旅の始まり
初めて書いた自作小説です。
(2018年1月19日加筆・修正)
闇の中に水の滴る音が響く。敷かれた石畳と所々崩れ掛けてはいるものの隙間なく詰み上げられた石の壁は、嘗て此処に人々がいたことを証明している。そんな古代の遺跡に響いていたのは水の音だけではなかった。
ゆらゆらと揺れる光が遺跡の中をぼんやりと照らしている。小さな光球を灯りとして操りながら、一人の少年が石畳の上を歩いていた。腰に差した長剣から、一見すると彼は剣士のようであった。しかし、羽織った袖のない黒い外套の下に鎧は身に着けていない。小柄故に、彼にとって重い鎧は邪魔で仕方がなかったのだ。
外套と蒼い髪を揺らしていた少年は、一際大きな壁の前で足を止める。其処にあったのは大昔に描かれたと思われる色褪せた壁画と、刻み込まれた太古の文字列。光に照らされたそれに彼はそっと手を触れた。描かれた内容を読み取りながら、溜息混じりに呟く。
「――分けられた五つの世界。神々の楽園『天界』、悪魔の巣窟『魔界』、精霊の地『聖清界』、生命の地『物質界』。そして世界のバランサー『中央界』」
文字列を追う瞳は、髪よりも濃い、深海を連想させる蒼色。壁と共に光に照らされた彼の表情には、何処か呆れが含まれていた。
「悪魔は生きる者を唆す。魂を引き換えにすれば、悪の強き力を、闇の魔法を手に入れられるだろう。天の御使いは悪を滅ぼす者。その恩恵を受けられたならば、魂は神の加護を受け、闇より守られる……か」
少年は今度は視線を壁画に向ける。十字に並んだ五つの円は、書かれていたそれぞれの世界を表していた。天井に最も近いものには『天界』と書かれており、翼の生えた天使らしい人型が寄り添っている。一番下の円には黒い人型が描かれ、『魔界』と記されていた。その二つに挟まれるように、三つの円が横に一列に並び、妖精や人間らしい姿が描かれている。妖精のいる所には『聖清界』、人間のいる所には『物質界』という文字が見えた。中心の円には全ての生き物が集まっている。少年が今いる世界は、そんな四つの世界の中心である『中央界』だ。
塗料の剥がれ落ちた壁から、少年は数歩離れる。壁画の全体を暫し眺めてから、踵を返してこの遺跡の出口へと歩き出した。何処か寂しそうな、不機嫌そうな表情を浮かべながら。
「悪魔が簡単に現れる訳ないんだけどね。そんなに暇じゃないし。天使だって悪を滅ぼせるならとっくにやってるだろうしね。……それに、俺だったら魂なんてどうでもいいから放っておいてほしいと思うな」
自らの力で作った光球を消し、出口から差し込む日光に目を細める。少年の容姿からはおおよそ想像出来ない複雑な微笑みを見せた彼は、次の瞬間、全く逆のけろりとした表情で再び呟いた。
「まあ、確かにやってることは大方間違ってはいないんだけどね」
* * *
少年――ユエ・ノアールは、数年前から旅を続けている。年齢は十五歳と、旅人にしては若過ぎるかもしれないと周囲には思われていたが、本人は別に気にしていない。ただの旅人ではなかったからだ。
ユエは、この中央界の出身ではなかった。そもそも、人間ではない。俗に言う悪魔、その中でも最も恐れられる存在である魔王――何れはその座に就くはずの、魔界では王子とされる存在だった。要は魔王の息子だが、彼はその要とも言える魔力を殆ど持っていない上、使える力は光属性、所謂天界の者が使う力だけだった。
現在の魔王はルシファーだと中央界では伝えられているが、ユエの父親はルシファーではない。魔界が出来た頃の、当初の魔王を父に持っていた為に、魔力を磨くべきと言う理由を付けて、半ば追放されるような形で中央界に来たのだ。
理由がどうであれ、ユエは旅を続ける生活を心地よく感じていた。監視役がいる訳でもないので、のんびりと此処で過ごしているのだ。
修行の名目で来た以上、普通の者なら魔法の鍛錬をするだろう。だが、ユエの魔力の量は全く上がっていない。それ所か、彼の持つ光の力が強くなっていく一方だ。
その理由は――本人に魔力を上げようと言う気が、全くないからだった。
* * *
「あーあ、折角見付けた面白そうな遺跡だったのに……。やっぱり新しい情報とかないな、もっと古い時代とかの方がいいのかなぁ」
今は世界の成り立ちを調べることを主な目的として遺跡などを回っているユエは、そんなことをぶつぶつと呟きながら、夜の街を歩いていた。小さいが旅人や商いを目的に訪れる者の多いこの国は物資に恵まれている。その辺の店に行くだけで、大抵の物は揃うのだ。
紙袋に入れた品物を落とさぬように抱え直して、ポケットに仕舞っていたメモを取り出し、必要な物を確認する。
「えーと、薬とかはまだ沢山あるから……後は剣の手入れ用の物を買えば終わりか」
一際賑やかな大通りは、夜でも彼方此方に人の姿がある。店への呼び込みをする人、談笑をする人。様々な声の飛び交う中を、街の雰囲気を楽しみながら歩いていると、頭上の方から声が降ってきた。声のした方を見上げれば、酒場の二階の窓から顔を覗かせている男がいる。
「あー、お嬢ちゃん、そっちの通りは危ない奴が多いから行かない方がいいよー」
既に酒に酔っているのだろう、大きなグラスを片手に赤い顔をしている声の主の男に、ユエは苦笑しながら心の中で溜息を吐いた。
酔っているのならば、見間違いで言っている可能性もあるので仕方がないが、『お嬢ちゃん』と呼ばれるのは不快であった。
容姿が母親に近い為、こういうことは昔からよくある。長剣を携えているが、華奢で背も低い。やや長めに切られた髪からも、遠目には性別が何方かわかり難いのだ。何より少女と間違われる一番の理由は『女顔』だから。
軽い苛立ちを覚えつつも、表面上は笑顔を保つ。これ以上酔っ払いに絡まれると迷惑なので、適当に返事をして足早にその場を去る。
明らかに迷惑そうな声を聞いたのは、その直後だった。
「おいおい、ぶつかっておいて謝罪の一言もねーの?」
「す、すみません……私、あの……」
「聞こえねーんだよ」
腰に差した曲剣にナイフなどの武器から、一目で堅気でないとわかる男。その目の前で俯きながら小さな声を出す女性が一人。
確かに危ない所かもしれないと、ユエは頭の片隅で思った。経緯はよくわからないが、女性の様子からは、男が必要以上に絡んでいる為に迷惑しているように見えた。
周囲の者は男が喧嘩に強そうだと考えているのか、遠巻きに見つめているだけで助ける気配はない。確かに、一般人にはどうしようもないだろう。
怒り半分、呆れ半分で、取り敢えず放っては置けないと、ユエは二人に声を掛けようとした。だが一歩踏み出した瞬間、彼の横を擦り抜けて、先に二人に近付いた者がいた。
「おい」
思い切り場違いな凜とした女声が、その場にいた全員の耳に届いた。ユエも驚いて、前方に立った声の持ち主を見る。
声を発したのは、ユエとそう歳の変わらない少女だった。少々幼さの残る整った顔立ちに、輝く銀色の長い髪。裾と袖口に向かうに従い、白へと変わっていく青いワンピース。羽織った白い外套は風を孕んでふわりと広がり、さながら天使の翼のような、清らかな印象を与える。
まさかか弱そうな少女が、口出しをするとは。彼女を見た者は皆呆然と口を開けている。ユエも例外ではなかった。
「その手を離せ、嫌がっているだろう」
「はっ、随分威勢のいい嬢ちゃんだな」
下劣に笑う男の視線が、少女に移る。少女はその透き通る水色の瞳で、真っ直ぐに男を睨み返した。
彼女は男が女性から手を離したことを確認すると、女性の方にちらりと目を向ける。
「大丈夫、行って下さい」
「す、すみませんっ」
ぺこりと頭を下げ、女性は駆け足で去って行った。その後ろ姿を見送ると、少女は澄ました表情でくるりと男に踵を返す。後ろを向いた少女とユエの視線が、一瞬だけ絡み合った。
「ちょっと待てよテメェ」
どすの利いた男の低い声に少女は足を止め、顔だけを男に向ける。怒りが込められたその声に怯える様子もなく。
「私に何か用か」
口調が強いことだけが理由ではない。男とは違い、静かで淡々としているが故に、少女からはより気迫を感じる。
「何黙って行こうとしてんだ、余計なことしやがって!」
「……言いたいことはそれだけか。私も忙しい。手は出さないでやるからお前も早く帰れ」
「何だと!」
――って、ぼーっとしてる場合か!
わなわなと拳を震わせ始める男と、腕を組み対峙する少女。ユエは険悪な空気にはっとして、慌てて少女と男の間に入った。
再び部外者が割って入ってきたことに、男の苛立ちは益々募る。
「あのさ、さっきから思ってたけど、女の子にその口の効き方はないんじゃないの? もっと優しくしてあげてよね」
「はぁ? ガキは引っ込んでろよ!」
「いや、そうもいかないし」
其処で一旦会話を打ち切ると、ユエは小声で少女に離れているように伝えた。
突然現れたユエに呆気に取られていた少女は、少し考えてから頷くと、その場から数歩離れる。少女は見た所魔術師の類のようだが、それにしても喧嘩慣れしていそうな男に立ち向かっていくとは。彼女の無謀とも思える行動に呆れながらも、その勇気には感服する。
ユエは男の差した曲剣を一瞥すると、愛想笑いを浮かべながら男にゆっくりと歩み寄った。
「悪いけど、俺もこんなことに巻き込まれて時間取られたくないんだよね。だからさっさと平和的に話し合って……」
「舐めてんじゃねーよ!」
男がユエに斬り掛かろうと、曲剣を振り上げる。少女が短く悲鳴を上げたが、ユエは長剣と共に腰から下げていた十字架を右手に持つと、素早く鞘から引き抜いた。
十字架の形をしたそれは、短剣だった。ユエは短剣を逆手に持つと、男が武器を振り下ろすと同時に武器を弾き飛ばす。弾かれた武器は、回転しながら地面に突き刺さった。
驚いて動きを止めた男に、ユエは切っ先をその喉笛に刺さるか刺さらないかの勢いで向けた。
「いきなり危ないな。そんなに死にたいのならあの世とやらに案内するよ?」
ユエの言動に、男は顔を引き攣らせて後退った。どうやら、彼が徒者ではないと漸く気付いたらしい。
一瞬だけ意地の悪い笑みを浮かべると、ユエは短剣を鞘に戻して脅しを掛けるように言葉を紡ぐ。
「それ以上何か仕出かす気なら、今度はその曲剣ごと容赦なく斬る」
男は憎々し気に奥歯を噛み締める。ユエを睨み付けると、悪態を吐きながら慌てて逃げていった。
ユエは男の姿が闇夜に消えていくのを見送ってから、少女の方に振り向く。少女はユエを不思議そうな表情と共に見つめていたが、思い出したように頭を下げた。
「えっと、ありがとう。正直に言うと相手にするのも面倒だったから、助かった」
「あぁ、別に構わないから。でも、あんまり男勝りなことはしない方がいいと思うよ」
「男勝り……」
ショックを受けたようにぽつりと呟いた少女は、ユエが何故手を貸した、と言うより結局助けてくれたのかと首を傾げた。先程までの印象とはかなり違う、少女らしい可愛らしい仕草。こんな仕草もするのか――ユエは彼女に意外な面もあるのだと感じた。同時に、少女の様子に思わず胸がどきりと一際大きく脈打ち、自然と頬が赤くなる。自分でも理由がわからず、ユエはそれを誤魔化すために彼女から視線を逸らした。そんな彼の反応が面白かったのか、少女はくすりと笑みを零していた。
「何だ兄ちゃん、その子が気に入ったのか?」
「いいねー、若いってのは」
二人の様子を見ていた野次馬から、そんな言葉が出る。ユエは野次馬の方に勢いよく振り向くと、妙な言い方をしないようにと叫んだ。
それでも野次馬に微笑ましいと返されてしまい、ユエは言葉に困る。そんな彼の背を軽くつついて、少女は再び頭を下げた。
「……では、私はこれで」
少女はにこりと笑ってユエに背を向けた。長い銀髪と白い外套を夜風に靡かせて、彼女の後ろ姿は雑踏の街に消えていく。
ユエにとって一番印象に残ったのは、彼女のその笑顔だった。
* * *
翌日の朝、ユエが泊まっていた宿の階下に降りると、雨が降っていた。昨日は宿に戻って間もなく就寝した為に気付かなかったが、夜から降り続いていたのだろう、路面はすっかり雨に濡れ、水溜まりが幾つも出来ている。
宿屋の主人に宿泊代を渡すと、溜息を尽きながら、雨除けのフードを被って宿を出た。
しとしとと頭や肩に当たる雨は、そう強くはない。今日は近くの船着き場から出る定期船に乗り、別の大陸に渡るつもりだった。もし雨が酷かったなら、船が出ない為に宿で丸一日過ごすことになってしまう。急ぐ旅ではないが、日を無駄にはしたくない。
港の方へ小走りで向かう途中、森に通じる方の道の前で、ユエはふと足を止めた。木々の間に人影が見えたのだ。羽織った白い外套と、被ったフードの隙間から覗く銀の髪。
見間違えるはずはなかった。森へと入っていったのは、昨日のあの少女だった。何やら古そうな紙を片手にした彼女は、昨日と同じように真面目な表情で、森の中に姿を消した。
出会ったばかりで、名前すら知らない。だが、昨日から彼女のことが気になって仕方がなかった。彼女を追おうか迷うユエは暫し其処に立ち止まっていたが、意を決して歩き出す。
森へ続く道を……。
* * *
雨雲が立ち込めているせいで、昼間だと言うのに森の中は薄暗い。木々の葉から雫が垂れ、ユエの外套を濡らす。
ユエはフードを外すと、気配を消して少女を追った。彼女が素人ならユエが気配を消さなくても気付くことはないだろうが、念の為だ。
少女を追い掛けたくなった理由は、自身でもよくわからなかった。ただ、彼女の銀髪が揺れる様には、思わず目を向けてしまうのだ。
時々立ち止まり、少女は周囲の様子を確認していた。ユエの気配に気付いて捜している雰囲気ではなく、何かを気にしているようだった。手にした紙と景色を交互に見ている様からは、道に迷っていると感じられた。
声を掛けた方がいいだろうか。少女の前に出ようとしたユエは、突如として大勢の人の気配を感じた。身体に突き刺さるような鋭さは、殺気に間違いなかった。
誰かが狙っている――弓を引く音を耳にして、ユエは反射的に少女の元へと駆け寄っていた。
「伏せろ!」
昨日と同じく突然現れたユエに、少女は驚いた表情と共に振り返る。強引にその場に押し倒され、彼女には彼が姿を見せた理由を考える暇さえなかった。しかし、幾つもの矢の飛び交う音に、彼女は場の状況を素早く理解する。
幸い、少女にもユエにも矢は当たらず、頭上を通り過ぎるだけで済んだ。矢の嵐が止むと、ユエはゆっくりと少女から離れ、双方に視線を飛ばした。
二人を囲むように現れたのは、見るからにお尋ね者とわかる者達だった。誰かから奪い取った物なのか、鎧や腰に下げた剣には統一感がない。皆一様に下卑た笑みを浮かべ、二人を見下ろしてくる。その中で、見覚えのある男がユエの前に立った。曲剣を手にしていたそれは、昨夜の騒ぎの原因となった男だった。
男はユエに剣の切っ先を突き付ける。背後で座り込んでしまっている少女に大人しくしているように囁いて、ユエは男を見上げた。
「まだ懲りてないって訳か、昨日負けたのに」
男はあからさまに顔色を変えた。ふん、と鼻を鳴らして、彼は曲剣を持たぬ方の手で少女を指差す。
「昨日のこともテメェも関係ねーよ。用があるのはそっちの嬢ちゃんだ」
ユエが少女に視線を送ると、彼女は困ったように肩を竦めていた。彼女には、絡まれる謂われに心当たりがないようだ。昨日のことが関係ないと言うのなら、理由は彼女が持つ古い紙だろうか。
男は少女を顎で指す。それを合図として、後ろに控えていた手下らしき者達が、じりじりと二人に迫ってきた。
少女の前に立ち、ユエは長剣を抜く。男達の目的は知らないが、黙って見過ごす訳にはいかない。自分でどうにかすると伝えてきた少女に、大丈夫だから任せてくれとウインクを返すと、彼女は渋々頷いた。
「纏めて掛かってきてよ。一人ずつだと時間が勿体ないから」
「後悔しても知らねーぞ!」
各々の武器を構え、男達が一斉に向かってくる。ユエは武器を持った手を狙い、長剣を薙ぐように振るった。武器を弾かれた者は狼狽えて立ち尽くし、或いはそれでもユエへと拳を振るおうとする。ユエは突き出された拳を避けると、勢いで前のめりになった男の背へ跳び乗った。衝撃にバランスを崩した男の背から思い切り跳躍し、後ろで立ち尽くしていた者の肩へ踵を落とす。
背中を蹴られる形となり地面に強かに顔を打ち付けた男は、痛みに悶絶して転がり回っていた。踵を落とされた者は肩を押さえ、額に脂汗を浮かせている。
「程々にしておけよ」
少女の呆れたような声にユエが間延びした返事をすると、彼女は溜息を吐いていた。
どうにかユエを止めようとする男達の視線が自分に移りつつあることに、少女は気付いていた。手は出さなくていいと言っていたが、自分の身は自分で守らなければと、彼女も詠唱を始めようとした。
だが、不意に肩を掠めるように飛んできた矢に驚き、思わず身体を強張らせる。その僅かな隙を狙って背後から男の手下が襲い掛かり、彼女を羽交い締めにした。
「それ以上動くんじゃねぇ!」
手下が声を上げると、ユエは今正に剣を突き付けようとしていた男から視線を移す。数人の手下に囲まれ、拘束されている少女が目に入った。抵抗しているようだが、華奢過ぎるその身体では大柄な男達の前には無力だった。
「武器を捨てな」
ユエは周囲の男達を睨み上げた後、静かに長剣を地面に置く。昨日の短剣も出すように言われ、仕方なく長剣の上に重ねた。男達を片付けることに集中し過ぎてしまった。少女から目を離すべきではなかったと、唇を噛む。
昨日とは違い、今度は此方が武器を向ける番だ――男は満足そうな笑みを浮かべ、ユエの顔を見下ろした。
「妙な真似すんじゃねーぞ」
ユエは唇を堅く引き結ぶだけで、それ以上の反応は返さなかった。男は大きな音を立てて舌打ちをすると、彼の脇腹に強く蹴りを入れた。
鎧を身に着けていない為に、衝撃はユエの身体を鋭い痛みとなって駆け抜ける。片手で脇腹を押さえながら膝を付き、苦痛に耐えるしかなかった。
続けてユエを殴ろうと男が手を振り上げる。少女の顔が瞬時に青褪めた。
「やめろ! 其奴は関係ないんだろう!」
「うるせーな。邪魔な奴をどうしようが俺の勝手だろ」
少女が上げた声に、男は面倒臭そうにそう答えた。
自分のことはいいから早く武器を持つように少女は叫んでいたが、ユエは静かに首を横に振る。捕まっている少女の為を思うと、男に刃向かうような危険な賭けに出る訳にはいかなかった。
座り込んでいるユエを暫し眺めていた男は、続いて彼の持っていた剣に目を付ける。長剣の柄を握り鞘から半分程抜くと、銀の剣身が覗く。古いながらもよく手入れされたそれは、雨雲の立ち込める森の中でも鋭く煌めき、如何に切れ味がいいのかを物語っていた。多くの武器を奪い取ってきた男だったが、それでも滅多に見ない代物に思わず感嘆する。
「ガキにしちゃいいもん持ってんじゃねーか。折角だし俺が使ってやるよ」
男は柄を両手で握り、高く振り上げた。流石に殺されるのは勘弁してほしいと、ユエは心の中で舌打ちする。振り下ろされた刃を半身分だけ身体を動かすことで避けると、男は心底つまらなさそうな顔をした。
長剣は地面に生えた草花をいともたやすく切り裂いていた。その様子を横目に見ていたユエを、男は思い切り殴り付ける。小柄な身体はあっさりと地面へ倒れ込んだ。
「避けてんじゃねーよ。あの嬢ちゃんがどうなってもいいのか?」
「……いい訳ないだろ」
地面に手を付きながら、ユエはゆっくりと起き上がる。そっと手を触れると、殴られた頬は熱を持っていた。
少女は男達の目を盗み、静かな声で詠唱を始める。彼女にとって、ユエは昨日出会ったばかりの、彼女とは関係のない旅人の少年だ。それなのに、これ以上自分のせいで彼が傷付くのを、黙って見てはいられなかった。
直ぐに術を完成させることは出来たものの、自分を羽交い締めにしている者が邪魔で、ユエ達に近付くことは叶わなかった。どうにか隙を見て抜け出さなければならない。皆の気を逸らせる方法を考えていた彼女の前で、再び男が剣を振り上げる。
形振構ってはいられないと焦り始めた、その時だった。低い唸り声が微かに聞こえたかと思うと、やがてそれは狼らしき獣の遠吠えとなり、その場にいた全員の鼓膜を震わせる。素人でもはっきりとわかる程に、獣の気配を近くに幾つも感じた。
「くそっ、こんな時に!」
ユエの目にも少女の目にも、男達が明らかに焦っているように映った。互いに顔を見合わせる男達の意識が自分からでなくユエからも逸れているのを確認した少女は、自分を捕らえる手の力が緩んだ隙に、手下の元から抜け出した。慌てて捕まえようとした手下だったが、その手は走り出した少女に追い付かず、その髪に僅かに触れるだけだった。
少女は真っ直ぐに男の方へと駆けていく。突然向かってきた彼女の姿に、男は驚きに身体を硬直させていた。武器を下ろしてしまった為に無防備になっていたその身体に、少女は右手に完成させていた術を叩き込む。彼女の手から稲妻が走り、男の全身を駆け抜けた。
成す術のないユエは、泡を吹いて倒れる男を呆然と見つめていることしか出来なかった。少女はユエを守るように立ちはだかり、残った手下達を睨め付ける。
「今なら見逃してやる。此奴を連れてさっさと消えるんだ」
少女の気迫に手下達は身体を震わせ、気絶した男を背負いながらそそくさと退散していった。また、彼女に圧倒されたのは彼らだけではなかった。何時の間にか近くに感じていたはずの獣の気配も遠ざかり、此処にはユエと少女しかいなかった。
周囲に何の気配もなくなったのを感じ取った少女はくるりと振り返り、ゆっくりとユエに歩み寄る。そして彼の目の前にしゃがみ込むと、その肩を掴み地面に沈めるように押し倒した。衝撃で脇腹に鋭い痛みが走り、ユエは苦悶の表情を浮かべる。
「全く……何をしに来たんだ。こんな傷まで負って……」
独り言の様に呟きながら、少女はユエの傍らに跪く。彼の脇腹に静かに手を当てると、力一杯押さえ付けた。か弱い少女の力ではあったが、傷付いた身体はそれでも悲鳴を上げる。血が吹き出すような感覚がユエを襲い、彼は思わず呻いた。
「……やっぱり相当、か。剣士を気取るなら鎧ぐらい着ているべきだろう」
ユエの唇に付いた血を見ながら、少女は呆れたような表情を浮かべる。軽いケガではないが、彼が血を吐いた形跡はないことから、殴られた時に切ったのだと判断した。
今まで何度も少女の言葉と同じようなことを言われていると思い出し、ユエは苦笑した。ケガの様子を確認する少女の顔を、ちらりと盗み見る。銀糸のように輝く長い髪が、時折彼の頬にさらりと触れる。少女の綺麗な顔から、目が離せなくなった。
ユエの視線に気付いたのか、少女は今度は困ったように眉を寄せながら、彼に問い掛けた。
「お前、人間じゃないんだろう? 何故此処にいる?」
ユエは息を呑む。確かに自分は人間ではないが、今まで他人に話したことは一度もなかった。それなのに、何故昨日会ったばかりの彼女が知っているのだろう。
答えないことで、ユエが困惑しているのが伝わったのだろう。彼の疑問は、直ぐに少女の口から語られた。
「あぁ、多分私もお前と似た立場だから……」
語尾が段々と小さくなって行く。それに合わせて、彼女の少し跳ねていた髪が、動物の耳の様にシュンと下に垂れた。
その仕草が可愛くて、ユエはつい吹き出しそうになる。だが、脇腹の痛みが主張してくる為に、笑顔は苦悶の表情にしかならなかった。
「似た立場、って……?」
少女は沈黙したまま、ユエの問いには答えなかった。
力なく地面に放っていた彼の手に、少女はそっと自分の手を重ねる。華奢な細い指が手の甲や指先に触れ、ユエの心臓は昨日と同じくどきりと跳ねる。脇腹に重ねた手を乗せると、少女は再び強めに押さえ付けた。
「ッてぇ……!」
「少し黙っていろ、出血が酷くなっている」
そりゃ押さえ付けられてるからね……。ユエはそう心中で呟く。ずきずきと身体に響く痛みは、少女に押さえられ続けて余計酷くなったように思えた。
そんな彼の心中を知らない少女は、何処からか黒い結晶を取り出した。漆黒ではなく、透き通るような黒色をしたそれを持ち、困ったように眉を顰めてユエに顔を向けた。
「治癒魔法は使えるのか?」
ユエが静かに頷くと、少女は脇腹に宛行った手に意識を集中するようにと告げた。それから、目を瞑るようにとも。何か理由があるのかと問えば、今はケガを治すことだけを考えるようにと返された。
不思議に思いながらも彼女の言葉を聞き入れることにして、ユエは瞼を閉じる。何かが砕けるような音がしたと思ったものの、暫し何も感じなかったが、不意に唇に柔らかいものが触れたような感覚がした。同時に、口の中に何かの欠片のような、固い物が少しずつ入ってくる。何なのか考える前に、それは溶けるように消えてしまった。
ユエは少女に気付かれないようにそっと目を開ける。
直後、硬直した。
* * *
「何だその顔は」
ゆっくりと顔――もとい唇を離した少女は、目を丸くしているユエに苦笑していた。回復に必要となる物を口移しでやっただけだと、彼女自身はそれに就いて別に気にしてはいなかった。
「お前は闇属性の存在だ。だったら、回復魔法には魔力を使うんだろう? それなのに、大して魔力はないようだし……」
だから必要だろうと思った。少女はポケットから先程よりも少量の、同じような結晶を取り出して、そう続けた。
ユエは熱を帯びて赤くなった頬を隠すように、両手で顔を覆う。手の平に伝わってくる体温の高さに、自分が如何に平静さを失っているのかを知り、更に恥ずかしいような気持ちになる。そもそも、彼は異性と手を繋いだことすら殆どないのだ。少女の行動に戸惑うのは、当然と言えば当然だった。
「わ、渡してくれれば自分で出来るよ。口移しとかいいから……」
「横になっていて喉に詰まったらどうするんだ」
「そういうことを言いたいんじゃないんだけど……」
少女の返答に、ユエは更に動揺していた。昨日と言い今と言い、この少女は誰かを助ける為なら深いことは考えずに行動するらしい。
これはお前が持っていた方がいいと少女は告げて、呆然と座り込んでいるユエの手に黒い結晶を乗せた。先程は気が付かなかったが、よくよく観察すると、小さい結晶だというのにかなりの魔力が感じられた。
強い魔力が凝縮すると、このような結晶の形になることがある。砕ける際には、その魔力を放出して消えてしまうのだ。口に含めば、無駄なくその魔力を貰うことが出来る。少女はそう説明した。
まだユエには言いたいことは残っていたが、少女の説明に、取り敢えずその行動には納得する。だが、引っ掛かることがあった。何故少女は彼が人間ではないことを知っていたのか。それに、『似た立場』とはどういうことなのか。率直に疑問を投げ掛けると、少女は微笑みながら答えた。
「直ぐに気付いたよ。これでも気配などには敏感な方だからな。……本能と言うのだろうな。昨日会ったときに、お前が本来は敵である存在だとわかった。だから多分、悪魔辺りだと思ったんだ。でも魔力と天力、何方も持っているようだが、お前は天力の方が圧倒的に強かった。正義感までもな。……それは私の知ってる悪魔じゃない。もしかしたら、それが理由で魔界から追放されたか、嫌になって逃げてきたんじゃないかと思った」
「……敵だとわかっていたのに、どうして助けたんだ」
ユエには少女の考えがわからなかった。誰かを助けたいという意志が、敵であるはずの自分にすら働いた。そうだとするなら、不思議で仕方なかったのだ。
「言っただろう、『本来は』と。私にとって、お前は敵じゃない」
少女は立ち上がりながら、泥の付いてしまった外套を脱ぐ。汚れたその下から、見覚えのある白い外套と青いワンピースが現れる。
「私は、何に見える?」
乱れていた銀糸のような髪にするりと指を通し、少女は問い掛けた。
ユエは暫し少女を見つめる。色白な肌に仄かに色付いた頬。全体的に白を貴重としたその姿が与える、清らかな印象。
「天使みたいだ」
思わずユエの口から出てきたその言葉に対して、少女はその通りだと頷いた。
だが、それならば尚更ユエを助けた理由がわからなくなる。立場だけで考えれば、彼女の言う通り、二人は完全に敵対する存在だ。それなのに、『敵ではない』と彼女は言う。
「私は天使であっても堕ちた者。……それに、助けられて礼をしない程冷たい女じゃないからな」
昨日も今日も、助けてもらったのは私の方だから。少女は苦笑しながらそう呟いていた。ユエが庇ってくれていなかったら、敵の気配に気付いていても、彼女には直ぐに矢を避けることは出来なかったのだ。
堕天使と名乗る割には、真っ当な天使以上に純粋で、清らかな印象しか与えない。ユエの知る堕天使とこの少女とでは、イメージが違い過ぎる。先程彼女はユエのことを『悪魔らしくない』と言っていたが、らしくないという点では彼女も同じだろう。堕天使として扱われるならば、相応の罪を犯し、不浄な心を持っているはずだ。それを感じさせないとは、彼女の置かれた立場は特殊なのかもしれない。
ユエが名前を問い掛けると、最も清らかな堕天使は、スカートの裾を軽く持ち上げて恭しく頭を下げた。
「沈黙の天使。それが私の名前だ」
如何にも無垢で従順な天使であるかのように大袈裟に振る舞う少女に、ユエは内心呆れてしまった。堕天使と名乗るのであれば、神を意味する『エル』の名前は相応しくないだろう。それに、悪党に食って掛かるような彼女に『沈黙』の称号は似合わない。
「俺が聞きたいのは、神の付けた名じゃない」
この中央界で過ごしているのであれば、天使としての名前以外を使っているはず。ユエが知りたいのは、少女が普段呼ばれている名だった。
暫し迷う様な沈黙があったが、少女は溜息を一つ落とす。
「ルイだ。ルイ・ミローズ」
意味までは知らないと、少女――ルイは呟いた。何時、誰に付けてもらった名前なのか、彼女は覚えていない。自分の司るものを表す『沈黙の天使』の名前を与えられる遥か前から、本名は『ルイ』なのだと認識していた。
物心が付く前から、ルイは堕天使として扱われてきたと言う。彼女の話を聞き、ユエは違和感を覚えた。天使であれば光の力、ユエの持つ天力を使うはず。堕天したのであれば代わりに魔力を使うのだが、ルイからはその何方でもあるような、どのような力でもないような、不思議な力が感じられた。勿論、天使である証拠の天力も、堕天した証拠である魔力も彼女からは感じられる。
「普通の天使ではなかったことが、堕天使にされた理由だろうな」
地位も高くない上に堕天使であるのも一つの理由だが、天界でも極一部の者しか彼女のことは知らない。天力を持っていても、ルイには殆ど使えないのだ。代わりに使えるのは、何にも属さない力だった。
ユエはその立場上、天界について特別詳しい訳ではない。だが、普通の天使ではない者がどう扱われるのかは、耳にしたことがあった。
「そういう奴は大体、施設で研究されているって聞いたけれど……もしかして、逃げて来たのか?」
暫しの沈黙の後、ルイは静かに頷いた。数分前に彼女が言っていた通り、確かに自分達は似たような立場にあるとユエは納得する。
ルイは自分が何者なのかを明かした。それならば、今度はユエが名乗る番だろう。
「俺は、魔王レイド・ノアールの息子だ」
レイド・ノアールは、今の魔王、ルシファーが来る前に魔界を治めていた者の名前だ。遥か昔、まだ世界が五つに分かれていなかった頃に、魔界を治めていた存在である。魔王レイドの名はルシファーに殺されたことで一部の世界では抹消され、今では二人に関係する魔界と天界、そして中央界でしか聞くことはない。まさかそのレイドに息子がいるとは、ルイも聞いたことがなかったが。
「名前は?」
「ユエだよ。ユエ・ノアール」
自分は半ば追放されるような形で此処に来たのだと、ユエは述べる。ルイのように追われる立場ではないが、故郷にいられなくなったのは彼女と同じだ。
「俺、光属性の力しかないし……魔力も少なくて。だから、中央界で修行するなりして、強い魔力を持てるようになれって言われてさ。それまでは、魔王の座は渡せないって。……ルシファーの奴に、ね」
悔しさと苦々しい思いを織り交ぜながら語られたユエの話を、沈黙の天使の名に相応しく、ルイは黙って聞いていた。
ルシファーの名が世界に広まったのは、此処数百年の話だ。人間にとっては長い時間だが、ルイやユエのような存在にとっては、数百年などあっという間に過ぎていく。世界ごとに年月の進み方も異なる為、歳の取り方も人間と比べて明らかに遅い。十五歳であるユエも、人間では最早生きられるはずのない年齢になる。
それでも、事実を受け入れるまでの年月がどれ程酷であったか。今でこそ憎しみの思いは薄れてきたが、悔しさは残ったままだ。
「戻りたいと、お前は思うのか」
ルイの問い掛けに、それは違うと首を横に振る。慣れてしまえば、自由に暮らせるこの世界の方が、ユエの性には合っていた。だが、自分の父親が存在しなかったと扱われることに対して、不満があるだけだ。
中央界で不便なことと言えば、魔力が少ないせいで、ケガの治療が難しいことぐらいだ。
「さっきは助かったよ。あのケガで街まで戻るの、しんどかっただろうし」
手段はどうであれ、彼女のお陰でケガを治せたことに、素直に謝辞を述べる。元々私のせいで巻き込まれたのに。そう思ったが、ルイは口にしなかった。
ユエが巻き込まれたのは、自分が持つ紙が原因だと彼女は考えていた。此処で街に戻るよう促しても、彼は帰らないだろう。それに、昨日も先程も見せてもらった彼の剣の腕は、中々役に立ちそうだ。
「来い。私に付いてきたのは、これが気になったからだろう?」
言いながら、ルイは先程持っていた紙をユエの前に差し出した。そして無言のまま背中を向けると、森の更に奥の方へ向かう。
これが理由ではないのだけれど……。受け取った古い紙に描かれた地図らしきものを眺めてから、ユエはルイの方へ視線を戻す。暫しその場で迷っていたが、ルイの銀髪を見失いそうになると、慌てて彼女の背を追い掛けた。
* * *
森の奥にあったのは洞窟だった。暗いその中を、ルイは自分の力で生み出した光球で照らし出し、先を進んでいく。彼女の直ぐ後ろを歩くユエは、ひんやりとした空気に寒気を感じた。
頭上を見上げれば、岩の割れ目から滲み出した水滴が、ぽたりぽたりと地面に滴っている。額に落ちてきた水滴の冷たさに、ユエは思わず小さく声を上げた。
少女に思える見た目から出た想像通りの彼の声に、ルイは溜息を落とす。自分よりも少女らしいじゃないか……と、彼女は心の中で舌打ちした。
「森の中で、狼の鳴き声を聞いただろう?」
ルイに問い掛けられ、ユエは記憶の糸を手繰り寄せる。確かに、あの男が剣を振り上げた時、獣の遠吠えが聞こえた覚えがある。それをきっかけとして、男達が焦り始めたことも思い出した。
だが、狼に限らず、森に入れば獣はよく彷徨いている。鉢合わせする可能性があること位、この辺に住む者ならわかっているだろう。対処法も知っているはずだ。
「普通の獣なら、な」
「どういうこと?」
首を傾げるユエに、ルイはポケットから二つ折りにした別の紙を取り出して、彼の前に広げて見せる。よく城下町で目にする、人捜しの依頼や冒険者を募集する掲示板に張り出されている物と同じ紙だ。その内容は、森に現れた怪物に関する調査と、同時期にこの洞窟付近で観測された強い魔力との関連性を調べるというものだった。
「最近、森の動物の様子がおかしいと聞いたんだ。その強い魔力が関わっているんだと思う」
「……変だね。自然に強い魔力が発生することなんて、普通あり得ないよ」
魔力は元々魔界に存在する力だ。人の手によって意図的に強い状態を作ることは可能だが、人も余り寄り付かないような森の奥に、強い魔力が勝手に発生するのはおかしい。
強い魔力が存在することで、その周囲に生きる動植物にも悪い影響が及ぶ。特に動物は影響を受け易く、変質し、凶暴化することが多い。恐らく怪物と言うのは、変質した動物――俗に言う魔物だろう。
魔界以外で、ユエは魔物を見たことはない。凶暴な性格故に、魔物を鎮めるには殺す以外に方法がないと教えられている。実際に殺したことも対峙したこともないが、出来れば出会いたくはないと考えていた。
五つの世界は、絶妙なバランスを取って存在している。他の世界に干渉することはまずないが、時々あるのだ。バランスが崩れ、他の世界に影響を及ぼすことが。
「普通交わらないはずの世界が、僅かとは言え交わろうとしている。それを防ぐ為に、この世界に齎された物があるんだ。……私はそれを探して旅をしている。だからこの依頼を受けたんだ」
手伝ってくれるのなら、報酬はユエにも渡すと言う。旅の資金集めにはそう困ってはいないし、ルイが気になって勝手に付いてきただけだが、此処まで来て全く手伝わない訳にもいかない。適当に理由を付けて、報酬は貰わないでおこう――ルイの綺麗な横顔を眺めることだけでも、ユエには充分な報酬だった。
「探し物って、どんな感じなの? 何か特別な力があるとか?」
「あぁ。詳しいことは抜きにするが、『流星石』と呼ばれている石なんだ。特別な力はあるけれど、感じることは無理だ」
探知の魔法を使えば早く片付くだろうと思っていたユエは、残念そうに肩を竦める。そんな簡単に見付けられないから苦労しているのだと、ルイは溜息を吐いた。
「言っただろう、世界の交わりを防ぐ為の物だと。此方の世界に及ぼうとしている『魔界の』魔力を抑え込み、無力化する効果のある物なんだ。だから魔法などで探知しようとしても、反応がないから見付けられないんだ」
僅かな手掛かりを元に自力で探すしかない。ルイはそう続けた。
何故流星石を求めるのかユエが問い掛けると、彼女は自分の掌を見つめながら、静かに答えた。
ルイの力は、彼女自身でも到底抑えきれないほどに強い。制御しきれずに暴走してしまうことも屡々あった。流星石を使えば、力の暴走を抑えることも出来るのだ。
流星石は隕石と同じように、様々な世界へと降り注ぐ。降る時期にはある程度の幅があり、世界によって数分から数十年の差がある。だが、落下する場所は、世界の交わりが起きようとしている場所に限られている。
襲ってきた男達は恐らく、彼女が宝の地図を手にしていると考えていたのだろう。流星石がどのような見た目をしている物かはわからないが、名前から宝石の一種だと思った可能性はある。
「暫く旅を続けて、やっとそれらしい場所を見付けたんだ。絶対に手に入れる」
先を見据えるルイの水色の瞳からは、揺るぎない意志が感じ取れた。何が行く手を阻もうとも、彼女は決して足を止めないだろう。多少の危険は承知の上なのだ。
折角此処まで付いてきたのだから、ユエもこの目で流星石を見てみたいと思った。各地の遺跡を回っているが、世界の成り立ちを調べる中で流星石に関する記述は出てこなかった。何か新しいことがわかるかも知れない。
ふと、ルイの表情が強張った。耳を澄ますと、洞窟の奥から低い唸り声が聞こえてくる。
彼女に後ろに下がっているように告げて、ユエは長剣を抜く。奥の方には灯りが届かない為、何がいるのかまでは視認出来ない。唸り声と殺気が、徐々に彼らの方へ近付いてくる。
暗闇から現れたのは、一匹の狼だった。光球に照らされた身体は彼らよりも一回り以上大きく、剥き出しにした牙は鋭く尖っている。威嚇しているようだったが、どうも目付きがおかしいとユエは感じた。狼は彼らを睨んでいるのだが、不自然に瞳が揺れているのだ。
「やっぱり、魔物になっているな」
森の中で聞いた遠吠えは、この狼かその仲間の声だろう。何れにしても、魔物へと変質した狼は一匹ではないはずだ。普通群れを成す習性がある狼が、一匹でいるとは考え難い。変質してしまった動物は、時にその習性すら変わってしまうのだろうか。
今にも飛び掛かってきそうな狼を前にして、流石のユエも少々戸惑っていた。実際に魔物の相手をするのは初めてでも、どうすればよいかは知っている。だが、血を流すようなことが嫌いな彼としては、最低でも殺すことだけは避けたかった。
「殺さずに済む方法はないの?」
「……なくもない」
狼の様子を眺めていたルイは、ぽつりとそう呟いた。彼女は狼の身体を観察しながら、ユエに囁く。
「少し、時間稼ぎをしてくれないか。狼を魔物に変えた魔力が宿っているなら、それを取り除ければ元に戻るはずだ。場所を特定出来たら、教える」
ルイの提案に了解、と一言だけ返して、ユエは長剣を両手で構える。彼が臨戦態勢になった為に、狼は敵意を剥き出しにして襲い掛かった。首筋に狙いを定めて開かれた大きな口に、ユエは剣身を挟み込んだ。狼は噛み千切ろうと口に力を加える。灯りで照らされた牙の様子からは、如何に鋭いのかが窺える。肌に突き刺されば、瞬く間に皮膚を引き裂かれてしまいそうだ。
剣身に片手を添え、狼を押し返す。狼は長剣から口を離し、ユエに斬られぬようにと直ぐに飛び退いた。一瞬だけ見えた狼の腹の部分に、ルイは強い魔力が宿っているのを感じ取る。
「左の腹を狙え!」
ユエは切っ先を正面に向けると、再び襲ってきた狼の下に潜り込むようにしゃがむ。上を通り過ぎようとした狼の腹目掛けて、勢いよく長剣を振るった。甲高い鳴き声を上げ、狼は力なく地面に向かって倒れる。腹から飛び散った血の軌跡の中には、小さな黒い結晶が紛れ込んでいた。
狼の傍らで膝を折り、ユエは地面に落ちた黒い結晶を拾い上げる。爪程の大きさのそれに、見覚えがあった。
「あの結晶って……これと同じ物?」
ユエが結晶を掲げながらルイの方を振り向くと、彼女は静かに頷いた。先程彼女に渡された物をポケットから取り出して見比べる。形や大きさは多少違うが、やはり同じ物だ。
強い魔力がこの件に関わっているとルイは言っていたが、確かにその通りらしいとユエは納得した。この結晶は、強い魔力が凝縮して出来るのだから。魔物と化した動物の中で、魔力は黒い結晶となったのだろう。ユエの考察に対し、動物以外にも植物の中に見付かることもあるのだと、ルイは付け足した。
「そんな訳で滅多に手に入らない代物なんだ。だから大事に……って、聞いているのか?」
ルイの言葉を他所に、ユエは自分の口に黒い結晶を放り込んでいた。狼に近付くと、傷口に優しく手を宛行い目を瞑る。傷口が仄かに光り始めたかと思うと、見る見る内に流れていた血が止まり、傷口は塞がっていった。
傷の手当てを最優先にしたユエは、狼が自ら身体を起こしたことに安堵する。深い傷ではないが、身体への影響が心配だった。だが、瞳の揺れもなくなっている。もう大丈夫だろう。
もう少し慎重に行動してほしいと、ルイは溜息を吐いた。自分に任せてくれれば、狼の傷の手当てもするつもりだった。大事な場面以外で貴重な魔力を使うようなことは、避けてほしいものだ。優しさがあるのはいいことだが、その行動が仇にならなければいいが……。
狼はユエの顔を暫く見上げてから、ゆっくりと立ち上がった。殺気もなくなり、大人しく洞窟の奥へと歩き始める。道案内でもするつもりなのか、首を後ろに向け、二人の方をじっと見つめていた。
「何かあるのかな? 案内してくれそうだけど」
付いていこうとしたユエの服の裾を掴み、ルイは慌てて彼を引き止めた。
「ちょっと待て。もし行った先であの狼に襲われたりしたら、どうするつもりだ。もうあの結晶、私は持っていないぞ」
「いざとなったら誰かさんの魔力借りるからいいよー」
天使には魔力を浄化して天力へ変える力がある。ルイの魔力は何れ天力へと変換されてしまうのだから、何時までも同じように持っているとは限らない。……ユエは冗談で言っているのか、それとも何も知らないのか。彼がどの程度まで正しい知識を持っているのかも、ルイにはわからなくなってきた。
早く来るように急かすユエの背を、彼女は呆れたような表情と共に追い掛ける。自分達の後を付けている存在に、まだ二人は気付いていなかった。
* * *
狼の後を暫く歩いていると、二人は洞窟の出口へと辿り着いた。いや、正確には出口ではない。其処は崖の底に似た場所で、顔を上げると、とても登れそうにない岩の壁が取り囲んでいるのが見えた。丸く切り取られた空は、鬱蒼とした木々に縁取られている。
中心には大きな岩の塊が鎮座していた。割れ目から覗く晶洞は、降り注ぐ陽の光を浴びて青く煌めいている。
これがルイの言っていた、流星石だろうか。自分の倍以上もある岩を、ユエは呆然と見上げる。 ルイは何かを確認するように、岩の周囲を見て回っていた。岩を中心として地面に生じた亀裂を見て、彼女の表情は曇った。
「――これでは、ダメだな」
「え……どうして?」
先程、ルイは絶対に流星石を手に入れると宣言していた。それなのに、いざ目的の物を目の前にして、彼女は諦めると言う。
ゴツゴツとした岩の表面を撫でて、彼女は厳しい表情を浮かべていた。
「私が想定していたよりも、此処は魔力の侵食が激しい。この流星石でも、完全に抑えられるかどうか……」
ルイは自分のことよりも、この場所の平穏を優先しているようだった。道理で中々手に入れられない訳だと、ユエは一人納得する。
どうするつもりなのかと問い掛けると、彼女は諦めてこの場所の為に使うと答えた。探すのは難しいが、流星石の数自体は決して少ない訳ではない。また他の場所で手に入れると、彼女は呟いていた。
「この状態では、流星石の力は働かない。砕いてやらないといけないな」
普通、地面に衝突した流星石は砕け散り、大地へと吸収される。そして他の力による侵食を塞ぐのだ。ユエが行った治癒魔法と同じように。流星石の力はまるで傷を塞ぐように、その侵食の跡を消す。
魔法などによる破壊は、流星石には通じない。ユエを傍に呼び寄せると、ルイは岩の上を指差した。
「岩の上から、お前の剣を突き刺してくれ。少し力を加えれば、自然に砕けるはずだから」
こういう時の為に連れてきたのか……。ユエは岩を前にして苦笑する。確かに自分の倍以上もある大岩をよじ登るのは、ルイには難しいだろう。それに、彼女は武器を護身用ですら持っていない様子だった。彼女には、この岩を壊す術がないのだ。慣れない武器を渡してやらせる訳にもいかない。ユエは仕方なく岩に手を掛けた。
ふと、狼が後ろを向き、再び牙を剥き始める。宥めるようにルイが声を掛けるが、落ち着く気配がない。
ルイも狼が視線を向ける先、先程自分達が通ってきた洞窟の方へと振り返る。暗がりの中に仄かな光が揺れているのが見えて、ルイは狼が威嚇している理由に気が付いた。
やがて洞窟から、ぞろぞろと見覚えのある男達が現れた。ユエの乗る大岩から覗く流星石の煌めきを見て、彼らは歓喜の声を上げる。纏まりのない鎧とその様子から、やはり山賊だったのかとユエは溜息を吐いた。
「懲りないねー、全く……」
少し前に痛い目を見たばかりだと言うのに、山賊の男は相当諦めが悪いようだ。
先にこの男達を片付けた方がいいだろう。岩から飛び降りようとしたユエを、ルイは片手を上げて制止した。
「私に任せて下がっていろ。今度は、足手纏いにはならないさ」
そう口にしたルイの外套は、既に術の発動により風を孕んで揺れていた。狼が危険を察知したのか、ルイから数歩離れる。何時の間に詠唱をしていたのか問い掛けようとしたユエも、彼女の只ならぬ雰囲気に気圧されて、大人しくしていることに決めた。
か弱い少女一人に出来ることなどたかが知れているとは言え、油断は禁物だろう。だが、男達は既に流星石と言う宝を手に入れたつもりになり興奮しているせいで、ルイが既に詠唱を終えていることにも気付いていなかった。
無防備にルイの方へ近付こうとした男達は、一歩踏み出した瞬間、凍てつくような冷気を全身に感じる。突然の空気の変化に戸惑う暇もなく、彼らは身体が凍り付く感覚に襲われた。否、胸元から上を除いて、身体は確かに氷付けにされてしまっていたのだ。
ルイの両手からは、小さな氷の粒が煌めきながら溢れ出していた。重力に従い落ちていく氷の粒は、触れた地面を忽ち凍らせてしまう。
片足を前に出した状態で凍った男達は、ルイに関わったことを今更ながら後悔し始める。だが、もう遅過ぎた。
「さて。覚悟は宜しいですね?」
一番前に立っていた男に詰め寄ったルイは、普段の強い口調とは正反対の穏やかな口調と共に、顔に笑みを張り付ける。静かに言い放ったことで、余計に凄みが利いている。
「こっわー……」
岩の上からルイの行動を覗き込んでいたユエは、引き攣った笑顔を浮かべる。彼の直ぐ隣に登ってきていた狼も、犬と同じように尻尾を丸めて縮こまっていた。
獣すらも怯えさせるルイの気迫の凄さを表すかのように、周囲の岩壁すらも次第に氷に覆われていく。凍った空間に続いて響いたのは、謝罪の混じる男達の悲鳴だった。
* * *
無事に流星石を砕き、魔力を封じることが出来た二人は、再び街に戻っていた。ルイはあの山賊の男達を役人に突き出すと言い残し、まだ半分凍ったままの彼らを連れて姿を消した。大人しく彼女に従う彼らの様子を見ると、当分は悪事を働けそうになかった。
すっかり雨雲の消えた空を見上げて、ユエは報奨金の入った皮袋を片手で弄ぶ。ルイが役人の所へ行ってしまった為、彼が代わりに受け取った報奨金は、二人で分けても旅を続けるには充分過ぎる金額だった。
だが、やはりユエには報奨金を貰うつもりはなかった。一番の功労者であるルイに渡すべきだろうと考えていた。
壁に寄り掛かりながら詰所の前で待っていると、視界の端で見慣れた銀髪が揺れた。
「おーい」
詰所から出て来たルイに声を掛けると、彼女は軽く会釈をしてユエの傍に来る。彼女の右手にそっと自分の手を添えて持ち上げると、金貨で一杯になった皮袋を乗せた。
「これ、報酬だってさ」
皮袋の口から覗く金貨の数を見て、ルイは少し驚いたような表情を浮かべていた。予想外の金額だったからか、それとも自分が全く手を着けている様子がなかったからだろうか。手の上の皮袋を見つめる彼女を眺め、ユエはそんなことを思った。
ルイは数枚の金貨を取り出すと、皮袋の口を閉じてユエに渡した。
「お前が持っていてくれ」
「……何で?」
返された皮袋を手にユエが戸惑っていると、ルイは照れるように顔を軽く背けた。
「昨日と今日のお前を見て、これからもお前と旅をしたいと思ったから。……嫌か?」
ユエより少し背が低い彼女は、上目遣いになりながらそう問い掛けてきた。彼女の大きな水色の瞳に、ユエの顔が映り込む。其処に映る自分の顔が満更でもなさそうなことに気付いて、彼は心の中で苦笑した。
意地悪をしてわざと考える素振りを見せるが、ユエは既に答えを決めていた。単に彼は、強気なルイが不安そうに此方の様子を窺っているのを見たかっただけだ。
「可愛い女の子を近くで見られるなら悪くないかな」
「お前も充分可愛いぞ」
「……あはは」
冗談混じりの言葉に対し真顔でそう返され、今度の苦笑いは流石に顔に出てしまう。
ルイは一礼すると、片手を差し出して「これから宜しく」と口にしていた。ユエも手を握り返して笑顔を向ける。
「何て呼べばいい? やっぱり天使様、かな?」
「ルイでいい」
「じゃあ俺もユエって呼んで欲しいな。悪魔さんとか嫌だから、ね?」
「……おかしな奴」
小さな声で笑い始めたルイに、ユエは思わず見取れてしまう。余り自然な笑顔を見せないからこそ、彼女の笑顔はユエを虜にしてしまうようだ。
本当に隣にいるのは悪くない――ユエが心の底からそう思っているのを、ルイは知らないだろう。
「そうだ」
思い出したように呟き、ユエは腰に下げたポーチを開く。中から取り出したのは、彼が使っている短剣と同じ物だった。一見すると武器に見えないが、隠し持つにはいいだろうと考え、ルイに渡す。短剣を受け取った彼女は、不思議そうな顔を向けていた。
「武器とか持ってないみたいだから、護身用に……と言うか御守りに」
「……じゃあ、交換だな」
ルイはポケットを探り、小さなペンダントを取り出した。ハートをモチーフにした物を自分の首から下げると、スペードのモチーフが付いたペンダントをユエに渡す。これも御守りだと、彼女は微笑んでいた。
それは光と闇で別れていた永遠に出会うはずのない彼等の道が、交わった証。
彼らの旅は、此処から始まったのだ。
ユエはギャップ萌するタイプのようです。