エピローグ「風の行方に残る響き」
海風が塩の結晶を運んでくる感覚が、肌を刺すような鋭さから、少しだけ湿り気を帯びた柔らかなものへと変わる季節だった。
俺たちが泥の島を脱出する日が、ついにやってきた。
新しい発酵タンクの圧力計の針は限界近くまで振り切れ、内部で生成された膨大な量のメタンガスが、解放の時を今か今かと待ちわびていた。
修復されたジャンク船メタン・セレナーデ号の船体は、数え切れないほどの鉄板の継ぎ接ぎで覆われ、不格好な鋼鉄の獣のような姿を見せていた。
しかし、その心臓部で脈打つのは、島中の有機物が命を分解して作り出した純粋な熱とエネルギーだった。
アルフレッドは船の甲板に立ち、太いロープを巻き上げる作業に汗を流していた。
彼の身を包むのは、彼自身が縫い上げたあの黄色の布を動きやすく改良した上着だった。
太陽の光を浴びて風にはためくその色は、鉛色の空と暗い海原の中で、ひときわ鮮やかな道標のように目に焼き付いた。
彼の銀色の髪は短く切り揃えられ、潮風に吹かれて無造作に揺れていた。
かつての清浄な彫像の面影はもはやどこにもなく、そこには逞しく大地を踏みしめ、自分の力で呼吸をする一人の青年の姿があった。
「カイ、固定用の鎖はすべて外した。いつでもいける」
彼が甲板から身を乗り出し、下でバルブの最終点検をしている俺に向かって大声で叫んだ。
その声には不安の欠片もなく、未知の海へと乗り出していく高揚感が満ち溢れていた。
俺は太いレンチを腰のベルトに差し込み、金属の階段を踏み鳴らして彼が待つ甲板へと駆け上がった。
足元からは、エンジンルームへと送り込まれるガスが狭い管を通る際の、空気を引き裂くような甲高い摩擦音が絶え間なく響いてきた。
俺は巨大な推進器の起動レバーに手をかけ、その冷たい金属の感触を手のひら全体で確かめた。
「よし、それじゃあお別れだ。息の詰まる空の世界にも、この泥だらけの島にもな」
俺がレバーを力強く押し下げると、船体全体を揺るがすほどの巨大な爆発音が後方の排気口から響き渡った。
圧縮された発酵ガスが着火し、猛烈な熱風となって海面を激しく叩きつけた。
大量の水しぶきが舞い上がり、船の周囲に一瞬だけ白い霧の壁が作り出された。
強烈な推進力が巨大な鉄の塊を押し出し、俺たちは慣性の法則に従って大きく体勢を崩しかけた。
アルフレッドは手すりをきつく握り締め、もう片方の手で俺の腕をしっかりと掴んで身体を支えた。
彼の指先から伝わる力強い圧力が、俺たちが同じ運命を共有していることを無言で伝えてきた。
船は重々しい軋み音を立てながら岩礁を離れ、波のうねりを正面から砕き割って外海へと滑り出した。
排気口からは絶え間なく着火の音が鳴り響き、燃焼しきれなかったガスの香ばしい匂いが風に乗って俺たちの鼻腔をかすめていった。
それはかつて忌み嫌われていた不浄の匂いなどではなく、俺たちが前へ進むための命の燃えかすであり、自由の証明としての芳醇な航跡だった。
俺は手すりに寄りかかり、遠ざかっていく泥の島と、その遥か上空を覆う分厚い雲の層を見上げた。
あの雲の向こうには、今も音と匂いを殺し、自らの内側を否定し続ける冷たい虚飾の都市があるはずだった。
彼らは俺たちが放つこの泥臭い排気の音を、恐れと軽蔑をもって見下ろしているかもしれなかった。
だが、そんなものはもうどうでもよかった。
アルフレッドが俺の隣に並び立ち、同じように遠ざかる景色を見つめていた。
彼の下腹部から、長旅の始まりを告げるかのように、ぐるると低く長い腸のぜん動音が鳴った。
彼は照れることもなく自らの腹を叩き、波の音に負けないほどの大きな声で笑い飛ばした。
「私のお腹も、船のエンジンに負けじと歌っているな。これからの旅は、もっとたくさんのものを食べて、もっとたくさんの音を響かせなければ」
「ああ、その通りだ。お前の腹の音がこの船のファンファーレだ。どこまでも響かせてやれ」
俺が彼の肩を抱き寄せると、彼は俺の腕の中に自然に身を預け、冷たい海風から顔を隠すように俺の首筋に鼻先をこすりつけてきた。
互いの身体から発せられる汗の匂い、粗悪な石鹸の匂い、そして生々しい体臭が入り交じり、俺にとってこの世の何よりも安らぐ空気を作り出していた。
俺たちはもう二度と、自分の内側に湧き上がる真理を隠すことはなかった。
恥を越え、排泄という生命の根源的なサイクルを肯定した果てに、俺たちは誰にも奪われない究極の自由を手に入れたのだった。
メタン・セレナーデ号は波頭を砕きながら、果てしなく広がる水平線を目指して突き進んでいった。
俺たちの航海は、大腸の鼓動と共に。
風の行方に、ただ一筋の泥だらけで誇り高き響きを残して。




