結界を強化する文字を書ける私の給料を減らす?ならもうやめます。伯爵にメモ書きだけで即時採用され文字一目惚れされたら職場が天国すぎて天使もいるから二度と地獄に戻るわけがありません
男爵令嬢のカチュアは仕事に従事していただけなのに先輩の女に仕事を押し付けられて、日々日々、毎日二倍の量をこなしていた。しかし、ノイローゼに陥りもう無理だと夜に涙が止まらず。
次の日に行くと仕事の人事部から給料を減らされることが伝えられて、心の糸が切れた。もうやめてやる。
押し付けるくせに遅いわよ無能と罵られることが仕事なんて、やめてやる!
後輩に仕事を押し付けていたクシャユリアが、いつものように遅れて写本室に現れたのは日の高い時間だった。相変わらずのんびりとした歩調で、誰もいないカチュアの机を鼻で笑う。
「ふん、無能が逃げ出したか。これで全部わたしの成果になるわ」
呟くと昨夜カチュアが仕上げたはずの、最も重要度の高い継承書の写本に手を伸ばした。これが完成すれば自分の成果として神殿の最高位に報告できる。
しかし、写本に触れた瞬間、クシャユリアは手のひらに走る奇妙な違和感に顔を顰めた。
「は?何よこれ」
いつもは微かに温かい膜のように感じられるはずの聖典から発せられる魔力的な重みがない。あるのは冷たい紙の質感。
「気のせいかしら。寝不足ね」
クシャユリアは写本を束ねて神官長に提出しようとした。しかし、その時。隣の机で作業していた先輩写本師のカジュマアルが顔を真っ青にして叫んだ。
「お、おい!クシャユリア嬢!インクの在庫が、魔力インクが固まっている!」
魔力インクは古代の技術で精製されており、非常にデリケート。作業中以外は専用の術式で保温、保存されている。今、保管容器の中のインクは泥のようにドロドロに分離し、筆で掬える状態ではなかった。
「な、何よ!あんたが、カジュマアルが昨夜管理を怠ったんじゃないの!?」
「そんなはずは!一晩でこんな風になるなんてありえない!昨日までは何ともなかった!聖典全体から機能を保つための何かが失われたみたいだぞ?」
カジュマアルの言葉が予言となるかのように混乱は次々に拡大していく。直後、神官長が血相を変えて写本室に飛び込んできた。手に一枚の古い加護の術式が書かれた羊皮紙を持っている。
「誰だ!これを書いたのは誰だ!」
数ヶ月前、クシャユリアが「速筆が評価された」と自慢して報告した写本の一枚だ。字はお世辞にも綺麗ではない。
「わ、私です。それが何か?」
クシャユリアが胸を張って答える。神官長は写本をクシャユリアの目の前に叩きつけた。
「ああ、よく聞け!聖域の結界の更新に使った。だが、昨夜から結界が急速に弱化している!魔力分析官が調べたところ、この写本は魔力インクが紙の表面から剥離している!どういうことだ?」
クシャユリアの字は筆圧が強すぎるか、あるいは字形が正確性に欠けていたために魔力インクを紙の繊維の奥深くに定着させることができていなかった。
一見、完璧に見えても時間が経つにつれて、インクが表面で固まるだけで魔力そのものは拡散し抜け殻になっていたのだ。
「そんな、ありえない!完璧に書きました」
クシャユリアは目を剥く。
「ありえないとはなんだ?ありえる!写本から検出される魔力残量は古代語の定着を助ける振動が欠落している。お前では話にならない。紙そのものに魔力を馴染ませるあの書き手を……ん?」
神官長は写本室の全員を見回した。
「おい、字の美しい令嬢はどこだ!彼女に書いてもらった写本を調べろ!書いた写本だけ、魔力の定着が完璧な可能性がある!お前のはダメだ彼女を呼べ」
全員が呆然とカチュアの空っぽの机を見つめた。
「カチュアなら……昨日、給料カットを言い渡されて、夜のうちに辞めていきました……」
カジュマアルが震える声で告げると神官長の顔は絶望と怒り、致命的な恐怖に歪んだ。
「馬鹿者がぁああ!彼女の字こそが神殿の、いや、国の結界の要だ!あんなに美しい字をみすみすやめさせただと!?」
聖典写本室は一人の有能な文字好き令嬢が去ったことで、組織の崩壊を予感させる、血の気の引いたパニックに包まれた。
その頃カチュアは呑気に隣国の馬車に乗り老夫婦と話し込んでいた。そして、その先に待つ未来にわくわくする。文字を書くことを、自分で店をすればいいのかもと考え始めてもいた。
馬車から降りて一応あるかもしれない仕事を探すと、そこで出会う伯爵に雇われた。写本をする存在を探していて、メモ書きだけで採用される。美しすぎる文字に一目惚れしたとか。
彼は文字が好きな変わり者な貴族だったのだ。熱意に負ける。雇われ、のびのび写本作業ができる天国を手に入れたカチュアは、とっくに前職場のことなんて忘れている。
ストレスマッハなんて胃を痛めるので。伯爵に誘われて、従姉妹の五歳の女の子も共に暮らす屋敷では今日も笑い声が絶えない。
お母様って呼びたいなと甘えられて二人きりのときだけね?という会話を盗み聞きしている伯爵がプロポーズするのはそう遠くない未来だろう。
結婚時の署名が魔法神殿内で話題になることを知らずに、可愛らしい高い声が楽しげに名前を紙に書いてと強請るお願いが、庭にこだました。
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