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聖域から落ちた純白の王子、辺境の島で無骨な修理屋に拾われる〜息が詰まる無菌都市を捨て、泥まみれの愛を歌う〜  作者: 水凪しおん


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第5話「触れる指先、熱を帯びる肌」

 昼を過ぎても空を覆う厚い雲は晴れることなく、船体の鉄板を通して外の肌寒い空気がじわじわと内部へ侵食してきた。

 俺は部屋の隅に設置された、ドラム缶を半分に切って作った手製の浴槽に太いホースを引き込んでいた。

 バイオガスを燃料とする旧式の給湯器に点火すると、青白い炎が低い音を立てて燃え上がり、金属の管を通して熱が水へと伝わっていった。

 しばらくするとホースの先から勢いよく湯が吐き出され、冷え切った部屋の空気に白い湯気が立ち昇り始めた。

 燃焼するガスの特有の匂いと、古い鉄管の錆の匂いが混ざり合い、湿気を帯びた空気が粘り気を持って肌にまとわりついた。

 アルフレッドは部屋の片隅にある木箱の上に座り、両腕で自らの身体を抱え込むようにして小さく震えていた。

 彼の純白だった衣服は、度重なる発汗と泥汚れ、そして先ほどの排泄の余波によってひどい有様になっていた。

 魔法による清浄を失った肌は、自ら分泌した皮脂と汗によってべたつき、微かな酸っぱい匂いを放ち始めていた。

 聖域の住人にとって、自分の身体から悪臭が発生するという事実は、精神を削り取るほどの苦痛であるはずだ。


「ほら、湯が張れたぞ。服を脱いで中に入れ」


 俺がホースのバルブを閉めて声をかけると、アルフレッドはびくっと肩を跳ねさせ、怯えたような視線を俺に向けた。

 自らの手で衣服を脱ぎ捨て、汚れた肌を他者の前に晒すという行為に対する根深い抵抗感が、彼の行動を縛り付けていた。

 彼は震える指先で上着のボタンに触れるが、その手はかじかんだように動かず、ただ布地をきつく握りしめるだけだった。


 『手伝ってやるしかねえか』


 俺は彼のもとへ歩み寄り、その白く細い指先を優しく解きほぐすように自分の手で包み込んだ。

 俺の分厚く傷だらけの掌と、彼の滑らかで繊細な指先の対比が、この世界における俺たちの立場の違いを残酷なほどに示していた。


「触らないでくれ……私は、ひどく汚れている……匂いも、ひどいだろう……っ」


 アルフレッドは顔を背け、消え入りそうな声で拒絶の言葉を紡いだ。

 俺はその言葉を無視し、彼の指先からゆっくりと手を離すと、上着のボタンを一つずつ丁寧に外していった。

 抵抗する力を持たない彼は、ただ目を固く閉じ、唇を噛み締めてその行為を受け入れていた。

 泥と油にまみれた布地が肩から滑り落ち、彼の真っ白な肌が冷たい空気に晒された。

 首筋から胸元にかけて、魔法の庇護を失った肌には鳥肌が立ち、微かな汗の粒が光を反射していた。

 俺は彼を抱え上げるようにして立ち上がらせ、衣服をすべて剥ぎ取ってから、湯気が立ち昇るドラム缶の浴槽へとゆっくりと沈めた。

 温かい湯が彼の胸元までを包み込んだ瞬間、その口からこらえきれないような深い吐息が漏れ出した。


「温かい……」


 アルフレッドは驚いたように目を見開き、自らの手で水面をすくってその熱を確かめるように指先を動かした。

 俺は傍らに用意してあった固形石鹸を手に取り、彼が湯の中で強張らせている背中の後ろへと回った。

 動物の油脂と灰から作られた粗悪な石鹸は、泡立ちこそ悪いが、こびりついた汚れを落とすには十分な力を持っていた。

 俺は手のひらで石鹸を擦り合わせて泡立て、彼の銀色の髪へと静かに指を潜り込ませた。


「少し痛いかもしれないが、我慢しろよ」


 俺が低く声をかけ、頭皮をマッサージするように力強く指を動かすと、彼はびくっと身体を震わせた。

 俺の荒れた指先が彼の柔らかな髪の根元をこすり、泥と埃にまみれた汚れが湯の中に黒く溶け出していった。

 聖域の魔法とは違う、物理的な摩擦と温水による痛みを伴う洗浄の過程に、彼は最初は戸惑うように息を詰めていた。

 しかし、俺の指が彼のうなじから肩にかけての筋肉の強張りをほぐすように動くにつれて、その呼吸は次第に深く規則的なものへと変わっていった。

 俺は彼に直接触れることで、その肌の下に隠された細い骨格と、脈打つ血液の温かさをはっきりと感じ取っていた。

 俺の手のひらから伝わる熱が、彼の冷え切った身体の奥深くまで浸透し、凍りついていた感情の殻を内側から溶かしていくのがわかるのだった。


「君の手は……とても、温かいのだな」


 アルフレッドが前を向いたまま、ぽつりとこぼすように言葉を紡いだ。

 その声にはもはや拒絶の響きはなく、ただ純粋な驚きと、未知の感覚を受け入れようとする柔らかさがあった。


「俺の手は油と泥だらけだが、生きている人間の熱があるからな。魔法で作られた冷たい綺麗さより、よっぽど信用できる」


 俺は泡立った石鹸を洗い流すため、手桶で掬った熱い湯を彼の頭上からゆっくりとかけた。

 湯が銀色の髪を伝って顔に流れ落ち、彼はまぶたを閉じてその熱い水の流れに身を任せた。

 泥と汗の混ざった不浄な水が彼の顎から滴り落ち、浴槽の中の湯を白濁させていった。

 自分の身体から出た汚れが可視化されるその光景に、彼はもはや目を背けることなく、ただじっと水面を見つめていた。

 俺は新しい布を手にとり、彼の背中から腕にかけての汚れをゴシゴシと力強くこすり落とした。

 摩擦によって彼の白い肌に赤みが差し、血液が全身を巡って体温が急激に上昇していくのが視覚的にもはっきりとわかった。

 彼は痛みに微かに顔をしかめながらも、俺の乱暴な手つきを避けることなく、むしろその感触を確かめるように自分の腕を見つめた。


「痛いか」


 俺が尋ねると、彼はゆっくりと首を横に振り、少しだけ口角を上げて微笑むような表情を見せた。


「いや……生きているという感じがする。汚れを落とすことが、こんなにも心地よいものだとは知らなかった」


 その言葉の奥にあるのは、自らの肉体という泥臭い現実を肯定し始めた、一人の人間の静かな宣言だった。

 俺は彼の背中を洗い終えると、布を置いて浴槽の縁に腰を下ろし、熱気に満ちた空気を深く吸い込んだ。

 部屋の中に漂うのは、もはや不浄な匂いだけではない。

 石鹸の素朴な香りと、湯気、そして人間の肌が熱を帯びたときに放つ、独特の甘い匂いが混ざり合っていた。

 アルフレッドは湯の中で両手を広げ、自分の身体の隅々まで熱を行き渡らせるように深く息を吐き出した。

 彼の肌は赤く上気し、濡れた銀髪が額に張り付いて、聖域の王子というよりは泥遊びを終えた無邪気な子供のようだった。

 触れる指先から伝わった熱は、間違いなく彼の冷たい心臓に火を灯し、その内側で新しい命の鼓動を刻み始めていた。

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