愛人に夢中だった夫に恋をする予定はありませんでしたが、初恋をやり直すことになりました
「愛人と夜を過ごすので君は自由にしていいと言われたので、全力で喜んで使用人になりました」の続編になります。
某サイトでかなり人気があったので、調子に乗って後日談を書いてみました。一応説明入れていますが、短編なので前から読んでいただけると嬉しいです
「君は形だけの妻だ。私は君を愛することはない。申し訳ないが、心から愛する人がいる。だから、これからも君と夜を過ごすことはない。社交も彼女を伴う」
そう男前なことを言ってくれた優しい夫はもういない……
私、パトリシアは、ぐすんとなりながら、恐ろしいことにあれから一年――
自身の遅ればせながらの結婚式の招待リストを眺めては、その優しかった夫の前でため息をつく。
「奥様、心の声が目の前のミレー様に丸聞こえですよ」
執事のテイラーが、私の書類上の夫ミレーをチラリと見ながらため息をついた。
夫には愛するセラフィーヌという孤児院育ちの愛人がおり、貧乏伯爵令嬢の私は書類上の妻で良かったはずなのだ。
それなのに痴情のもつれで二人は破局。
「ああ、あの日、あの寝室の言葉を契約書にしておけば良かった。ご主人様、頑張って復縁したらいかがですか?社交だけ私とこなすことにしたら、よくありません?」
私は恨み節で、ミレーを見つめる。
「その、ご主人様と言うのはやめてくれ。別に君を使用人として雇いたかったわけじゃない。愛人と過ごすから、家では好きにしてくれたらいいと伝えただけだ」
ミレーは、困ったように眉間に皺を寄せた。
それを横で聞く侍女長のマイヤーは、何てことを言うんだと目を三角にしてミレーを睨むが、ミレーには響かず、淡々と話を続ける。
「セラフィーヌもどうやらいい縁組を見つけたようだよ。商家の息子と気が合ったようでね、私とのことで、他の貴族の奥方たちに良い認識を持たれてないから、お相手の家の仕事に支障はないか気にしていたようだったが……」
それを聞き、私とマイヤーは、揃って大きなため息をつく。
「坊ちゃま!あなたはサイコパスですか?なぜ、奥様の前で切れた愛人と切れてないみたいな会話をしているんです?先ほどから聞いていても、会話にデリカシーがなさすぎです。本来、どこでどうなったかなんて知らないはずでしょう!」
マイヤーの怒りは凄まじく、どこでその情報を得たのか?
なぜ、それを妻の目の前で言うのか?
人として配慮がなさすぎると腰に手を当ててすごい形相で怒鳴った。
「マイヤーさん、問題はそこじゃないです!なんで、まだやり取りできる関係なのに、なんであっさり他の男に取られてるんですか!」
私は、妻への配慮なんてどうでもいいのだと、悲しみのあまり顔を覆う。
ああ、二人の仲がラブラブなら、かつてのように、私は妻という名を持っているだけの使用人として、実家に支援してもらったお金を返していくだけだったのに……
「二人とも、誤解だよ。セラフィーヌはパトリシアに対して、強い対抗心を持っていた。パトリシアの評判は、今も社交界でとても良いからね。逆恨みで何かしてこないか影にチェックさせているんだ」
ミレーは、君のことを思っての行動なのに、その反応はひどくないか?と私を軽く睨む。
セラフィーヌと別れてからのミレーと私は白い結婚のまま、口付け一つする関係ではない。
だが、私はかつて過ごしていた屋根裏の使用人の部屋から、セラフィーヌが使っていた妻の部屋で過ごし、夫婦の寝室で眠るようになった。
「ご主人様、そこまで気を遣われるなら、私とは別れて新しい縁組をされたらどうです?私の体にも興味なさそうですし?私は、セラフィーヌ様の時のように、新しい奥様に誠心誠意尽くさせていただきますよ」
離縁して実家に戻るには、多くの支援をしてもらい過ぎている。
体も、心が伴わない行為は不要だと手出しされていない。
「誰が前妻が侍女として仕える家に嫁いで喜ぶ女性がいるんだ?それに、体に興味がないという言い方は君を貶める言い方に聞こえるからやめてくれ。私は、君がなんて言おうと自分が酷いことをした意識は持っているんだ。だから、君が私に好意を持たない限り手は出さないと決めているだけだ」
そうミレーは言って、再び執務室の書類にサインを行なっている。
「ご主人様は、そう言ってくださいますけどね……」
そんな日は来ないと思いますよ?
そう言いたい言葉をグッと堪えて、恨みがましい目でミレーを見つめる。
結局、セラフィーヌとミレーが別れた後変わったことは、奥様が受ける待遇と、不要と言われていた社交が増えただけだった。
それだけに、申し訳なさがさらに募る。
(その社交も無難にこなすだけで、特別秀でてはいるわけじゃないのよねぇ)
私は、困ったように肩を落とした。
実家が貧乏ゆえに社交界にデビューしなかった自分は、ダンスも下手だし、奥様方が求める流行の話題にもついていけない。
ただ、他の奥様たちに話を回し、話題になるそれらに憧れるフリをするだけだ。
侯爵家で、もう愛人を囲う必要性はなくなった今、なぜ私を妻にするのだろう?
メリットは皆無だと思うのだけど……
私は助けを求めるように、テイラーを見つめる。
だが――
「それなら、奥様がご主人様を好きになれば、万事解決ですな」
テイラーは、そうすればこの件は円満におさまりますと言いながら、結婚式で着る予定のドレスの絵をミレーに見せる。
すでに先代様の手によって発注され、私は何度も試着を繰り返していた。
「さすが先代様は鼻がききますね。お二人が白い結婚であることを見抜いていらっしゃる。パトリシアの性格的に、豪華な式をあげたらもう逃げられないとわかっておられるのでしょうな」
テイラーは満足そうだ。
「坊ちゃまの押しの弱さゆえの行動ですよ。奥様も、腐っても伯爵令嬢なんですから自信を持ってくださいませ。侍女の時にはあんなに働きがいいのに、なんで本来の貴族の仕事でそこまで自信がないんですか!」
マイヤーは、腐っても……と言うところは辛辣だが、結婚式当日の料理メニューを私たちに提示しながら、結婚式の準備を嬉しそうに進めていく。
そんなこといったって……
各家の情報を頭に入れるだけで精一杯。
マナーだって、わかっているのとやるのは全然違う。
領民への支援や視察もまだまだ行っていないところもたくさんで、いろんな人たちと関係を築くなんて無理。
以前なら、セラフィーヌ様と結婚できないご主人様にとっても、私の存在は価値があったので肩身は狭くなかったが……
いっそ、ご主人様が女たらしなら良かったのにな。
そうしたら……私はまた使用人として……
そんな風に思いながら、私が肩を落としていたからだろうか?
ミレーが、よしっと言いながら声をかける。
「父上と母上が、式の進捗を見るために、我が家を訪れるのは来週だったか?まだ領地で回っていないところもあるんだろう?一緒に見て回らないか?」
ミレーは、そう私に声をかけた。
◇(ミレー視点)
以前とは異なり、パトリシアはすごすごと大人しく夫婦の寝室に訪れるようになった。
そして、同じベッドで、まな板の上の鯉のように、さあご自由にどうぞという態度で横になる。
もちろん、私は……
手出しはせず、そのままパトリシアと夫婦の会話をしようと試みる。
だが、パトリシアが行う健全なピロートークは、領主の妻として、ひたすら情報収集のような内容が中心だ。
「パトリシア、私は生涯、君以外に妻を持つ予定はない。君以外愛することはないとセラフィーヌに言っていたことを知っている君には何の効力もないだろうが、君を幸せにしたいと願っている。
だから、領地のこともゆっくり覚えたらいいし、完璧を目指さなくて良いんだよ」
「そうは言われますが、私は皆さんの喜ぶような話題には長けていません。せめて、粗相をしないように頭に入れておかないと」
パトリシアは、目をしょぼつかせながら、私にいろいろ領地や社交界のことを質問してくる日々だった。
パトリシアからすれば、私に好意があるからではなく、私が彼女の実家に支援したお金の分、お返しをしたいというだけなのは、嫌というほど知っている。
だが、私は――
あれだけひどい夫であった自覚はあるのに、パトリシアに惹かれていた。
自分の置かれた環境に恨みをぶつけることもなく、自分ができることを精一杯やる姿は、かつて、誰かのせいにして、人の幸せを踏みにじっても良いと傲慢に思っていた自分にとって眩しく見えた。
ただ、生涯片思いで良いと思っている。
私は、彼女に対して許されない行為をした。
そして――
「おめでたいのね。知ってる?あの子、私たちの情事のシーツをいつも洗ってるの。そして、情事の前の私を磨き上げるのもあの子の役目。悲惨よね。もし、あの子があなたを好きになったら、私たちの情事の跡は、あの子に必ずフラッシュバックするわ」
かつて、セラフィーヌと別れる時に言われた言葉だ。
セラフィーヌはパトリシアに多くの嫌がらせをしてきた。
私たちが、まだお互いに愛し合っていた時の情事の前後の処理を、本妻であるパトリシアにやらせていたのだ。
そして、私はそれをすぐに止めなかった。
パトリシアがそれを全く苦に思わなかったのは、私のことが全く眼中にないからだ。
パトリシアが奇跡的に私のことを想ってくれたとして、セラフィーヌの時限爆弾が発動するだけだ……
好きな人が、自分を蔑ろにして愛人と行為に及んだ。
好きな人と愛人が愛し合うための準備を自分にさせた。
好きな人と愛人が愛し合った後を、自分の目で確認して、その洗濯をした。
それをフラッシュバックさせるぐらいなら、私のことをむしろ憎んでくれるぐらいがちょうど良い。
それに――
いよいよ、うたた寝から熟睡モードに入ったパトリシアの髪に触れる。
快活に前向きに使用人達と働く彼女だが、実は彼女の自己肯定力が高くないと私は思っていた。
◆
「ご主人様、皆さんも、私のことを可哀想な女と思っているなら、それこそが一番私には傷付きます。」
かつて、パトリシアを蔑ろにして、パトリシアの幸せを奪ってしまったと後悔を告げた時に、彼女から投げかけられた言葉である。
私は、その彼女の言葉やその時の様子を思い出すたびに、胸が苦しくなり締め付けられる。
彼女は、自分がどれだけ酷い環境に置かれ待遇を受けたかを認めたくないのだと思う。
なぜなら、それを認めてしまったら、自分の全てが崩れるからだ。
認めたらみんなの幸せのために自分が犠牲になっていることに気づいてしまう。
私のことはこれまで通り、何も思わなくていいし、お金を支援してくれたありがたいご主人様でいい。
そう思い込んでいるのはおそらく自己防衛だ。
離縁して、働くことを許さず、実家に帰らせることも想像した。
その時は、彼女には非がなく、私が有責であることは認めるつもりだ。
だが、それは、パトリシアが、お金のためにみんなの犠牲になったと思われ、パトリシアの両親が、そんなところに嫁がせてしまったと悲しませる行為だと知っている。
そうなれば、彼女の自己防衛を壊してしまうだろう。
それなら、ここで少しでも楽しく過ごしてもらうことを考えた方がいい。
私と会話しながらうつらうつらとし始めたパトリシアに、そっと布団をかけて、横から、そっとその寝顔を眺める。
「また都合がいい言い訳をしているか……」
両親から早く行えと言われている披露宴を行おうとしているのは、心の中で、また私の打算が始まっているからだ。
ここで派手な豪華な結婚式を挙げてしまえは、パトリシアは本当に私から逃げられない。
パトリシアは乗り気ではないのに……
どうやら私の両親もパトリシアの情報を掴んでいるようだ。
もしかしたら、テイラーやマイヤーたちも、彼女の性格や行動を伝えているのかもしれない。
二人は、いや、ここの使用人はみんな、パトリシアの真面目で、どんなものに対しても丁寧に共に対応する姿が好きなのだ。
だから、早く私とパトリシアを引っ付けようとする。
「セラフィーヌの結婚の件も……別れてからの展開が早すぎるんだよな……」
嫁ぎ先は商家だが、相当羽振りが良いと聞いている。
実は、両親がセラフィーヌが飛びつきそうなお金を持って、贅沢をさせてくれる男性をあてがった可能性も考えていた。
セラフィーヌは流行のものに関心が高い女性だった。
そのセンスを欲しがる商家はあるから、お互いに、まさに良縁だろう。
私は、パトリシアだけではなく、セラフィーヌも不幸な目に遭わせたという後悔がある。
だから、彼女の結婚出来て、本当に良かったと心から幸せを祈っている。
あとは……
「パトリシア、君の本当の心からの願いは何だ?」
完全に夢の中に旅立ったパトリシアのあどけない顔に話しかけてみる。
だが、穏やかに聞こえる寝息に、ミレーは目を逸らす。
これ以上を望んではいけない。
でも、一日、いや、夢の中だけで良いから私に想いを分けてくれることはないだろうか。
そう思う自分が嫌だった。
私は、パトリシアの横の布団に潜り、今日も一定の距離を保ったまま眠るのだった。
早朝から、私たちは馬を走らせた。
パトリシアは乗馬というレベルではなく、男性のように実用的に馬を動かす事ができる。
「かつては、馬車を出すなんてまどろっこしいことは出来ませんでしたから、遠くに用があれば自分で馬を走らせますよ。」
そう話すパトリシアは、すっかり馬とも慣れ親しんでいた。
どうやら動物が好きで、使用人時代から馬房の掃除や馬の手入れを積極的に手伝っていたらしい。
パトリシアに甘えてくる馬の姿を見て、私は思わず目を細めた。
「君は、使用人たちに好かれているとは思っていたが、馬にまで好かれているのか?下手したら、うちの闘犬にも好かれてそうだな」
呆れたように言いつつ、自然体の彼女を久しぶりに見て、私の心は弾み、軽口を叩く。
「あっ、リスボンくんとラスボスくんですか?ご飯を作って持っていってますから、すっかり飯をくれる人と認識されてますよ?今もあげてますし……」
当たり前のように、彼女は私に笑いかけ、闘犬二匹のことについて語る。
闘犬は、リスボンとラスボスなのか?
初めて知ったが、ラスボスってなんだ?
そのネーミングセンスにびっくりする。
「あ、あげてるのか?私は、もう使用人として君に仕えてもらうつもりは……」
そういうと、ニコニコしていた笑顔から、むーっとむくれた顔に変わってパトリシアの声が尖る。
「違います。馬の世話と闘犬の世話はペットの世話です。だから使用人ではなく、飼っている奥様が行うペットの世話だといったらみんな納得してくれたんです」
パトリシアの声が変わったことに慌てつつも……
みんな、パトリシアに優しすぎだろう。
闘犬だぞ、一応、パトリシアはこの家の女主人だぞ。
何かあったら――
私はそう思いながら彼女を見つめる。
だが、馬にまたがり、楽しそうに領地を眺めるパトリシアの姿を見ていると、渋い顔をしつつもそれを許してしまうみんなの気持ちがわかる気がした。
彼女の望みも幸せも、あまりにも小さく儚い。
日常の中に、少しでもそれを感じられる場所があるなら、それを与えてやりたくなる。
それなら、彼女の幸せに寄り添いたい。
「パトリシア、今度私にもペットの世話の仕方を教えてくれないか?」
そういうと、パトリシアは驚いたように目を見開く。
「ご主人様がですか?だ、ダメですよ!もしお怪我でもあったらどうされるんですか!」
そう慌てるパトリシアを見て、私がふっと吹き出すと、パトリシアも自分が普段そう言われていることに気づいたようで、きまりが悪そうな顔をした。
「じゃ、じゃあ、今度一緒に……」
「ああ、約束だな」
私は、にっこり微笑み、彼女と共に馬を走らせていった。
◇(パトリシア視点)
自分でも、座学を詰め込みすぎて頭がパンパンになって余裕がなくなっていることに気がついていた。
「領地を見て回ろう」
そうミレーに言われた時は、外で奥様としてきちんと恥ずかしくないようにしなければと顔がこわばっていたと思う。
そう思っていたのに、二頭の馬が準備され、私も馬に乗っていいという。
「お忍びだからね」
そうミレーが人差し指を口元に当てて内緒だよというポーズをとった時には、ホッとして一気に肩の力が抜けた。
馬から体温の温かさが伝わり、風を運び、自由になる。
私は結婚して以来、初めてぐるぐる巻きにされたような閉塞感から解き放たれた気がした。
必死で領地のことを頭に叩き込んで、文字で追っていた知識が、目の前で見ることが出来ると親しみも湧いてくる。
目の前には、眩しいほどの黄金の大海原が広がっていた。
風にそれが揺れて、美しい絵画のような景色を作り上げている。
「これは、大麦ですか?みんなのお酒が進みそうですね」
「うん。冬の間に畑を空けておくのはもったいなくて大麦を作っているんだ。これで、みんな『エール』を飲めるからね。この後は、小麦を作って食料に変わる。うちの領で小麦の収穫はこの地域が一番多い。農家とはいえすごい資産を持っている人も多い地域なんだよ」
ミレーの説明に、実家の栄養が足りずに物が育たない貧弱な土壌を思い出し、思わず涙がこぼれそうになるのをなんとかこらえようとする。
「すごいな……水路も、立派な石積みなんですね。うちは、土を深く掘り上げているんですけど、長雨で崩れやすくなっちゃって……ははっ……いつかは、こんなふうに立派に……」
情けない。
侯爵家と辺境と隣接するような伯爵家の環境を比べるなんて、馬鹿ではないだろうか?
「へへっ……あれ……おかしいな。目に砂が入ったみたい」
私は、なぜかここにきて気が緩んでしまった。
私はここに嫁いできたから、私の領地はここなのに――
なんで、こんなに恨めしいような気持ちになるんだろう。
そんな私の姿を見て、ミレーは何か言うわけでもなく、ただしばらく私の様子を見守って口を開いた。
「パトリシア、結婚式が終わったら今度は君の実家の領地を案内してくれないか?お父上には、一時的な支援ではなく、こういう灌漑整備をしていく話を書面でやり交わしているんだけど、お互いに見て話した方が早くてね。君もここの様子をお父上に伝えてほしい」
「うちの……あ、いえ、実家の領地もですか?でも、それはすごく費用のかかる話です」
私は慌てて、嫁に来たというだけでそこまでの支援は行き過ぎであることを告げるが、ミレーは笑って話す。
「パトリシア、君と私は家族だよ。行き過ぎなんて言葉はないよ。それに、新事業のガラス製品を作るための石がご実家の領地からはたくさん見つかっている。軌道に乗れば、うちが支援を頼むことになるかもよ」
そういって、朗らかに笑うので、一瞬でもミレーを羨んだ自分の心の黒さに恥ずかしくなった。
その後も、私が夜な夜な質問していた場所に連れていってはそれを見せて説明する。
ご主人様は、セラフィーヌ様のことがあって世の中では軽薄そうな印象を受けるけど、誤解されているよね。
私は、社交界で、奥様方からミレーが冷たい目で見られていることに、心を痛めていた。
ご主人様は、真剣にセラフィーヌ様のことを思っていたし、立場が彼らの恋を許さなかっただけだ。
仕事に対しても、手を抜いて恋愛をしていたわけじゃない。
私に対しても、嘘をつけなかっただけで、不器用なのだと思う。
社交界でご主人様と一緒に出歩くようになって、世の中には、いかにひどい夫が多く存在することを、私は見聞きして知り始めていた。
私を寂しい女だと思って、擦り寄ってくる男性もいる。
ご主人様が、常に守ってくれるが、妻が同じ会場にいてもそんなことができるのかと驚いてしまう。
あ……でも......
私は苦虫を噛み潰したよう顔になった。
世間からは、ご主人様も、妻がいるのに家に愛人も囲い、尚且つ愛人を妻だと言い張って社交界を連れ歩くひどい男の筆頭になっている。
うーん、一緒だけど違うのよ!
なんとか誤解を解いてあげたい。
そんな私の百面相をさらりと無視して、ミレーが声をかけて来た。
「今日なんだけど、領地にある別荘で一泊するから」
「えっ!泊まりだったんですか?」
そう言われたら、馬だって走らせ続けるわけにはいかないだろうし、当たり前か?
今から帰ったら、深夜になってしまう。
「今日は、使用人も下がらせるから安心してアルコールを飲んでくれたら良いから。この領地で出来たエールを飲ませてあげたいと思っていたんだけど、君はアルコールに弱いからね。」
「流石に今度はあんな一気飲みはしませんよ」
私は、カーッと顔を真っ赤にさせた。
あれ以来、人前ではアルコールは飲まないと決めている。
だが、領地のエールは飲んでみたい。
口付けをせがんでも、手を出さなかったミレー様の前なら、アルコールを飲んでもいいよね?
私は、誘惑に負ける。
別荘は、大豪邸ではなく、こぢんまりとした家だった。
管理人は、ご主人様が子供時代に世話をしてもらった夫婦に任せているという。
「まあ、可愛らしい奥様でいらっしゃる」
「マイヤーから、自慢の働き者の奥方様だと伺っていますよ。年寄りで、最低限のことしかできないのにミレーさまには仕事をいただいて感謝しています」
穏やかな老夫婦が、美味しい手料理を振る舞ってくれる。
それも、この領地で取れたものを中心にした、家庭的な食事に、ますます私の頬は緩んだ。
セラフィーヌがいなくなり、私は妻として振る舞うように周囲から期待されるようになった。
綺麗に盛り付けられたシェフの食事を、マナーを気にしながら口にする。
どれだけこの食事を作るためにシェフたちが悩んでいるのか知っていた。だから、ますます気を使う。
すると、いつのまにか、食事の味を感じなくなっていた。
「パトリシア、君が望むならこんなふうに家庭的な雰囲気にした家にしていいんだよ。君が女主人だ。お客様にそれを求めることは出来ないが、豪華な食事ではなくて家庭的なものがいい、みんなで同じテーブルで食べたいといったら良いんだ」
「ご主人様、気づいておられたんですか……」
使用人のみんなと一緒に、騒ぎながら食べていた頃が懐かしい。
どうでもいいことを雑談のように語り合いながら、作法なんて気にせず、みんなでその日の労をねぎらう。
それは、実家にいた時から続く習慣だった。
「日増しに大人しくなって、妻が淑女になってしまうんだ。私は、これ以上パトリシアが大人しくなったらどうしようかと困ってしまったよ」
肩をすくめて、冗談混じりのように話すので、思わず
「それは、普通喜ぶところです」
そう言って、自然と笑顔が溢れた。
「ただ、ここのエールは別だ。ここから、工房が近くて新鮮なんだ。これだけは家では飲めない」
ミレーは、いつものおしゃれなグラスではなく、木で出来た庶民たちが使う手軽なコップを持って来させる。
「さあ、ちょびっとね」
そのコップに、注ぐエールは、前に飲んだおしゃれなジュースのようなお酒とは違う。
「もし……私が前みたいな粗相をしたら……」
私は、エールを目の前にして少し躊躇する。
「それが狙いだったりして……」
「えっ?」
私にとって安全な男性と認識されていた夫、ミレーは、ふふっと笑うように私を見ながら、すっかり忘れていた爆弾を落とす。
「結婚式あるよね。そうすると誓いのキスがある。アルコールを飲んで聞いてみようと思って……どの見えるところにしたらいい?」
それを聞いて、私は真っ青になる。
そうだ!誓いのキスを忘れていた!
見えるところ!見える……見える……どうしましょう!!
私は思わず、目の前に並々と注がれていたエールをぐいっと飲み干した。
「わあああああっ!冗談だったのに!パトリシア、水を飲むんだ。水だ!」
そう声が遠くに聞こえる気がした。
◇(ミレー視点)
しっかり水を飲ませたが、やはり真っ赤な顔をしている。
当たり前だ。
前のお酒よりも、度数が高いのにたくさん飲むんだから。
「パトリシア、しっかり!気分は悪くないか?」
「気分……気分は……最高っ!」
ああだめだ。これは最悪の状態になっている。
嘔吐用の桶と大量の水分を念のために部屋に置いてもらい、私はパトリシアを背負って部屋に連れて行く。
「いけまへん。ご主人様!私があなたを……おんぶします!」
そう言いながら、立ち上がってはふらりとしている。
「私は、平気だよ。それに、君におんぶしてもらうことはないよ!」
とんでもないと彼女を支えて部屋に運び込む。
靴だけ脱がせようとすると、突然服も脱ごうとするので、あわてて止めた。
「君、絶対に外で飲んだらだめだよ」
社交界では、どこで足を掬われるか分からない。
目覚めて、既成事実でも作られたら……
「私たちは白い結婚なんだから、自分の身を大切にしないと」
「はいっ!白く正しく頑張ります!」
パトリシアは、そう言って私に敬礼するので、もう少し水を飲ませて服を緩めておいた。
「ご主人様、キスでしたね。誓いのキスは、やっぱり唇ではないでしょうか?いえ!それ一択であります!」
そして、再び立ちあがろうとして敬礼をすると、ズボンがストンと落ちる。
「うわあああ!ダメダメ!今ボタンを外して緩めたんだから、立ち上がるの禁止!」
なぜ、妻の生足をみて興奮しなければならない?
私は、慌てて再度パトリシアのズボンを上げて、無理やりベッドに押し倒す。
おかしい。
夫が妻をベッドに押し倒すときは、もっとムードがあるものではないのか?
「ご主人様!!」
再びゾンビのようにベッドからズリズリと這い出てくる。
「だから!横になろう。」
「だめです!だめで……あります!」
「だめじゃない。全くもってだめじゃない」
「いえ!吐きます!きっと吐きます!」
パトリシアが顔面蒼白な顔でそれを言うのを聞き、今度は私は慌てて桶を掴む。
「ダメだ!待つんだ!落ち着いて、いいね。」
「吐く!」
わあああああっ!
その夜、私は不眠不休で、パトリシアの世話をし続けたのだった。
◇(パトリシア視点)
領地を見終わり、家に帰った数日後――
ミレー様のご両親である先代ご夫婦が家にやってきた。
「いいね、何があっても君は飲んじゃダメだ。迂闊に夫も信じちゃダメ。」
お酒を飲んで意識をなくした後言われたのはそのことだけ……
服は着ていたし、ご主人様が私に何かをした様子もないし、少し嘔吐したようだったが、桶に吐いたようで室内は綺麗なままだったし……?
今回は上手に酔ったような気がするのだけど?
しかも、迂闊に夫を信用してはダメって……
その言葉を思い出して、思わずくすりと笑ってしまう。
だが、家に訪れたミレーの両親は、見るからに厳格そうな夫婦で、ミレーがセラフィーヌと添い遂げられなかった様子がわかるような雰囲気を持った人たちだった。
出迎えた私たちの顔を見る前に、ずらりと並ぶ使用人の服を見て先代夫人は一人一人手で服を直す。
「パトリシアさん、これはどういうこと?マイヤー、あなた少し気が弛んでるんじゃなくて?」
私は、すぐ返事をするべきか、先に自己紹介するべきか迷いオロオロする。
「母上、来て早々それはないだろう?今は彼女がこの家の女主人だ。その態度こそ失礼だとは思わないの?」
ミレーが、先代夫人から私に対して睨みつける視線を遮るように前に立つ。
「思わないわ。新婚早々、恥をかかせるような嫁を誰が失礼だと思うの?むしろ、私たちの築き上げてきたものを、一瞬で壊した女性でしょう?」
先代夫人は、パリッとした服を着て、隙がない雰囲気の女性だ。
話さなくても気難しさとプライドの高さが伝わって来て、それが眉間の皺に深く表れているような女性だった。
「違う!あれは、私の愛人がやったことだ。彼女には何の非もないことを知っていて、なぜそんなことを言う?」
ミレーは、私の肩に手を置いて叫ぶ。
使用人は微動だにしない。こんな風景は、セラフィーヌ様とのことで、見慣れて来たのかもしれない。
「やめないか、こんな玄関で見苦しい。挨拶を交わす前から、この家の使用人のだらけた雰囲気を感じたから妻が伝えただけだ」
そう先代が淡々と私を睨みつけながら歩く。
こちらも、でっぷりと威厳がある雰囲気で、同じ家族でも、痩せぎすて服の布が余って仕方ない父とはだいぶ違う。
一応、本妻であるはずの私のことも、まるで虫ケラを見るような目で見てきた。
まだ、玄関です……
これは……穏やかなご主人様の両親とは思えないぐらい、なかなかの強敵。
ご両親には逆らえなくて、私とああいう形の結婚で対抗しようとしたのですね。
ですが、今度こそご主人様のお役に立てるチャンスかもしれません。
私は、心の中でやるぞ!と自分を鼓舞する。
「失礼いたしました。先日のお茶会では、田舎者の私が、ミレーに相談することなく勝手に一人でやったことでご迷惑をおかけしてしまい……」
「やめてくれ!君は何もしていない」
私が先代夫婦に頭を下げて、迎え入れようとするのをミレーが慌てて止める。
「父上、母上、彼女は私には出来た妻なのです。ここにいる使用人は、みんな私が至らない夫で愛人を連れて彼女を傷つける姿を見ています。本来ならば、私の有責で離婚を申し出るところを、彼女が目をつぶってくれている状況なのです」
ミレーは、私をぐっと抱き寄せ、守ろうとする。
その姿に、ご主人様の役に立ちたいと思っていた私の心は揺らぎ、どうしたら良いのか分からなくなる。
「あ、あの、お部屋を案内させていただきます。遠いところからお疲れだったでしょう」
私は慌てて、テイラーには夫妻の案内をお願いして、マイヤーたちには多くの荷物を運ぶように指示をする。
その荷物は、嫁にやってきた日の私の荷物よりも雲泥の差で多く、何年ここに住み込むつもりですか?と突っ込みたくなる量だった。
◇
「分かっています。あなたがお茶会で招待状を出したわけではないことぐらいわね。でも、そんな愛人を制御できなかった妻の力量について私は問題視しているのです」
出された紅茶を一口飲み、さらにお母様は眉をひそめた。
「パトリシアさん、この紅茶はどちらの?」
「それは、お父様のお好きなわが領地のデリウェル地方の春摘みの紅茶になります」
そう伝えると、ふーっとお母様はため息をついた。
「確かに夫はここの茶葉を好んでいるわ。ねえ、あなた」
そう、お母様が視線をお父様に送ると、お父様は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「私が喜んで飲んでいたのは、私がここの領主としてきちんとした品質のものを手がけていたからだよ。だれが、代が変わって品質が落ちたものを飲みたいと思う?
君の領地は天候不順で、経済的に苦しい状況であったと聞いているから、舌が育っていないのは仕方ないのかもしれないがね……」
「あっ……」
今年のデリウェル地方の紅茶は、長雨のせいで少し香りが悪い。
だが、味はむしろ瑞々しく清涼な味わいだったし、自分の領地の新茶を飲みたいだろうと思ってしまったのだ。
「失礼しました。おっしゃる通り、確かに香りが少し落ちています。ですが、領民が丹精込めて作り上げているもので、この天候不順でも味はしっかりとしたものになるようにミレーが気を配ってくれていたのです。ミレーの努力を、お父様やお母様にも知ってもらって安心していただきたかったという私の浅はかな考えです。」
そう言って頭を下げるのを、再びミレーは慌てて止める。
「父上、あなたが好きなものを用意しようとする妻の優しい心がなぜ分からないのですか?母上も、どう考えても愛人にうつつを抜かして、パトリシアを蔑ろにした私に非があるでしょう。それに、彼女とは切れています。それも、彼女と添い遂げたいと私が望んだからです。あなたたちでは、私と愛人の関係を切ることは不可能だったでしょう?」
ミレーは、イライラとしたように怒りを二人にぶつけていく。
「あら?関係は本当に切ったのかしら?」
「どう言うことですか?」
ミレーは、自分の両親を睨んでいるが、私にはどうして来たと同時にバトルが始まるのか分からない。
「あら、だってうちの影を使って愛人の様子を探らせているんでしょう?未練たらしいわね。あれだけうちに損害を与えた娘よ?」
「あれは、パトリシアに嫌がらせをした過去があったので、見張っているだけです」
ミレーは、私にした説明と同じ説明をお母様にも行った。
だが――
「ほら、あなたはロッケルベンバー侯爵夫人という立場なのに、簡単に愛人に嫌がらせをされているわけでしょう。
つまり、その期間、女主人は愛人で、愛人がめちゃくちゃにしても良いと思うぐらいこの家を守る気すらなかった。そうよね?」
お母様は、扇子を取り出し口元に当てたがその扇子を持つ手が震えていた。
そう言われて、ガツンと衝撃が走る。
その通りだ。
私は、ミレー様の支援で実家を助けてもらったから、何とかミレー様にお返しをしたいと思っていた。
でも、支援を決めたのはミレー様だけど、実家を守ってくれたのはこの家のこの伝統と資産だ。
セラフィーヌ様とのことを応援して、セラフィーヌ様が貴族社会では生きることが難しいことをわかっていたはずなのに、私は自由にさせた。
妻なのに……妻の仕事をセラフィーヌに押し付けて、放棄したのだ。
「先祖代々守られて来た伝統を私が……汚してしまいました、申し訳ありませんでした……」
私は静かに先代の二人に頭を下げる。
「やめてくれ!彼女は、私に寄り添ってくれたんだ。家ではなく、私の気持ちを大切にしてくれた。だから、私はこの家を彼女と守りたいと思えるようになったんだ。そうじゃなければ、私はこの家を捨てていたかもしれない」
ミレーの悲痛な叫び声がその場に響く。
それを聞いて、お父様が冷酷に告げる。
「それならば、我が家にふさわしい挙式をして、はやく跡取りを作れ。すでに結婚して一年、挙式すらあげていないだけではなく、まだ愛人のもとに通っているとか、あそこは仮面夫婦だと噂されているのに……」
そう言われて、私は、ますます居た堪れなくなる。
本当に、挙式を渋り、白い結婚で、仮面夫婦なのだから――
二人の話は耳が痛かったが、彼らが大切にしてきた家を、私が蔑ろにして来たのは事実で、女主人として失格だと言われても仕方ないと肩を落としたときだった。
「父上、母上。私は、パトリシアに酷いことをしたと思っています。それなのに、彼女の誠実な人柄に触れて、今も彼女の夫でありたいと縋っています。彼女はいつでも、私を切ることが出来るのです。なぜなら、不倫をしたのは私で、結婚した夜にそれを告げて傷つけたのです」
「ミレー様、それは……」
私が、それで良いといったからだ。そして傷付いてはいない。
「いや、伝えさせてくれ。私は初夜に【君は形だけの妻だ。私は君を愛することはない。申し訳ないが、心から愛する人がいる。だから、これからも君と夜を過ごすことはない。社交も彼女を伴う】と告げたのです」
それをミレーが言うと、先代夫妻の顔は真っ青になった。
そして――
バキッ
怒りで赤く震えるお父様が、ミレーの頬を拳で殴り飛ばす。
「お前、なんてことを言ったのかわかっているのか?」
ミレーは、口の中を切ったのだろう。唇から流れる血を拭い、更に続けた。
「ええ、私は大馬鹿者です。それだけではありません。彼女の家が負債を抱えていることをいいことに、支援をしてやるから私に従うようにと脅したのです」
それを聞いて、ひゅっと息をのみ、震えて口を押さえるお母様がいた。
「それをここにいる使用人たちも知っています。だから、もし使用人が弛んで見えるとしたら、パトリシアを蔑ろにした私のせいです。彼女は、私の有責を理由に離縁をすることだって出来た。それなのに……私が彼女を愛してしまったから、私のそばに、居続けてくれています」
ミレーは先代夫妻にそう言って、私のせいではない。全ての咎は自分だと説明した。
私は……頭が真っ白になる。
こんなところで、私を愛しているなんて嘘ついたら、もう、ご主人様、戻れませんよ!
どうするんですか、コレ!
私は、パニックになり、思わずミレーに駆け寄るが、その手足が震える。
だが、その震える私の手にそっとミレーは手をのせた。
「パトリシア、本当なんだ。嘘じゃない。君に惹かれている。だから、卑怯にも華やかな挙式をしたら、君が私のものになるという打算でまた動いてしまった。
だけどダメだね。こうやって君が私のせいで、私の両親に責められたり嫌な思いをさせるぐらいなら、君を解放してあげたい」
「ミレー様……」
私は、今までに見たことがない真剣なミレーの姿に、動揺する。
私に……惹かれている……
どうして?
「そ、そんな酷いことを言われてたなんて知らないじゃないの。それは、ミレーが悪いわ。でも、ね、パトリシアさん、あなたもその後一緒にいるということは、満更でもないと考えて良いのよね?」
「そうだ!この挙式で本当に一から始めたらいいじゃないか。全てを忘れて、やり直したらどうだ?」
息子の愚行がここまでとは知らなかった。
それは申し訳ない。
突然手のひらを返されたように、二人に謝られる。
更に、マイヤーたちから、愛人が、私にして来た行為の事後処理の話まで聞いたようで、ミレーは一週間は、夫妻から怒鳴られ続けることになったのだった。
◇
「ご主人様、大丈夫ですか?また、お顔が腫れてます」
私は、今日も殴られたと思われるミレーの頬を冷やしていた。
「大丈夫、それよりは君が辛い思いをしていないかが心配。可哀想だと思わないでくれと言われたのに……」
ミレーは、冷やした布を当て、腫れた顔で私に微笑んだが、口を動かし「いたっ」と声を出す。
「私が可哀想とかをもう通り越して、そこまで怒らないでくださいと言う懇願に近いです」
私はため息をついて、そこまでミレーが怒られることだっただろうかと首を傾げる。
むしろ、私が妻として家に嫁ぐということを放棄していたと反省する日々なのに……
「そこまで怒られることだよ、しかも、そんなことをして君を愛し始めたから離したくないなんて、ふざけるなと言われても仕方ない」
「あの、それは先代様を欺くための……」
突然、そんなふうに愛情を伝えられると、私は困惑してしまう。
きっと、先代夫婦の手前、ああ言わなければならなかったのよね?
そう、確認するつもりで私は聞く。
だが.......
「違う。気持ちを返してくれとは言わない。私の一方的な片思いで、生涯片思いでも仕方ないと思っている。だから、欺くために、嘘をついていると思わないでくれ。本当の気持ちだ。
もちろん、今まで通り白い結婚で構わない。世継ぎは養子を貰えばいい。でも、許されるなら私を夫のままにしてほしい」
ミレーは、私の手を握り締めた。
そんなことを言われても、私の経験値に誰かから愛を囁かれたことはない。
結婚した後に、夫にしてほしいというプロポーズを受けたこともない。
どう返事をしたらいいのだ?
「じゃ、じゃあ、ええと……浮気は……ダメです。きっと」
「もちろんしない」
そうよね、浮気も不倫もきっとこれからはダメ。
あとは、何を普通の妻は頼むのかしら?
「ええと、時々視察という名のデートをします」
「もちろん、泊まりで遠くまで行こう」
ミレーは、私の震える手から、冷えた布を取り、代わりに自分の指を絡ませる。
「ええと……何があと。そうだ!お酒を私と一緒に時々飲みます」
「もちろん、私以外といる時に飲んじゃダメだ」
ミレーの真面目な声に、今度は思わず私が頷く。
あとは……
「その……まだ正直、ご主人様を好きかどうかなんて意識したことがなかったんです」
「当然だよ。私が、告白して口説き始めたばかりなんだから。何度もいうが、無理に私の想いに応えなくていい」
そう言われて、私はこくりと頷いた。
「ですが、夫ですので……その……誓いのキスでみんなに見られる前に……初めてのキスをしてほしいです」
私はそこまで言って倒れそうになる。
顔が赤くなるし、こちらからそんなことをお願いするなんて破廉恥だと思うし……
「いいの?初めてでしょう?額とか見えないところにしたふりをしようと思ったんだけど……」
そう言われて、恥ずかしくなって目を瞑る。
「いえ、初めての結婚は、やっぱり唇がいい気がします。でも、初めてのキスがみんなの前なのは……」
「わかった。じゃあ、結婚式ではみんなの視線が気になるだろうから目をつむる。コレからするキスは、みえるところにするんだから、目を開けてしっかり見る。それでどう?」
そう声が聞こえて、私はパッと目を開ける。
その時、もう私の目の前には、ミレーの顔が近づいて来ていた。
私の首筋に、ミレーの長い指が優しく触れて、
「愛しています。あなたの夫にしてください」
そう一言、言ったあとはくちびるが重なり、私はそれをガン見した。
唇が唇とついている……
そう思ったら、すぐ離される。
あっ、ファーストキスが終わった……
そう思った瞬間だった。
再び唇が深く長く、角度を変え、濃度を変え、首に触れ……
ファーストキスはどれですか!!
私は、息ができないまま、パニックになるほどのキスを大量に注がれ、目は更に見開かれたのだった。
◇
それからまもなく私は、白いウエディングドレスを着た花嫁となった。
「お父様、お母様、今まで育てていただきありがとう。色んな噂を聞いて不安に思わせたかもしれないけど、私、本当に幸せに暮らせているの」
社交界の噂をどこかで聞いたらしく、心配そうにしていた両親には私から話をした。
ミレー様は正直に何でも話してしまいそうだからね。
「お前が幸せなら私たちが何がいうことではないが、ミレー様には日々助けてもらうことばかりだよ」
お父様は申し訳なさそうな顔をしたが、私は頷いた。
「そう、私の自慢の夫だもの」
そう言って笑う。
バージンロードを抜け、私は父からミレー様にバトンタッチされ、再び歩き始める。
ミレーは、
「パトリシア、綺麗だよ」
そう耳元で囁いた。
そして、神父から話を聞き、誓いのキスへ――
ベールを上げ、私を見て優しく微笑むミレーを前にして、今度は私は笑顔で目を瞑ったのだった。
《完》




