翳したメルアが一言二言呟くと、俄かに波紋が広がり始めた。波紋はやがて波と変わり、泉の水を揺らす。翳していた手を掲げると一際大きく波立ち、泉を二つに分かつように波は静止した。

 どうぞ、とメルアは片手を泉に向ける。流石は竜に化けられるだけの力を持つ、水の精霊だ。ユエは溜息と共に肩を竦め、露わになった泉の底へ飛び込んだ。

 そう深くない泉の底に降り立つと、両脇に聳える水の壁に圧倒される。水中を通った太陽の光が、岩場となった底へと青い影を落とす。

 正面に視線を向ければ、青い結晶を覗かせる大岩が鎮座していた。ユエは居合いのように腰の辺りで長剣を構えると、大岩に向かって走り出す。岩の間から覗く晶洞目掛けて、勢いよく長剣を凪いだ。

 岩に皹の入る音が響くと、次いで岩が崩れ、粉々になった青い結晶が飛び散った。青い結晶は泉の底に散らばり、岩場に吸い込まれるように消えていく。

 ユエが泉の底から戻ると、彼がいた所は直ぐに水に覆われ、見えなくなる。ご苦労様、とルイに労いの言葉を掛けられて、ユエはこれ位どうということはないと返した。

 二人の傍らで、メルアは深々と頭を下げていた。


「ありがとうございます。これで、妖精達も安心するでしょう」


 彼女は肩に乗せていたリルに声を掛ける。リルはその小さな羽を動かして、ユエ達の前へと飛んできた。


「メルア様に事情は聞いたです。何か新しい情報があったら、私が中央界に伝えに行くです」


 元素を司る精霊はその力の強さ故に、他の世界に移動することは中々許されない。他の世界に影響を及ぼす可能性があるからだ。

 ユエとルイの顔を覚えるようにまじまじと見つめながら、リルは二人の周りを舞うように飛ぶ。


「中央界では間もなく陽が暮れる時間ですね。そろそろ戻られた方が宜しいでしょう」


 リルを呼び戻して、メルアはそう提案した。どうやら、中央界まで送ってくれるらしい。色々世話になったとルイが礼を言うと、メルアは此方こそと微笑んでいた。

 メルアがゆっくりと片手を掲げる。背後の泉から水が溢れ出し、ユエとルイの足元を丸く囲むように小さな流れが出来る。転移用の陣を形成した水の流れは、やがて金色に輝き始めた。

 今度は余裕のある時に、メルア達とゆっくり話をしたい。自分の知らない聖清界の歴史を、此処に住む妖精達の話を聞いてみたいものだ。ユエはそんなことを考えながら、ルイの方に視線を向ける。転移時に離れてしまわないよう、彼女はユエの服の端を握り締めていた。

 別れの挨拶と共に片手を振るリルを眺めていると、ふと、彼女の傍でメルアが真面目そうな表情を浮かべているのが見えた。どうしたのかと首を傾げるユエ達に、彼女は静かに告げた。


「――最近、世界の交わりが頻繁に生じています。どうやら、意図的に起こしている者がいるようです。流星石を探すのであれば、何れ接触することになるかもしれません。……お気を付けて」


 最後の一言が放たれると同時に、ユエとルイの視界は足元から湧き上がった水の幕に覆われる。その向こうに見えていたメルアとリルの姿が消え、映る景色が変わっていく。

 やがて水の幕は水滴へと変化し、弾け飛ぶように消える。気が付いた時、ユエとルイは見覚えのある場所に立っていた。其処は、森に入る際に通った街道の直ぐ近くだった。何時の間にか霧も晴れ、頭上には雲一つない青空が広がっている。東の方は、もう幾らか赤くなり始めていた。

 木々の隙間から見える街道には、早く町へ帰ろうと足を急がせる人々が見える。宿へ戻ろうと、二人も街道に出た。

 周りを歩く人々につられて、ユエも歩く速度を上げる。後ろを歩いていたルイは小走りで彼に追い付くと、そっと彼の手を握った。少し驚きながら振り返ると、ルイは照れ臭そうに微笑んでいた。


「……久しぶりに、手を繋ぎたくなったんだ」


 ずっと仕舞い込んでいた昔のことを思い出して、そう感じたのだろう。優しく手を握り返しながら、ユエは隣に並んだ彼女の横顔を眺める。星が瞬き始めた空を背後に、彼女は懐かしむように握った手を見つめていた。

 彼女が本当に手を繋ぎたい相手は、恐らく自分ではない。嘗て彼女を救い出してくれた者に、姿を重ねているだけだ。

 ルイの口から語られた、彼女の過去。頭の中でそれを繰り返し考えながら、ユエは複雑な気持ちを抱いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ