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聖域から落ちた純白の王子、辺境の島で無骨な修理屋に拾われる〜息が詰まる無菌都市を捨て、泥まみれの愛を歌う〜  作者: 水凪しおん


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第13話「明日へ続く航跡」

 夜明けの光がひしゃげた鉄の壁の隙間から細い帯となって差し込み、冷え切った床の埃を鈍く照らし出していた。

 俺の腕の中で丸くなっているアルフレッドの身体は、分厚い布地越しでもはっきりとわかるほど高い熱を帯びていた。

 彼の規則的な呼吸に合わせて胸郭が上下に動き、その度に衣服が擦れ合って微かな摩擦音を立てた。

 銀色の髪は古い毛布の繊維に絡まり合い、無造作に散らばって朝の光を乱反射していた。

 俺は彼の頭の後ろに回していた腕をゆっくりと引き抜き、その柔らかな髪の感触を指の腹で確かめながら身を起こした。

 冷たい大気が露出した首筋を撫でていき、身体の芯に微かな震えを呼び起こした。

 隣で眠る彼の腹部からは、昨夜の食べ物を消化し終えようとする内臓の動きが、空洞の管を水が流れるような低い音となって間欠的に響いていた。

 もはや彼はその音を恥じて身をよじることはなく、ただ穏やかな寝顔のまま微かな寝息を立て続けていた。


 『起きる時間だ』


 俺は古い毛布を彼の肩までしっかりと掛け直し、裸足のまま鉄板の床を踏みしめて立ち上がった。

 足の裏から伝わる鋭い冷気に意識が覚醒し、周囲の惨状が改めて俺の視界に飛び込んできた。

 昨日の戦闘で吹き飛ばされた屋根の穴からは、鉛色の分厚い雲がゆっくりと流れていくのが見えた。

 破壊された発酵タンクの残骸からは、未だに焦げた金属の匂いと有機物の酸っぱい臭気が入り交じって漂っていた。

 この城塞はすでに半分以上が機能を失っており、ここに留まり続けることは緩やかな死を意味していた。

 俺は部屋の隅に転がっていた木箱を足で引き寄せ、その上に腰を下ろして分厚い革の長靴に足を入れた。

 かかとを床に打ち付けて靴を馴染ませていると、背後で毛布が擦れる音がして、アルフレッドがゆっくりと身を起こす気配がした。


「おはよう、カイ」


 彼の声はまだ眠気を帯びて低くかすれており、発声と共に漏れ出した温かい吐息が白いもやとなって空気に溶けていった。


「おはよう。身体の痛みはないか」


 俺が振り返って尋ねると、彼は大きすぎる作業着の袖口で目をこすりながら小さく首を横に振った。


「痛みはない。ただ、身体の奥が空っぽになったような、不思議な軽さがある」


 彼はそう言って自らの下腹部を手のひらで撫で、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべた。

 昨日の凄まじい放出によって、彼を縛り付けていたすべての不浄は外の世界へと還元され、今の彼の肉体は新しい生命を吸い込むための純粋な器となっていた。

 俺はストーブの灰の中に残っていた火種をかき集め、細く裂いた木材をくべて息を吹きかけた。

 赤い光が徐々に強さを増し、やがて細い炎が立ち上がって周囲の空気を温め始めた。

 鍋は失われていたため、俺は昨日と同じように焦げた盾の破片を火の上に置き、残っていた塩漬けの肉と根菜の切れ端を並べた。

 肉の脂が熱せられた金属の表面で溶け出し、小さな泡を立てながら焦げていく香ばしい匂いが立ち昇った。

 アルフレッドはその匂いに引き寄せられるようにして火のそばに近づき、俺の隣に腰を下ろした。

 彼の喉が動き、唾液を飲み込む音がはっきりと聞こえた。


「生きるための燃料補給だ。しっかり食って、今日の作業に備えろよ」


 俺が木の串で刺した肉の塊を差し出すと、彼は両手で串を受け取り、ためらうことなく熱い肉に食らいついた。

 奥歯で肉の繊維を引きちぎり、口の周りに脂をつけながら無心で咀嚼を繰り返した。

 俺はその力強い生命の営みを横目で見ながら、自分も肉の塊を口に放り込み、強い塩気と獣の旨味を胃袋へと流し込んだ。

 食事が終わると、彼は立ち上がって部屋の奥にある暗がりへと迷うことなく歩いていった。

 そこは彼が昨日初めて自らの生理的な真実と向き合った、あの簡素な排泄のための空間だった。

 木の扉が閉まり、しばらくすると内側から衣服が擦れる音と、重いものが水に落ちる低い音が聞こえてきた。

 続いて、空気を押し出すような短く濁った破裂音が鳴り響き、彼の身体から不要なものが完全に切り離されたことを周囲の空気が伝えてきた。

 扉の隙間から漂い始めた生々しい匂いは、もはや俺にとって忌避すべきものではなく、彼がこの泥の世界で正しく循環の一部を担っているという確かな証明だった。

 彼が暗がりから戻ってくると、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかで、足取りにも確かな重みが宿っていた。


「さあ、何から手伝えばいい」


 彼は袖をまくり上げ、細く白い腕を露出させながら俺に向かって両手を広げた。


「あの壊れたタンクの配管を繋ぎ直す。この島を出て、海へ向かうための推進力を作るんだ」


 俺は彼の手を引いて、崩れかけた壁の外へと足を踏み出した。

 海風が容赦なく吹き付け、波が岩肌に砕け散る重い音が足元から響いてきた。

 空を覆っていた虚飾の都市はすでに厚い雲の向こう側に隠れ、ここからは見上げることもできなかった。

 俺たちは散乱する廃材の山から、まだ歪みの少ない太い鉄の管を探し出し、二人で両端を抱え上げた。

 鉄の管は予想以上に重く、アルフレッドの細い腕の筋肉が限界まで張り詰めているのがわかった。

 彼の額にはすぐに汗が滲み出し、銀色の髪が額に張り付いていった。


「重いだろう。無理なら休んでいてもいいぞ」


 俺が声をかけると、彼は奥歯を噛み締めながら強く首を横に振った。


「やらせてくれ。自分の手で汚れ、自分の力で重さを感じなければ、私はまたあの透明な檻に戻ってしまう気がするのだ」


 彼の瞳には、かつての怯えた青年の面影はなく、生きるための痛みを自ら選び取る強靭な意志が燃えていた。

 俺たちは息を合わせ、泥に足を取られながらも、配管を新しいタンクの基部へと運び込んだ。

 俺は工具袋から太いボルトとレンチを取り出し、継ぎ目を固定する作業に取り掛かった。

 金属同士が強く擦れ合う甲高い音が鳴り、錆びた粉が空気中に舞い上がって鼻の粘膜を刺激した。

 アルフレッドは俺の指示に従って配管の角度を微調整し、自分の体重をかけて金属の筒を固定し続けた。

 彼の白い肌には古い油と泥が容赦なくこびりつき、指先は摩擦によって赤く擦り剥けていた。

 しかし彼は痛みに顔をしかめるどころか、その汚れが自分の身体に刻まれていく過程をどこか楽しんでいるようにすら見えた。

 太陽が南の空高く昇る頃には、俺たちの身体は汗と泥で完全に覆われ、互いの放つ強い体臭が海風の匂いを打ち消すほどに濃密に混ざり合っていた。


 『これで配管の接合は終わりだ』


 俺はレンチを放り出し、分厚い手袋の甲で額の汗を乱暴に拭い去った。

 アルフレッドも配管から手を離し、肩で大きく息をしながらその場にへたり込んだ。

 彼の胸の谷間から汗の滴が流れ落ち、泥のついた鎖骨を伝って衣服の中に吸い込まれていった。


「あとは、この中に燃料となる有機物を詰め込むだけだ」


 俺は島に点在する廃棄物の集積所から運んできた、腐敗しかけた植物の残骸や汚泥が詰まった袋を指さした。

 強烈な腐敗臭が漂うその袋の山を見て、アルフレッドは顔をしかめるどころか、自ら袋の口を掴んで引きずり始めた。


「これも私がやる。私の身体が作り出すものと同じように、これが明日を動かす力になるのだろう」


 彼は袋の中身を新しい発酵タンクの投入口へと次々に流し込んでいった。

 泥水が跳ね、強烈な発酵の匂いが彼の顔を直接叩きつけるが、彼は目を細めながらもその作業を止めなかった。

 すべての有機物を投入し終え、俺が厚い鉄の蓋を閉めて密閉用のハンドルを回した。

 金属が噛み合う重い音が響き、タンク内部は完全な暗闇と沈黙の空間へと閉ざされた。

 これから内部の微生物が活動を始め、数日のうちに膨大な量の可燃性ガスを生み出してくれるはずだった。

 そのガスが、俺たちの乗るこのジャンクの城塞を海へと押し出すための巨大な推進力となるのだった。




 太陽が西の水平線に触れ、空と海が血のような深い赤色に染まり始めた。

 俺たちは作業を終え、海岸に突き出た錆びた鉄骨の上に並んで座り、寄せては返す波のうねりを無言で見つめていた。

 アルフレッドの肩が俺の肩に触れ、衣服越しに互いの疲労した筋肉の熱が静かに伝わってきた。

 彼の下腹部から、再び空気が移動するくぐもった音が鳴り、微かな香ばしい匂いが夜風に溶けていった。

 彼はもう笑うことも恥じることもなく、ただ自然な呼吸の一部としてそれを受け入れていた。

 社会の押し付ける清潔さや虚飾の規範は、俺たちの間にはもう一欠片も存在しなかった。

 ただ汗を流し、腹を鳴らし、互いの熱を共有しながら生きるという、単純で圧倒的な真実だけがここにあった。

 俺たちは明日へ続く見えない航跡を思い描きながら、冷えていく風の中でいつまでも互いの体温を確かめ合っていた。

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