「記号的」な美しさ/PM11:00 ホテル
その声を聞いて、ケイと陽彦くんは飛び跳ねるようにわたしとサトシの前に立った。
ケイの右腕が、風船のように一瞬膨らむ。――腕は緑かかった黒い鱗に覆われ、さっきの手よりも広がった手には、鉤爪が鋭く光っていた。
陽彦くんの手元に、蛍のように白い光が集まる。その光は、棒状になって実物になった。山伏や法師が持つ錫杖だ。シャラン、と遊環が鳴った。
わたしとサトシは、二人に遅れて、空を見上げる。
どの店の看板より高い電柱の上に、その声の持ち主は立っていた。
日はすっかり落ちて、赤い空は空と陸の間に一線引いていた。その線をぼかすように、黄色い空が星空に溶け込んでいく。
黄色い空を覆う建物や山は、一段と黒い影を作っていた。
そのため街は暗く、随分街灯に満ちていて、彼女の白い顔を下から照らす。
声の持ち主は、黒を基調にしたスーツを身に纏った女性だった。ビルドアップショルダーは、彼女の肩幅を華奢に見せる。ネクタイもリボンもつけておらず、襟元から覗く胸元はシャツのしわを強調し、ジャケットやシャツで隠されていても、胸の豊満さを表していた。ウエストはくびれを強調し、タイトスカートは腰の幅と太ももを強調する。
人工的な光を弾く艶やかな唇は、何かを食べたくて仕方がない、というように薄く開いていた。その左下には、小さなほくろがある。長い睫毛を称え、街灯を閉じ込めた瞳は、わたしたちを侮蔑したように見下ろしていた。
妖艶さ、という意味では、姫ちゃんと似ているだろう。
だけど、美しさの本質が違う。
たった今、気づいた。
姫ちゃんは原始的な、自然から生まれた美しさなのだ。だがこの女性は、人によって作られた美しさだ。社会を支配しながらも、社会から憎まれるような、「記号的な」美しさ。
特に、物語では必ず、「妖艶な毒婦」の役だとわかるような……。
ゾクリ、と、肌の裏にある何かを掻き立てられる。
鉛筆でグルグルとかいたような黒い落書きが、身体の中で暴れて搔いているような感触……。
その人は、うっとりと目を細めて、口の端を釣り上げた。
「『黄昏堂』のみなみな様、ごきげんよう。調子はいかが?」
「あなたが……『女の蜘蛛』?」
何か良くないものに身体を支配されているのを実感しながら、なんとか声を振り絞り、彼女に尋ねる。
だが、尋ねてみてから、自分の質問に違和感を覚えた。
この人は、恐らく妖怪だ。邪気と妖気を感じる。
わたしの心情に気づいたのか、女はさっきと違い、子どもに向けるようににっこりとほほ笑んだ。
「人に尋ねておきながら、疑心と期待に揺れ動くその目、大変気に入りました。お答えしましょう。――『NO』、でございます。わたくしは『女の蜘蛛』ではございません」
ですが、と女は言った。
「予言の真犯人であるか、という問いには『YES』でございます。わたくしがすべての元凶。棚機津女伝説に見立てるために、インターネットで人間を集めて怪しげなアプリを差し上げ、今まさに『女の蜘蛛』を生み出そうとしている、悪い妖怪でございます。
見事な推理です、八蝶さま。感服いたしました」
パン、と手を叩いて、女は微笑んだ。
「わたくし、一から十まで説明して差し上げないといけない愚昧な方は、男女問わず嬲って塩漬けに差し上げたいほど好きなのですが――あなたのように、答えがわかっていながらも愚直に尋ねる方も、好意的に思います」
その姿さえ切り取れば、まるで子どもを褒める保育士のようだ――綺麗に塗られた唇の端は、釣り上がったままだが。
この妖怪は、わたしの名前も、わたしがお寺で話した内容も知っている。
読心術か、使い魔系のもので盗聴していたのか? あのお寺の結界を、誰にも悟られず潜り抜けたのなら、かなり術に長けた妖怪だ。
それとも……。
「その男も、儀式の材料として招いていたのですが、まさかまさかの『誓約』状態。しかもしっぽりと陰の気に支配されている――一体、どんな女妖怪に誑かされたのやら?」
再び邪悪な笑みを浮かべる女だったが、
「……大分頭のおかしい女妖怪のようですけど」
と、拗ねたように唇を尖らせる。
途端、毒婦から、わがまま盛りで純真な姫君のようにも見えた。
なんだろう、この違和感。印象がすごく、つぎはぎだらけだ。
昔、3Dメガネを掛けて楽しむ映画を見た時、メガネを掛けずに映画を見たことがあった。その時の、緑の枠と、赤い枠が激しくぶれたままの映画の感じがする。
「まあいいです。陰の気で満たされた上に、下半身もない男など、鐚銭の価値もありません。というわけで」
パチリ、と鳴らされた指の先は、つやつやの桜貝のような色をしていた。
その音とともに、突風が背後から吹く。
突風が止んだ瞬間、彼女が差し出した手のひらの上には、男の生首が添えられていた。
「こちらで処分いたしますね? どうせその男、生産性が無くて、ゴミでしょう?」
そう言って微笑む姿は、あまりに無垢で、清純な花のように綻んで。
だからこそ、言葉の残酷さが際立った。
そうしてあっさりと、その男の生首は、妖怪によって蒼い火に燃やされつくした。
ぞくり、と背中を撫でられる。
人の頭を、あっさりと燃やしたことに恐怖を抱いた? ……違う。
そんな行為すら、「美しい」と思ってしまった自分に、だ。
「さて――お分かりでしょうが、あなた方には時間もなく、実力もなく、頼れる味方もございません。このあまりにアンフェアな状況、さすがのわたくしもそれなりの慈悲を見せたくなるほど。と言うわけで、ヒントを差し上げに、」
ヒュンッ。
嗤っている彼女の頬を、何かがかすめた。
ふっと、わたしの身体で暴れていた何かが収まる。
「……」
彼女の視線が、自分の右頬に移る。
白い陶器のような肌には、今の空のように、赤い一線が引かれていた。
「即刻立ち去れ。獣の化生」
ギイイ、と建付けが悪い扉を開けるような音がした。
わたしの前に立つ陽彦くんは、持っていた錫杖を弓に変えて、番えた矢を妖怪に向けていた。
「……いい覚悟ですこと。狗が」
細い眉が釣り上がった途端、彼女の虹彩が金色に輝き、昼間に歩く猫のように細くなる。
大きく開いた口は耳元まで裂け、中からはギザギザとした歯がむき出しになった。が、それも一瞬で蒼い炎に包まれた。
「それでは、八蝶さま。まずはわたくしの正体を言い当てて見てくださいまし。
願わくば、白い象の道が見える夜明けに、お会い出来ることを……」
その言葉だけを残して、彼女の姿は蒼い火とともに消えた。
■
ホテルの部屋には、大きな窓が二つ。カーテンは閉めていなかったため、浜辺の様子がよく見える。ガス灯を模した街灯は、夜の海をよく映していた。
窓の傍には、二つのベッドがある。
窓際に近いベッドに寝ていた陽彦くんが目を覚ましたのは、23時だった。
「あ、起きた」
「⁉」
陽彦くんが、慌てて飛び上がろうとする。が、なかなかその場から動けなかった。わかる。ホテルの布団って重いよね。
「あの妖怪は⁉ ここは⁉」
「海に一番近いホテル。あの後、妖怪の『呪い』を受けて倒れたんだよ、君」
あの妖怪の『笑い』は、『呪い』の一種だ。妖怪の中には笑い声か笑顔を見せて、人を病気にしたり死なせたりするタイプがいる。
陽彦くんとケイは、わたしたちの目の前に立っていたので、その『呪い』を一身に引き受けてくれた。そのため、モロに食らった陽彦くんはその場で倒れてしまったのだ。
「……申し訳ございません、修行不足です。皆さんを危険な目に遭わせてしまいました」
「いや、命を助けてもらったのはこっちだよ」
多分、あの時陽彦くんが弓矢を放ってくれなければ、そのまま『呪い』でわたしたちは全滅していただろう。
あの妖怪が喋っている時点で、わたしたちは既に別の呪いが掛けられていた。「攻撃するな」という呪いを。それを陽彦くんの弓矢が跳ねのけたのだ。
弓の弦は『鳴弦』と言って、弦を鳴らすこと自体に魔除けの効力がある。そして矢は、妖怪退治の武器として扱われる。彼が弓を鳴らし矢を放ったことで、「攻撃するな」という呪いも、あの笑いの『呪い』の効果も、半減されたのだ。
「とはいえ、わたしとサトシが受けたら直死だったし。君たちが引き受けてくれたから、こっちは無傷でホテル探せたわけだし。感謝しかないよ」
「お二人は? サトシ殿と、ケイ殿は?」
「サトシは隣の部屋で寝てる。一人で過ごしたいんだって。ケイは、一人で調査を続けてる」
「え⁉ ケイ殿も、私と同じく『呪い』を受けてますよね⁉」
陽彦くんが驚くのも無理はない。
幼いころから修行を積んでいる陽彦くんだからこそ、あの『呪い』をこの程度で済ませることが出来たわけで、他の人なら三日は寝込んでいる。まあ、局長なら寝込むことはないかもだけど。
だがケイは、わたしと一緒に11歳の頃に『黄昏堂』に入った。それまでは修行どころか、妖怪の存在も知らなかった。それなのに、陽彦くんよりピンピンして動いている。
「ケイは、龍蛇の〈憑き物〉だから。……特に『蛇』の部分が、自分より弱い『呪い』を食うんだよ」
「……『蟲』の特性ですか」
陽彦くんの言葉に、わたしは頷く。
久留米の牛鬼の事件では、学校の怪談を使った『蠱毒』の儀式が行われたが、本来『蠱毒』は、閉じ込められた蟲たちの殺し合い……食べ合いである。他の生き物を食べつくし、最後に残った最強の一匹を呪術に使うのだ。
『蟲』の特性は、呪いの「食べ合い」。
ケイの『蛇』、つまり『蟲』の特性が、半減された『呪い』に打ち勝ち、食べたのである。
「だから逆に元気が有り余ってるらしくて、色々調べて貰ってる。京都にいる局長たちも、夜明け前までにはこっちに着くって言っていたから、わたしたちはここで待機」
「そう、ですか。あの、温泉街の川辺にあった小屋は?」
「あー……行ってみたんだけど、入れなくなった」
二人の助けに入るまで、わたしとケイが見張っていたあの小屋は、結界で現実世界から次元をずらしていた。『黄昏堂』と同じで、普通なら入れない場所にある。それを陽彦くんの案内によってわたしたちは入ることが出来た。
だが、あの黒幕と思われる妖怪は、わたしたちの目の前から去った後、場所を『変更』したらしい。パスワードを変更されたようなもので、わたしたちには辿り着けなくなっていた。
「一応、〈ソメさん〉の糸で、場所を辿れなくはないんだけど」
『止めておけ。あそこに入れたとしても、出られる保証はない』
「……だ、そうです」
「私がその結界内に入り、内側から破ることは、」
「もし場所にたどり着けたとしても、人質がいるんだ。一人で全員を解放させることは出来ないよ」
確かに、結界に特化した術士である天狗なら、あの結界に侵入することは可能かもしれない。
だが、あの小屋は儀式の中心。そこには、儀式に使われている人間が複数いる。これはケイが教えてくれたことだ。
あの時、ケイが小屋の前で言いよどんだことは、……出産の前に必要な男女の行為が始まっていた、ということだった。
そりゃ言いづらいわ。そもそも今回は『水の女』の『棚機津女伝説』に見立てた『出産』の儀式。「神の妻」というのがどういうことか、わたしがすぐに思いついておけばよかったなあ。
だけど、儀式には決まった数が必要だと、以前久留米の学校で、『鏡』が教えてくれた。
「あの生首の男が儀式に使われる予定だったなら、数が足りない『儀式』は頓挫するはずだけど……」
「……あの妖怪のことです。それも想定しているでしょう」
「陽彦くん、やっぱりあの妖怪の正体がわかっているんだね?」
わたしがそう言うと、「八蝶殿もお気づきなのでしょう?」と陽彦くんが言う。
「陽彦くんがあの時、弓矢を放ってくれなかったらわからなかったよ。でも君は、わたしより先に気づいていた」
「直感です。当たってほしくないと思いながら、確かめずにはいられなかった」
あの妖怪は、と陽彦くんは言った。
「『白面金毛九尾の狐』。『玉藻の前』の名で知られる妖狐でしょう」
「……ネームバリューに文句のない妖怪だなあ」
『白面金毛九尾の狐』。鳥羽上皇の寵愛を受けた『玉藻の前』は、仏教を始めとしたあらゆる知識に精通し、弁論に長けた、美しく賢い女性だった。
その正体は、千年も生きた妖狐。天地開闢とともに生まれ、中国の紂王の后・妲己、インドでは斑足太子の后・華陽夫人として生き、その色香と才能をもって権力者を操り、残虐に人を殺し、国を滅ぼしたと言われている、壮大な設定を持った妖狐だ。
そう、設定。当時の人から語り継がれてきた話ではなく、最初から後世の創作だと分かり切っているおとぎ話だ。
そのモデルは、平安時代を終わらせた保元の乱・平治の乱の元凶とされる、藤原得子とも言われている。
『玉藻の前』伝説は、南北朝時代の史書『神明鏡』に登場したあと、御伽草子で広まり、江戸時代になると沢山の設定が付け加えられ、庶民の間で大流行した。
しかし長く語り継ぐことでその形を成し、逆説的に「史実」になる妖怪は存在する。嘘から出たまこと、ならぬ、「創作から出た歴史」、というのだろうか。現代人の感覚に当てはめるなら、大河ドラマの感覚に近い。後世の人が作った物語と分かっていながら、そこで起こったことは史書にはなくとも歴史的事実として見る。『玉藻の前』の伝説も、それに当てはまるのだろう。
まあ、室町時代や江戸時代に登場する多くの妖怪は、『御伽草子』や絵巻によって生まれてきたわけだけど。
わたしが彼女が『玉藻の前』だと気づいたのは、陽彦くんが弓矢を向けた時。陽彦くんに向かって、『狗が』と吐き捨てていた。
天狗は「天の犬」という意味だ。いつの間にか鼻が高く、山伏に羽を生やした姿に変わっていったが、本来は空を駆け抜ける犬、つまり「流れ星」を意味する言葉だったらしい。
伝承に残る多くの妖狐は、犬を最も嫌う。その名前に反応したのだろう。
後は、彼女が最後に残した、『白い象の道』。
「タイじゃ天の川は、『白い象の道』と言われてるんだって。玉藻の前にも、天の川に言及する話があったよね」
「『玉藻の草子』をお読みになっていたのですか」
「一応、目は通してた。あんまり読めなかったけど」
現代も様々なゲームの登場人物として扱われているが、その原本の物語はあまり知られていない。わたしも『浦島太郎』や『桃太郎』、『鉢かつぎ姫』みたいに、絵本や紙芝居では読んだことがないな。
ちなみに天の川の話は、鳥羽上皇に溺愛されるきっかけとなる玉藻の前の「博識さ」と「弁論の才」を描いたエピソードの中にある。
色んなエピソードを読んだけど、彼女はすごく頭がいい。医術にも哲学にも宗教にも長けているし、何より人心掌握術がすごい。どうすれば人を動かしたり縛ったり出来るかが、よくわかっている。あと、他人の心とプライドの折り方もよくわかっている。SNSや学会、裁判所で敵にしたくないタイプだ。
『黄昏堂』や英彦山の烏天狗の動きを把握し、あらゆる伝承を以って儀式を仕立て上げ、更にはアプリを作ってSNSで人を集めた。これをやってのけているのだから、間違いなく天才だろう。
だからこそ、気になった。
「あのひと、自分の正体を言い当てろ、って言っていた。『玉藻の前』の伝説は、必ず正体を言い当てられてから退治されるのに」
逆に言えば、正体を言い当ててしまえば、彼女はそこで詰む。それなのにわざわざヒントのようなことを言い残し、挙句の果てに『言い当てろ』と言った。
……何か、意図があるのかな。
「八蝶殿。あまりあの妖に心を割かぬよう」
険しい顔で、陽彦くんは言った。
「あれは化生。人を騙すために生まれ、人を誑かせるために存在します。ですから」
「わかってる。……わかってるよ」
妖怪は、知名度が高い分、妖力が強い。
さらに九尾の狐は、人心を惑わせる妖怪として知られている。考えれば考えるほど、彼女に足元をすくわれるだろう。
例えそれが、男たちに「全ての滅びの元凶」として押し付けられ、教訓と物語によって玩弄され続けた妖怪だったとしても。
迷っては、いけない。




