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アンナのまほう -in The Polar Night Veil-  作者: 白ノ汽車
序章〝Polar Night Veil〟
7/11

No.7:友の名は

 知らない人にドアをぶつけちゃった……。おでこ、大丈夫かな。あの人、話し終えたらスタスタと行っちゃったけど、まだ胸がハラハラしている。

 兵隊服に着替えて出かける前、玄関のドアノブやノッカーを拭き忘れていたことに気づいて、拭いてから行こうと思ったのだ。

 近くのちいさな井戸から水を汲むほどではなくて、魔法で雑巾をちょっと濡らせるだけの水を出して。

 ドアノブとドアノッカーを拭き終えて、家の中へ戻った。時計を見ると、今は午前中の十時半。先ほど、換気して水回りと窓拭きの掃除が終わった。

 休憩時間を除いて、だいたい四時間の作業だろうか。終わってから見回すと、見違えるくらいの家になっていて、心底やりがいがあったと感じる。

 磨りガラスかと思っていた窓は汚れで曇っていただけだったし、暖炉や奥の部屋の蜘蛛の巣は何層にも重なって、一つの国のようになっていた。

 蓄積された年数を手作業で一掃するのは大変だったが、磨りガラスを透き通った普通のガラスへ戻し、蜘蛛の巣の帝国からハーロルトさんの領土を取り戻した。雑巾と箒の勝利である。

 まだすべきことはあるけれど、とりあえず、午前中の掃除をすべて終わらせた。時間もちょうど良くなってきた頃だし、服を調達しに行こう。

 ピカピカになったドアノブを掴み、玄関と門の鍵を閉めた。帰ったら家具や廊下を磨いて、庭掃除だ。こんな雑草まみれの庭先じゃ洗濯物も干せない。

 昨日より綺麗になったハーロルトさんの隠れ家を後にして、緩やかな坂を歩いていった。

 ここはメッケルンの町のはずれに位置していたようで、朝焼けが晴れない道を歩いていくと、ちいさな川を跨ぐ木造の橋があり、街灯がたくさん立ち並ぶ町の通りが見えてくる。

 低木を羊型に刈り込んだものが何本も設置されているこの町の入口には、腰丈ほどの立て看板に花のような飾り文字で〝羊と織物の町メッケルン〟と書かれていた。

 つまり、毛織物の町かぁ。じゃあ、服屋さんもすぐに見つかりそう。羊ではないけれど、フェルト製の服を着た仔ヤギならわたしの横を通っていった。リードで繋がれて、飼い主とお散歩している。

 この町にはムーエン村でも見かけた脚の短い牧羊犬や、顔のちいさい猫もいたが、それよりも人が多い。首都ほどではないとはいえ、馬上ではなく、行き交う人々と同じ地面を歩いて眺める町は全然違う。

 細い木々の枝葉は自分の顔の横よりも高いところにあるし、草花や人々はより大きく見えた。わたしの縮尺と町の風景が、ぴったり合わさったのである。

 背丈の低い子どもたちはこちらを気にせず側を走り去っていくし、大人は大人で大荷物を抱えていたり、隣の人と話しながら周りを気にせずに歩いていた。通る馬車や荷車も自分のペースで町を行く。

 わたしもわたしの目的地だけを見て歩こう。その目的地の服屋さんがどこなのかわからないけれど、この道沿いにはあるはずだ。

 一軒一軒の看板だけ注意深く見ながら、明るい色の石煉瓦で舗装された道を歩いて行く。この通りはどの店先にも、樽を縦に割って植木鉢にされたところに寄せ植えの花が詰め込まれているか、陶器や木製の羊や小人のオブジェが必ず置かれていた。

 そんな明るく飾られた通りのなかで、カフェ、酒場、カフェ、本屋、理髪店、カフェ……と過ぎ去っていったとき、道の向かいの二階建ての建物の看板に〝仕立屋ミーツ〟という文字が見えた。

 仕立屋……既製服も売っているのだろうか。足取りをゆっくり止めて路端の柱の陰からその店を見ていると、雪オークらしき淡いベージュ色の木製ドアから一人のお客さんが出ていった。道行く人々とそう変わらない出で立ちをしていて、あのお客さんもこの町の人のようである。

 入ってみよう。そう思って近くまでいくと、店先の立て看板に〝仕立て、お直し、古着の買い取り、その他の御用向き、お気軽におたずねください〟という紙が貼ってあった。

 ドアをそっと開けると、トルソーに着せられた服や布地がずらりと並ぶ店内と対面した。明るい色を基調に家具が揃えられ、壁には金枠の大きな鏡が掛けられている。

 そろそろと店内に入ると、店のカウンターの近くでしゃがみ、木箱の中を整理している店員さんがくるりとこちらを振り向いた。縦に巻かれた赤毛がふわりと揺れて、そばかすが散った顔と目が合う。

「いらっしゃいませぇ」

「こ、こんにちは」

 店員さんは丸眼鏡の奥でにこりとし、また自分の作業に戻った。木箱の中からいくつかの糸巻きと小瓶を取り出し、順番を変えてまた仕舞い直している。

 ……あれ? なんだか若い……というか、わたしやギルと同じくらいの女の子だ。

 店員さんのことを気にしつつ、既製服らしきタグがついた棚を見ていった。襟元や裾近くの身頃についているタグには、ここで仕立てられた証の〝ミーツ〟という文字もあれば、〝ケートヒェン〟や〝クライン・テルマン〟や〝ラ・ディーヌ〟といった文字の服もある。

 そして、どうもこの棚に並んでいる商品は、新しい服のようだ。ブラウスもニットも、仕立て上がったばかりのように角がピンと張っている。

 古着はここに……ないみたい。

 実は、お財布の中身を見たとき、わたしの知らない通貨だったのだ。だから、今腰に下げているお財布の中身が全部で〝百五十メア〟だけれど、これがどれほどの価値なのかさっぱりわからない……。

 そして、服の値札の〝五十ポニ〟とか〝百メア〟って、流通している服の中でどれくらいなんだろう。わからないが、預かった分の半分以上になるからやめておこう。

 ああ、やっぱり昔エルフィが出してくれたことがある人間の通貨って、元はドングリだったのかもしれない。ドングリをぺちゃんこにして魔法をかけたんだ、きっと。

 先ほどの整理が終わった風な店員さんに声をかけて古着について聞いてみると、今日は大聖堂前にある広場で開催されている古着市に、在庫を全部持っていってしまったということだった。

「今日と明日は奥にも一着も無くて……ごめんなさいねぇ」

「いえ、いいんです」

 おっとりとした話し方の店員さんは申し訳なさそうな顔をしていたが、すぐわたしに「ねえ何歳? 剣とか持ってないけど兵士さんなの?」と聞いてきた。

「十五。わたしは兵士じゃなくて、この服は借り物なの」

 服を見下ろしながら答えると、店員さんは興味深そうに襟や裾のデザインを見ていた。

「そうなんだ? ねえ、大聖堂広場の古着市、良かったら一緒に行く?」

「いいの?」

「うん。午後からお店閉めて手伝いに行かなきゃいけなかったから全然いいよ」

 そう言ってから、彼女は「マリーって呼んで」と笑った。

「アンナだよ。よろしくね」

 午後の古着市へ向かうための出発まで、まだ時間があるそうだ。マリーが店を閉めるまで、わたしはお店の中の椅子で待たせてもらうことになった。



 ああもう、店長ったら信じられない。今日は古着市で店を出すからって、午前はわたしに店を放り投げるなんて。最近は中央街のマダム・テルマンの仕立屋にお客さんを取られがちだから、なるべく開けておきたいのはわかるけど、祝祭前は店頭より発注された分や催事の制作に専念するのがいいのに。

 今日は……午前に二人来ただけだった。いや、三人だ。三人目は懐かしい感じの兵隊の服を着ている女の子。十五歳らしいから、四月生まれでもなければ一つ年上なのかも。

 高すぎなくて通りのいい声で、自分の名前を〝アンナ〟だと言っていた。彼女には依頼人との面談コーナーに座っててもらって、わたしは店内から奥の作業場へ引っ込んで、木箱から取り出した補修用の糸とマチ針の追加を持っていく。

 午前中に仕上がれば良かったけど、縫えば縫うほど、継ぎ接ぎのどこかがほつれてくるんだもん……。背の高いトルソーに着せて修理をしていた黒いコートを見る。

 一昨日、洗ったそばから煤や泥が出てきて本当に大変だったなぁ。何回水を汲み直してきたんだろう。乾燥に半日かけて、崩れてきたところを縫い直して。

 今日はカケハギをして虫食いの穴を塞ごうと思ってた。でも、店長と他の針子が「あんたが取ってきた注文なんだから」っていう一理あることを言いながら、ついでに店番まで押しつけて、古着市の方へ行っちゃった。ドブの蓋にあいつらのヒールが挟まりますように。

 わたしが初めて直接もらった注文だから、最初から最後までわたしがやるって決めていたけど、納期もあるのに一人だけの店番の日を勝手に決めるのおかしくない?

 しかもあいつら、古着市が一番目当てってわけじゃない。古着市よりも、依頼品や祝祭の準備の方が売上が見込めるんだから……。

 ちょうど今日は議会堂で騎士さまたちの集まる日で、夕方前になれば、大聖堂広場の近くをたくさんの騎士の馬車や騎馬が通っていく。それを見たくてキャアキャア言いながら出ていった。

 集中しているとモヤモヤしてきて、それを晴らすために手を動かして。手を動かしていても目線はコートの縫い目を追う。縫っていると、またモヤモヤとしてくる。それの追いかけっこだった。

 カケハギには普段よりも集中力が必要だ。穴開きの箇所と同じ布から糸を取って針に通し、織り合う布目の隙間に入れていく。穴に対して、また生地を織り直すのだ。

 カケハギには、もう一つ方法がある。共布を当てて、端から穴に差し込んで縫い上げる。こっちはやめた。これと同じ布がなかったから、糸はコート本体から取っている。

 ……いや、厳密に言うと、同じ布はある。だけど、店で用意すると当てる布は〝新品〟だ。このコートは誰がどう見ても、兵士の服より古い〝襤褸〟なんだ。博物館の展示品の巻物みたいに、触れたらそこから損壊しそうなほど。

 どこもかしこもクッタクタの継ぎ接ぎで、袖なんか取れかかっていたし、これ以上変な模様や色が合っていない布地を増やしたくなかった。

 そういう繊細な作業をする日に……今日は向いていない。左手首につけた針山ではなく作業場のわたしの針山に針を戻し、糸も仕舞った。

 とりあえず、わたしにできるだけの補修は施すけど、納期の日に受け取りにきた依頼人にはもうこのコートは限界ですよ、って伝えなきゃ。

 よし、もうお店を閉める準備して、お昼ごはんを食べたら向かっちゃおう。時計は……午前十一時。ちょっと早いけど。

 いつものオーダーメイドや上流家庭のお直しではなく、ボロッボロの襤褸を着せられたトルソーは、これはこれで……そういうテーマのショーに出るみたいになっている。

 これをコーディネートするのがわたしなら、木製のビーズでダラリと長いネックレスを作って、ベルトやブーツの紐飾りも合わせたい。

 ビーズは素色をメインにしつつ、ところどころ原色に塗って、モミの木に引っ掛ける冬至(ユール)の飾りみたいに。あんまり大きい粒だと野暮ったいから、夜空に浮かぶ星がキラッとするみたいに、小さめのビーズとヒヨコ豆くらいのサイズのビーズを混ぜて。

 そんなことを考えながらエプロンを脱いで、カウンターの上の帳簿とお釣り用の金庫を鍵付きの引き出しに仕舞った。鍵をカチャッと回して所定の位置に。

 店のドアに掛けてあるちいさな看板も〝営業終了〟の面にひっくり返し、店先に〝古着市開催中〟のポスターと、臨時古着店として営業中の仕立屋ミーツの場所を記した地図を貼っておいた。

 よし、これでいい。店内の奥まったところにある面談室へ行き、椅子に座って窓の外をぼんやりと見ていたアンナに声をかけた。

「お店、終わったよ。行こう!」

「あ、うん」

「でもちょっと待って、先にお昼食べなきゃ。アンナは? 一緒に買いに行く?」

 わたしは裏のパン屋さんへ行くんだ。小麦が多めの、しっとりしていて柔らかいパンが好き。小麦が不作でちょっと高いけど、今日は久しぶりに食べたいな。

 でも、アンナの方はわたしの気分とは真逆っぽい。喉になにかが詰まったように言い淀んでから「うん、わたしも行く」と返事した。

「……そう?」

 お昼、食べないタイプだったのかな?

 まあいいか。行こう、早く行こう。貴重な小麦のパンが売り切れる。

 アンナを急かしてカーテンを閉め切った店を出て、ちゃんと施錠もしてから裏の通りへ向かった。

 なんだかアンナは周りの様子を気にしながら歩いていて、「どうしたの?」と聞くと「祝祭の準備……ってこんな感じなんだね」と言ったので、えっと声が出る。

「わたし、もっと遠いところから来たの。祝祭のない地域から」

「えー! そうなんだぁ! ヒスタル語うまいね!」

 どこから来たの、と聞く前にパン屋さんの看板が見えて、アンナが「あそこ?」と指差した。店内へ続く扉も、通り沿いの小窓から買えるようになっているところも、蛇みたいな行列だ……うわぁ……。

「……わたし、並ぶけど、アンナは時間いい?」

「大丈夫だよ。夕方までに帰れればいいから」

 さすがに夕方までには順番が来るし、良さそう。二人揃って小窓へ続く列の最後尾に並ぶと、わたしたちの後ろにすぐ人が来た。

「人気だね」

「ね。おいしいんだよ、ここの小麦パン」

 わたしたちの後ろに来た人は三歳くらいの子どもの手を引くお母さんで、木綿のチュニックと同じ素材の足首丈のスカートの上から、縦縞模様のエプロンを重ねている。

 その後ろに続いたお客さんは、この近所でよく見る郵便馬車に乗って配達しているお兄さん。その後ろからも、ご近所さん……と、お昼過ぎまで際限なく続きそうだ。

 列の前を見ても、小窓からとはいえ一人一人が結構な注文量らしい。パンだけじゃなくて、茶葉やお菓子も売っているから。

 時間、かかりそう。隣のアンナを見て、先ほど聞きかけたことを思い出した。

「遠いところってどこ? 島かドレフティアの方?」

「ヒスタルでもドレフティアでもない森だよ」

 ……どこだろう? どこかの自治領のこと? たしかに自治領だとその土地や民族の文化を守って、他国のお祭りはしないかも。

「わたし、一昨日テオセアに来たの」

「一昨日なんだ! それまで、その森にいたんだね?」

「うん。だから見るもの全部が新しく見えるんだ」

 ああ、だから周りのお店や、通り過ぎる花馬車にも目を輝かせていたんだね。生まれて初めての散歩にきた垂れ耳の仔犬みたいに。

 ……聞いてもいいのかな、その兵隊服の理由。もしかして、他の服って無かったりする? とか、そんな込み入ってそうな話。

 いいや、まだやめとこ。

「今の花馬車はね、もちろん人も運ぶんだけど、聖火のランタンを利用した温室で栽培された花の種を売ってるんだよ。街の人とか旅人に花をアピールしながら走るんだ」

「そうなんだ! ちいさい馬だったね」

「あれは坑内馬だよ。炭鉱の荷運びに連れていく品種の馬で、力があって小型だからここらへんの花馬車にもよく繋がれてる」

「へえ……マリーは物知りなんだね」

「えっ、えへへ、そう? まあね、生粋のテオセア育ちだし?」

 アンナはなんか、顔立ちが柔和でおっとりしてて、タハティラっぽい。そっちの方に森林地帯が密集しているし、タハティラ方面の自治領なのかも。

 テオセア人はもっと眼力が強くて、顎とか眉骨が出っ張っていて、雰囲気的に怖そうな顔立ちなんだ。

 わたしもテオセア人のはずだけど、それほど骨っぽいわけじゃなくて、タハティラ人だと間違われがち。

 見るもの全部が物珍しいというアンナを介して街を見直していると、こっちまで新しいところに来た気分になった。おしゃべりしながらジリジリ進む列があっという間に感じ、パンの注文から焼き上がりの到着までの時間もすぐだった。

「はいマリーちゃん、まいどありね」

「ありがと! またくるね!」

 わたしの小麦パンが二つ、アンナが頼んだちいちゃなクルミパンが一つ入った紙袋を抱え、わたしたちは水路沿いを辿って噴水のある街園まで向かうことにした。

「こんなちょっとで足りるの?」

「足りるよ、平気」

 やっぱお昼はいらないタイプだったんだね。店長も、食べたら眠くなっちゃうからってお昼は無しの人だった。

 首都の街園は木々が大きくて暗いけれど、噴水の周りはたくさんのランタンで飾られていて、街灯だけの道よりも明るい雰囲気になっている。

 聖火ではない油のランタンの点灯人や、遊びにきた街の人とすれ違い、わたしたちは街園の噴水を眺められるベンチに座った。

 木製のベンチはキシキシと鳴るが、金属製よりよっぽどマシ。ランタンの明るさだけじゃ、座面が冷えているから座れていられるものじゃない。冬は服にもくっついてしまう。

 お互いの膝にパンの包みを広げて食べるお昼を過ごしながら、ふと、家族連れの人々が通っていくのを見て……話したかったわけじゃないけど、つい。

「アンナ、わたしねぇ、あの仕立屋の住み込みなの」

 孤児なんだ。

 親戚がいなくて大聖堂の孤児院に預けられて、九歳頃までそこで育ったの。お裁縫が好きだったから、大聖堂の被服場で奉公していた。

 わたしみたいな国中の孤児のための防寒着を縫ったり、大聖堂にいる巫官や教師、御者や点灯人の服を直したり。わたしは寸分違わず型紙通りに裁断するからって、よく褒められてた。

 でも、周りの子たちは夜中も昼も泣いてうるさくて……そんな子たちを、あんたはおとなしいから面倒見てよってわたしに押しつける。

 被服場がお休みの日も、ゆっくり本を読んだりお昼寝したりする暇もなく、所在のないちいさな子の手を引く大人に見つかれば自由がない。本当は子どもは嫌いじゃないけど、こんな役回りって誰も代わってくれないし、すごく窮屈で嫌だった。

 そんな九歳のときに、ミーツの店長が本店を大きくするからって言って、雑用係に孤児の女の子を探しにきた。

 孤児院から出たかったわたしから志願して店長についてきたし、孤児院みたいにぎゅうぎゅうに詰められて並んだベッドで隣に寝てる子どもの足がお腹に飛んでくることもなくて、最初は良かったけど。

 店長は、指導してくれるけど……別に親じゃないから、わたしのプライベートな悩みを聞いてくれたり、さみしい気持ちを気遣うとかしない人だったし。

 お店のお掃除、二階のアトリエのお掃除、店先のお掃除。材料の引き取りや、書簡の配達。店長や他の住み込みの針子の居住空間で家事、雑用。被服とは関係ないことが山積みで。

 みんなの仕事を盗み見て、本を読んで、五分の一くらいの縮尺で製図して、毎月のお給金で布を買って縫製してみたり。お直しも自分で覚えた。

 そんな毎日が去年の秋頃、やっと明けた。わたしもアトリエの針子名簿に名前が載り、店頭にも立たせてもらえるようになったんだ。

「なんか……ずっと一人っきりだったなぁ。人はたくさんいたのにね」

 アンナはわたしの話を黙って聞いててくれている。お互いちょっと近づいていたから、爪先がコツンと当たった。

 ……あれ?

 爪先、ない。わたしの右側にいるアンナの、左の爪先が……上向きにカーブした鉄のヘラみたいなものだった。

 わたしがハッとしたことに気づいたアンナは、ズボンの裾をまくり、義足の軸を外気に晒した。

「一昨日に無くなったの」

「え、えっ? 一昨日? テオセアに来たのも、一昨日じゃなかった……?」

「そうだね。……わたしの話してもいい?」

 いいよ、いいに決まってる。今度はわたしが聞く番ね。アンナと向き合い直して、彼女の顔を見つめた。

 ランタンで照らし出されたアンナの瞳は静けさのある苔色で、光を受けた瞳孔周りの輪が淡い金色だ。見られていることに気づいた彼女は、睫毛を伏せがちにしてゆっくり話し出す。

 どこそこの村や一軒家が盗賊に襲撃されたっていう新聞記事のように残酷な出来事を、傷ついたばかりの顔で。

 アンナは、鷲の魔物によって左脚を失った。そして、住んでいた森と養い親のもとから、遠い遠いムーエン村まで引き離されて……。彼女の左脚は、膝から下は義足らしい。養い親のエルフリーデという人の安否も……。

「ムーエン村の近くで……騎士の人と兵士さんたちに助けられて、今は騎士の人のところにいるんだ」

 ああ……、だから兵士の服を着ていたんだね。

 そして、アンナが今後どうなるのか、今夜騎士さまが家に帰ってきたら決めるらしい。不安そうな顔で笑顔を見せている彼女は、息が詰まりそうな声で「騎士の人は、大丈夫って言ってくれたんだ。でも、一人になると怖くなる……」と吐き出した。

 膝の上で指を組み合わせて握っていたアンナの両手に、わたしは無意識に手を重ねている。

「わたしから確実に言えることは、大聖堂の孤児院は最低ってことだけだけど……ねえ、もしなにか、こう、本当に大丈夫だったら、どう?」

「……本当に大丈夫だったら?」

「そう! 全部取り越し苦労だったら……ってこと。本当に、アンナ的に……ホッとするような、大丈夫なことが今夜に起きたら? 嬉しくない?」

 アンナの大丈夫ってなんなのか、わたしにはわかんないけど。話しながら考えるって大変だ。言葉が出てきても、なんだかまとまりがなくなって。

 でも、どうしても励ましたい。

「アンナの大丈夫ってなんなのか考えて、それが何個あるか数えてみよ?」

「なんだろう……。あ、二人がちゃんと夜に帰ってきてくれること……かな。一個目」

 二人、っていうのは、騎士さまと、騎士さまの従者の子のことらしい。一昨日の夜、二人に発見されて、兵士さんたちの駐屯所まで運ばれたそうだ。

「ギルって呼んでるの。同い年」

 へえ、会ってみたいな。だって、アンナの口元がほぐれた。

「うーん……あ、騎士さまの馬が、またわたしのことを嫌がらずに乗せてくれること」

 これで二個目だね。アンナは小指と薬指からピンと立てて、残りの〝大丈夫〟を探し出す。

「三個目……。庭の雑草を全部抜いて、木の枝も切って、お家が綺麗になること」

 へえ、アンナ、庭師みたいなことができるんだね。木の枝を切るのって道具の扱い大変だし、とっても危ないんだよって、大聖堂に来ていた職人さんが言ってた。

「あと……」

 三個も出たのに、まだあるんだ。アンナはわたしを見てにっこりとした。なんだろう、わたしのこと?

「わたしが買える古着、見つかりますように。四個目」

「あ、古着市! 忘れてた。話し込んじゃったね……」

 店長から借りている懐中時計で時間をチェックすると、午後十二時なんかとっくに過ぎていた。

「うわー、やだぁ店長が怒るかも」

「ねえ、マリー。わたしから店長に、マリーはわたしを店内で接客して、しかも道案内までしてくれて、予定より遅くなったって言うよ。お仕事が理由なら大丈夫かな?」

「わぁ、マジ? 助かる。本当に助かる……ありがとう……っ」

「うふ。じゃあこれがマリーの〝大丈夫〟になる?」

 あれ? いまの〝大丈夫〟のお返しをしてくれたの? アンナは優しげな顔で

、わたしの表情の変化を伺っている。

 さっきのお返しで、わたしもアンナから〝一個目の大丈夫〟をもらった。そして本人は、マリーは嬉しいかな? ……って顔をしている。

 ……アンナって。

「アンナ」

「なに?」

「アンナって、かわいいね」

「え、あ、ありがとう……んへ」

 なに、いまの。笑い声? んへ、ってちょっとかわいくないよ。

 口元を品よく隠しながら、隠しきれないムニャリとした笑顔でよろこんでる姿はかわいいよ。

 なんか、今のやり取りで大好きになっちゃった。

「マリー、もうお昼ごはん食べたし、古着市行こ」

「あ、うん。さっそく行こう。義足ならゆっくり歩いてこう」

「わたし走れるよ」

 ……え? 一昨日、義足になった人が? 脚が無くなるってそういう感じだったっけ? 大聖堂には戦争や魔物討伐で手足を無くした兵士も来てるけど、あれ?

 脳内でいくつかの疑問符を浮かべて体内時計が遅れだしたわたしをよそに、アンナは噴水の周りを一周だけぐるりと走って見せた。たったかたったかと、軽快な足取りで。

 やっぱりアンナって、お散歩中の垂れ耳わんちゃんみたい。

「マリー、軽く走りながら古着市に行く?」

「……行く! 急ぐぞぉっ!」

「おぉーっ」

 アンナと拳で気合を入れる掛け声を交わし、わたしたちは古着市のある大聖堂広場までジョギングしていった。



 大聖堂の前の広場はとんでもない人だかりになっていた。ちいさな学校から大きな学校まで、たしか祝祭前の春休み期間だからね。人波をかき分けるように進んで数分くらいで、はぐれないようにアンナの手を引きながら古着市まで辿り着いた。

 呼吸を止めていたみたいにぷはっと息を吐き出したアンナは、息を吸い込み直すと同時に、古着市のカラフルな屋根の露店や荷車をそのまま屋台にしたお店の数々にちいさな歓声を上げている。

「いっぱい、いる……!」

 うふふ、そうだね、人と服がいっぱいだよ。うちの店〝仕立て屋ミーツ〟はあっち、と指を差し、人波の向こう側を目指して直行した。

 この古着市は、広場の中心に建っている精霊王の彫像と、樹齢四千八百年くらいの大樹が塔のようにそびえ立つゆるやかな丘の上をぐるりと囲んで開催されている。

 丘の上の方は大樹と彫像が保護されている区間だから立入禁止なんだけれど、ピクニックやお昼寝にぴったりの丘の中腹から裾の芝はいつでも解放されていて、今日もお客さんがシートを広げて聖火のランタンを置きながら、思い思いの憩いの時間を過ごしていた。

 大樹の枝葉には、燃え尽きず、燃え移らない精霊の聖火……〝劫波〟から球型ガラスへ直接火を移した飾りがいくつも引っ掛かっている。聖火のランタンは、手のひらサイズの一個がそばにあるだけでほんのりあったかいのに、それが大樹にたくさん集まっていると、周囲の広場はぽかぽかだ。

 おじいさんやおばあさんの人たちは、これを〝陽気〟とか〝日向ぼっこに最適〟って言う。常に太陽があった時代の言葉を受け継いだ人々だった。

 あたたかい広場の外周に開催されている古着市も、今日は気温が高そう。気持ち的にも。店舗を持っている人だけではなく、どこかの制作工房(アトリエ)にいるだけの針子や、そういうところにいない素人の針子、普段は発注するか買うだけの上流家庭の人々が、古着市主催の〝テオセア服飾協会〟への気軽な認可申請を経て出店しているのだ。

「古着市で出せる古着って、別に買ったものじゃなくてもいいんだよ。自分で作って自分で着てた服でもいいの」

「へえ~……自分で作った服でもいいんだね」

 そうなの。出す服の内側に、お店のタグか製作者の署名刺繡と、洗濯表示のタグさえついていればね。

 にぎわう市場の奥へ行くにつれ人だかりが落ち着いてきて、目印は黒猫型の立て看板と、ライラの花がわさわさ詰め込まれた花車だ。ああ、ほら見えてきた。左右どこを見てもなにもかもが珍しすぎて目が回りそうなアンナの袖を引き、白、ピンク、薄紫色のライラの花車で店先を飾る一角を指差した。

「あそこあそこ。行こ!」

 綺麗な花でしょ、テオセアの国花はライラだよ。

 小花は四枚の花弁と見せかけて、一つの花冠が四つのアーモンド型に分かれているだけなのだ。ちいさな小花が枝の先に身を寄せ合って穂のように咲く低木の花は、この大聖堂広場はもちろん、家庭でもよく植えられている。

 ライラの花を目印にお店へ向かい、わたしは改めてアンナに「いらっしゃい!」と伝えた。



 マリーに案内してもらった古着市の、最初にお客さんになったお店はもちろん〝ミーツ〟だ。彼女が針子をしているお店で、荷車にライラの花の切り枝が詰め込まれている。

 花の穂の先が写り込む姿見の前で、マリーはわたしにいくつかの古着を当てながら「どれがいい~?」と接客していた。

「いまの流行はね、こっちのくすみのある青空色だよ」

 マリーがわたしに当てるワンピースの色は、落ち着いたトーンの水色だった。森から見る青空を煙で燻ったようなくすみ加減の色は微妙に好みじゃないけど、デザインがかわいい。スカートが花のように膨らんでいる。袖や襟がすっきりとした四角形でカットされていて、裾とそれぞれのフチに同じ布の白色を使って包まれていた。

 次に当てるのは、爽やかで明るい緑色のスカートに、茶革のボディスがセットの古着である。こちらは「セットの方が安く収まるかも」というお財布事情に気遣ってくれた。

「百二十メア以内でギリギリ選ぶんなら、これもいける」

 出してきてくれた三着目もセット売りだった。肩周りを隠すだけのケープのようなものがくっついたベストとスカートは、明るい青磁色の同じ布で作られている。パッと見て、これかわいい……と思った。

 この服の片隅には、鳩のような小鳥と、ツタのようにクルクルと巻かれて組み合わせた葉の、図形的な刺繍が白い糸で施されている。

「こっちのブラウスから選んでくれると、合わせて百三十九メアだよ」

 マリーが示した荷車の中には、四角く折り畳まれたブラウスや肌着類がいくつか入っており、ここの服はすべて〝二十メア〟だという札が掲示されていた。ここは他の売場と違ってスカスカしており、午前中のにぎわいが想像できる。

 比較的シンプルで、袖口が引き締まっているブラウスを一着手に取ってマリーに見せてみると「これと合うと思う!」と、青磁色の服と見比べながら太鼓判を押された。じゃあ、これにしよう。

 買う前に、試着ルーム……というところで合わせて着てみてほしいと分厚いカーテンで囲まれた小部屋の中へ通され、わたしは軍服のボタンを外した。



 試着ルームがゴソゴソ動いているのを見届けて、数分後に声をかけると、アンナがカーテンの隙間からコソッと瞳を覗かせた。なにから隠れてるの?

 慣れてなさそうにカーテンが開かれ、青磁色の上下に身を包んだアンナが登場する。

「あ、似合う! いい感じ」

「そう……?」

 なんか自信無さそう。でも大丈夫、あとはわたしに任せてほしい。

「うーん、スカートとベストの腰と裾はちょっと詰めようか」

「詰めるの?」

「お直しってこと」

 ブラウスの方は肩かな? 目測しつつパッパッと布をつまんで、アンナの体のラインに合わせていく。成長期の男子服なら余らせていても別にいいんだけど、彼女にはちょっとサイズが大きいみたいだし、このデザインはフィットしていた方がずっといい。

 それに、古着はどうしても早くヨレ感が出てきてしまうから、身頃はしっかり縫い直す。アンナには軍服に戻ってもらい、お買い上げの服を持って作業台へ向かった。

 服をひっくり返して糸を取り、小型のアイロンストーブからコテを取り、慎重に仕上がりの折り目をつけていく。興味深そうにこちらを見ている視線を一人分だけ感じて、ちょっと誇らしくなった。

 あとは縫ってしまうだけ。アトリエならしつけをおこなって時間をかけてあげられるけれど、今ここは市場だ。最低限の作業で仕上げてあげるのが一番だと思い、マチ針を打って足踏みミシンで一気に縫った。

「よしできた! 着てみて!」

 仕上がりをチェックしてから購入者兼モデルさんに服をパスして、再び試着ルームへ押し込んだ。背後でわたしたちをじぃっと見ていた他の針子や店長が、アンナのいるカーテンの向こうを一緒に見ている。

 そして、先ほどよりも早くにカーテンが開かれた。もう慣れてなさそうな感じはなくて、朝に窓のカーテンを開けるようにアンナが姿を現す。

「さっきよりぴったりしてる!」

 ……ああ、本当だ。モデルさんのお世辞とかじゃなくて、針子(わたし)たちから見ても体のラインにフィットしていて、アンナっていう人間の存在感を支えている服に仕上がってる。最高。こういう感覚、一番気持ちいい。

「アンナ、めちゃくちゃ良くなった! 似合ってる!」

「マリーってすごいよ!」

 想像したイメージ通り、アンナに似合っていた。スカートの腰周りはもちろん、ドレープの上の方も詰めたから裾が外側にフワリと広がるし、サイズ的に身頃のシワが目立ったベストはタイトなシェイプに生まれ変わった。中に着た白いブラウスも、肩はたるんでいない。

 わたしがこの手で、お客さんに似合わせたんだ。後ろで店長も「あら〜、いいじゃない!」と、わたしの仕事に対していつになく高い声になっている。

「マリー、お友だちなの?」

「はい。この子はアンナです」

「初めまして」

 店長にだけ聞こえる声で「わたしと()()なんです」と伝えると、彼……彼女は「あら、あなたもそうなのね?」とアンナに確認し、わたしたちのやり取りに気づいて彼女も頷いた。特定の言葉を使えないけれど、知り合いと仲間にだけは通じ合う。

 店長は華奢でも力強い肩で胸を張り、綺麗なローズ色のリップで、アンナにニコリと笑いかけた。

「服、素敵よアンナちゃん! でも、靴が合わないわよね。靴。軍靴じゃ兵隊服と登山以外ダメよ。マリー、店舗の奥にある寄付の在庫から一足おあげ」

「はぁい! ……えっ、今から?」

「もちろんそうでしょ。終わったら戻っておいでよ!」

 うわぁ、とんぼ返り? あー、市場の撤収にはわたしを間に合わせようってことなんだ。店長の魂胆がわかって口角がヒクヒクしてきた。

 でも、わたしたちのやり取りに睫毛をパチパチさせながらコンパクトな姿勢で立っているアンナに、軍靴が似合わないっていうのは賛成。

 編み上げの短いブーツか、ストラップ付きのモカシンが無難かな。戻るのは面倒だけど、寄付の靴をあげるのはいいアイデア。

 さすが、なんだかんだ大聖堂や神殿の元お抱え縫製官だった〝最高裁縫師(オートクチュリエ)〟の店長だね。

「じゃ、行ってきまーす……。あ、アンナ、古着市ってもういい? まだ見たいところある?」

 そう聞くと、アンナはううんと首を振って「眺めながら帰りたいくらいかな」と笑った。来たときよりいい笑顔だ。

 畳んだ軍服を抱えて市場を歩きながら、アンナはずっと「かわいい服……うれしいな。ハーロルトさんにありがとうって言わなきゃ」とか「ギルがなんて言うか予想してるの。ギルはきっと褒めてくれるし、色味の方も気になって『その色、流行ってるのか?』って言うよ」って、楽しそうに話していた。

 午後になって暗いはずの大聖堂広場の市場は明るくて、まだまだ昼のお祭りくらいのにぎわいがある。

 この空――太陽のある空の下が〝極夜のヴェール〟に覆われていても、太陽はその向こうで大地を照らしている。日照時間も長くなっているはずで、人間の体内時計と気温が合って、活動量は増えていた。

 そして、祝祭前だから。それが一番の理由かもしれない。祝祭前は、こういう古着市みたいな古物を出す市もよく開かれているんだ。

 四月の最後の週――この七日の間に太陽が出る〝自由週間(カデンツ・ウィーク)〟から、わたしたちの一年が始まるの。わたしにとって本当の新年はこっちだと思っているくらいの、春の大祭典〝魔女王ワルプルガの祝祭〟が始まるんだ。

 噴水のある街園前の道に通りがかったとき、アンナに魔女王ワルプルガについて知ってるかと聞いたら、彼女は目を丸くして「もちろん! エルフィから何度でも聞かされていたし、本を読んだよ!」と、こちらに迫るくらい前のめりの姿勢で答えた。

 そして、ちょうど街園の周囲に植えられた木々の隙間から、ランタンでライトアップされた噴水が見えた。水の飛沫や水柱が、ランタンの光を受けて溢れ出す。

 その景色を背後にしたアンナは、暗い極夜のなかにいても淡い光を纏うように錯覚するほど、淡い逆光に照らし出されていた。

 彼女はしっとりと目を伏せ、祈りの言葉を暗唱するときの静かな仕草で胸に手を当て、花のように唇を開く。

「――魔女王ワルプルガは、豊かに広がって波打つような、赤い海の髪をしていました」

 それは、よく通る軽やかな声から暗唱された〝星樹記言(せいじゅきげん)〟のとある章だった。

「ワルプルガは、体内に黄金の血を持ち、強い精霊の力を持っていました」

 わたしは……なんだかこれを聞かなきゃいけないような気がして――アンナの暗唱を、心のなかで一言一句違わず追っていた。

「ワルプルガの黄金の血を求めて、人々は……」

 アンナの暗唱が止まってしまった。彼女がわたしの背後を不思議そうに見つめていることに気づき、ふと振り返ると――そこにいたのは、〝ルカ〟だった。

「ルカ! ルカじゃん、もう大聖堂はいいの?」

 ルカに駆け寄ると、ルカはわたしを見るなりパッと嬉しそうな顔をして、左手で額のゴーグルの位置を直す。癖毛を押さえるゴーグルの位置をこまめに直すその癖、やめられないんだね。

「よう、マリー。元気そうだな。大聖堂の方はもういいんだ。それより、あいつは誰だ?」

 ルカに言われて振り返ると、ルカとわたしを見比べるアンナと目が合った。

 ルカの横に立ち、わたしはルカを紹介する。

「この子はルカ。大聖堂の孤児院で一緒だった幼馴染。今は大聖堂の機械整備技師なんだよ、すごいでしょ!」

「まぁな、よろしく」

「この子はアンナ。今日できた友だち」

「よろしくな、〝アンナ〟」

 アンナはルカの目を見て「よろしくね、ルカ」とニコッとしつつ、ルカとわたしの顔を目だけで見比べている。

 そして「あのう、マリー?」と前置きしてから「幼馴染がいたんだね。今もよく一緒にいるの?」と聞いてきた。

 当たり前じゃん、ルカが一緒にいてくれたおかげで〝わたし〟は少しも寂しくなんてなかったんだから。

 わたしが九歳のときに大聖堂へ来た頃、とっくに先輩だったルカは年が二個上の十一歳だったし、わたしの代わりに雑用や年下の世話も引き受けてくれた。わたし、子どもの世話って苦手なんだよね。

 だから、わたしはお兄ちゃんみたいに思ってる。大聖堂で働くようになってからも、〝みんな〟に信頼されているみたい。

 最近お店にもよく来てくれて、時間が合えばお昼ごはんも一緒に食べるし。

 ……そういう話をしきってルカと別れると、アンナはこちらを見ながら腑に落ちない顔をしていた。なんだろう。

 あ。ルカに、次いつ会えるのか、聞くの忘れた……。

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