真夜中の校舎・君は、『誰』?
歩くたびに、カチャカチャ音がする。
まるで、後ろをつけられているように。
今日は5月5日。初夏を迎えたと言っても、既に日はとっぷりと沈んで肌寒い。
コート着ていてよかった。そう思いながらわたしは懐中電灯の光を頼りに、学校の廊下を歩く。
電灯ではっきりと照らされた、真新しい壁と床。白い円の外は、なにもわからない闇が広がっている。
もはや夜すら征するようになった現在でも、人は闇を恐れる。光のそばにある闇や影を探して、それに恐怖する。
遮られた視界が生み出す警戒心。照らし出した途端、見たくないものを見せられるんじゃないかという恐怖。その二つが、ゆらゆらとやわい心をゆりかごのように揺らす。その不安定さに、人は耐えられない。安定させるために、人はわからないものを知りたがる。
怖くて見たくなくても、確かめずにはいられない。わたしも、例外ではなかった。
止まる。――同時に、音がしなくなった。
歩いた途端、またカチャ、という音がする。
思い切って、振り向いてみる。
懐中電灯に照らされた廊下は、誰もいなかった。
「……」
わたしは、恐る恐る、自分の上履きを脱いでみる。
踵のところに、画鋲が刺さっていた。
はああー、と長いため息が出た。
上履き履いててよかったけど、垂直に立つ画鋲とかもう使わないでほしい。これがかかとに刺さったら、とか想像するだけで痛い。
現在地は、階段の踊り場。少し古く曇った鏡には、立派な彫刻が施された木の枠があり、懐中電灯の光を強く反射させながらも、わたしの姿をしっかり映していた。
チラ、と見えたアナログの時計は、今は7時15分を少し過ぎたころ。
わたしは、ふうとため息をついて言った。
「――ソメさん?」
……しかし、返事は来ない。さっきまで声はしていたのに。
マズったな。急いでここを出た方がいいだろう。
先程通った1階は、職員室や保健室だった。2階から教室と言ったところか。静かな階段を登り切り、一つずつ教室を確かめる。
恐らく1-7と書かれたプレートの教室。そこの机の上に、ガラケーが置いてあった。
これ、今も使えるガラケーなのかしら……と思いつつ操作してみる。電池は満タンだったが、電波は立っていない。
パスワードがないホーム画面から、連絡帳やメール画面に移動した。スマホだったらとっても危険な状況だ。
「……ガラケーを落としただけなのに」
呟いてみる。誰も笑ってはくれなかった。
ガラケーの時計は、4月25日19時16分で止まっている。――今から10日前のことだ。
わたしは片手でガラケーを閉じて、教室を出る。
同時に奥の方から、かすかにピアノの音がし始めた。
そう言えば、音楽室がこの階にあるんだっけ。
三つの教室の前を通ると、しっかりと閉じられた扉が現れる。ここが音楽室か。
さすがに扉の前に立てば、はっきりと音楽が流れる。
繰り返される音階。切り替えられる音域。どこか切なげなメロディ。『エリーゼのために』だ。けれど……。
「あんま上手くないなー」
ダン! と鍵盤を叩きつけた音が聞こえた。
それからピアノの音はしなくなる。
「……あの、ごめんね? 聴こえちゃった?」
気分悪くさせたかな、と、弾いている相手の姿を確認しようとした時。
先ほど歩いてきた静かな廊下から、足音が聴こえてきた。
……これは、こっちに走って来る? しかもかなり速い。
カタカタ………――カタカタカタカタ!
明らかにスピードアップした足音。
何が来るのか想像がついた私は、音楽室の向こうにある階段を登る。ついでに、持っていたスマホで自撮りモードにする。
映っていたのは、上から降りてきた骨格標本が、後ろから結構なスピードで走って来る姿だった。
わたしはコートの裏側に潜ませていたある糸を、素早く階段の手すりと壁にくっつける。曲がって階段を登る際、ちょうど足に引っかかるように。
階段を登り切り、壁に隠れて、耳を澄ませた。
カタカタガタッ! ゴロ、ガタ、ゴロ、ガタ、ゴロゴロゴロ……。
よし。見事、引っかかってくれたらしい。
糸に足を捕らわれた骨格標本は階段から落ち、そのままバラバラになった。どうやら、頭部は思った以上に転がり落ちているようだ。大体ああいう人体のパーツが取り外せる系は、バラバラになった途端、自分では直せられないところまでがお約束だ。もう害はないだろう。
そう思った瞬間、ガタ、という足音がした。「いた!」という声もする。
わたしは反射的に音がする教室へ、懐中電灯を向ける。
「わ!」
急に光が目に入って眩しかったんだろう。床に膝をついていた、ラグラン袖のパーカーを着た男子が、両腕で顔を守った。
「誰?」
わたしが尋ねると、男子は恐る恐る腕を下げ、わたしを見た。
「あ、アンタは?」
質問しているのはこっちなんだけど、正体は分かった。
少し癖のある黒髪を左分けにした前髪。男子高校生として平均的な身長、中背中肉。以前はサッカーをしていたが、高校では演劇部の裏方に回っている。
以上が、事前に聞かされた『探し人』の情報だ。顔も写真で見ている。
「君は、黒田夢二くんだね?」
わたしは、今回の依頼人――に、捜索願を依頼された人物の名前を呼んだ。
彼の大きな目が見開く。けれどその目には、警戒心の色が薄まっていた。
「そ、そうだけど……何で名前知ってるんだ? あの、蜘蛛は?」
――蜘蛛か。
わたしは舌打ちしたくなるのを抑えて、淡々と説明した。
「わたしは、黒田君を助けに来たレスキュー隊員だよ。君の失踪届を受けて、わたしが所属している退治屋にも依頼が届いたんだ」
「退治屋……本当に、そういう組織があったんだな」
膝についた埃を払って、黒田君は言った。
「一度、『黄昏堂』っていうところに依頼しようか悩んだんだけど、料金がバカ高くて」
「ああ、わたしらの組織の名前。夢原白野さんという人から、依頼があったよ」
「部長が……そっか。借金作っちまったな」
嬉しそうに、黒田くんは笑った。
顔色はよくないが、それはここが危険区域で、ずっと緊張していたからだろう。栄養失調の類ではない。まあ当たり前か。ここは現実世界じゃない。
「君も気づいているだろうけど、ここは踊り場の鏡を通した異界だ。だから現実世界よりずっと時間の進みが遅い。君が失踪してから、10日は経っているよ」
「…………マジかよ」
戸惑ったように黒田君は言った。
「せいぜい3時間ぐらいだと思ってた」
「ここは時間がかなりゆるやかなんだろう。現実世界だったら水分不足か栄養失調で、早々に倒れていたよ」
とはいえ、これだけ時間が経っていたら、とうに食われているんじゃないかと、生存は期待していなかったけど。
わたしは、コートのポケットに入れていたガラケーを手渡す。
「これ、君のガラケーじゃない?」
「わ、サンキュ! うっかり蜘蛛に見つかって、慌てて逃げたから、ちょっと困っていた」
黒田君は、そう言ってはにかんだ。
右分けの前髪が、しっとりと額に張り付いている。