『やちよ』とケイ・撃ッ退!・答え合わせ1
わたしはとっさに、黒田君を庇って前に立つ。
「『やちよ』さんッ!」
遠心力で振り回され、頭に全部の血液がたまったかのように感じた。
白い糸に身体を拘束され、逆さまに吊り下げられる。足首、手首、腹部に胸部、ついでに首も絞められて苦しい。
しかし糸の主は、楽に死なせるつもりはないのだろう。暗い奥から、やがて月光に照らされた中央まで姿を現した。
――いや、姿を現したのは、頭だけだ。
吊り下げられて、見下ろして分かった。そこにいたのは、真っ赤な大蜘蛛だった。血を体現したような蜘蛛は、わたしたちが認識できる空間いっぱいに存在した。地面は、実は胴体や足の一部に過ぎない。足が動く度に、血の河のように波打っている。
こういう地獄絵図あったなあ、なんて、のんきなことを思った。
「あー……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
一応唱えてみては見たものの、牛鬼はひるむことはない。やはり、念仏では倒せないタイプの牛鬼か。それともわたしの棒読みが原因か。もしくは宗派が違うか、「南無妙法蓮華経」だったのか。
頭は牛と言うより、人の顔に近い気がする。──そりゃそうか。元は人だ、この『蜘蛛』は。
蜘蛛はカチリカチリと牙を嚙合わせた。だが覗かれる口の奥は、蜘蛛というより、人間の奥歯だ。
大きく口が開かれる。腐った卵のようなにおいが、むありと漂った。
その中でわたしは、圧迫されたお腹でなんとか大きく息を吸い込んで、吐き気と苦しさをなんとか堪えながら――思いっきり叫んだ。
「殺すなよ――――‼」
月が、一瞬消える。
丸い夜空から、何かが降りてきて、蜘蛛の顔はその何かの影に隠れた。
それはスカートをたなびかせて、落ちてくる。
絡んでいた糸がザシュン! と切れて、わたしはそのまま空中を舞う。その時、身体を抱えられて、蜘蛛の胴体の上に落ちた。
「――っしゃあケイ! ナイスタイミング!」
「またやっかいな注文つけたな……」
わたしが親指を立てて褒めたたえると、はあ、と、わたしを横に抱えて降りたケイが、ため息をつく。
オールバックの髪に、厳つく無愛想な顔。目は鋭く、強い光を放っている。赤と黒のスカートから覗く足は、揺れる蜘蛛の胴体でも動じない。
今は普通の腕だが、あのやっかいな糸を切り、わたしを助けたのは、ケイの爪だ。
「だ、大丈夫かー⁉ 『やちよ』さーん!」わたしたちより数メートルほど後ろにいる黒田君の声がした。
「あ、黒田君! 大丈夫!」
蜘蛛はこちらを見て呆けていたが、再び口をこちらに向けた。だが。
蛇ににらまれた蛙のように、一瞬で動かなくなった。
横抱きされたまま、わたしは蜘蛛を見ながら言う。
「おおー。さすがはケイ。『にらみつける』攻撃、効果は ばつぐん だ!」
「つっこむ時間ないから、手短に聞くぞ。――八蝶。どういうことだ」
わたしの名前を呼びながら、ケイが尋ねる。
八つの蝶と書いて、八蝶。それがわたしの名前だ。
そしてこの男はケイ。退治屋組織『黄昏堂』の戦闘員である。
「今北産業で言うと、『怪談はインスタント』『怪談は被害者』『怪談はバトルロワイアル』」
「特に理由がないなら殺すが」
「あの蜘蛛は人間! どっかのバカ術士が被害者を使って怪談の依り代にして、学校の鏡の世界で『蠱毒』を行ってたみたいだから殺しちゃダメ!」
こんな乱雑な説明でもなんとかなるようで、なるほど、とケイは頷く。
「つまり、勝ち残った人間は出られる代わりに、『呪物』にされると」
「多分確実にそう!」
確かに蠱毒は、唯一生き残ったものだけが出られる。しかし、蟲の勝敗とは弱肉強食、相手を食べ尽くすことだ。相手を殺して生き残った奴は、負けた奴全員を取り込んで別物になる。――つまり、ここでケイが蜘蛛を殺してしまった場合、ケイは蜘蛛と合体してしまう。
幸い、今までの怪異との遭遇で、蠱毒を抜け出す方法もわかっている。わたしが出会った怪異たちは、途中でキレてピアノの演奏をやめても、転ばされてバラバラになっても、プチプチを投げられても、依代だった被害者たちは生きていた。
そう、怪異自体は殺さなくても倒せる。
「要するに戦意喪失に持ち込めばなんとかなると思うんだけど、調査員、なんか言ってた?」
「いや。だが、局長から連絡が来た。牛鬼は、西牟婁郡タイプだと」
「へえ⁉」
ここは九州なのになんで西牟婁郡タイプがいるのか、それはさておき!
はっきりタイプが分かれば、やることは一つ。西牟婁郡タイプに有効な呪文を使えばいい。
「『石は流れる』……は、軽石だったら流れるわな。『木の葉は沈む』……川底にたまってるわな。牛も馬もほとんど見ないし」
あれ、伝承に伝わってるの、使えなくない?
「えーと、『石に漱ぐ』『流れを枕にする』!」
「漱石か」
「ケイもなんか言って、逆の言葉!」
西牟婁郡の牛鬼は、現実とは逆の言葉を言うことが対処方法となっている。この方法が使えるのは、西牟婁郡だけだ。
「『犬はニャア』、『猫はワン』ッ! えーと、『綺麗は汚い、汚いは綺麗』! あ違うこれ『マクベス』だ」
「『八蝶は食べた後皿を洗う』」
ケイが言った途端、明らかに牛鬼の様子が変わる。――ちょっと待て。
「はぁ⁉ 洗う時は洗いますけどぉ⁉」
「喧嘩しないでお二人さん‼」後ろから黒田君の叫びが聞こえた。
「牛鬼の態度がすべてを説明してるだろ。――『八蝶は部屋を掃除する』」
さらに牛鬼の様子が変化する。
目はおろおろと泳ぎ、口はどんどん閉じていく。身体の色も、錆びた赤色から、ゆでられたカニのように鮮やかになっていく。
「はあああ⁉ それがアリなら、じゃー『ケイは愛想がいい』!」
「『八蝶はご飯の時すぐに部屋から戻って来る』」
「それはあの、……ごめん!」
ついついゲームが面白くて、呼ばれてすぐに来ないの、ホントごめん!
こうしてわたしたちは、逆の言葉という名目でお互いの悪口と言うか要望を牛鬼に介して言い合っていると、牛鬼はどんどん小さくなっていった。
その内容はあまりにくだら長すぎなので、巻きでいく。
ガシャ。
周りを囲んでいた壁は、素焼きの壺を割ったかのような音をして砕けた。立っていた地面は、赤い蜘蛛の胴体から屋上のコンクリートに変わっていた。
小さくぽっかりと空いていた夜空は大きく開かれて、下弦の月がこちらを見下ろすように真上にあった。
「よっしゃ撃退成ッ功‼」
「え、マジで退治できたん⁉」
「いや、これは退治したわけじゃなくて、ひるませただけ。でもそれで十分」
煙のようなものが、屋上の床を覆い、そして消えていく。
煙が晴れ、月光によって照らされたのは、小さな生き物だった。
コンクリートの上に寝ていたのは、蜘蛛ではなく、猫の身体をした、尾の長い生き物だ。
「……それが、『蜘蛛』の……牛鬼の正体なのか?」
黒田君が、おそるおそる言う。
どうやら、先ほどの姿は幻術で、被害者は本来この姿に変えられていたらしい。
西牟婁郡の牛鬼は、猫のような体に長い尾を持ち、身体は鞠のようにやわらかいため、足音がしないのだという。確かに、牛鬼の戦いにしてはおかしいほど、静かな戦いだった。おおよそ牛鬼は災いを運ぶ時、わざわざ轟音でお知らせしてくるパターンが多い。久留米の牛鬼なんて、鐘鳴らすし。そこに気づかず視界ばかり気が囚われてしまうとは、わたしもまだまだだ。
わたしはケイに目配せをすると、ケイは無言で地面を蹴り上げ、屋上から去った。
常人離れした動きに、黒田君が目を丸くする。
「……あの人は? 突然空から落ちてきたけど」
「うちの戦闘員。わたしに何かあった時のために、校舎の外にいてくれたんだ」
わたしの杼の糸で、屋上に出口があることに気づいてくれたようだ。
……わたしのフォローに回ることが前提とはいえ、被害者に幻術をかけられていた、ということは、近くに術士、もしくは、術を遠隔操作するための中継となる何らかの媒体があったはずだ。すぐにケイが探しに行ってくれたが、もう既に逃亡している、もしくは媒体が壊されている、と考えていいだろう。痕跡は探れないかもしれない。
ちょっと痛いなあ、なんて思いながら、わたしは猫を抱えて、黒田君に言った。
「恐らく教室の糸も解けて、被害者たちも無事に元に戻っている。最後の被害者は、これに姿を変えられているから、術を解けば、家に帰すことが出来るよ」
「ホントか⁉」
そう言って、暫く俯いた後、黒田君は座り込んだ。
よかった、と、蚊の鳴くような声で、彼の安堵した声が聞こえる。
その安堵の様子に、わたしは思わず笑みがこぼれる。
猫のような姿になった被害者を抱えたまま、しゃがみこんで、黒田君に言った。
「そうまでして、夢原さんの父親を助けたかったんだね」
その言葉に、黒田君は顔を挙げた。
「……それも、部長から聞いたのか?」
「いいや。夢原さんは知らない」
わたしがそう言うと、明らかに黒田君は安心した。じゃあなんで、という言葉に、わたしは説明する。
「わたしが気づいたのは、袴田先生の顔写真を見た時。耳の形が、夢原さんと殆ど同じだったからさ」
耳の形は、親とよく似ることがある。
そう言ったわたしの言葉をうけて、科学捜査班が動いてくれた。おかげで、DNAレベルで確定することが出来たわけだ。――言っておくが、ちゃんとした手続きを取って行っている。一応うちの組織は、警察と連携して科学捜査することが出来るのだ。何せ非科学的な事件も、警察の元には来るので、そういう時は黄昏堂が捜査を担っている。
夢原さんと袴田先生の苗字が違う上に、夢原さんは「父親は知らない」と言っていたから、複雑な事情があるのだろう。
「君は、このままだと最悪な形で、夢原さんと袴田先生の関係が暴かれてしまうと恐れた。だから夢原さんを守るために、こんな強硬手段に出た。どう? この推理」
推理というより野次馬根性だろ、と、脳内の調査員に突っ込まれた気がしたが、多分気のせいだろう。いいじゃん。好きな人のために頑張れて何が悪い。
「……袴田先生の個人情報、結構流れてたから。遅かれ早かればれるだろうな、って」
「化け物より怖いな。個人情報流出」
&匿名による誹謗中傷。
しかし、困った。
「わたしたちの仕事は妖怪退治の他に、それに関する事件の秘匿性を守ることなんだ」
特に教育機関で起きた怪奇事件は、絶対に『妖怪のせい』と公表してはならない。
つまりこのままいくと、袴田先生が犯人に仕立て上げられることも考えられる。
「……そうだよな」
黒田君はポツリと言った。
「妖怪のせいとか公に言えるんだったら、俺も部長も、あんたらに依頼することを躊躇わずにすんだもんな。非科学的なことだし」
「まあでも、黒田君が無事に家に帰ることが出来れば、それも変わるかも」
「え? それってどういう――」
首をかしげる黒田君に、わたしはこう言った。
「まだとぼける気ある? 『七不思議』の第一位、『踊り場の鏡』さん?」