第1話「虚空から落ちた純白の彫像」
登場人物紹介
◆カイ
元・現代日本のバイオガスエンジニア。
二十六歳。
異世界の辺境「泥の島」で、ジャンク品の回収と発酵ガスの精製をして暮らす青年。
黒髪で無精髭を生やし、いつも油に汚れたツナギを着ている。
「生きることは汚れることだ」という哲学を持ち、社会から「不浄」として捨てられたものを愛する。
口は悪いが、内側には誰よりも熱い生命の火を灯している。
◆アルフレッド
空中都市「聖域」の第一王子。
二十二歳。
透き通るような銀髪と翡翠の瞳を持つ、この世で最も「清浄」とされる美青年。
魔法により一切の生理現象を封じられているため、感情が欠落した「生ける彫像」のように振る舞っている。
体内に溜まった「不浄」が限界に達し、自爆寸前の状態で地上へ落下する。
俺との出会いにより、自分の内側に眠る「野生」と「真実の声」を知ることになる。
海風が運んでくるのは、塩の結晶と微かな腐敗が混ざり合った特有の匂いだった。
ひび割れた大地に突き刺さるように並ぶ太い鋼鉄の配管からは、目に見えない気体が陽炎を作って周囲の景色を歪ませていた。
俺は油と泥で黒く汚れた手の甲で額に滲んだ汗を拭い、鈍く光る真鍮のバルブに分厚い掌を押し当てた。
金属の冷たさを覆い隠すように、配管の奥から脈打つような熱と微かな震動が皮膚を通して伝わってくる。
それは巨大な密閉タンクの中で無数の微生物が有機物を分解し、熱と可燃性のガスを生み出している確かな生命の鼓動だった。
淀んだ灰色の雲が垂れ込める空の下、見渡す限りに広がるのは都市から投棄された金属部品や朽ちた建材の山だ。
ここは社会の周縁部に位置する不浄の吹き溜まりであり、行き場を失った者たちが行き着く果ての島だった。
俺は腰に提げた工具袋から古びたレンチを引き抜き、緩んだボルトに噛み合わせて体重をかけた。
錆びついた金属同士が軋む耳障りな音が響き、固着していた部品が僅かに動いて隙間を塞ぐ。
配管の継ぎ目から漏れ出していた特有の甘ったるい発酵臭が薄れ、気密が保たれたことを鼻腔の感覚だけで確認した。
生きるということは、絶え間なく何かを摂取し、そして何かを排出して世界を汚していく過程に他ならない。
俺にとってこの島を満たす泥と錆、そして有機物が発酵する匂いは、命がそこにあるという何よりの証明だった。
『今日もいい圧力だぜ』
俺は鼻腔をくすぐるその香ばしい空気を肺の奥深くまで吸い込み、満足げに口元を歪めた。
タンクの内側で鳴り響く低い音は、見捨てられたこの土地で泥に塗れて生きる者たちに恵みをもたらす福音そのものだ。
俺は作業用の厚手の革手袋を外し、汗ばんだ首筋を無造作に掻き毟りながら天頂へと視線を向けた。
分厚い大気の層の向こう側には、不可視の障壁に守られた絶対的な清浄の都市、聖域が浮かんでいるはずだ。
泥に塗れたこの地上からは、その白亜の輪郭さえも分厚い雲と陽炎の向こうに隠されて窺い知ることはできない。
空に住まう者たちは自らの汗や体臭、排泄物さえも高度な魔法で消し去り、無菌室のような世界で冷たい呼吸を続けているという。
彼らにとって、地上で蠢きながら臭気を放つ俺たちは、視界に入れることすら忌まわしい不浄の象徴に違いない。
空の住人たちが何を恐れ、何を隠して生きているのか、俺には理解する気もなければ興味もなかった。
ただ、地に足をつけ、自らの内側から湧き上がる熱と匂いを受け入れて生きる方が、よほど人間らしいと信じているだけだった。
俺が再びバルブの調整に戻ろうと身を屈めたその時、頭上の大気が鋭く裂けるような異音が鼓膜を叩いた。
見上げると、分厚い灰色の雲の切れ間から、一直線に地上へと落下してくる白い流星のような軌跡が見えた。
それは隕石のようでありながら、落下地点を調整するかのように不自然な減速を伴いながら斜めに落ちてくる。
空気を切り裂く風圧の音が次第に大きくなり、俺は反射的に腕で顔を覆って配管の陰へと身を隠した。
巨大な質量がぬかるみに沈み込む重い衝撃が足元の地面を揺らし、周囲の廃材が崩れ落ちる乾いた音が連続して響いた。
跳ね上げられた泥水が雨のように降り注ぎ、俺の作業着をさらに黒く汚していく。
飛び散った泥の飛沫が収まるのを待って、俺は慎重に配管の陰から顔を出し、落下地点へと歩み寄った。
積み上げられていたスクラップの山がすり鉢状に吹き飛び、その中心には周囲のぬかるみとは明らかに異質なものが横たわっていた。
それは、透き通るような銀糸の髪と、汚れを一切知らない純白の衣服を身に纏った青年の姿だった。
緻密な刺繍が施された絹のようになめらかな布地は、着地時の防護魔法の余波なのか、周囲の泥を弾いて不可思議な白さを保っている。
長身で細身の体つきは彫刻のように整っており、閉じられたまぶたの縁を彩る長い睫毛までが氷の結晶のように白かった。
彼こそは間違いなく、天上から零れ落ちてきた聖域の住人であり、この泥の島には最も似つかわしくない存在だ。
俺は警戒心を抱きながらも、泥に足を取られぬよう慎重に斜面を下り、青年の傍らへと膝をついた。
近づいてみると、青年の美しい顔立ちは苦痛に酷く歪んでおり、浅く速い呼吸を繰り返していた。
純白の衣服に包まれた彼の腹部は不自然に大きく膨れ上がり、布地を内側から強く押し上げている。
俺は青年の首筋に手を伸ばし、肌に直接触れて脈拍を確かめた。
驚くべきことに、これほどの苦痛に悶えながらも、青年の肌には一滴の汗も滲んでおらず、不気味なほどに乾燥して冷たかった。
首の根元には、銀色の細い金属製のチョーカーが食い込むように装着されており、その表面には微細なひび割れが走っている。
ひび割れの奥から漏れ出す青白い光が明滅を繰り返し、その度に青年の体が痙攣するように跳ねた。
「おい、しっかりしろ」
俺は青年の肩を揺すりながら声をかけたが、青年のまぶたは固く閉じられたままで、ただ苦しげな呻き声を漏らすだけだった。
膨れ上がった腹部にそっと手を触れると、そこには強烈な反発力があり、まるで限界まで空気を詰め込まれた革袋のような張りがあった。
内部で膨張したガスが逃げ場を失い、青年の内臓を容赦なく圧迫しているのは明らかだった。
聖域の住人たちが魔法によって体内の不浄を消し去っているという噂は、どうやら真実だったようだ。
しかし、何らかの理由でその魔法を制御するチョーカーが破損し、本来排出されるべきものが体内に閉じ込められたまま限界を迎えている。
このまま放置すれば、物理的な圧迫によって内臓が破裂するか、呼吸困難に陥って命を落とすのは時間の問題だ。
俺は周囲を見渡し、自分たちを見ている者が誰もいないことを確認すると、青年を抱き抱えるために腰を落とした。
『ひどい有様だな』
『完璧な空の住人様が聞いて呆れるぜ』
俺は内心で毒づきながらも、青年の膝裏と背中に腕を回し、その身体を泥の中から抱え上げた。
見た目以上に重い青年の身体を支えながら、俺は自らの拠点である廃船へと急ぎ足で歩き出した。
青年の身体から伝わってくるのは、魔法によって封じ込められた生命の悲鳴と、今にも爆発しそうな内圧の震えだ。
俺の鼻腔には、自らの作業着に染み付いた発酵の匂いと、青年が放つ無臭という名の不自然な空白が入り交じって届いていた。
ぬかるみに足を取られながらも、俺は倒壊した鉄塔の影を抜け、錆びついた巨大な船体へと続く斜面を登っていく。
青年の胸元から漏れる浅い呼吸音は次第に不規則になり、その美しい顔から急速に血の気が引いていくのがわかった。
俺は腕の中の重みを抱え直し、鉄の扉を乱暴に蹴り開けて、ガラクタで築かれた自らの城塞へと足を踏み入れた。




