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聖域から落ちた純白の王子、辺境の島で無骨な修理屋に拾われる〜息が詰まる無菌都市を捨て、泥まみれの愛を歌う〜  作者: 水凪しおん


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第7話「胃袋を満たす熱と本音」

 夜明け前の冷え切った空気が、錆びた鉄板の隙間から這うようにして船内へと流れ込んできた。

 俺はドラム缶を改造したストーブの前にしゃがみ込み、まだ微かに赤い熱を保っている灰の中に新しい薪をくべた。

 乾燥した木材が火の気を含んで低くはぜる音が鳴り、やがて細い煙と共にオレンジ色の炎が舐めるように燃え上がり始めた。

 炎の熱が冷たい空気を押し退け、俺の顔や指先に心地よい温度を伝えてきた。

 ストーブの上に分厚い鉄の鍋を乗せ、木樽から汲み上げた水をたっぷりと注ぎ込んだ。

 水が金属の底に触れて細かな気泡を生み出すのを眺めながら、俺は傍らの木箱から島で採れた不格好な根菜を取り出した。

 泥のついた表面を粗い布でこすり落とすと、土の匂いに混じって植物特有の青臭い香りが鼻腔をくすぐった。

 使い古した刃物で根菜を乱切りにしていった。

 刃が繊維を断ち切って木のまな板にぶつかる硬い音が、静寂に包まれた船内に規則的に響き渡った。

 切り分けた野菜と、塩漬けにしていた肉の塊を鍋の中に放り込むと、温度の下がった水面がゆっくりと波打った。

 やがて湯気が白く立ち昇り始め、獣脂が溶け出す甘い匂いと、香辛料の刺激的な香りが混ざり合って部屋の隅々まで満たしていった。

 背後で寝台の古い毛布が擦れる音がして、俺は木べらで鍋の底をかき混ぜながらゆっくりと振り返った。


「おはよう、よく眠れたか」


 アルフレッドは大きな作業着の袖口から細い指先をのぞかせ、まぶたをこすりながら身を起こしているところだった。

 彼の銀色の髪は寝癖で無造作に跳ねており、透き通るような白い肌にはうっすらと赤い血の気が差していた。

 聖域の冷ややかな作り物のような美しさはすでに鳴りを潜め、そこには体温を持った一人の生身の青年が存在していた。

 彼は鍋から漂う匂いに鼻をひくつかせ、まだ眠気の残る翡翠色の瞳を俺に向けた。


「おはよう……その匂いは、またあの温かい食べ物か」


 俺は木べらについた汁を振り落とし、軽くあごを引いて肯定した。


「ああ、今日は少し塩気を強くしてある。汗をかいて身体の水分が入れ替わったんだ、しっかり塩分を補給しないとな」


 アルフレッドは寝台からゆっくりと足を下ろし、冷たい鉄の床を裸足で踏みしめた。

 彼自身の体重が足の裏にかかり、重力を受け止めているという感覚を確かめるように、一歩一歩慎重にストーブの方へと近づいてきた。

 大きすぎる作業着の裾が床を引きずり、その度に微かな摩擦音が響いた。

 彼はストーブの熱源の前に立つと、両手をかざして指先を温めながら、鍋の中で煮えたぎる濁った液体をじっと見つめた。

 彼の喉仏が上下に動き、唾液を飲み込む小さな音が俺の耳にも届いた。

 魔法によって空腹という概念すら消去されていた彼が、自らの肉体の要求に従って食欲を露わにしている証拠だった。


 『生き物の正しい姿だぜ』


 俺は金属の器を二つ用意し、木べらで具材を均等にすくい上げてたっぷりと汁を注ぎ込んだ。

 熱い器を彼の手のひらに乗せると、彼はその重みと温度に少しだけ目を細め、大事なものを抱えるように両手で包み込んだ。

 俺たちは木箱の上に腰を下ろし、並んで温かい湯気を顔に浴びた。

 アルフレッドは木のスプーンを不器用な手つきで握り、スープを少しだけすくって自らの唇へと運んだ。

 熱い液体が舌を焼き、香辛料の風味が鼻腔へと抜けていく感覚に、彼の顔がぱっと明るくほころんだ。


「とても、美味しい……身体の内側から火が灯るようだ」


 俺は自分の分のスープを音を立てて啜り込み、煮込まれて柔らかくなった肉の塊を奥歯で噛み砕いた。

 肉の繊維からあふれ出す旨味と塩気が混ざり合い、胃袋へと落ちていく重たい感覚が心地よかった。


「遠慮するな、鍋にはまだたっぷりあるからな。お前の身体は今、食べたものを熱に変える方法を覚えようと必死なんだ」


 アルフレッドは俺の言葉を聞き終わる前に、次のひとさじを口へと運んでいた。

 彼の食事の作法は聖域で教え込まれたであろう洗練されたものとは程遠く、こぼれた汁が顎を伝うのも構わずに無心で食べ進めていた。

 胃袋に温かい食べ物が収まっていくにつれて、彼の表情からは緊張が抜け落ち、柔らかな安堵が広がっていくのがわかった。

 やがて彼の器が空になり、俺は鍋から二杯目を注ぎ足した。

 彼が再び食事に向き合おうとしたその時、彼の腹部の奥から空気が液体を押し分けるような、低く鈍い音が鳴り響いた。

 それは昨夜から彼の中で活発に動き始めた腸のぜん動音であり、消化という生命活動が正常に行われている確かな証拠だった。

 アルフレッドの動きが止まり、彼はスプーンを持ったまま恥ずかしそうに顔を伏せた。


「また……不浄な音を立ててしまった」


 彼の声は小さく震えており、顔から首筋にかけて一気に赤みが広がっていくのが見て取れた。

 俺はため息をつく代わりに、わざと音を立てて器を木箱の上に置き、彼の方へと身体を向けた。


「不浄なもんか。それはお前の身体が、食べ物をちゃんと命に変えているっていうファンファーレみたいなもんだ」


 アルフレッドは顔を伏せたまま、ゆっくりと首を横に振った。


「だが、聖域では……身体から音を出すことは、他者を汚す罪だと教えられてきた。私は、自分の身体がこんなにも多くの音と匂いに満ちていることに、まだ戸惑っている」


 俺は彼の手からスプーンをそっと取り上げ、器と一緒に横へ退けた。

 そして、彼の震える両手を俺の分厚い掌で包み込んだ。


「聖域の連中が息を止めて生きているなら、俺たちは思い切り息をして、腹を鳴らして生きればいい。ここは持たざる者たちの特等席だ。お前の腹の音を笑う奴なんて、ここには一人もいない」


 アルフレッドは少しずつ顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。

 翡翠色の瞳にはまだ微かな怯えが残っているが、それ以上に俺の言葉を信じようとする強い光が宿っていた。

 その直後、彼の身体が微かに前傾したかと思うと、今度は下腹部から空気を押し出すような、短くはっきりとした破裂音が大気を震わせた。

 放たれたガスは香辛料と発酵の入り交じった特有の匂いを伴い、俺たちの間にある温かい空気に溶け込んでいった。

 アルフレッドは今度こそ顔を両手で覆うかと思いきや、少しだけ目を見開き、自分の腹部にそっと片手を当てた。


「出た……」


 彼がぽつりとこぼした言葉には、羞恥よりも不思議な感嘆の響きが含まれていた。

 俺はこらえきれずに吹き出し、彼の肩を軽く叩いた。


「いい排気音だ。腹の底がすっきりしただろ」


 アルフレッドもつられたように口角を上げ、やがて肩を揺らして笑い始めた。

 自らの身体から放たれた匂いと音が、このガラクタの城塞の一部として自然に受け入れられているという事実が、彼の心を完全に解き放ったのだった。

 俺たちは温かいスープの匂いと、生々しいメタンの香りが混ざり合う空間で、しばらくの間笑い声を響かせ続けた。

 胃袋を満たす熱と、隠すことのない本音が、俺たちの間にある境界線を完全に溶かし去っていた。




 昼が近づくにつれて、船内の空気は幾分か暖かさを増していた。

 俺は発酵タンクから伸びる太い配管のそばにしゃがみ込み、レンチを使って継ぎ目のボルトを締め直していた。

 アルフレッドは俺のすぐ背後に立ち、その作業を興味深そうにじっと見つめていた。

 彼の呼吸は穏やかで、たまに胃袋の中で消化液が動く小さな音が聞こえてくるが、彼はもうそれを恥じて隠そうとはしなかった。


「カイ、その管の中を通っているのは、なんだ」


 アルフレッドが背後から身を乗り出すようにして尋ねてきた。

 彼の髪から微かに漂う粗悪な石鹸の匂いが、俺の鼻腔を心地よく撫でた。


「これはバイオガスだ。泥や排泄物、ゴミなんかを発酵させて作った燃料だよ。聖域の魔法とは違って、臭いし汚い手で集めなきゃならないが、俺たちの命綱みたいなもんだ」


 俺はレンチを工具袋に放り込み、配管の表面についた汚れをぼろ布で拭き取った。

 アルフレッドは配管にそっと手を伸ばし、金属越しに伝わってくる内部の圧力と微かな熱を確かめるように撫でた。


「私たちが忌み嫌ってきた不浄なものが、熱と光を生み出しているということか。なんて滑稽で、美しい真実なのだろう」


 彼の横顔は真剣そのもので、汚れを否定するのではなく、汚れの中にある価値を見出そうとする強さがあった。

 俺は立ち上がり、彼の肩に手を回して自分の方へと引き寄せた。


「そうだ。俺たちはこの臭いガスのおかげで、温かい飯が食えて、夜を明るく過ごせる。お前の腹の中にあるものと何も変わらない」


 アルフレッドは俺の腕の中で少しだけ身をこわばらせたが、すぐに力を抜いて俺の体温に寄り添うように体重を預けてきた。

 彼自身の肉体が放つ熱と、俺の身体の熱が衣服越しに混ざり合った。

 俺たちはただそこに立ち、配管を流れるガスの低い震動音に耳を傾けていた。

 それは沈黙を破る力強いメタンのセレナーデであり、俺たちがこの泥だらけの世界で共に生きていくための誓いの響きのようだった。

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