No.6:出逢う途へ
ハーロルトさんは、隙がない……わけじゃなかったみたい。
エルヴァスティ領を抜けて首都に入り、夜になってやっと落ち着いたのは、ハーロルトさんの別宅に馬を止めてからだった。
別宅……というか、ムーエン村の宿屋よりもボロボロの廃屋みたいなお家である。雑草を刈れば広い庭が出てくるはずの敷地の真ん中に、嵐が吹けば飛んでいきそうな木造建築の家がポツンと建っているのだ。
家の外観は、黒色の木軸が外壁に露出していて、木軸の隅まで隙間無く素色の漆喰が埋めている。木軸が交差している壁の下半分を支えるレンガ壁は、ほとんどツタまみれだ。
敷地を囲む鉄柵の塀から、手入れされていない木々の枝葉が伸び切っている。雑草も茎が太く長く、茂みだけで森のようになっていた。
草が石レンガの道を侵食していて、どこを踏んだらいいのかわからないくらい。足元を照らしても照らしても、茂みと雑草の下の闇が浮き彫りになって出てくるだけ。
鍵なんか錆びていて、家主が内部の引っかかるところを探りながらガチャガチャやってるうちに眠くなりそう。
その手元を照らすギルベルトは、逆に目が覚めたような顔をして野良猫が走り去る屋根の上を見ていた。
屋根も壁も、ツタが這ったり……どれくらいこの家に来てないんだろう、という具合で。
「……玄関と寝室は掃除してある」
ほんとかなぁ……。わたしは見るまでなんにも言わないよ。やっと錆びた鍵を開けられたハーロルトさんは、ムーエン村のお菓子屋さんで見たときと同じようにドアを開けてくれた。
あの時のかっこよさ、どこ行っちゃったんだろう。さっさと入って玄関を見回した。
玄関は……掃除をしてあるというか、絨毯や家具といった、生活空間にありそうな物が一つも無いだけだった。
家を出入りするための扉があって、灰色になった窓枠がちゃんと磨りガラスを嵌めていて、壁に黒く煤けた燭台がくっついているだけ。
そして、床と天井の隅にはホコリを掴んだ蜘蛛の巣が大きく広がって、ハンモックのようになっている。
ハーロルトさん。掃除っていうのはね、こういうのを無くす作業と、こういうのを起こさせない定期的な作業のことだよ。
「使用人とかいないの?」
「いない。ここはおれの隠れ家みたいなものなんだ」
「なにから隠れることがあるの?」
「記者と、熱心な支持者」
記者とファン……? きっとこの家を開示した方が静かに暮らせるよ。
ホコリを吸い込まないように口元を覆うと、続いて入ってきたギルベルトが「うわ」と声を出してから、やはり口元を覆った。
「ハーロルトさん」
「なんだ」
「ぼく的に、オバケ屋敷です」
「見世物じゃないぞ」
そうだね、あんまり見たいものじゃないし――寝れる状態なのかどうかは期待できないけど――寝室へ行こう。
ハーロルトさんの案内で歩く廊下は、ギシギシと鳴る床板が沈んだり浮いたりしていた。歩いてないところからも、バキッと嫌な音がする。
音よりも、閉め切ってあったせいか、湿気と埃のニオイを溜め込んだ木から、もうぼくたちは限界です、と言わんばかりのニオイが充満していた。
「ハーロルトさん……。寝室行って寝る前に、お家の中の換気しようよ……」
「冷えるけどいいのか?」
ハーロルトさんがギルベルトの方を見ると「ぼくは平気です。あ、いえ、今が一番平気じゃありません! 換気に賛成です!」と食い気味になって、一番近い窓に手をかける。
鍵を下げても両開きの窓の蝶番は錆びていて開きにくかったが、なんとか開けて新鮮な外気を取り込んだ。
夜だから寒々しいかと思いきや、この家に通った風はむしろ清々しいくらいの冷たさで、やっと息ができそう。
「もう廊下も寝室も、窓は全部開けちゃおう。ハーロルトさん、玄関も開けておいて。外に埃を追い出すから」
「あ、ああ、わかった」
ギルベルトが廊下の窓を全部開けていき、ハーロルトさんが玄関を開けたのを見届けた。手際が良くて、すごいなぁ。
「じゃあ、わたしが埃を〝追い出す〟よ。二人とも、外に出て。なるべく玄関から離れててね」
わたしは廊下の突き当たり。頭の中でイメージするのは〝運ばれていくホコリや塵と、蜘蛛の巣〟だ。
わたしの魔力はまだまだ残っていて、窓から冷たい風が吹き込んでいる。
もう場が整った。右の人差し指で示すのは、玄関。これはホコリたちへの命令だから。
「〝言葉の魔法〟……玄関の外へ、出ていって」
その途端に――廊下を吹き抜ける冷たい風は、暖かい風へ変化した。
そして、風の寒暖差によって小規模の上昇気流を生み、すぐさま吹く風になる。ホコリや塵と蜘蛛の巣は、玄関まで風に従って運ばれた。
わたしの魔力から溢れた粉粒のような光を伴って吹く風は、精霊の〝言葉〟に従ったのである。
魔法使いになれるほど魔力が高い精霊の言葉は、それだけで魔法になることがある。
わたしたち魔法使いは、悪い言葉を相手に伝えると、それが呪いになって――実現してしまいかねないのだ。
しかも、その悪い言葉は魔法使い同士には効かないのに、人間や動物にはよく効いてしまう。洗脳すら呆気なくできてしまうのだ。
言葉は人間が編み出したもので、本来、人間のためのものだった。感受できても魔力のない肉体が呪いをを成立させる。
思考を音に乗せて発する言葉も、刻印と同じ古代魔法の一つである。原初の精霊たちはこれらの魔法を使っていた。
厳密にいえば、あともう一つ古代魔法の系統があるが……わたしは使えない。
玄関の外で待っていたハーロルトさんとギルベルトの方へ、ホコリや塵、それにくっついていた小虫を内包する風が吹き飛んでいく。
無事に外に出せたようで、ギルベルトの「うわぁっ」という驚いた声が聞こえた。
とりあえず廊下はスッキリしたので、あとは寝室だ。玄関へ向かうと、玄関の四隅に溜まっていた汚れも風に巻き込まれたのか、パッと見ても綺麗になっている。
顔半分を外套で覆っていたギルベルトは、わたしに気づいて「魔法ってすごいなぁ」と目を輝かせていた。
「ありがと」
「寝室も今ので掃除できるのか?」
「部屋だけならね。お布団はちょっと……すぐには無理かも」
ハーロルトさんへ視線が集まる。しかし、彼は「状態を見てからだ」と言ってスタスタ歩いていった。
その背中を見ながらあとに続くギルベルトが、わたしにコソリと耳打ちした。
「……四か月だそうだ」
「なにが?」
「この家を留守にしていた期間」
四か月? 意外と少ない……。ああ、最後に掃除したのは四か月前ってわけじゃないのかも。
「隠れ家とはいえこれは不衛生だろ」
「そうだね……。誰か呼んだほうがいいよ」
家も痛むし、空き家を放ったらかしてもいいことないよ。たとえ、ここが本当に首都圏内なのかどうかわからない寂れた町の隅っこだとしても。
ハーロルトさんはスムーズに寝室の鍵を開けると、そこは自分の部屋というより、お客さんが泊まる用意ができる大きな部屋だった。でも、ベッドは二つ分しかない……。
カーテンは閉め切ってあって暗いが、ハーロルトさんが円筒型のランタンで部屋中を照らして見た感じ、たしかに廊下や玄関より清潔である。
布団や毛布は椅子の背もたれにかかっており、寝て起きて整えたままベッドに敷いていない。
わたしがカーテンと窓を開けてホコリを追い出すと、二人はせめて布団をはたこうとバルコニーへ持っていく。
「ベッド二つしかないけど、どうやって寝るの?」
「おれは自室で寝る」
ギルベルトと二人で一つずつ使えばいいんだね。
「じゃあ、ハーロルトさんの部屋もホコリを追い出しに行くよ」
「助かる。ありがとう」
「どういたしまして」
エルフィは家事で魔法を使うことはなかった。掃除や料理のために魔法使いやってんじゃないのよ、って。
エルフィが魔法を使う姿を見たのは、わたしに教えるときくらいだった。彼女は、いったいいつ、なんのために魔法を使っていたのだろう……。
✦
夜に寝具を干すことになるとは、さすがに思わなかったな。客室とハーロルトさんの自室は比較的掃除されていて、ホコリやダニが溜まっていそうな布団になっていなくて助かったとは思うが。
バルコニーの外の庭と森へ向かってはたき倒した寝具を回収し、各々がベッドにシーツを敷いていたとき、二人だけの客室で、アンナが「ねえ、ギル」とぼくに声をかける。
「なんだ」
「……って呼んでもいい?」
え? という顔を、ぼくはしていただろう。口元をむにゃむにゃさせるように微笑んでいたアンナと目が合った。
「ギル……って」
「あ、ああ。いいぞ」
ぼくは家族と友人には〝ギル〟って呼ばれている。そちらの方が気が楽だ、と思うほどに馴染みがあった。
「アンナはアンナでいいのか? エルフィから呼ばれてた愛称とかは?」
「愛称? アンナでいいよ。無いもん」
「そ、そうか……」
エルフィというかたはエルフリーデだからエルフィなのに、アンナには付けなかったのか。親しみのある間柄なのかと思っていたんたけどな。
まあ、ぼくみたいに長めの名前じゃないし、本名が呼びやすいのはいいことだ。
どこの国でも上流家庭は父祖から連綿と続く名を付ける。ぼくは〝騎士といえばこの人〟という最上級の精霊王の名を付けられて、騎士家の出身としてはちょっと荷が重いと感じることもあった。
改めて思い返してみれば、精霊と騎士は歴史的にも関わりがある。アンナも精霊側の歴史を教わったようだし、精霊王のことも知っているんじゃないだろうか。
――と思って、振り返ってみたとき。「なあ、アンナは……」と言いかけて、ビクリとシーツを整えている手を止めた。
アンナだけは寝間着を持っていた。それは知ってる。
だが、こちらに断りもなく、無言でそれに着替えようとしたので慌てて止めた。
「おいっ! ぼく外出てるからッ」
「へ? なんで……?」
「な、なァッ、なんででもだろォーッ!?」
爪先は絨毯を蹴るように弾き跳んで、ぼくは扉の外へ飛び出した。なに考えてるんだあいつ。本当になに考えているんだ。
ぼくは男だ……っていう認識が、アンナにはないようだ。女性であるエルフィから男女教育をしてもらえてないなんて……。
エルフィへの好感が持てなくなってきた。ああいや、そんなことはいいか。
それより、蝶番が壊れてないといいけど、バンッと勢いよく閉めてしまった。これ開かなかったらどうしよう。
……そのときは非常用の消火斧を使うか。
この家になかったら、草が人間の背丈を超えそうなほどわっさりと盛り上がって茂る庭を抜けて、馬を呼ぼう。
建物をぐるりと囲む庭の、裏手に厩舎があるのだ。
この家はなぜか北向きに玄関があって、日当たりのいい方を厩舎にしてある。これは……愛だな。ハーロルトさんによる、セレンへの。
ハーロルトさんに愛されているセレンに来てもらって、後ろ蹴りしたら一撃だ。天馬の脚力なら鉄も砕ける。
ぼくがまたこうしてよそ事を考えているうちに、アンナが扉を開けた。馬たちは予定通り休んでいてもらおう。
「着替えたよ」
「ぼくも着替えるから、アンナも出ていてくれ」
「はーい」
腑に落ちない顔をしたアンナと入れ替わりで室内へ入り、ぼくはひと息ついた。
ハーロルトさんが自分の分の聖火のランタンを円筒から出して、室内の高いところへぶら下げてくれたおかげで、この部屋は暖かい。
さあ、軽装の革鎧と制服を脱ごう。士官学校から支給されたものの中で立派なものは、教科書と制服一式と革鎧くらいだった。
革鎧を椅子に立て掛けておき、下に着ていたアーミングジャケットの紐をほどこうとしたとき。ジャカード織のカーテンの隙間から、ほんのりとした光が差し込んできた。
夜の空に、淡い光。
それは、この国の希望の象徴である騎士の中でも――最も憧憬を浴びる騎士団がやってきた証だ。
ぼくはすかさずカーテンを開けて、バルコニーへ出た。寒いことすら気にならない。それを見ただけで、全身の血が巡る。
ぼくの目が奪われたそれは、ヴェールがかかる夜の空と、まばらな星々を背景にして空を進軍する騎士団だ。
大きな両翼を広げて飛びながら、空を駆け抜ける天馬――そう、〝天馬騎士団〟。正式名称は〝天馬乙女騎士団〟である。
遠くの方で鳴り響く蹄の音は、心地よい雨音か、城下町の夜で時折聞こえる舞踏のステップのようだった。
絶え間なく鳴らす蹄の音の主は、数少ない騎乗用の天馬に乗れる名誉を勝ち取った、唯一無二の〝女性騎士〟たちである。
天馬騎士団が管理する特別な天馬に乗るには、天馬が認めた〝女性〟でなくてはならない。
しかも、騎士団にいる人に飼い慣らされた天馬は、一生涯に一人の女性騎士しか乗せないのだ。天馬は、心に決めた相手に自分の一生を捧げる。
天馬の繁殖や育成、調教の難しさといったら……ぼくなんかには想像もつかないが、この国の兵士より人手不足で、天馬不足だろう。
幸いにも普通の馬より二倍ほど寿命が長いため、天馬に乗る女性騎士が退役したり、事故などで天馬に乗れなくなっても、天馬を求める先はたくさんある。
空からの運輸の馬車や、要人のための馬車だ。天馬は賢くて力もあり、騎手がいようがいまいが、教えられたルートを飛んで帰ってくるのである。
ぼくは、天馬が好きだ。精霊王の次に憧れたのは、テオセアの天馬乙女である。タハティラに天馬の騎士団は存在しない。
いつか天馬に――という夢は絶たれてしまった。ぼくは〝ギルベルト〟だから。
ぼくは、女じゃない……。
ヴェールを背にした夜空を見つめる。天馬とワルキュリアの列が羽ばたく道を、糸のように細い月が見守っていた。
先頭に掲げた聖火のランタンの光を、彼女たちの銀色の鎧が反射させている。ぼくが――いや、この国の人々が知っている〝流星群〟や〝彗星〟っていうものは、ワルキュリアたちのことだ。
あの列の先頭以外の灯りは、先頭にある聖火ほど明るくない。他はただの松明だ。
先頭は名のある騎士だろうか。目を細めて見てみるが、肉眼では米粒ほどの大きさの有翼の騎馬が列を成していても、識別できるほど見えなかった。
彼女たちは首都に出現した魔物を狩りにいくところか、魔物が出現していないか、警備のために空から巡回しているところだろう。
バルコニーに夜風が吹き込んできたので、部屋に戻って着替えを再開した。寝間着などは無いので、この重苦しいジャケットを脱ぐだけである。
サッと済ませて待たせてしまったアンナを迎え入れ、二人ともそれぞれのベッドで休んだ。
ぼくは――普段通りすぐには寝つけず、片腕を枕にしながら頭の中で明日の予定を思い返す。
朝一番に向かう先は、首都のほぼ中央に位置する議会堂だ。騎士団の議会には、国民のための十二の騎士団と近衛騎士団、国防大臣や官僚たちが集う。
ぼくは正式な従者ではないから、議会堂の控室で待つのだ。アンナは……どうするんだろう。てっきり一緒に同行するのかと思っていた。
ぼくが寝ているベッドの左側にあるチェストと机の向こうに、アンナの寝ているベッドがある。彼女はとっくに寝ついているのか、布ズレの音すら聞こえなかった。
ムーエン村から出て、エルヴァスティ領を経由して首都入りになったこの道中は、約六時間ほど。乗馬に慣れないアンナにとって大移動だったことだろうと思う。
それに……この〝隠れ家〟も、ぼくたちが休めるくらいに掃除したのはアンナだ。ぼくは窓を開けて布団をはたきに外へ持っていっただけ。
明日の朝からは、ぼくがハーロルトさんに貢献しよう。魔法は使えないけれど、剣術と馬術を修行した二本の腕がある。
瞼の裏に焼きついた夜空のワルキュリアの隊列が羊の群れのようになった頃、ぼくは眠ったようだ。
✦
朝、小鳥と同時くらいに二人は起きていたみたい。廊下で靴の金属音が二人分鳴っていて、ひそめた話し声が遠ざかっていく。それがわたしの目覚まし時計になった。
薄目を開けて部屋の中を見ると、やっぱり朝も暗いんだなぁ……という言葉が、まだ覚醒しきれない意識のなかで思い浮かんだ。森では目覚めた瞬間から、新しい朝だとわかるほど明るい朝だった。
う~ん、薄暗くて、まだ夜みたいで元気が出ない……。でも、起きて二人を見送りたいな。
という希望よりも、まだ寝ていたい、という欲求が勝った。議会について行くつもりはないし、もう少し寝ちゃおう。
……と思って目を閉じ、少しうとうとしただけの間に、二人の用意は整ったようだ。ギルの声で「アンナ。アーンーナ」と名前を呼ばれ、布団の上から肩をゆさゆさ揺すられた。
「アンナ」
「ギル、おはよ……」
「おはようアンナ。ぼくたちはそろそろ行かなきゃいけないんだ」
ゆっくり体を起こしてみると、ギルは昨日の革鎧だったが、ハーロルトさんはかっちりした礼装を身に纏っている。聖火のランタンの光が彼の出で立ちを照らしていた。
裾までピンと張った漆黒のベルベットのマントがなめらかな光沢を受け、襟元の黒い毛皮や、両肩を隠すように羽織るマントの留め具まで視線が導かれる。
マントの中は、昨日まで着ていた軽装の銀の鎧ではなく、鎧の外観や装飾を模したデザインの腰丈のジャケットだ。マントとは違う素材のようだが、色味を合わせた深みのある黒い地と、黒地を飾る銀色の糸を使った刺繡が、彼の体躯を浮き彫りにするように飾っていた。
ハーロルトさんの腰のベルトから下がっている長剣は相変わらずだが、一時わたしの義足として使った箒を固定していたナイフとベルトは、いまはギルが身に着けている。
わたしがそこに目を向けたので、ギルは得意げに笑って、金細工のナイフの鍔に親指をかけた。
「エルヴァスティの紋章が入っている。これが従者の証になるそうだ」
横に張り出したナイフの鍔部分が牛のツノ型になっており、逆さまの顔の牡牛が鍔の下に付いている。ギルがベルトから引き抜いて見せてくれたナイフの鞘にも、金の牡牛が入った紋章が彫りつけられていた。
わたしが「すごいね」と言ったとき、ナイフをベルトに戻すまで得意げな顔をしていたギルを、ハーロルトさんが見ている。表情の変化はないが、彼の周囲はなんだか穏やかな雰囲気だった。
「アンナ、悪いが今日はこの家で待っていてくれるか? 議会の帰りは夜になるんだ」
「はい、ハーロルトさん。待ってます」
「……おれたちが家に帰ってきてから、きみのこれからのことを話そう」
帰ってきたら、これからのこと……。わたしは便宜上……孤児だから、孤児院に行くのだろうか。それともどこかの働き口が見つかれば、そこへ行くのだろうか。
わたしは魔法があれば生きていけるけれど、この国で魔法使いだとバレれば、とても平穏に生きていけないようだ。じゃあ……一人で別の大陸まで飛んでいってみる?
そこまで考えたとき、表情が暗くなっていたようで、ハーロルトさんはすぐに打ち消す言葉を続けた。
「あ、いや、きっと悪い話ではないと思っている。少なくとも、きみが望まないのに独りにすることはないから、心配しなくていい」
「……そう?」
ハーロルトさんが言うなら、きっとそうなんだ。そう思わせてくれる立ち居振る舞いが、彼という騎士を存在させていることを充分知った。
「待っている間、昨日みたいにお掃除してていい?」
「もちろん。助かる……けど、あまり魔法は使わない方がいい」
午前中は人が通るかもしれないからだ。雑草が生い茂る塀の中まで外から見えるかはわからないけど、わたしは頷いた。家主の言いつけなら守ろうと思って。
わたしはハーロルトさんから「なにか入用ならここから使え」と革製の巾着袋を受け取る。それを見たギルはちょっとにやりとして「中身がなんなのかわかるか?」と聞いてきた。
「人間のお金でしょ? 知ってるよ」
見たこともあるし、使ったこともあるよ。
森に迷い込んできた――エルフィがわざと迷い込ませたこともあった――行商人から物を買うときに、エルフィが持たせてくれた。……あれがハーロルトさんがくれたこのお財布の中身のように、本物だったかはわからないけれど。ドングリだったのかも。
「とりあえず、町で自分の着るものを買ってきたらいい。一応、飯代の分も入れてある」
ハーロルトさんとギルの後ろを歩いて、馬が二頭準備されていた庭まで出た。この家を出て左の緩やかな坂の先に、首都の一角を構成する町メッケルンがあるらしい。
地平線に対して斜めから入射する朝日のおかげで、昼より朝の方がまだ明るい国だ。乾燥した気候も手伝って、大地や森と一体化するような町の影が道の先に見える。
「この坂を上って、道なりに真っ直ぐ行くと橋がある」
「ぼくたちもメッケルンを通っていくが、今行っても店はまだ開いてないからな」
現在、朝の六時過ぎ。お店はだいたい十時以降に開店することが多いという。
ハーロルトさんはセレンに乗っていくが、ギルは自分の馬ではなくて借りてきた馬のため、馬を返してからセレンに二人乗りをして議会が行われる議会堂へ向かうらしい。
議会堂は首都の中央付近に位置する。メッケルンも含めて首都は台地になっているこの都市は、台地中央が円形に窪んで巨大な湖になっており、そこに王の居城が建っていた。
居城の北側から伸びる石橋を渡った対岸に森林と神殿があって、南に議会堂と広場、西側には今は使われていない古い塔があった。東側の大聖堂を抜ければエルヴァスティ領方面で、わたしたちがいるメッケルンの町も東側である。
「大聖堂へ行く道は店が多いが、祝祭前の準備で普段より人通りも多い。用事はないだろうが、もし見に行くときは不審者に気をつけてくれ」
「はーい」
馬上からわたしを気遣うハーロルトさんと、腰に立派なナイフを下げていているからか、どこか慎重に馬に乗り上げたギルを見送った。
速歩で去っていく二人と二頭の馬の背中を眺めていたとき、ふわりと風が吹く。軽い風は庭の鬱蒼とした茂みをざわざわと揺らし、青い苔と土のニオイを運んできた。
庭の周りも掃除しよう。足元をよく見れば茶色い枯葉もたくさん落ちており、突風が吹けば散らばりそうだった。
家の中は、とりあえず水回りと暖炉をまともに使えるようにしよう。午前中に終わるだろうか。
「先に換気して、水回りかな……」
暖炉の状態はよく見ていなかったけれど、煤まみれで汚いだろうなぁ。お店に入るなら、唯一の服である兵隊の制服が煤で汚れない方がいい。
この寝間着のまま水回りを掃除し、兵隊の制服に着替えてメッケルンの町へ向かえば、ちょうど開店時間になっているかも。
とりあえず、この家のすべての窓を開けてこよう。わたしは義足を鳴らしながら家の中へ戻った。
✦
貸し馬屋まで馬を返しにいったとき、待機している馬が並ぶ小屋の戸のところにグラズルの顔が見えた。元気そうで良かった。また今度、きみを指名する。
ハーロルトさんが待っていたので、急いで店を出てセレンの背に乗った。がっしりとした馬の背は乗りやすい。手綱を握って鞍の後ろに乗るハーロルトさんも、セレンと信頼関係がしっかり構築されているようで、乗るだけで両者から伝わる安心感があった。
「セレンとは何年一緒にいるんですか?」
「五年くらいだ。おれが騎士になってからの付き合いになる」
騎士になってから――叙任から五年か。セレンとの絆が深いものだということが伺える。
「今日の議会終わりに、守護騎士の仲間たちと私的な集まりがある。ギルベルトにはそこに来てもらいたい」
「はい、お供します」
私的な集まり……そこへの供に、ぼくを。腰のナイフの重みが増したような気がして、喉の奥がきゅうっと窄まった。緊張しないと言ったら嘘になる。だが、それよりも、気になることがあった。
「あの、ハーロルトさん。ぼくは……従者ですか?」
「そうだが」
「……今後は、正式に?」
このナイフを〝本当に〟預けられる、くらいの……そういう意味で。ハーロルトさんは息だけでふっと笑い、速歩になったセレンの足音に紛れないように「きみの気が変わっていなければ」と言った。
「か、変わりません!」
「わかった。前を見ろ」
前? それより、わかったって、だいぶあっさりと決めてしまうんだな。あまりの速さに拍子抜けしつつ、ハーロルトさんの顔を見上げようとしていた姿勢を直して前を見た。
首都の中央の街道は、どこまでも伸びやかに続いていくもののように思えるほど長い道のりだった。しかし、やっと目的地の屋根が見えてきたのである。
朝焼けを受けて発光するように堅牢な、白大理石のドームを頂いている議会堂だ。聖堂建築風の高さのある支柱が、規則的に配置されたアーチ型の開口部と窓を支えている。
柱はテオセアの神殿を彷彿させる分厚い礎石と溝入りの支柱だが、全体的には邸宅様式が混ざっている平面的な建物だ。
テオセアの首都の建築は、ハーロルトさんの隠れ家のように木枠の半分が外壁に露出する民家や建物が多かった。木造をベースに、煉瓦や石、漆喰で隙間を埋め、建物の屋根が冬の積雪対策で急勾配の。
ぼくの士官学校や兵舎も石造りか木造で要塞風だったが、議会堂はどちらかといえば威信や歴史を示すような雰囲気である。議会堂を取り囲む柵の周囲にずらりと立ち並ぶ松明や、御者付きの馬車の数々が物々しい。
「控室には他の騎士の従者がいると思うが、それぞれ主人を待っているだけだ。向こうから話しかけられない限り、こちらから話しかける必要はない」
「はい」
「ああ。お互いが様子見だと思っておけ」
主人を介さない従者間の過ぎた社交は必要ないというわけだ。そうだ、それより。
「ぼくの知り合いも……いるかもしれません。士官学校の同窓の者が、一足先に従騎士になっています」
「そうか。会えるといいな」
「はい!」
知り合いがいるかもしれないと思うと、少しはほぐれてくるものだった。カナロアの主人は……、たしか、海洋騎士団のオズさま。議会に呼ばれていれば来るが、あのかたは前線を退いている。可能性は低いだろうか。
✦
メッケルン一番のボロ家に……ハーロルトが?
おいおい、あそこはオレのバーちゃんちだよ。三年前に死んだらしい。オレが監獄にいた頃の話だからよく知らねえ。看守が教えにきただけだから。
てっきり家と土地は縁戚の手に渡ったと思っていたら、あいつが買い上げていやがったのか? 毎度あり。
なんて考えてる場合じゃねェわ。今しがた、ハーロルトは金髪の従者と二人で出ていったが、昨晩後をつけた通りなら、もう一人家の中に残ってる。
一昔前の兵隊みてーな、背が低すぎてオモチャみてーな、茶髪のぼうやが一人。
拉致して身代金……をせびるには、ハーロルトとの関係がわからんな。エルヴァスティ領からくっついてきたただの兵にしては、ガキんちょが大事そうに子犬を抱えるみてーに自分の鞍に乗せていた。
でも、年が離れすぎているような気がして……ダチって言われてもピンとこねえ。きょうだいか、親戚?
そんなまさか。あいつは他民族の自治領から流れてきた戦災孤児だ。まあ、孤児ってトシでも無かったけどよ。
なんでもいいけど、ちょっと接触してえな。そこらへんにいるガキに小遣いを握らせて、ドアベルをカランコロン鳴らさせてくるか……。
そう思ったオレは、一晩テントを張った木の幹に隠れるのをやめてメッケルンの凸凹道を歩いたが、祝祭準備のこの期間は隙のあるガキはいやしなかった。ガキでも犬でも猫でも、防犯対策に数匹まとめてお使いに出されている。畜生、おれがやんなきゃいけねーわけだ。
被っていたフェルト製の平たい帽子をさらに目深に被り、口元もジャケットの襟やスカーフで隠せるように肩をすくめる。端から見たら、怪しい猫背で帽子のトップに頭が突き抜けそうなキノコ野郎になってることだろうよ。
表札のないボロ家の前まで早足で行き、息を潜める必要はこれっぽっちもないが、なんとなく呼吸を止めてドアノッカーに手をかけた。金属の柵に隣接していたドアベルの留め具はすっかり壊れて、雑草に隠れて地面に落ちていたから。
あんまり触りたくないほど鍍金が剥がれたドアノッカー、記憶より低い位置にあらぁな。孫なのに墓も知らねぇよ、バーちゃん……。
それをゴンゴンっと鳴らす、その直前。ドアが開いて、思いっきりドカンッとオレにぶつかった。
「でぇッ!」
「え!? ごめんなさい!」
「てめーこのやろ、気ぃつけろォッ」
額に来た衝撃が腹から血を呼び、ついカチーンと来て怒鳴ったが……、ん? 兵隊服は兵隊服でも、それに身を包んでいるのは女の子だった。ちょっとブカついた男モンの制服を着た、手首の細い小娘が。
「あの……なにか御用ですか?」
ああやっぱり、声が女の子だ。緑の目を丸めてオレを見ているので、気を取り直して少し話してみる。
「いや別に、御用ってわけじゃねぇ。ここんち、今誰んち?」
「今っていうのは……?」
「ここは昔、オレの……ダチのバーちゃんちだったんだよ。会いにきたら表札無くなってるし、ドアベル落ちてっし」
「ここ、は……あー、今、わたしの……親戚の……ご主人さまのご自宅です……」
似合わねえ兵隊の服を着ている田舎娘みたいなこいつは、しどろもどろに答えた。親戚のご主人さま? そうかいそうかい。ま、いいや。おめーのそのツラは覚えたぜ。
「ご主人さまって、名前は?」
「あ、う、えー……」
なに? 発声練習? 聖歌隊?
「ムーエン……さまです……」
それ、エルヴァスティの村の名前ね。クソほどド田舎で、牛乳と鶏卵しか名産品がないとこね。あそこの村長すらそれを姓にはしてねーのよ。
「ムーエンさまに、表札書いときやがれって伝えといて。そんじゃあな」
「はぁい……」
踵を返して家を後にした。
鳥が巣へ帰ったみてぇに、一晩テントを張ってボロ屋を見張った木に戻った。
……たぶん、ハーロルトんちで合ってるわ。あの女の子の家ってわけでも無いんじゃねえか。自分ちで肩身をちいちゃくして来客対応するもんか。
ご主人さまっていうのは合ってんだろうか。あの子は搾りたての雑巾を持って出てきて、ドアノブとノッカーを拭いている。頼んでないのに証拠隠滅してくれてありがとよ。
ハーロルトが買ったボロ屋を、召使いだかなんだか知らねーけど、あの小娘が支度していた。得られた事実はこれだけ。嘘つかれただけだし、別にオレが行かなくても良かったかもな。
根城をあそこにするんなら、今日か明日には戻るだろう。オレは一旦ここから離れるが、夕方頃に戻ってくる。
オレは一人で戻ってくるんじゃねぇ。オレのカワイイ〝あいつら〟を連れて戻ってくる。
あいつら、オレの四年の刑期が明けた頃に迎えにいくって話、覚えてっかなぁ……。






