第2章 「流星たちの残光は尚残り」 第3話
昼下がりの百合々咲音楽学院は、穏やかな光に包まれていた。
暖かな日差しが学院の白い壁や緑の芝生を優しく照らし、カフェテラスには心地よい風がそよそよと流れていた。
木々の葉が軽やかに揺れ、遠くから聞こえるピアノの練習音が、午後の空気に溶け込んでいる。
飛彩翼はテラス席に腰を下ろし、サンドイッチの袋を丁寧に開けながら、ふんわりと微笑んだ。
「う〜ん、美味しい……」
学院自慢の専属シェフが作るサンドイッチは、具材の新鮮さと味のバランスが抜群で、まさに一級品だった。
しかし、翼はひと口かじったあと、ふと心の中で呟いた。
(やっぱ、兄さんのサンドイッチの方が好きだな……)
ゼロタイムで朝早くから作ってくれる兄の手作りサンドイッチの味が、なぜか一番心に染みる。
そんな小さな、誰にも言えない幸せを噛み締めていると――
「翼〜!」
明るい声がテラスに響いた。
顔を上げると、トレイを両手で持った2人の少女が立っていた。
舞台創造科2年の赤尾侑樹と、1年の東納瑠々(るる)だ。
「ごめん、席が空いてなくて。一緒に座ってもいい?」
「いいよ、座って座って!」
3人で囲むように昼食が始まった。
侑樹がサンドイッチをひと口かじりながら、にこやかに言った。
「エーデルおめでと!どう?まだ実感ある?」
「まだ全然……夢みたいで、信じられないよ」
翼は照れくさそうに笑いながら答えた。
すると、瑠々が目をキラキラさせて身を乗り出した。
「でも先輩、エーデルになれたから『SNOW WHITE』やれるんですよね!」
「うん!やっと夢が叶う……本当に」
翼の声が、嬉しさで少し高くなった。
侑樹が軽く肩を竦めて笑った。
「前からずーっと言ってたもんね。翼が『SNOW WHITEやりたい』って、入学した頃からずっと」
翼もくすっと笑い返した。
「侑樹と瑠々も、裏方で参加してくれるの?」
「もちろん!」
「今回、侑樹先輩、演出補佐と助監督に抜擢されたんですよ!」
瑠々が誇らしげに胸を張って言うと、侑樹は慌てて手を振った。
「たまたまなんだってば……本当に運が良かっただけ」
「え、すごいじゃん!!」
「脚本は瑠々が担当することになるんだけどね〜」
「えへへー。とうとう世界がわたしに追いついた!」
得意げに胸を張る瑠々の額に、侑樹のデコピンが軽くヒットした。
「おバカ。調子に乗らないの」
「いてっ!」
3人の笑い声が、テラスに明るく広がった。
やがて侑樹の表情が少し真剣になり、翼の目を見つめて言った。
「翼の夢だった舞台だもん。私たちが、最高の舞台にしてあげるから」
その言葉は、優しく、しかし確かに翼の胸に響いた。
「ありがとう、侑樹」
翼の声が、嬉しさで震えた。
けれど、次の瞬間――
侑樹の表情が、ふっと曇った。
暖かな日差しが差すカフェテラスに、わずかな影が落ちたように感じられた。
「ただ……ひとつ、気になることがあって」
「え……?」
翼がサンドイッチを口に運ぶ手を止め、首を傾げた。
瑠々も小さく頷きながら、珍しく真剣な顔で侑樹を見た。
侑樹は少し言い淀みながら続けた。
「今回の演出と舞台監督……外部から来るプロの人なんだけど」
百合々咲音楽学院では、外部のプロを迎えることは珍しいことではない。
むしろ、実践を学べる貴重な機会として、学院生たちにとっては大きな刺激になるはずだった。
しかし、侑樹の声にはどこか重い響きがあった。
「それが……まさかの……」
侑樹が言葉を濁したまま、視線を泳がせる。
その続きを、瑠々が静かに、しかしはっきりと口にした。
「王立演劇歌劇団 アンダルシアの団員だそうです」
その瞬間、翼の手がぴたりと止まった。
サンドイッチを持つ指先が、小さく震えた。
「王立演劇歌劇団……アンダルシア……?」
世界最高峰の舞台。
舞台に立つ者は誰しも憧れる夢の舞台。
入団を許されるのは、選ばれた極めて少数の才能だけ。
演劇と歌劇の頂点に君臨し、世界中の観客を魅了し続ける劇団。
翼はまだ、その世界の広さを本当の意味で知らなかった。
学院の中で輝く「エーデル」という称号が、どれほど特別なものかを実感し始めたばかりの彼女にとって、
《アンダルシア》という名は、遠い雲の上の存在のように感じられた。
侑樹が小さく息を吐きながら続けた。
「しかも、ただの団員じゃないみたい。 かなり実績のある役者でありながら、演出も行う団員だって話だよ」
瑠々が少し声を落として付け加えた。
「百合々咲の学園祭で、そんな人が来るなんて…… 正直、プレッシャーがすごいです」
カフェテラスの風が、急に冷たく感じられた。
翼の胸の奥で、喜びと同時に未知の緊張がゆっくりと広がっていく。
SNOW WHITE。
ようやく手が届きそうになった夢の舞台。
しかし、そこに立つのは自分だけではない。
外部から来る、世界レベルのプロの目が、すべてを見定めようとしている。
翼は無意識に、制服の襟元に付けたばかりのエーデルのピンバッチに指を当てた。
その小さな重みが、今は少しだけ心細く感じられた。
侑樹が、明るく励ますように笑ってみせた。
「まあ、たぶん良い経験になるよ。 翼が白雪姫をやるんだから、私たちも負けられないよね」
「うん……頑張ろう」
翼はそう答えながらも、心の中では静かに波が立っていた。
王立演劇歌劇団。
その名は、翼の夢をより大きく、より輝かしいものに変える鍵となるかもしれない。
あるいは、想像以上の試練を突きつけるのかもしれない。
昼下がりのカフェテラスに、
3人の少女の会話は、穏やかでありながら、
新たな嵐の予感を静かに孕んでいた。
遠くで、学院の鐘が優しく鳴り響く。
国際空港の到着ロビーに、1人の男がゆっくりと降り立った。
黒のジャケットにジーパンという、気負いのないシンプルな装い。
少し長めの髪を無造作にかき上げ、男は大きく欠伸をした。
「日本に来るのは初めてだなー……」
疲れと好奇心が混じった声が、空港の喧騒に溶けていく。
この男が日本を訪れた理由――それは、百合々咲音楽学院からの特別な招きだった。
「お待ちしておりました、ロゼ・アディン」
ロゼと呼ばれた男が声のした方向に顔を向けると、そこには百合々咲の講師・ドロシーが立っていた。
いつものように落ち着いた姿勢で、しかしどこか緊張を隠せない表情を浮かべている。
「お迎えごくろうさん。あのババァのお使いか?」
ロゼは軽く笑いながら言った。
「はい。車を用意してありますので、どうぞこちらへ」
ドロシーは簡潔に答え、先導するように歩き始めた。
黒塗りの車に乗り込むと、車内は静かで上品な空気に包まれていた。
シートに深く腰を沈めたロゼに、ドロシーはすぐに分厚い企画書を手渡した。
ロゼは無言でそれを受け取り、一通り目を通し始めた。
「……SNOW WHITEね。噂は聞いてるよ。 過去に『過ぎ去りし流星たち』とかいう、ヤバい連中がいたってことも」
「その認識があれば問題ありません」
ドロシーの声は冷静だった。
「確か、完成しなかったんだろ?」
「はい。第3章は上演中止になっています」
SNOW WHITEは全3章からなる壮大な物語。
過ぎ去りし流星たちが上演したのは、第2章まで。
第3章の幕は、未だに下りたままだった。
ロゼは企画書のページを指で軽く叩きながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「完成できなかったその公演を、うちの“おてんば娘たち”ならまだしも…… こいつらに出来るのか?」
「それを成功させるために、理事長はあなたを呼んだのです」
ドロシーはまっすぐにロゼを見つめ、静かに、しかし力強く言った。
ロゼは窓の外に流れる日本の風景を眺めながら、ため息混じりに呟いた。
「まったく、相変わらず人使いの荒いババァだな」
車内を短い沈黙が包んだ。
やがて、黒い車は百合々咲音楽学院の正門前に滑り込むように停まった。
目の前に広がるのは、煌びやかでありながら長い歴史と伝統を感じさせる校舎群。
春の柔らかな日差しが、白い壁に優しく反射している。
ロゼは車から降りると、大きく深呼吸をして空を見上げた。
「さてと……やるか」
その瞳には、好奇心と挑戦的な光が宿っていた。
この日、百合々咲音楽学院に、
世界最高峰の舞台から1人の来訪者が訪れた。
王立演劇歌劇団の団員――
ロゼ・アディン。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第3話 完




