engage
engage…約束
『誓い』でpromiseでもよかったんですが、本来の意味も含めて敢えて此方で。
(2018年1月28日加筆・修正)
真っ青な空の下。小波に揺られながら海上に浮かぶのは、商業船も兼ねた大きな帆船。普段は海を越えるために乗り込んだ冒険者や商人の姿が甲板にはあるが、昨日の悪天候の影響からか、今朝船に乗り込んだのは船員と二人の冒険者だけ。
冒険者の内の一人である少女は甲板から海の様子をぼんやりと眺めていたが、ふと廊下へと足を踏み入れ、用意された客室の一つに訪れた。扉をノックして中に入ると、そう広くない部屋の中を眺めてから、溜息混じりに先日相方となった少年の名を呼んだ。
「ユエ、何をしている……」
「んー? 見ればわかるだろ、ルイ」
そう言って振り返ったユエの前には、幾つもの地図や何やら書き掛けの白い紙が散らばる机があった。ルイは彼の肩越しに机を数秒見つめてから、再び溜息を吐く。
――何が『見ればわかる』だ……。
地図やら白い紙やらを単に見せられただけでは、ユエが何をしているのかルイには見当が付かない。
そんな彼女の心中を察して、ユエは「あぁ」と口を開いた。
「やっぱりわかんないか」
「そう思うのなら早く説明をしろ」
返ってきたキツい言葉に刺され、ユエは苦笑する。ルイを机の直ぐ近くまで呼び寄せると、地図の上で指を滑らせた。
「ほら、この海を渡ると、リーゼリア大陸があるだろ?」
ユエの指が指し示した大陸は、地図の四分の一を占めている、かなり大きな所だった。そこがリーゼリア大陸と呼ばれる場所であることは、ルイも旅を始めた頃に知った。まだ彼女は訪れたことがなく、ユエに問い掛ければ次に行こうと思っていた場所がこの大陸なのだと彼は答えた。
「それで、その海辺に古代の遺跡が眠ってるらしいんだよ。罠とかも沢山ありそうだし、絶対楽しいよね!」
目を輝かせて言うユエの様子を見て、ルイは彼の目的を聞く前に大体のことを察した。
「まさか其処に行くつもり……?」
ルイは微妙に引き吊った表情をして僅かに後退する。先程、罠などもある危険な場所だとユエは自ら口にしていた。それなのに、自分から進んでそんな所を訪れるようなバカな真似をすると言うのか。それに、危険な場所に対して『楽しそう』とは……。なるべく危ない目に遭いたくないと思っているルイには、ユエの考えが理解出来なかった。
露骨に嫌そうな顔をするルイと対照的に、ユエは爽やかな笑みを浮かべて答えた。
「勿論行くよ」
ユエと共に旅をする道を選んでしまったことを、ルイはこの時ばかりは後悔した。
* * *
自室に戻ったルイは、疲れた様にベッドに倒れ込んだ。今更ながら旅路を共にする相手を間違えたような気がして、彼女は頭を抱える。ユエの自由さに、最早怒りを通り越して呆れしか感じられなかった。
溜息を吐きながら起き上がり、暫し呆然と頭上を見上げる。天井が回るように見えるのは、船が波に揺られているせいだろう。
慣れない船旅による疲れもあるかもしれないが、数分前からルイは自分の身体に違和感を覚えていた。自分の中に流れる力が、不安定になっているような気がする。今までにも感じたことがあったが、この感覚がした後には、悪いことが起こった覚えしかない。
――拙いな……こんな時に。
額に僅かに汗が浮かぶ。片手で顔を覆い、目を瞑って波の音に耳を澄ませた。段々と胸の奥底が波の音と一体となって、心が静けさを取り戻していく。
ふっと息を吐き、目を開いた。心を落ち着かせたことで不安は少しだけ減ったが、波の音の中に妙な音が混じっていることに気が付くと、彼女の表情は再び曇った。
嫌な予感がする――そう感じた刹那、船が一際大きく揺らいだ。起き上がろうとしていた為に、ルイの身体はふらりと揺れる。不意に感じた衝撃に身体を支えられず、そのまま床の方へ倒れ込む。
思わず目を瞑ったルイだったが、床にぶつかる感覚も痛みも感じない。見上げれば、驚いたような表情を浮かべているユエの姿があった。部屋に入ってきた彼は、ルイが倒れそうになるのを見て慌てて受け止めてくれたのだ。
「大丈夫?」
眉を寄せて心配そうに問い掛けられたが、ルイには平気だと言葉を返すことが出来なかった。手足が震え、立ち上がれそうにないのだ。
ユエは不安そうな表情をしていたが、直ぐに真面目そうな顔をすると、彼女に素早く囁いた。
「海賊に船が襲われた。船員以外は俺達しかいない。船長に隠れているように言われたから、ルイも来てくれ」
ルイが軽く頷くと、ユエは彼女を抱き上げて船尾に向かう。彼女の背中から体温にしては高過ぎるような熱を仄かに感じたが、気にはしなかった。
* * *
船尾にある小さな隠し部屋で、ユエはルイの様子を静かに見守っていた。少し前から彼女の息が荒くなっている。額には冷や汗が浮かんでおり、とても普通の状態とは思えなかった。自分の手を彼女の額に当てたが熱は感じられず、理由がわからなくてはどうすることも出来ない。
此処にいることがバレないように息を殺しながら、感覚を研ぎ澄ませて外の様子を伺った。
――近くに強い魔力があるのか……?
強い魔力に弱いのは天界の者の特徴だ。しかし、今のユエにはほぼ全くと言っていい程魔力はなく、ルイの魔力は彼女の身体には影響を及ぼさない物。しかも、ユエの感じる所では船内に魔力を持った存在は全くない。原因となるモノが何一つ見付からなかった。
重苦しい空気の中、二人の吐息だけが響く。
だが、何者かが部屋の前にいる気配を感じ、反射的に腰の長剣を何時でも抜けるように構えた。タイミングを見計らい、ルイを片腕で抱き上げて、静かに扉の前に立つ。一見すると壁にしか思えないが、明かりのない内側から見ると、四角い扉の形に沿って、外の光が漏れ出してきている。
扉の外の気配が殺気を放ち始めた瞬間。彼は、勢いよく外に飛び出した。
* * *
壁の向こうから気配を感じて、無理矢理こじ開けようとした海賊達は、隠し扉を蹴破って突然現れたユエの姿に、驚いて硬直した。その瞬間に、ユエは床を強く蹴って空中に身を躍らせる。抱えているルイの重さを微塵も感じさせずに、素早い動きで海賊共の武器を次々と弾き飛ばして行く。
部屋のある空間を抜けて外に出ると、正面から別の海賊が襲い掛かって来ており、背後に目を向けると、先程の連中が武器を構えて走り迫っていた。
――ダメだ……。
頬を嫌な汗が伝う。この船には戦闘員がいない。ルイが戦力にならない今では、ユエの力だけでは海賊共をとても捌き切れなかった。狭い船内では戦い辛いと外に出たが、この人数では流石に分が悪過ぎる。魔法などを使おうにも、それだけの隙がない。
上がった息を落ち着かせる為に諦めて膝を付く、そんな彼の正面に、海賊達のキャプテンと思しき男が立った。下劣な笑みを浮かべながら、二人を見下ろして来る。少し前に似たような雰囲気の男に会ったな……と、ユエは頭の片隅で呆然とそんなことを思った。
「何だよ、お前。今の動き……人並み外れ過ぎだろ?」
「そう思うんなら、その人並み外れ過ぎの奴に殺される前に、逃げた方が頭いいんじゃないか?」
「このガキ、自分の立場わかってないな?」
周りにいた男達がゲラゲラと笑い出す。ユエは露骨に嫌そうな顔をして、ルイを抱く腕に力を込めた。最低でも、彼女だけは守らなければならない。奴等に彼女を渡す訳にはいかなかった。ルイの正体が天使であると公になれば、彼女が何をされるかわからない。仮にバレなくとも、少女であるルイを連中がどうする気なのかは簡単に予想が付く。
「まぁいいやな、おい」
男が片手を挙げ、連中に何かの合図を出す。次の瞬間、ユエの首筋に激しい衝撃が走り、彼の意識は瞬時に闇に呑まれた。
海賊に取り押さえられている船員達は、突然の出来事に目を泳がせていた。多くの積み荷と共にユエ達が連れ去られるのを、彼らには呆然と見ていることしか出来なかった。
* * *
ユエが薄く目を開くと、視界は暗くぼやけていた。人らしい気配は幾つか感じるものの、はっきりとは見えない。
何も考えられずに暫く呆然としていたが、不意に透明な液体が闇に舞った。続いて、頬に冷たさを感じる。顔に水を掛けられたのだと気付くと同時に、何があったのかぼんやりと頭の中に浮かんできた。具合が悪そうなルイの顔と、船に現れた海賊の姿……。
意識が完全に覚醒しようとしたその時、ユエの頬に衝撃が走り、やがてそれは響くような痛みに変わった。
「い、つッ……」
じわりと頬に広がる熱を感じて目を開けると、甲板を背に此方を覗き込んでいる三人の男が見えた。
「やっと起きたか」
「本当に女みてーだな。可愛い面してやがる」
「おいおい、んな趣味あんのかよ。仮にも男なんだからやめとけって」
ユエの目の前に立った男達は、笑いながらそんなことを言い合っていた。その内の一人が彼の頬をもう一度叩くと、余り顔を傷付けないようにと、残りの二人に窘められる。会話から察するに、何処かの港に着いたら奴隷として売るつもりなのだろう。
抵抗しようにも、腕を後ろで縛られていて動くことが出来ない。長剣は盗られてしまっていたが、十字架の短剣には気付かなかったのか、運良く飾りとして腰に下げられたままだった。だが、中々手は届きそうにはない。
ささやかな抵抗として男達を睨み上げながら、周囲の様子を確認する。自分達が先程まで乗っていたものとは違い、大砲の積まれた海賊船の上だ。甲板には何人もの屈強な男が佇んでいる。だが、一緒にいたはずのルイの姿は何処にも見当たらなかった。
「……ルイは何処だ」
ユエの問い掛けに対し、男達は互いに顔を見合わせてから、背後にある船尾の方を指差した。
「あのお嬢ちゃんならキャプテンが気に入ったとかで連れてったぜ。今頃お楽しみかもな」
美人なのに勿体ないと、男は笑いながら告げた。
ユエの顔は瞬時に青褪める。自分だけならまだしも、ルイまで捕まってしまっていたとは。最後に見た彼女は、体調が悪そうに見えた。抵抗も出来なかったのだろう。
一刻も早く助けなければと、慌てて立ち上がろうとするが、それよりも一瞬早く、首筋に刺さる手前まで剣が突き出された。ユエはびくりと動きを止め、僅かに後退する。
「動くなよ。キャプテンの命令でさぁ、行かせる訳にゃいかないんでな」
「ルイを……彼女を返せ!」
「自分の心配をした方がいいんじゃねぇか?」
剣を手にした男がそう吐き捨てると、空気を切り裂くような鋭い音が響き、ユエは反射的に身を屈めた。じわりと赤い色が服を濡らし、左肩から徐々に痛みが広がっていく。鮮血が床に滴り落ち、木目が赤く染まった。
傷は浅かったが、痛みは思っていたよりも酷かった。苦痛に顔を歪めながら、ユエは床に片膝を着く。 彼が座り込んだのを見て、男は満足そうに笑う。
「そうそう、そうやって大人しくしてればいいんだよ」
ユエが奥歯を噛み締めて男達を再び睨み付けた次の瞬間だった。彼らの背後、即ち船尾の方から空気が破裂するような音が響き、煙が上がった。皆が驚いてそちらに目を向けると、ルイが覚束ない足取りで煙の中から現れる。
彼女の姿を確認して、ユエは先程の破裂音が、彼女の放った力であることを察した。だが、それにしては様子がおかしい。床に倒れ込みそうになりながら歩く彼女に、力を使う余裕があるようには見えなかった。
「テメェ、何したんだ! キャプテンはどうした!」
男の一人がルイに詰め寄り、彼女の胸倉を掴んだ。姿が見えない自分達のリーダーの身を案じて、男は思わず彼女に詰め寄っていた。
ルイは荒い息の中で、頻りに何かを呟いていた。しかし、彼女の小さな声は、頭に血が昇りつつある男達には届かない。
はっきりと喋らないルイを、男は苛立ちを隠さずに怒鳴った。
「聞こえねぇよ、あぁ!?」
苦悶の表情を浮かべて、ルイは必死に声を絞り出す。
「来るな……私に、近付くな……」
「はぁ? 何言って――」
男の声はそれ以上続けることが出来ず、其処で途切れてしまった。ルイの胸倉を掴んでいた男の手から力が抜け、彼女は床に座り込む。男の身体はゆっくりと床に頽れて、そのまま動かなくなった。男の背中からは傷すら見えない程に、大量の血が溢れ出している。
他の男達はどよめきながら、ルイから離れようと少しずつ後退する。だが、彼女からそう離れることも出来ずに、皆身体から血を吹き出して倒れ込んだ。やはりその傷口は、鋭い刃物で斬られたように綺麗に裂けていた。
離れて様子を窺っていた者は、怯えたような表情と共にルイの方を向く。彼女は小刻みに震えながら両肩を抱き、顔を俯かせていた。
「逃、げて……」
頬を撫でていた潮風に、段々と熱気が混ざっていくのを感じる。ユエの目には、ルイの背中に何かの力が集中しているように見えた。
一際大きなルイの声が、彼の耳に届く。
「逃げてくれ……ユエ!」
ユエの視界に、沢山の赤い液体が飛び散る。悲鳴のような絶叫を上げたルイの周囲には、白から赤に染まった羽根が大量に舞い落ちていた。
彼女の背に現れたモノを見て、誰もが目を疑った。
真っ白な羽根を持つ二枚の翼が、ルイの背中から空に向かって伸びていた。それは清らかな輝きを放っていたが、一部が血に染まった今は、清らかさが寧ろ違和感を与える。そして何よりも異常だったのは、その間に生えた三枚目の翼だった。他の二枚と違い、羽根の全くない骨だけの翼。鋭く尖ったその先端からは、鮮血が滴り落ちている。男達を斬り殺したのは、漸く姿を見せたこの翼に間違いなかった。
海賊達は恐ろしさを感じて、一斉に逃げ出そうとルイに背を向ける。彼女の翼が折れ曲がり、鎌のようになったのを、ユエは見逃さなかった。
「ダメだ、動くな!」
慌てて叫んだが、間に合うはずもない。彼女の翼は海賊達を次々に捕らえ、その首を掻き斬っていく。
ルイの様子を見ると、彼女は青い顔を俯かせ、苦しそうに眉を顰めていた。それを見る限りでは、とても自分の意志で翼を操っているとは思えない。そもそも、先日の件でも、彼女は山賊を脅すまでで済ませていた。そんな彼女が自ら人を殺めることは、絶対にない。ユエはそう確信していた。
左肩から走る激痛に耐えながら、ユエは無理矢理腕を伸ばす。腰に下げていた十字架の短剣をどうにか抜いて、両手を縛っていた縄を切る。
だが、彼が縄を解き立ち上がったその時点で、既にその場に残っていたのはユエ一人だった。海賊達はほぼ全員、息もなく床に倒れ伏していた。
ルイの翼は、唯一残ったユエに狙いを定める。タイミングを見極めて飛び退くと、彼が立っていた場所は一瞬にして破壊された。少しの油断も許されない――ユエの頬を冷たい汗が伝う。
隠れられる場所のない甲板の上で、ユエは襲い掛かってくる翼を必死に避け続ける。
ふと、ポケットに入れていたある物の存在を思い出して、手を触れた。金属の冷たい質感が指先に届くと、これを持たせた者の姿が、ユエの脳裏に勝手に蘇ってくる。旅に出る直前のことだ。何時か必要になると言われて無理矢理持たされた覚えがあるが、まさか本当に使うことになるとは。
なくさぬようしっかりと握り締めて、ポケットから手を出す。徐々にルイとの間合いを詰め、隙を見て彼女に向かって叫んだ。
「ルイ! 俺の声が聞こえるか!」
彼の声に反応して、ルイは僅かに顔を上げる。ユエは倒れ伏す海賊の一人が自分から取り上げた長剣を持っていることに気付き、襲ってくる翼を避けながら素早く回収して、寸での所で攻撃を弾き返す。ルイが反応したことで、僅かにだが翼の動きが鈍くなっていた。これなら、彼女の翼を鎮める機会があるかもしれない。
「今何とかする! だから待ってろ!」
「ダメだ、逃げてくれ! お前を、死なせる訳には……」
泣きそうな顔になりながら、ルイは首を横に振る。
ルイの翼は多少動きが鈍くなったものの、真っ直ぐにユエを狙ってくる。長剣の刀身で受け止めると、予想外の力に長剣が軋んだ。
だが、ユエは引き下がらない。ルイの苦しそうな様子を見て、引き下がる訳にはいかなかった。
「大丈夫だ、俺を信じろ!」
長剣の陰から覗くユエの瞳を見て、ルイは彼が本当にこの現状をどうにかするつもりだと、どうにか出来る自信があるのだと気付いた。
――『信じろ』か……。
今まで、彼女にそんなことを言う者は殆どいなかった。
こうした力の暴走は、初めて経験するものではない。特異な力を持っているからこそ、その不安定さに耐えられず、度々起きてしまうのだ。そして、力の不安定さと特異さを象徴するのが、彼女の三枚目の翼だった。天使の翼が奇数になることは殆どない。ましてや、羽根を持たない翼の生えた者など、ルイしかいない。制御出来なくなった力は、この三枚目の翼となり暴走するのだ。
人を傷付けることを恐れて、ルイは出来る限り仲間を作るような真似を避けてきた。故に、彼女が信頼するような相手はいない。勿論、素性を口にしない彼女を信頼する者もいなかった。
しかし、ユエは違う。完全にではないが互いの素性を明かし、共に旅をする道を選んだ。ルイの力が暴走する可能性があることも、彼はわかっていた。それでも誘いに応じてくれたのだ。
ルイは首に下げていたペンダントを握り締める。揃いのペンダントと、ポケットに仕舞った十字架の短剣は、互いを想う感情から渡した御守りだ。そんな感情を持つユエなのだから、何を言おうとも、彼はルイを気遣い、行動するつもりでいるのだろう。
彼の『大丈夫』の言葉は、不思議とルイを安心させていた。彼なら、本当に大丈夫なのかもしれない。そんな考えさえ生まれてくる。
「わかった。お前を……信じるよ」
その答えに、ユエは口角を上げながらルイに軽く片手を振る。その仕草は、任せてくれとでも言っているように思えた。
格好よく見せてみたものの、実際はユエにそれ程余裕はなかった。僅かにでも気を抜けば、長剣を弾かれてその身を斬り裂かれてしまう。ケガをした左肩のせいで、長剣に充分に力を伝えることが出来ていない。このままでは、何れ押し負けてしまう。
ルイに声を掛けると、彼女は祈るように両手を組み、目を瞑る。翼に意識を集中させ、自分の意志である程度抑えようと試みた。
やはり翼の動きはルイの意志に完全に逆らうことは出来ないのか、長剣に掛ける力を徐々に弱めていく。片手で防げる程になったのを確認して、ユエは左手に持っていた物をルイの方へと投げた。
床を転がりながらルイの元へときたそれは、銀色の指輪だった。渡されたそれをどうすればいいのかわからず戸惑っていると、ユエは彼女に左手を見せる。同じ指輪が薬指に嵌っているのを見て、真似をしろと言っているのだと悟った。
そっと指輪を通すと、ルイは身体が軽くなるのを感じた。彼女の周囲から閃光が放たれ、眩い輝きが辺りを包み込む。そして光が消えた時、ルイの背から翼は消えており、彼女は目を閉じて力が抜けたようにその場に倒れ込んだ。
ユエは長剣を仕舞い、ルイに駆け寄る。彼女の顔色が幾分かよくなっていることに、安堵の息を吐いた。
ルイに渡した指輪には、ユエの力が込められていた。徐々に指輪に溜められた、強大な彼の光の力が。指輪を通して、彼のその力を常にルイに供給する。それにより、彼女の力の暴走を半ば無理矢理封じ込めたのだ。
しかし、今のままでは限界がある。ユエの力では、完全にルイの力を抑え込むことは出来ない。
――ルイ……。
ユエが心中で名を呼ぶと、それに答えたかの様にルイがゆっくりと目を開けた。彼の手を借りて立ち上がり、周囲に目を向ける。辺りに広がった血の海を冷静になってから眺めたが、酷い有様だ。激しい眩暈を覚え、口元を押さえて近くの壁に背を預けた。
そっと顔を上げてユエの様子を伺うと、彼は困ったような顔で立ち尽くしていた。彼が次に口にする言葉が、ルイには怖くて仕方がなかった。人殺しと、罵るだろうか。それとも、畏怖の情を向けるだろうか。何れにせよ、今までと同じように接することはないだろう。旅路を供にしたばかりだが、此処で終わってしまうのかもしれない。
しかし、ユエの行動は思い掛けない物だった。彼はルイの頭に手を乗せて、彼女の銀髪を優しく撫でた。
「大丈夫だよ」
その一言が、取り乱し掛けていたルイの心を、瞬時に落ち着かせた。ユエの優しさを疑ったことに、申し訳なさを感じた。
ルイを片腕で抱きかかえるようにして、ユエは再び大丈夫だと呟く。彼の左肩に顔を埋めると血の匂いを感じ、赤黒く染まった傷口が視界に入る。見ていられなくなって、ルイは眉を寄せて目を伏せた。
「ごめんなさい……」
肩を震わせるルイがどんな顔をしているのか、ユエには見えない。彼女のせいで負った傷ではないし、動かした為に酷くなったのも仕方のないことで、気にする必要はない。ユエはそう考えていたのだが、口にすれば彼女は余計に気にするだろう。だが、他に掛ける言葉も思い付かず、黙っていることしか出来なかった。
そっとルイの頭を撫でて、その背を流れる銀髪に目を向ける。返り血を浴びて所々赤黒くなった髪は、彼女の心情を考えると、痛々しく思えた。
暫くしてから、ルイはゆっくりとユエから離れた。気まずそうにスカートの端を握り締めて、顔を俯かせている。
ユエはその場に跪いて彼女の左手を取ると、その薬指の指輪にそっと口付けをした。
「これで……俺の力でルイの力を封じる。だから、離れる訳にはいかない」
「……怖く、ないのか」
唇の下で、ルイの手は微かに震えていた。困惑した様子の彼女がそう口にしたのに対し、ユエは苦笑いを返す。
「怖いよ。でもね、それは一緒にいられない理由にはならない。……その怖いモノを自分の力で封じるって選択をしたのに、今更離れる訳ない」
軽い気持ちで、旅を共にする道は選ばない。ユエは静かに立ち上がりながら、そう言葉を続けた。
ルイは唇を噛み締めて、ユエの胸に凭れ掛かる。彼女が小さな声で「ありがとう」と呟いたのを耳にして、ユエは微笑んで再び彼女の頭を撫でた。
「ただね、凄く申し訳ないんだけど、俺の力じゃ一時的な封印しか出来ない。ルイの探してる流星石……確かに、それがあればもう力が暴走することはないと思う。だから、一緒に探そう」
最初からルイを手伝うつもりで仲間になったのだが、ユエは改めてそう伝えた。
ルイはもう一度礼の言葉を口にしようとする。しかし、不意にユエの背後に、誰かが立っているのに気付く。頭から血を流した海賊の生き残りの男が、ユエの後ろで手にした短剣を高く振り上げた。注意を促そうと彼女が口を開き掛けた瞬間に、男は短剣を振り下ろした。
突然身体を襲った激痛に耐え切れず、ユエは彼女の方へ倒れ込む。ルイは突然の出来事に呆然としながら彼を受け止めた。彼の腕が力一杯自分の身体を抱き締めていることから、男の存在に気付いて庇ってくれたのだと察した。
「は……ははは! 庇って死んだか!」
傷口から血を流しながらも高らかに笑い、男はルイに一歩ずつ歩み寄ってくる。仲間を殺したお前も殺してやる――男はそう言わんばかりに、血走った目を向けていた。
ルイは数瞬の沈黙の後、男を強く睨み付けた。彼女の眼力に一瞬怯んだ男の身体は、その直後、突風に吹き飛ばされ宙を舞った。高く高く吹き飛ぶ身体とは反対に、男の意識は深い闇に落ちていく。彼の周りには、幾つもの風の塊が飛び交っていた。
ルイの手から放たれたその風は、男を甲板の端まで吹き飛ばす。気絶した男の身体は甲板に叩き付けられたが、手加減されていた為に、大ケガを負わずには済んでいた。
「命があるだけよかったと思え」
少女の物とは到底思えない冷徹な声が、船上に響く。男の耳に届いていないのは百も承知だったが、口にせずにはいられなかった。
他に敵意のある者がいないことを確認してから、彼女はユエに声を掛ける。だが、彼は苦しそうな息遣いのまま、返事をしない。
力は光属性とは言え、ユエの元の種族は闇属性である。ルイの力では回復させられるかわからず、寧ろ、逆に弱らせてしまうかもしれない。ルイが昨日渡した魔力の結晶は、もう手元にはない。そもそも、今のユエに魔法を使う余裕があるのか……。
成す術がなく、ルイは彼に声を掛け続けるしかない。こうなれば、やはり自分の力を使ってでも治すしかない。
傷口に手を宛がって詠唱を始めようとしたルイは、自分の服を握り締めたユエの手に、僅かに力が入ったことに気付いた。彼は手を宛がうだけでいいと告げて、ゆっくりと目を閉じる。かなり辛いはずだが、治さなくていいと言うのは、何か考えがあってのことだろう。
ルイは大人しくユエの言葉を聞き入れた。血の滲む衣服の隙間から見える傷口に、優しく掌を当てる。触れられて痛みが酷くなったのか、ユエは眉を顰めていた。彼は苦悶の表情を浮かべて、何ごとか呟き始める。
傷口に宛行ったルイの両手から、黒い霧が現れた。黒い霧が背中と左肩に集まったかと思うと、見る見る内に血が止まり、傷口が塞がっていく。
驚いてその様子を見つめていたルイだったが、ユエが何をしたのか、直ぐにわかった。彼は魔力を殆ど持たない故に、普段は大した魔法は使えない。だが、逆に言えば、彼には魔力さえあればいいのだ。
――そうか、私の魔力でいいんだ……。
時間が経つと天力に変わってしまう以上、何時までも魔力が残っているとは限らない。ルイには魔力の使い方がわからないが、ユエに使えるのなら、持っていても無駄にはならないだろう。
ユエは暫く俯いていたが、やがて顔を上げて彼女に目を向けた。その表情は、先程よりも少し穏やかになっている。
「あはは、ルイの魔力は強いね。驚いたよ」
笑いながら言うユエは、既に調子を取り戻しているようだった。だが貧血気味なのか、顔色は幾らか悪い。
ルイは心中では安堵の息を吐いたが、顔には呆れたような表情を浮かべていた。
「私を庇って傷を負うのは、もうやめてくれ」
初めて会った時も、ユエは彼女を庇って傷付いている。自分の身を守ることも考えてほしいと、彼女は口を尖らせた。
不機嫌そうなルイの様子に、ユエは申し訳なさそうに頬を掻いた。
「取り敢えず、この状況をどうするか考えないと」
「……そう、だな」
周囲の惨状を改めて目にすると、やはり罪悪感がルイの胸を満たす。幾ら数多くの悪事を働いているとは言え、海賊を殺すつもりは勿論なかった。罪の重さは別として、その魂が救われてくれることを祈る。
「生きている奴はいないのかな……」
ユエは辺りを見渡しながら甲板を歩く。血だまりのせいでわかりにくいが、比較的軽傷で、気絶しているだけの者も何人かいるのが確認出来た。
「普通の人間なら、私の力で傷を治しても問題ないと思う」
「任せるよ。俺じゃ無理だし」
ユエの返答を聞き、ルイは甲板の中心付近に立って目を瞑った。回復の呪文を唱えると、足元に青白く光る陣が現れる。ルイの身体は軽く宙に浮き、陣から吹いた柔らかな風が、彼女の外套を揺らした。
やがて陣は船の上一杯に大きく広がった。船全体を丸く包み込むように、薄い膜が張る。小さな淡い光が船から空に舞い上がり、それと同時に周囲の者の傷を治していった。
陣が消えると、ルイの身体は浮くのをやめ、甲板の上に降り立つ。長い息を一つ吐いてから目を開いて、ユエに視線を向ける。彼は優しい表情と共に口を開いた。
「ルイの力、想像以上に凄いね。綺麗で、素敵な力だ」
「……そんなことを言われたのは初めてだ」
「そうなの?」
何となく照れ臭く感じて、ルイは顔を背ける。暴走してしまうことのあるこの力を褒められたことなど、今まで一度もなかった。ましてや、素敵な力だとは、彼女も思ったことがない。
気恥ずかしさを誤魔化すように、彼女は話題を変えた。
「これから、どうする」
「うーん。取り敢えずこの船にいるままじゃあ、ねぇ……。人も呼ばないといけないし」
生き残った者が海賊であることを考えると、このまま放っておく訳にはいかない。まずは大きな港街に行き、役人に後のことを任せた方がいいだろう。何にせよ、この船を操縦出来ない彼らには、他の手段で港街へ向かうしかない。何処を目指せば着くのかもわからないが、何もしないよりはいいだろう。
腕を組んで考え込んでいたルイは、何か思い付いたのか、パタパタと足音を立てて船の端に駆け寄った。身を乗り出しながら船体の下の方を覗き込む。
その行動を不思議に思っていると、彼女はユエを手招きして呼んだ。
「どうしたの?」
「さぁ、やれ」
「え?」
話が見えない――ルイが何を言っているのかわからず、ユエも身を乗り出して船の脇を見る。其処には一艘の小さなボートが、括り付けたロープによって吊されていた。中には、櫂も用意されている。ロープを切れば、海に浮かばせて使える状態だ。
「え、まさか、」
「頼んだぞ」
ユエの言葉を遮り、ルイはロープを指差す。彼女の視線は、ユエの腰の長剣に向けられている。
大きな溜息を吐いて、ユエは仕方なく長剣を抜いた。
* * *
「ルーイぃ……」
「どうした?」
「何で俺が漕がなきゃいけないの……」
「煩い。黙ってやれ」
ボートを漕がされてユエは文句を言うが、ルイは交代しようとしなかった。適当に言葉を返したりしながら、左手の指輪に視線を向けているだけ。
非力な自分に漕がせると陽が暮れると思う。そう伝えると、ユエは沈黙した後、再びボートを漕ぎ始めた。
「なぁ、ユエ?」
「んー?」
「左手の薬指に嵌める必要はなかったのではないか、これ……」
指輪を嵌める位置の意味を、ユエは知らないのだろうか。彼に問い掛けると、知ってはいるとの答えが返ってきた。
ユエが多少なりともルイに好意を持っているなど、彼女は知らない。そんなことがあると思ってもいないのだろう。彼女の言葉からそう察したユエは、何時ものように巫山戯た口調で答える。
「いやー、雰囲気的に何かね、つい」
「……怒るぞ」
「いいじゃん。こんないい男、他にいないよ?」
「自分で言うな、自分で。それに前にも言ったが、お前は可愛い方だ」
冷たく言葉を返すと、本当に怒られると感じたのだろう。ユエは肩を竦めて、真面目な表情になった。
「まぁ、ちゃんと意味はあるんだけどね」
自分の指輪とルイの指輪を交互に眺める。左手の薬指は、永遠に傍にいると言う誓いの証だ。確かに、ユエが本当に彼女の力を封じようとするならば、彼女の傍にいなければならない。永遠に近いその年月を共にすることは、婚姻の約束にも等しいかもしれない。
だからこそ、指輪はこの位置でなければ効果を発揮しないのだ。半永久的に共にいることになる者を守り続ける。その覚悟がなければ、そもそもこの指輪を使って封じようとは思わない。
ルイの為に、何時までも傍にいる。左手の薬指の指輪は、ユエにとってはそんな約束の証だ。
「このせいで相手が見付からなかったら、責任を取ってもらうぞ」
「じゃあ、見付からないといいなー」
返した言葉の半分は、ユエの本心だ。だが、ルイは全て冗談だと受け取ったのだろう。鋭い目付きで睨まれ、ユエは押し黙った。
暫しの沈黙の後、彼は恐る恐る再び口を開く。
「あの、ルイ?」
「何だ」
「前々から思ってたんだけど、その口調やめない? 女の子なんだし、やっぱり男勝りな感じが、」
「男勝りで悪かったな」
乱暴に放たれた言葉と共に、ユエは思い切りルイに突き飛ばされる。狭いボートの上では上手くバランスが取れず、彼は勢いよく海に落ちた。
慌てて水面に顔を出して、ボートの端に掴まった。ルイの顔を見上げると、彼女は意地悪く微笑んでいた。
「で、誰が男勝りだと?」
「……嘘です、そうでもないです」
「それでいい」
幾ら何でも海に突き落とすことはないだろう。ユエが不服そうな表情を浮かべると、ルイに額を指でつつかれた。
ふと、太陽の傾いている方から、大きな船がやってくるのが見えた。覚えのある船の形は、自分達が乗っていた大陸間の渡し船に間違いなかった。此方へ向かって来たその船の上には、船長や他の船乗りの姿もある。二人を心配して、探しに来てくれたのだろう。
「おーい、大丈夫かー? 今引き上げてやるからよー」
船の上から掛けられたその声に、二人はやっと安心する。お互いに顔を見合わせると、何となく笑いが込み上げてきた。
「海賊に襲われたぐらいで旅を終わりにするなんて、言わないよね?」
「勿論。お前が守ってくれるんだろう? 初めて会った時のように」
「……無茶言うなぁ」
水平線に沈み始めた太陽が、二人のそんな遣り取りを静かに見守っていた。