鬼帝国編 12
さらさらと流れ落ちる銀糸のような髪を解かすと、少し水分を含んだそれは透けるような輝きを放っていた。腰辺りまで伸びるこの髪を手入れするのは大変だろう。その場に座り背を向けているルイの髪を眺めながら、ユエはそんなことを考えていた。
フレスティーノ国での内戦が治まってから二日後のこと。ユエとルイは、国の外れにある山の麓にいた。何でも、此処には天然の温泉があるそうだ。疲れや怪我を癒したりするには丁度いい所だとリュクスに教えてもらい、彼らはここに来た。
彼方此方に湧き出た温泉が溜まっている。川から流れてきた水と混ざり合い、この周辺の湯は丁度いい温度になっていた。硫黄の匂いは結構あるが、天然のものだからと思うとあまり気にはならない。
湯の花の浮かぶ温泉に足を浸すルイは、少々熱いのか時折両足を動かして飛沫を上げさせていた。
「大したケガがなくて本当によかった」
ルイの長い銀髪を結い上げながら、ユエは安堵の息を吐く。幸いにも、彼女が受けたケガは肩の軽い打撲ぐらいで済んでいた。この程度であれば、少し手当てをすれば自然に治るだろう。
彼女は治癒に関係した術は苦手であると、ユエは何となく察していた。彼女の力には属性はない、従って誰に対しても使用は可能なのだが、今までユエのケガを彼女の力で治したことはなかったのだから。ユエの使える治癒魔法に関しては、彼自身は闇属性なので、一応闇属性の者に効くようになっている。だが、ルイに使った場合は逆に悪化させることになってしまうかもしれないと考えて、使うのは避けていた。仮にも天使なのだ。弱ってしまう可能性の方が高いだろう。
「ユエもな。……もう大丈夫なのか?」
そう言って、ルイはユエの方を振り向く。彼女の動きに合わせて、ユエの手から纏めていた髪がさらりと流れ落ちた。
ルイの言いたいことを、ユエはわかっていた。先日の、自分らしくない行動についてだと。
「うん、大丈夫。色々あって、ちょっと気が動転してただけ」
微笑みながらユエがそう言うと、ルイの顔も綻んだ。
流れ落ちたルイの髪を纏めて結い上げると、彼女は袖を通していた白いワンピースの留め具を外し、胸元辺りまで下げる。露わになった肩は少々赤く腫れていた。
ユエはまだ痛むかどうか問い掛けながら、手荷物の中から包帯や薬の入った瓶を取り出す。手当てをしようと瓶の蓋を開けた彼に、ルイが再び声を掛けた。
「あ、ちょっと待った。折角温泉に来たんだから、やっぱりちゃんと入りたい。いいか?」
「いいけど……今入るの?」
手元に向けていた視線を上げると、ルイは既に服を脱ごうと手を掛けていた。
「えっ、ちょっ、待って待って!」
ユエは慌てて目を瞑り、ルイに背を向ける。衣擦れの音がした後、少し大きな水飛沫の上がる音が聞こえた。
もう振り向いてもいいと彼女は言ったが、ユエは首を左右に振って嫌がった。仕方なく溜息を吐いて、大人しく温泉に浸かる。
お互いに背を向けて、しばらくの間黙っていた。だが、先に沈黙に耐えられなくなり、ユエは静かに口を開く。
「ルイ、優しくなったよね」
「……急にどうしたんだ。それと、まるで今まで私が優しくなかったような言い方をするな」
背中を向けていても、ユエにはルイが不満そうな表情をしているのがわかった。彼女が少々誤解をしているようなので、そういう意味じゃないと訂正する。
「雰囲気がちょっと柔らかくなったと思うんだ。前のルイは、もっと近寄り難い感じだったからさ」
ユエのその言葉に思い当たることがあったのだろう、彼女は納得したように「ああ」と呟いた。
今までのルイはなかなか他人を受け入れようとしていなかったと、ユエは感じていた。いつも少し距離を置いていたように思える。
「確かに、そうかもしれない」
温泉に浮かぶ湯の花を掬い上げながら、ルイは答えた。バラバラになっていた湯の花は、小さな塊となって彼女の手に残る。
人見知りが激しいと言えば間違いではないが、ルイの場合、単にそういうことではなかった。
「なあ、ユエ。私がどうしてこの中央界に来たのか……お前は、知りたいと思う?」
ユエはまだ知らない。ルイがジブリールの元を離れ、どういった経緯で天界の追手から逃れてきたのかを。ユエはそれを知りたがっているのではないかと思っていたが、彼が尋ねてくることはなかった。
彼女の問い掛けに、ユエは少し悩んでから首を横に振って「別にいい」と答えた。
「大変だったんだろうなとか、苦労したんだろうなってことは聞かなくても想像出来るし。人間関係でも色々あったから、ルイは人見知りしたりするんでしょ? でも困ってる人は放って置けない辺り、やっぱり根は優しいんだなってわかるから、正直俺はそれだけ知っていればいいかな。ルイが話したいなら聞くけど、自分から聞いたりはしないよ」
話したくないことだってあるかもしれないしね、とユエは続けた。
優しくなったと言うが、それでもユエの方が優しいだろう――そう思ったが、ルイは言わなかった。彼の人懐こい笑みやその人柄に惹かれて、彼女は共に旅をしたくなったのだ。
「……ありがとう」
ルイがそう呟くと、ユエは「いえいえ」と片手を軽く振りながら答えた。
そこで会話は途切れ、再び沈黙が訪れる。静寂の中で、ユエはふと、自分のドッペルゲンガーのことを思い出した。
彼はもうこの国を出て、何処かへ行ったのだろうか。それとも、まだこの国にいるのだろうか。彼の行動は、ユエには予測出来ない。
城でルイを見付けた時に彼らしい気配があった為、彼女を助けたのが彼だとは察していた。だがルイが彼のことを口にしない辺り、直接顔を合わせた訳ではなさそうだ。ただ、ルイの魔力を奪われた形跡がないことには引っ掛かりを覚えている。
何にせよ、何時Dユエがルイの魔力を狙ってくるかわからない。警戒は怠らない方がいいだろう。
ユエの思考を他所に、ルイはそろそろ出ようと立ち上がる。服の傍らに置いていたタオルで身体を拭きつつ上がるが、彼は気付いていない様子だった。ワンピースを着た所で、彼に声を掛ける。
「ユエ、おーい?」
彼の目の前で手を振りながら呼ぶと、やっと反応があった。
「あ……ごめんごめん、ぼーっとしてた」
「何か考えていたのか?」
「うん、ちょっとね」
直ぐに手当てを始めるから、とユエは薬を準備する。そんな彼を、ルイはじーっと見つめた。
「な、何?」
「お前、またくだらないことで悩んでいるんじゃないだろうな」
そう言いながら、ルイはユエの頬に両手を当て、むにむにと揉んだ。それから思い切り抓る。痛いとユエが声を上げた所で、彼女は手を離した。ユエは少々赤くなった両頬を押さえて反論する。
「くだらなくなんかないよ。大事なことだよ」
「じゃあ何だ?」
ユエは口籠る。Dユエのことを口にしたら、ルイの不安を煽ってしまうような気がした。今回、彼の存在があったことに彼女が気付いていないなら、余計なことは言わない方がいいのではないだろうか。
どう誤魔化そうか、ユエがそんなことを考えていると、ルイは諦めたのか「もういい」と呟いてユエの前に座り込んだ。
そっと手を伸ばして手当てを始めたユエの様子をぼんやりと見ながら、ルイは秘かに溜息を吐く。
――お前は、一人で抱え込もうとする奴なんだな。
胸中でそう呟き、彼女は少し顔を俯かせる。話してもらえないことから、何か隠し事をされているのだと思うと寂しかった。少し前のユエもこんな気持ちだったのだろうか。信用されていないようで嫌だったのか。そう考えると申し訳ない気持ちになる。
ユエの隠していることが何であるのか、ルイにはわからない。ただ、確信はないが、心当たりなら幾つかあった。
最初に城に行った時に感じた不思議な気配に、ルイが起きた後にユエが彼女の背中を確認したこと。そして、彼が城の中庭の片隅を見つめていたこと。
ユエがどうして背中を確認したのかはわからないが、それ以外については何となく想像が出来た。
フレスティーノ国が強大な魔力を用いていたことを考えると、Dユエの存在があったのではないかと思ったのだ。魔力を狙い動いているのであろう彼がいてもおかしくないのに、彼女はその姿を見ていない。もしかしたら、彼女の知らない所で暗躍していたのかもしれないのだ。
そう考えれば、ユエが話したがらないのにも合点がいく。優しい彼は、ルイに余計な心配を掛けさせたくないと思っているのだろう。
――結局私は、ユエの足手纏いになっているのかもしれない。
再び溜息を吐くと、ユエが気付いたようでどうしたのかと問い掛けてきた。
「ユエ、私はお前の足手纏いじゃないか?」
ルイの問い掛けに、ユエは少しの間目を丸くさせていた。やがて彼の口を吐いた言葉は、次のようなものだった。
「はあ?」
肯定か否定か、そのどちらかの言葉が来ると思っていたルイは、思わず拍子抜けする。そんな彼女に、ユエは呆れたような視線を向けていた。
「ルイの方こそくっだらないこと考えてるじゃん」
特に"く"の部分に力を込めて言われ、ルイはむっとする。
「そんな力強く言わなくてもいいじゃないか」
「だって、人にはくだらないことで悩むなとか言いたげなのに。結局ルイだって人のこと言えないんだね」
不満そうなルイの頭を撫でてクスクスと笑いながら、ユエはそう言った。
そんなことをしている間に包帯を巻き終えたので、ルイはワンピースの上に上着を羽織る。靴はまだ履かず、再び温泉に足を浸けた。
ユエも彼女の隣に座り、温泉に足を浸す。心地よい温かさに、ほっと息を吐いた。
「たまにはこうしてのんびりするのもいいよね」
「ああ。気分転換にもなるしな」
上っていく温泉の湯気を辿りながら、ルイは空を見る。白い湯気は青い空に溶けるように消えていた。ふと隣を見ると、ユエも同じようにして視線を空へと向けていた。
二人は暫くそうして空を見上げながらほのぼのと過ごしていたのだが、不意に誰かが走ってくるような足音が聞こえて、後ろを向いた。
「よかった、やっぱり此処にいたのね」
森の中を走り抜けてきたのはサリナだった。何やら慌てた様子で駆け寄ってきた彼女に、ユエがどうしたのかと問い掛けると、彼女は重苦しい表情で告げた。
「この森で殺されていたのよ。行方不明だったデヴィドが」
何か知らないかと聞かれ、ユエとルイはお互いに顔を見合わせた。勿論二人は何も知らないし関わってもいない。だが、二人の脳裏には犯人と思われる人物が同時に浮かんだ。そう、Dユエの姿が。
しかし、確証がない以上彼のことは口に出来なかった。下手に彼を刺激すれば、多くの犠牲が出るかもしれない。彼は敵と見なした者に対し、容赦なくその命を奪っていくだろうと、ユエは考えていたのだ。
「それは、いつのことなんだ」
ルイの問いに、サリナは答えた。
デヴィドの遺体が見付かったのは、今から数時間前のことだった。一緒に消えた部下の遺体もそこにあったという。彼の遺体の首は綺麗に切り落とされ、近くに転がっていたそうだ。身体の方は、座り込んだ状態から倒れたようになっていたらしい。
「そんなことがあったんだ……」
ユエがそう呟いた横で、ルイは想像してしまったのか青い顔をして口元を押さえていた。彼女の背を優しく擦りながら、ユエは心当たりがないと答える。
彼の返答にサリナは溜息を吐いて、これから詳しく調べてみるとだけ告げて去っていった。彼女の後姿が完全に見えなくなってから、ユエはルイに言葉を掛ける。
「ルイ、大丈夫? 気分悪くなった?」
「少しだけ……」
ふう、と息を吐いて、ルイはユエに向き直る。気分の悪さや胸中に渦巻く不安は残っていたが、それでも心配を掛けないよう、彼には笑顔を向けた。
「さてと。次は何処へ行こうか」
「そうだね、今度は黒斗達にでも会いに行こうかな」
ユエの提案に、ルイは黒斗と青音の顔を思い浮かべる。この国で過ごした数日のことを考えると、内戦とは無縁の生活を送る、あの二人の笑顔に会いたくなった。
「元気にしているといいな」
「そんな長い時間会ってないわけじゃないから、元気だと思うけどね」
笑いながらそうユエが発した一言に、ルイも微笑む。
温かな湯気の立ち上る空には、いつの間にか小さな幾つもの星達が輝き始めていた。