ー 逃国の試練 ー
リシアの言葉を受け、エリスと信太は館を出て、ティルの案内で装備を整えるため街の鍛冶屋と薬草店を訪れた。鍛冶屋では、エリスの短剣を研ぎ直し、信太に軽量な鎖帷子を用意してもらった。薬草店では、傷薬と星脈の力を高めるハーブを詰めた小袋を受け取った。ティルは二人の準備を監督しつつ、軽口を叩いて緊張を和らげていた。
「なぁ、エリス、聖壇で魔法バンバン撃つ気なら、ちゃんと狙ってくれよ？ 俺に当たったら、泣くからな！」ティルが笑いながら言うと、エリスは唇を尖らせて反撃した。「ティルこそ、口笛で魔物引き寄せないでよね！ 信太、ティル見張っといて！」
信太は鎖帷子の重さに慣れようと肩を回し、苦笑した。「お前ら、試練前からこのテンションかよ…。まぁ、ティル、道中の魔物のこと、もっと詳しく教えてくれ。サングロームみたいなの、何匹出てくんだ？」
ティルは杖を地面に突き、顎を撫でた。「んー、ミラージュ・サーペントは霧に化けて奇襲してくるぜ。動きが速くて、毒の吐息が面倒だ、なるべく息には触れないようにした方が良い。サンシャードはサングロームの類似亜種個体の魔物で、触れると幻覚見せる。どっちもサングロームより厄介だけど、俺の杖とお前らの攻撃があれば、なんとかなるさ！」
準備を終えた三人は、隠れ街の門を出て、霧の谷の深部へと向かった。霧は朝よりも濃さを増し、視界は数メートル先までしか届かない。ティルが杖を掲げると、先端の宝石が青い光を放ち、霧を切り裂くように道を照らした。エリスは手形を握り、ネックレスが光と共鳴するのを感じた。信太は短剣を腰に差したまま、ティルの後ろを警戒しながら進んだ。
谷の深部は、岩壁がさらに切り立ち、石畳は苔と根で覆われていた。時折、遠くから低いうなり声や、霧の中で揺れる影が二人を緊張させた。ティルは口笛を控え、杖の光を頼りに進んだ。「ここから先、星脈の試練場だ。幻惑が始まるから、変なもん見てもビビるなよ。心をしっかり持て！」
エリスはネックレスを握り、信太に寄り添った。「信太、もし変な幻覚見ても、私のこと信じてよ。絶対一緒に聖壇まで行くんだから！」
信太はエリスの真剣な瞳を見て、頷いた。「ああ、約束だ。エリス、俺もお前を信じる。どんな試練でも、乗り越えようぜ。」彼の胸の刻印が熱を帯び、まるで星脈の力が彼の決意に応えるようだった。
霧の谷の深部は、朝の光すら届かぬ暗がりに包まれていた。岩壁が切り立つ狭い道を、エリス、信太、ティルは慎重に進んでいた。ティルの杖の先端に嵌められた青い宝石が、霧を切り裂くように柔らかな光を放ち、石畳の苔むした道を照らし出す。エリスは手形を握り、胸元の星の欠片が宿るネックレスが時折温まるのを感じていた。信太は背囊を背負い直し、腰の短剣に手を添え、霧の奥で揺れる影に鋭い視線を向けていた。ティルは軽快な足取りで先頭を歩き、時折口笛を吹いて緊張を和らげようとしていたが、その音も霧に飲み込まれるようだった。
「なぁ、ティル。この霧、いつまで続くんだ？ なんか、さっきから空気が重くね？」信太が低い声で尋ねると、ティルは杖をくるりと回し、ニヤリと笑った。
「ハハッ、霧の谷の深部はこんなもんさ。星脈の力が濃すぎて、空気までドロドロしてるぜ。まぁ、聖壇まであと半日ってとこかな。ビビんなよ、導き手さん！」ティルは信太をからかうようにウインクしたが、すぐに杖を握り直し、霧の奥を凝視した。「…ん？ ちょっと待て。この匂い…なんかヤバいな。」
エリスはティルの変化に気づき、目を輝かせた。「え、匂い？ ティル、鼻いいね！ 何の匂い？ 魔物！？」彼女はネックレスを握り、興奮と緊張で身を乗り出した。手形がほのかに光り、まるで彼女の情熱に応えるようだった。
ティルは杖を地面に突き、宝石の光を強めた。光が霧を押し退け、道の先に広がる岩壁の裂け目を照らし出した。裂け目の奥には、粘り気のある白い糸が絡み合い、巨大な網のように張り巡らされていた。糸の表面には、星脈の力が宿った青い結晶が点在し、かすかに脈動していた。空気には甘く腐臭のような匂いが漂い、霧の中に不気味な気配が蠢いていた。
「うわっ、めっちゃキモい糸！ ティル、これ何！？」エリスが声を上げ、信太の腕を掴んだ。信太は彼女の手を軽く振りほどき、短剣を抜いて構えた。
「ティル、説明しろ。このデカい糸、ただの蜘蛛の巣じゃねえよな？」信太の声には警戒が滲み、胸の星型刻印が脈打つように熱を帯びていた。
ティルは杖を握り直し、普段の軽薄な笑みを消して真剣な眼差しを向けた。「…アラクネゴスだ。霧の谷の深部に巣食う、星脈の力を喰らう魔物。こいつの糸は星脈の結晶を織り込んでて、触れると魔力を吸い取られる。巣の規模からして、聖壇の奴が近くにいるぞ。しかも、俺が見たときよりデカくなってるみたいだ。」彼は杖を掲げ、宝石の光で網の奥を探った。光が届く範囲の先に、巨大な影が蠢くのが見えた。
エリスはゴクリと唾を飲み、ネックレスを握り締めた。「アラクネゴスって蜘蛛なの！？ うわ、めっちゃ嫌い！ でも、聖壇行くにはここ通らないとダメなんでしょ？ ティル、倒せるよね！？」彼女の声は震えていたが、目は挑戦的に輝いていた。
信太はエリスの肩を軽く叩き、ティルに視線を移した。「面倒だが、倒すしかないよな。ティル、そいつの弱点は？ 糸がヤバいなら、近づかずにどうにかするのが得策だろ？」彼は短剣を握り直し、巣の構造を観察した。網は岩壁全体を覆い、迂回するには谷の別の危険な道を通るしかない。戦う以外の選択肢は、現実的ではなかった。
ティルは顎を撫で、杖を軽く振った。「弱点は頭の結晶だ。アラクネゴスの魔力はそこに集中してる。ぶっ壊せば動きが鈍る。けど、糸と毒霧が厄介だ。糸に捕まると魔力吸われて動けなくなるし、毒霧は幻覚を引き起こす。俺の魔術で糸を焼きつつ、エリスと信太で頭を狙うのがベストだな。でも面倒なことになった、この付近まで縄張りを広げてるとは…アッシュヴェイルの仲間で叩けるときに叩いとけばよかったぜ」彼は二人を見やり、ニヤリと笑った。「ま、どうにかなるだろ？お前ら俺の華麗な魔術見て、惚れんなよ！」
エリスは唇を尖らせ、拳を振った。「ティル、頼りにしてるけど調子に乗らないでね？でも、作戦はバッチリ！ 信太、私、糸に気をつけて突っ込むから、援護してよ！」彼女は手形を掲げ、ネックレスが青白い光を放った。
信太は深呼吸し、短剣を強く握る。「了解。エリス、無茶すんなよ。ティル、糸を焼くの頼んだぞ。俺はエリスのフォローと、蜘蛛の動きを牽制する。」彼の声には冷静な決意が宿り、短剣を構えた。
ティルが杖を振り上げ、宝石から青い炎が迸った。炎は霧を焼き払い、巣の外側の糸を焦がした。ジュウッと焼ける音と共に、青い結晶が砕け、星脈の力が霧に溶け出す。巣の奥から、低い唸り声が響き、地面がわずかに揺れた。エリスは手形を握り、信太と背中合わせに構えた。
「来るぞ！」ティルが叫び、杖を地面に突いた。青い光が円形に広がり、三人を守る結界を形成した。次の瞬間、巣の奥から巨大な影が飛び出し、霧を裂いて襲いかかってきた。
アラクネゴスは、馬車ほどの大きさの蜘蛛だった。黒い甲殻に覆われた胴体には、星脈の結晶が埋め込まれ、青く脈動している。八本の脚は鋭い棘に覆われ、地面を抉りながら素早く動いた。頭部の巨大な結晶は、まるで星そのものが宿ったように輝き、六つの赤い目が三人を睨みつけた。口から吐き出される緑色の毒霧が、霧と混ざり合い、不気味な渦を形成していた。
「うわっ、めっちゃキモい！ でも、負けないよ！」エリスが叫び、手形を掲げた。ネックレスが共鳴し、彼女の周囲に青い光の粒子が舞った。彼女は手形を振り、風の魔術を放った。鋭い風の刃がアラクネゴスの前脚を狙ったが、蜘蛛は素早く身を翻し、糸を吐き出して風を絡め取った。
「エリス、突っ込むな！ 糸に気をつけろ！」信太が叫び、短剣を投げた。短剣はアラクネゴスの側面に命中したが、甲殻に弾かれ、火花を散らした。蜘蛛は怒りの咆哮を上げ、毒霧を三人に向かって吐き出した。
ティルが杖を振り、結界を強化した。「毒霧、吸うなよ！ 俺が霧を焼き払う！」彼は宝石に魔力を集中させ、青い炎を扇状に放った。炎が毒霧を焼き、霧が一時的に晴れたが、アラクネゴスは素早く巣の奥に退き、糸を岩壁に張り巡らせた。糸はまるで生きているように動き、三人を包囲するように広がった。
「くそっ、こいつ、頭いいな！」信太が舌打ちし、エリスを背に庇った。「ティル、糸の動き、どうにかしろ！ エリス、魔術は頭の結晶に集中しろ！」
エリスは頷き、ネックレスを握り締めた。「分かった！ 信太、援護して！」彼女の短刀に力が籠められる。短刀はアラクネゴスの頭部を狙ったが、蜘蛛は糸の壁を盾にし、短刀を絡め取った。
「糸、硬すぎ！」エリスが叫び、息を整えた。ティルは杖を振り、炎を糸の基部に集中させた。ジュウッと焼ける音と共に、糸が一部溶け、巣の構造が揺らいだ。だが、アラクネゴスは咆哮し、脚を地面に叩きつけた。地面が割れ、岩が三人に向かって飛び散った。
信太はエリスを押し倒し、岩を回避した。「エリス、大丈夫か！？」彼は短剣を構え直し、アラクネゴスの動きを追った。巣の天井に登り、糸を吐き出して三人を縛ろうとした。
ティルが叫んだ。「糸が来る！ 動け！」彼は結界を解き、杖から青い光の鎖を放った。鎖は糸を絡め取り、蜘蛛の動きを一瞬止めた。「今だ、エリス！ 頭を狙え！」
エリスは立ち上がり、手形を掲げた。「信太、一緒に！」彼女は短刀に集中し、信太も同様にルミエ村へ行く前の森で起きた閃光を再び放った。信太は短剣を握る、すると刻印が徐々に脈を打ち始めるのを感じる。刻印が光り、彼の動きが一瞬加速し始める。彼はエリスの短刀と自分の短刀をアラクネゴスの頭部に投げつけた。
短刀が同時に頭の結晶に命中した。結晶に亀裂が走り、アラクネゴスが悲鳴を上げた。青い光が爆発し、蜘蛛の動きが鈍った。だが、蜘蛛は最後の力を振り絞り、毒霧を広範囲に吐き出した。霧が三人を包み、幻覚が襲いかかった。
瞬間、信太の視界が歪み、霧の谷が消え去った。
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