ケイ視点 〈憑き物〉の在り方
洗濯物を干していたら、八蝶の部屋から物音がした。
部屋の持ち主の許可なく、ドアを開ける。
クローゼットやタンスからは服が散らばり、皺だらけになったものもあれば、無残にも千切れたり、爪で引き裂かれている。
本棚からは本が落とされ、広げられたページは変な折り目がついたり、紙吹雪となっていた。
おれに気づいたのだろう。たった今、枕を引き裂いていたヒビキが、こちらを振り向いた。羽を口にくわえる姿は、野鳥を捕った猫のようだ。
おれは床に散らばったスカートや漫画本を避けながら、ベッドの上にいるヒビキに近づいた。
「……ヒビキ」
ヒビキの視線に合わせて、おれは膝をつく。
「そんなことをしても、八蝶は、怒ったりしないぞ」
出来るだけ優しい声になるよう、ゆっくり喋る。
親や先祖がわからない〈血族〉や〈憑き物〉――特に〈憑き物〉は、虐待されて育ってきた子どもが多い。特に身体が変化するタイプは、「化け物」と呼ばれて当然、という意識がある。『黄昏堂』に引き取られた後暫くすると、モノを壊したり、暴言を吐いたり、暴れたり、喧嘩が増える。
だからモノが壊れることには、皆慣れているのだ。本当に大切なモノを壊されたら局長に修繕を頼めばいい、という余裕が、団員にはある(過酷な労働環境だな、局長……)。
憂う点と言えば、ケガをしたら危ないという、その程度だ。その点ヒビキは、ガラスを割ってはおらず、布や紙に留めていた。紙で大きな目を切っていないことにも安堵する。
こうやってモノをわざと壊し、相手の態度をうかがう行動を「ためし行動」と言うらしいが……恐らく、ヒビキは違う。確信があった。
「ここにいる奴らは、お前にどんな嫌がらせをされても、お前を殺すことはない」
ヒビキは、殺されたがっている。
今まで、「死んで当然」だと、「生かしてやっているんだから役に立て」と言われてきた存在だ。
それなのに突然、ただの子どものように扱われて、人間のように扱われて。
「……辛いだろう。お前にとって、ここは。お前の幸せを願う人たちばかりだから」
何もしていないのに、ゴミもガラスも毒も入ってないご飯が食べられる。何もしていないのに、綺麗な服が着られる。何もしていないのに、クーラーのよく効いた涼しい部屋にいられる。気まぐれに殴る奴もいなければ、難癖付けて怒鳴る奴もいない。
――その優しいものを受け取るたびに、わけもわからないまま惨めになり、過去が後ろめたくなる。将来が不安になり、無性に悲しくなる。
世界が違う。優しさがなくても、生きていけた。少なくとも呼吸ができて動けるぐらいには。
暴力を振るう人間に従えば、生きていけた。なのに今までわかっていた基準が、突然なくなって放り出された。なにかのせいに出来ないぐらい、眩しいほどの善人に、ひたすら心をかき乱される。
その惨めに感じる心を、八蝶は無意識に踏みにじっている。想像することなんて出来ないだろう。
幸せであることが、悪いことなんて思うはずがない。
八蝶を責めているわけじゃない。まともな大人に愛されて育った人間には、共感はおろか、想像すらできないと言うことだけだ。
もちろん、八蝶をそう断じるおれも、ヒビキの境遇を完全に理解できるわけじゃない。
おそらくヒビキが向き合わなければならなかった現実は、おれの現実よりもはるかに過酷だ。
『そうかい。――それは、大人のエゴだね』
……昔話を思い出す。
以前、マッチ売りの少女の話をした時、八蝶が言った「大人がお金やご飯を与えて、子供として引き取ったら、こんなことにはならなかったのに」という言葉に、八蝶の母親が言った言葉だ。
八蝶は父親と長く暮らしており、おれも世話になっている。一方八蝶の母親は、海外のあちこちを移動して仕事をしているらしく、数回ほどしか会ったことがない。
だが、あの時窓際で語る彼女は、忘れようにも忘れられなかった。
『食べ物を与えれば、お金があれば幸せになれる、なんて──地獄を見ていない人間にしか言えないことだ。
マッチ売りの少女はね、死ぬしか幸せになれないと思うよ』
その喋り方は冷淡だと言い切ってもいい程で、とても一般的な母親が子どもに言う言葉には聴こえなかったからだ。
だが。今思えばあれは、現実をよく知った人の優しさだったのだろう。
家から追い出され、あるいは逃げてきた子供。放り出された路上で、何が悪いのか、何を信じていいかもわからず、人の良さそうな大人たちに否定され、傷つけられ、騙されて。
ただ、後ろ盾のない子供ということだけで、大人にゴミを投げつけられ、遊び半分でナイフで体を傷つけられ、犯罪組織の手先にされ、体を外も内もまさぐられ、犯された。
その中を生きるために盗み、人を傷つけ、銃やナイフで壊して殺して、麻薬を売り、麻薬に手を出し、身体を売ったり買ったりする。ますます大人たちは、彼らに対して不快さを隠さない。
彼らのやっていることは犯罪で、子供たちにとっては不幸な環境だろう。だがそれが彼らの故郷であり、日常だった。
そうやって無垢のままでは生きていけなかった子どもたちが、突然価値観の違う世界に放り投げられる。
勿論、やり直したい、生まれ変わりたいと明るい未来を期待して入った子供もいるだろう。
だが、今までいた環境を「汚い」「可哀想」「間違い」だと否定され、かろうじて自分で見つけた繋がりや関係を「せっかく抜け出されたのにまた非行に走られてはたまらない」と破壊されて、「そんなのことも出来ないのか」「なんでわからないのか」「何度言ったらわかるんだ」と、ハンディキャップに共感できない大人たちに、善意で踏みにじられてボロボロになって。
またスラムに戻り、臭う服を着て、薬漬けになって、アルコール中毒で嘔吐しながら、雪が降り積もる寒い路上にある不法投棄のゴミの中で死んだ。
それを見た大人が、
「また一人街のダニが死んだ」
と嗤う姿を、
「あれだけ助けてやったのに、厚意を裏切りやがって」
と怒る姿を。
彼女は、知っていたのだ。
『子どもは何の苦労も心配もいらない、無垢で無邪気で清らかで、将来があって大人に守られて幸せな存在……そういう枠に押し付けて、大人は綺麗だの美しいだの感動に酔うために、子供を使うんだよ。ポルノと大して変わらない』
マッチ売りの少女は、なぜ盗まなかったのだろう。本当に生きたかったのなら、理不尽で冷酷な大人たちの言うことに従うより、あるいは法や神様に従って清く正しく生きることよりも、選べたはずだ。
あるいは、地元のストリートチルドレンと結団して、大人たちと戦争をすることも考えられたはずだ。
なのに、どうしてそうしなかったのか。
生きることは、奪い、搾取し、殺して、貪ることだ。どんな身分でも、どんな場所でも、誰もがそうして生きているし、大抵の人はそこから目をそらして生きている。
マッチ売りの少女は、それをしたいと思えるほど、「生きたい」と思わなかったのだろう。
森を伐採して出来た大量の薪の火も、家畜から奪った命で出来た豪華な晩餐も、──それがマッチの火が見せてくれた幻想だとしても、彼女は幸せだったに違いない。
幸福に生きれば生きるほど、付きまとう後ろめたさも罪悪感もないまま、愛する祖母の元へ行けた少女。
これ以上の地獄を見ることなく、マッチ売りの少女はきれいな無垢のまま、微笑んで死ねたのだろう。
「……これを片づけたら、食堂行こうか」
ヒビキにそう言う。
おれの能力は、戦闘に特化したものだ。局長のようにモノを修繕することは出来ない。爪で破壊し、毒を撒き、炎を吐き、雨を降らせる能力。災害を形にした蛇の〈憑き物〉だ。
だけど、妖怪じゃない。
『君は、人だろう。――人だと言え!』
泥まみれになりながら、全身傷だらけになって、血が水に溶けて流れて行っても、必死に手を伸ばしてくれた奴がいる。
あれから、掃除も洗濯も料理も出来るようになった。
人だから、他のことが出来る。生きているのなら。
だから、どんなことをしても生きていたい。目の前の存在にも、そうやって生きていて欲しい。
何をどうすればわからない。ヒビキをただ苦しめるだけかもしれないが。
『だからね、八蝶。ケイ。君たちは――自分のために、生きなさい』
あの後、八蝶の母親はそう言った。
『誰かに綺麗だと思われなくていい。卑怯なことをして構わない。そんなの、誠実であろうとする人間なら必ず裏についてくるんだ。役に立つこともしなくていい。価値も自分を中心に考えなさい。じゃなきゃ、他者の価値の重みはわからない』
八蝶の母親は、人差し指を立てて、いたずらっ子のように口角を上げた。
『私との約束はたった一つ。……自分のしでかしたことは、ちゃんとしっかり、後悔することだよ。ああ、死にたくならない程度にね?』
「今日は、人が少ないらしい。八蝶も出かけている。お前の好きな、佐藤さんに会えるよ」
暫くヒビキは動かなかった。おれもそこから動かなかった。
「……梅ときゅうりの和え物、好きだろう」
おれの提案を飲んだわけではないのだろうが、その言葉をきっかけにヒビキの腰が上がった。ベッドのスプリングを利用して、音もなく軽やかに跳躍する。
おれが腕を伸ばすと、ヒビキの長い身体がすっぽり収まる。まるで固まる前の茶碗蒸しかプリンだな、と思った。
食堂に入ると、何時も満員な室内は、ほとんど誰もいなかった。
ただカウンター席には、一人先客がいる。医療班の一人、河童だ。他の団員からは「兵ちゃん」と呼ばれているが、おれは絶対に呼びたくないので「河童」と呼んでいる。
「おう、ケイ。珍しいな、この時間に来るなんて」
河童は鋏を持って、紙を細く切っていた。
「……それ、短冊か?」
「そー。あっちゃん(事務)とさっちゃん(開発部)とに『一人で作れ』ってお仕置きされているところ」
「またあんたなんかやったのか」
どうしてここまで女たちにちょっかいをかけるのか。その情熱を別のところに使えよ。
「俺はただ、『貧乳と頭の良さの比例傾向、ちょっと研究テーマにしてみない?』って言っただけなんだぜ?」
……こいつと言葉を交わしたくない。
「おっと誤解するなよケイ」
無視しようとするおれに尚も言葉を重ねる。
河童は親指で顔を指しながら、白い歯を見せて言った。
「俺は胸より尻派だぜ! ついでに愛用しているのもS〇riだ!」
「手首くらい切り落としておけばよかったのに」
伝承通りにスパッと。どうせ薬で元に戻るんだし。
罰がなまぬるすぎだろ、と続けるおれに、河童は机に突っ伏して大げさに落ち込んだ。
「いや、これから竹林へ芝刈に行きます」
それを聞いて安心した。
『黄昏堂』が所有する山は、荒れ狂う魑魅魍魎が大量にいる修行場所だ。そしてそこの竹林を管理する主は、セクハラやそれに類する発言にとても厳しい。何でも昔、自分たちの姫君が貴族の男に無理やり手籠めにされそうになったことがあるのだと言う。きっとこってり絞ってくれるだろう。
まあ反省しないだろうけど。
こういう奴が一人いると、男全員がそういう風に考えていると思われるから同類にされたくない。特におれの場合、スカートと結び付けて「変態」という女もいるから、本当に勘弁してほしい。「そのスカート、女装して覗きとかに使ってないでしょうね?」とか平気で言ってくるあの女たちもどうかと思うが。
性別があっちこっち行く八蝶を「性犯罪者」と言わないだけ、まだマシだが(むしろ八蝶は「女」として可愛がられている)。
「なんで短冊……もう七夕か」
短冊になった紙をつまむ。
「お、手伝ってくれる?」
「するか」
ヒビキはおれの腕から離れて、厨房の入り口の前に立つ。すると佐藤さんがやって来た。「ヒビキちゃん、いらっしゃい。ちょっと待ってね」と言って、再び厨房に戻る。
佐藤さんがいることを確認したヒビキは、二階へ向かった。
「……あいつ、遠慮してんのか。自分が牛鬼の〈憑き物〉だから」
河童が階段を音なく駆けるヒビキの方を見ながら、そう言って目を細める。
牛鬼は、病を引き寄せる妖怪だと言われる。厨房の近づくと、食中毒を起こさせるかもしれないと思ったのだろう。かと言って入り口にいたら、病気を持った外の客が入って来るかもしれない。――と、ヒビキは考えた。だから二階へ行ったのだ。
実のところ、この空間で病を引き起こすことは殆ど無い。開発部により、ウイルスを弾く結界が出来ているからだ。だが既に感染している場合は感染者を弾くことになるので、そのあたりのセキュリティを緩めることになる。感染者が公共の場所を使うことはないだろうが、警戒はしておいていい。
……もっとも、ヒビキのあの警戒の仕様は、そういうことではないだろうが。
幼少組の一人が、食堂の周りに塩をまいたのだ。
そして、ヒビキに向けても塩を投げつけた。
「あいつには大分説教しておいたよ。『地面に塩ばらまいたら土が死ぬからな!』ってな」
「いやそういう問題か?」
「だってコンクリも腐食するじゃん。塩害って怖いんだぜ」
それで滅んだ国もあるんだからな、と河童は言って、
「……そもそもヒビキに対して投げたのも、あいつ自身が自分を許せないからだろうし。これ以上、なんも言えねえだろ」
そう言われてしまえば、確かにそれ以上は責められない。
自分がされて嫌なことをするな、と言って通じるのは、失敗する自分を許せる人間だけだ。
ヒビキに塩を投げたそいつは、野狐の〈憑き物〉だ。
北部九州において、野狐の〈憑き物〉は病気になると強く信じられてきた。そして、他の人間にも野狐を憑かせると信じられていたため、人々から迫害された。
だからこそ、病気を持ち込むとされる牛鬼の〈憑き物〉が食堂に出入りすることが、余計に許せなかったのだろう。そいつも、食堂を含める公共の場所を利用することを極端に恐れている。
そしてヒビキは、その誹りを当たり前のように受け入れた。
そいつもヒビキも、悪いことが起きれば、全て自分のせいだと思い込む。
そういう風に、人間によって思い込まされてしまった。
〈憑き物〉が生まれたのは恐らく、ただの偶然だ。
変わった姿をした。あるいは獣との不思議な巡り合わせをした。もしくは何かの能力に秀でていた。病気をした。引っ越してきた。
それ以外は普通の子どもだった。
その子どもが大人になり、子を為し、家が作られた。
それを人々は、〈憑き物〉として恐れた。
病気になれば〈憑き物〉のせい。
貧乏になれば〈憑き物〉のせい。
怪我をすれば〈憑き物〉のせい。
人が殺されれば〈憑き物〉のせい。
戦争が起きれば〈憑き物〉のせい。
飢餓が起これば〈憑き物〉のせい。
天候が悪いのも〈憑き物〉のせい。
何もかも、〈憑き物〉のせいにされる。
因果関係など何もなかった。ただ、複数人によって「災い」と結び付けられた。
……そうして本当に、〈憑き物〉は生まれた。事実無根だったのに、本当に厄災を招く存在になってしまった。
石を投げられ、田の水を止められ、代わりに人が嫌がる仕事を押し付けられ、何かすれば嘲笑われ、かと思えば無視され、人柱として真っ先に選ばれる。
病や災いを呼ぶとされ、存在どころか、呼吸をすることさえ忌み嫌われる存在。
逆に、他者を貶めることに〈憑き物〉を使う人間は、〈憑き物〉を飼い殺しにする。
だがそれも人間としては扱われない。
よくて家畜。
だが、現状はそれ以下が当たり前。
それが、おれたち〈憑き物〉への扱いだ。
「『盛り塩』って、本来どういう意味で使われてたか知ってっか?」
突然、河童が切り出す。
「……結界を張ったり、清めたりするためじゃないのか?」
俺がそう言うと、違うね、と河童は言った。
「あれは牛や馬を止めるためだよ。長い距離を歩いた牛や馬は、塩分が足りねえからな。舐めに来るのさ」
伝説によると羊らしいけどな、と河童は言う。
「中国の三国時代、めっちゃ好色の司馬炎って皇帝がいてな。そいつ、自分の後宮を作るために、敵の後宮にいた女、さらには結婚が決まっていた女の子すら召し上げたらしい」
そう言って、河童は水かきがついた指を一本立てる。「その数なんと、1万人」
「うわあ……」
何が悲しくて、そんなにたくさん人間関係を作らなくちゃいけないんだ。顔覚えるのすら無理だろ。
おれの考えを読み取ったのか、「まあ、全員と相手するのは無理だよな」と言った。
「そんなわけで、司馬炎は一夜の相手を羊の気分に任せていた。何で羊かって言うと、羊が帝の車を引いていたのさ。だもんで、後宮の女たちは皇帝が乗った車を止めるために、塩を盛ったらしい。……まあもちろん、史実かはわからんし、脚色もされてるだろうけど。塩自体には清めの作用があるっていうのは古今東西言われてきたから、それはそれで正しいんだろうし。
そしてお前が言った通り、現在は結界や場を清めることに使われる」
これも意識によって変化した意味合いよな、と河童は付け加える。
「たとえ無実であっても、他者に擦り付けられたら『本当』になる――そういうことを自覚していれば、他者の認識に引きずられずに済むんだけどな、お前ら〈憑き物〉は」
妖怪と違ってな、と河童は言った。
『河童』は全国的な伝承と思われがちだが、本来『河童』とは東京のごく一部でしか呼ばれない名前だった。それが広まったのは、芥川龍之介の『河童』が発表されたからだと言われている。
それ故に、西日本と東日本では河童の特徴が違う。恐らく生まれた経緯も。
特に九州の河童は、大陸から来た工人集団――つまり渡来人(外国人)だったと言う説がある。
人々は、自分たちとは違う文化や慣習を持つ彼らの蛮行を恐れ、彼らの持つ技術に憧れた。
河童とされた工人たちが本当に、人々へ危害を加えたかはわからない。少なくとも古来の河童は尻子玉などという「存在しないもの」ではなく、尻そのものを引き抜く残忍な妖怪であった。
だが、彼らは自分たちにはない技術を持っていた。製鉄、治水、農耕、養蚕、織物。
だから彼らは利用するために、ある時は妖怪として扱い、ある時は神様として祀ったのだ。
それも江戸時代になって変わっていく。
科学が発達し、神秘は薄れた。治水工事が進み、人々は劇的に水を制するようになった。人々は恐怖していた妖怪や頼っていた神々を零落させていく。神は妖怪に零落し、河童はいたずら好きの妖怪になった。
今じゃ河童は、恐怖の対象ではなく、|漫画やアニメに出てくるキャラクター《消費された物語》でしかない。
「……さすが、ナンパしたけど拒絶されて、腹いせにトイレから尻を撫でようとして右手切り落とされるヤツは、言うことが違うな(※『夜窓鬼談』より)」
「おっと毒が強いな。生理か?」
あんまりな発言に頭が痛い。どうしてそれを言っていいと思うのか。
「それ二度と言うなよ。男にも言うことじゃないが、女には絶対言うな。性を揶揄るために使うんじゃない」
「へーへー」
……まあ言うんだろうな、これ。あまりにも学習能力がなさすぎて、注意するのもアホらしい。どうせ女たちが血祭りにすることだろう。
この隣にいる河童も、江戸時代の男たちの性的欲望から新たに生まれたんだろう、と八蝶が言っていた。
例として挙げられるのが、九州の「河童憑き」だ。河童に憑かれた女は、みだらなことを喋り、男を誘惑するといわれる。だから河童に取り憑かれないように、夜中の川でみだらな態度をとることを禁じた──そうだが。
『これは……今で言う、痴漢が「そんな男を誘うような恰好するのが悪い!」って被害者に恥をかかせるのと同じ匂いがする……』
八蝶が苦々しく言ったのを思い出す。
真相はわからないが、とにもかくにも河童は男の性欲の象徴として扱われ――その習性を訂正すると言うことは、河童の存在を消去することになるのだと八蝶は言った。
それはそれでいいんじゃないか? と言うおれに、『さらっと兵ちゃんに死刑言い渡したね君』と八蝶。
河童のセクハラ発言を聞いても、八蝶が案外冷静なのが、おれは不思議だった。八蝶は嫌じゃないのか、と尋ねてみると、まあ嫌だけど、と返して、
『でもそもそも、人間のやった間違いの責任を押し付けられて生まれたのが妖怪なんだし。――存在自体を許さないっていうのは、ちょっと違くない?』
間違ってる人を追放するんじゃなくて、間違っている行動を「間違っている」って逐一怒れる社会がいいと思うよ、と八蝶は言った。
――そのあたりは、おれはあまり理解し難い。
連発するセクハラ発言に、河童の存在自体がトラウマになっている団員も少なくないし、昔受けた記憶を想起させられて、身体が竦んでしまう団員もいる。おれが女だったら、多分手首と言わず首をスパッと切っていたと思う。
それでも、河童が八蝶に直接言うことはないから、今はまだ存在ぐらいは許せるが。
……と考えたところで、おれは恐ろしい考えに至った。
「……まさかあんた、未成年にもちょっかいかけて」
「おれはロリコンじゃねえよ!」
「いないだろうな」と言い切る前に、河童が否定した。よかったこれは嘘じゃない。
「伝承知ってんだろ! おれの性的対象は! アラサーからッ‼ 人妻ならなおよし!!」
「……」
「何だよその目‼ 俺が信用できねーってか!」
「だってあんた、川姫にもちょっかいかけるじゃないか」
たまに朝、河童が乾燥したワカメみたいにペラペラになっている。その理由は、年少組以外は誰でも知っている。
だが、川姫の年齢はどう見ても10代後半、ギリギリ20歳と言ったところだ。
「妖怪だから、見た目通りじゃないのはわかるけど……」
「……ちなみにお前、川姫が何歳か知ってんのか?」
「あんたと同じじゃないのか?」
生まれたのは江戸時代ぐらいだと思っていたんだが。
「あいつ、2000年は生きてるぞ」
「……は?」
「だから、2000年。俺がアラエドなら、アイツはアラキゲ」
「時代をアラウンドするな」
少なくとも人間はアラウンドしない。……じゃない、ツッコミどころは。
「え、知らなかった?」
おれの様子を見て、まじかあ、と河童が言う。
「まあ、よく考えたら知らん奴が多いかもな。知ろうとしない奴も多いだろうし」
そう言って、河童は説明した。
「あいつ元々、山の女神だったんだよ。妖怪になる前に人間だった時期もあるって言ってたけどな」
「人間だった時期? 神様が、人間に?」
「そりゃおめー、人が神になったり妖怪になったりするぐらいなんだから、なれるに決まってんだろ」
「……そういうもんなのか?」
神や妖怪が人間になるというのは、AIやロボット、人形が人間になるのと同じだと八蝶が言っていたんだが。
おれの考えを読み取ったように、河童は「まあ、お前が思っているように、今はほぼ無理だわな」と繋げた。
「単純化された妖怪や神と違って、人間は複雑すぎる。……けどな、古代の認識はそうじゃなかったんだ。人間と神は同じ列にいた。昔の人間は、今の人間と肉体的にも精神的にも結構違うんだよ」
法則も変わってるしな、と河童は言う。
「今の科学技術で出来ることが昔はできなかったように、昔使えた術が今は使えないことなんてザラにある。江戸から今にかけて、一体どれぐらい法則が変わったんやら……」
認識によって自然界には存在しないモノを作れることは、インターネットなんて出す前に、法律や貨幣、言葉や歴史と言ったものが証明している。
人間は自然から生まれながらも、自然に干渉し本来自然にはないものを作れる。道具を作り、環境を作り、概念を作る。今は原子や遺伝子すら操作可能だ。
妖怪は自然の力を借りて超常的な力を発するが、それだけだ。自然界にないものは作れない。神はそもそも自然や世界を擬人化させたものなので、本来人間と比べることは出来ない。だが結局、人間が認識できる姿でしか現れないため、人間よりも単純化されてしまう。
人の認識は、世界によって作られる。
だが、人の認識によって世界が作り替えられることもある。
妖怪やおれたち〈憑き物〉は、「認識によって作られた」存在だ。
「むろん人間でも、認識に引きずられて存在を固定されることも多いけどよ。……ああ、さっきの生理の話で思い出したんだが、基本どの動物のメスも、そう毎月血を流さないんだ。血の匂いを放ってると、ほかの動物に気づかれて危険だから」
「そうなのか?」
確かに、動物系の〈憑き物〉にとって、血の匂いはかなりわかりやすいが。
「これは人間の女にも当てはまる。最近の研究によると、昔の女は一生のうち血を流すのが50回程度だったらしい。それに比べて今の女は250回、昔の5倍だ」
内容に戸惑うおれに、「何なら450回って説もあるぞ」と河童は言う。
「今は発育がよくなったせいで、初経は早く、閉経は遅い。おまけに長生きする。
昔って言うと明治から江戸ぐらいだって思うかもしんねーけど、お前のじいさんばあさんの子ども時代だって、今よりは少なかったんだぜ」
そう言えば、現在は少子高齢化が叫ばれる時代だ。その前は子どもを5人産むのも珍しくなかったわけだから、妊娠し授乳する度に生理は止まっていただろう。おまけに十代で初出産を経験する人も多かっただろう。
70年ほど前なら、戦争で食べるものにも困っていたはずだ。それでは確かに月経の数は変わる。
「時代が変わっただと言う割には、人間は古代の人間と同じ肉体だと思っている節がある。社会の変化や人間の認識で、肉体なんて簡単に変わるってことを、おおよその人間は理解しない」
そこで区切って、河童は言った。
「だから川姫は、神から零落させられたんだろう」
「……それは、どういう」
「あ、いたいた。ケイ」
真意を尋ねようとした時、食堂の入り口から名前を呼ばれた。
おれを呼んだのは、サトシだ。
「……なんだ」
「何だってなんだよ。俺が呼んじゃいけねーのかよ」
そう言って、おれの片側に回り込む。
「お前の相棒が別府まで来いってさ」
相棒。――八蝶だ。
そういえば、別府に行くと書き置きに残していた。川姫に付き合ってとのことだったが、何かあったのか。
おれの疑問に気づいたのか、あー、とサトシは続ける。
「話は長くなるから、それは向かっている時にな」
とにかく、急を要するようだ。
……ヒビキに梅ときゅうりの和え物作ってやれないって、言いに行かないと。
「少し待ってくれ。ヒビキに伝えてくる」
サトシにそう告げて、おれは食堂の二階へ上がる。
「……ホントに、哀れなやつだよ」
自分が踏む階段の音に混じって、河童が小さく呟いたのを拾った。
(第2話『川姫』前編 終わり)




