No.5:〝サンクチュアリ〟
もう気持ちが落ち着いた。だから、話せそう。
村外れの暗闇についたとき、根元から倒れたまま苔むした雪オークの幹に腰掛けて、わたしを囲む二人の騎士を見つめた。
彼らの背中側にある空の方が薄明るく、二人の表情はよく見えない。
向こうからはわたしの顔が見えるのかな。ちょっとうつむいてしまうけど、聞いてくれるかな。
わたしは森で暮らしていたんだ。
ただの森ではないけれど、呼ばれる名前がない森で。タハティラにもテオセアにもない、ヒスタルやドレフティアでもない場所――場所とも呼べないところ。
天穹、大陸、海、三世界すべての盲斑に現象した〝魔法使いエルフリーデの聖域〟にいた。
エルフリーデは十五年前、タハティラの街路の片隅でわたしを拾ったという。
拾った、というのも、本当に拾い上げたわけじゃない。街路の片隅で、身重の人間の女性がうずくまっていた。
彼女のおなかの中には、まだ三月にも満たないちいさな二つの光があった。
双子のうち、片方が人間で、片方が魔力を持つ半精だと気づいたエルフリーデは、透明になってそっと彼女に近づき、半精の胎児を回収した。
その半精の胎児がわたしである。
誘拐したわけじゃない。母体は出血していて、あのまま放っておけば、どちらも生まれ損なった……というのがエルフリーデの見立てだった。
エルフリーデは医者ではないから人体や病の癒し方はわからないが、永く生きた魔法使いである。
故に、半精の胎児を回収する方法を取ることが最善だと知っていた。
人間の母体に半精が宿ることは難しいという。精霊の大きな魔力量に、胎盤が臨月まで耐えられない。
生まれたてのネズミと大差ない大きさの胎児は、エルフリーデが魔法で再現した羊水が満ちて独りでに循環する、丸いフラスコや大きな水槽の中で育てられた。
わたしはエルフリーデを……エルフィを、母だと思っていた。そう呼んだことも呼べと言われたこともないけれど、そうなのかと思っていた。
でもある日「生んだわけじゃないんだけどね」と、この話を打ち明けられた。
「じゃあわたしの母はどこにいるの?」
「さあ、知らない。あれから会ったことなんかないし、あっちに行かない方がいいから」
「どうして?」
「どうしても。アンナも人間から見たら精霊だから」
聞いても核心を避けてはぐらかされた理由が、今日やっとわかってスッキリした気持ちでいる。
人間は神殿の御簾の奥に、わたしたち精霊を求めていた。だからエルフリーデも、あの聖域から出ずにいたのだ。
わたしも聖域の森から出ずに暮らした。出ようと思っても森が広すぎて、端から端まで辿り着いたことがない。
朝から歩いても、たとえ走っても、夕暮れになっても、森林の切れ間がなかった。
……あの森には朝があった。昼と夜があった。空にはヴェールなんて無かった。まるっきり世界が違うように。
このヒスタル大陸の空にヴェールの魔法をかけたのは、百十五年前の〝襤褸の魔法使い〟と呼ばれる男らしい。
極夜のように薄明だけを残して空を閉ざしたヴェールが出現してからというもの、大地のいたるところに茨が茂って、時折、暗闇から魔物が湧出するようになった。
この茨や魔物は同じ原因によって出現し始めた……というのが、ヴェール以後盛んに行われた調査研究に基づく現在の通説だという。
原因とはもちろんヴェールで、核心的には、襤褸の魔法使いだ。
その名を聞いてわたしの脳裏に浮かぶのは、巨大な怪鳥のように大きな継ぎ接ぎまみれのマントを広げて、顔を隠した青年の姿である。
彼が指を鳴らしただけで、炎が矢のように飛び交った。
その一矢が、わたしの左の足首を鋭く貫いた。
侵食する炎によって端から黒い炭になっていく脚を切り落として救ってくれたのは、鉄の斧を振り下ろしたエルフリーデである。
森を取り囲んだ赤い炎が青白くなり、わたしの肩を抱き寄せたエルフリーデは……この耳元で……昨夜…………。
「エルフィは、『また笑顔で会えるわ』って…………」
気づけばわたしはぼろぼろと泣いていて。倒木の隣に座ったギルベルトに肩を引き寄せられて、そっと抱きしめられていた。
「森は……燃えて……、あのあとどうなったか、わから……なくて……」
戻ろうにも、森へ帰る方法なんて知らなくて。
もともと、どこかにあるけれど、どこにもない……そういう場所だった。
斧で脚を断ち切られ、全身が黒い炭になるのを免れたわたしは、エルフィの魔法で光の繭のようなものに包まれた。
光る繭糸が何層も重なり合って檻を作る向こうでは、手をひらりと振るエルフィと、真っ黒いマントの魔法使いがいた。
いまでも克明に思い出せる。めらめら燃える火の手が景色を覆う前に、繭の下にあるはずの大地が割れて、わたしは重たい林檎のように落下した。
繭ごと下へ落ち、何層もの紙や布を突き抜ける感覚に目眩がして、一層ごとに意識が飛んでいき――気づいたときには、あの病室にいたのである。
わたしの方が、いまのようにギルベルトを抱きしめていた。先に泣いたのも……ギルベルトの方なのに。
そして、水を飲んで、白い服のおじいさんに「どこに住んでいたのかね?」って聞かれたんだっけ……。
✦
アンナは、瞼を開く前から目尻が濡れていたんだ。
頭上に聖火のランタンがあったから汗かと思ったけど、ぼくには苦しそうに見えた。
そして、握っていた手がピクリとして起きそうな反応を示したから、周りにいる兵士たちと耳元や頭の上でずっと呼びかけた。
衣服に名前でも縫ってあれば良かったけど、子どものタグのようにはなっていなかったので、「おはよう!」とか「朝だ起きろ!」とか「ほら学校行くぞ!」とか、各々が思いつく限りの飛び起きそうな言葉で。
誰かが「ありふれた名前で呼びかけてみよう。どれかは当たるかもしれん」と提案してからは、「エマ、おはよう!」とか「リーナ、大丈夫か!」とか「ソフィ!」や「マリア!」など、女性の名前を叫ぶ声が混ざっていった。
ぼくはなんにも思いつかず、黙ったまま手を握るばかりで……。
そして、みんなの呼びかけのどれにもかすらない名前だったアンナは、たぶん、声がうるさくて起きた。
ぼくの腕の中でしゃくりあげる彼女が自分の手の甲で涙を拭ったようなので、その体を離した。水滴が晴れて、上を向いた睫毛に縁取られた緑色の瞳と目が合う。
「ギルベルト、外套返すよ」
「それはきみが着ていていいから」
「ううん、本当に寒くないし……」
自分より冷えている、と皆まで続けなくても、ぼくの腕に肩や腕に手を添えていた彼女は、そのあたりをさするように手を動かして目を伏せた。
途端に――ぼくとアンナの中心から、光が溢れ出す。
真夏の蛍が一匹飛んでいるのを思い出したが、そんなちいさなものではなかった。
これが蛍だったとしても、あっという間に群れを成した。聖火のランタンよりも淡く、一つの光は角砂糖ほどの球体だが、密集した光の玉が噴水から湧き出てくるみたいに。
ハーロルトさんも息を飲んだ。ぼくたちの足元を一瞬で光の海に変えていく、アンナの光に。
掴めそうで掴めない。ぼくの手や膝の上をするすると滑っていき、ある程度地面に留まると粉粒か霧状になって分散していく。
「これは、わたしの〝光の魔法〟」
アンナは言う。魔法は〝現象〟で、目に見えるようにした魔力の塊や、その作用だと。
「エルフィはね……魔法使いのことを〝魔力に法り、力を行使する者〟って言ってた」
精霊の体は魔力で出来ている。半精のアンナは自分の魔力が皮膚を形成していて、表面上は限りなくヒトに近い。
だけど、体内は違う。光、熱、炎、そういう現象の源であり、それそのものである魔力が渦巻いているのだ。
アンナは魔力が高いおかげであまり寒さを感じないということと、本来なら人間のように毎日食事を摂らなくてもいいということだった。呼吸するだけで、体内の魔力が循環する。
「魔法を使いすぎると食べたくなるけどね。これくらいなら全然平気」
自分から溢れる光の波に手をいれて、水をすくうようにしてみせるアンナが「ちょっとは温かい?」と微笑んだ。
ああ、ぬくもりを感じる。手を浸してみると、暖炉のある部屋から持って帰ってきた空気みたいだ。
「触れられないのが残念だ」
「そうだね、幻みたいなものだから……」
不意にアンナが表情を暗くし、その視線はハーロルトさんも飛び越えて空を見た。
いや、ヴェールのひだがゆっくり動く様子を、空の端から端まで見ている。
「あれは……わたしの魔法みたいにすぐ消える幻じゃないよ」
〝襤褸の魔法使い〟によって出現した、太陽光を遮る魔法のヴェール。ハーロルトさんも獲物を探る狼のような顔になって、ぼくたちと同じ空を睨んでいた。
「……アンナ。襤褸の魔法使いらしき男を、もう一度どこかで見たら、そいつだとわかりそうか?」
「わかる。……絶対に、わかる」
アンナは、たしかな返事に続いて「わたし、自分以外の魔法使いってエルフィしか知らないけど……、ヒスタルにはあと一人しかいないんでしょ?」と述べた。
「ヴェールが出現したあと、この大陸に残った魔法使いは一人だけ。でもそれはたぶん、エルフィじゃない」
その言葉に、ぼくとハーロルトさんは目を見開く。
「ぼくはてっきりエルフィ……さんかと」
「祝祭の話もヴェールの話も、聞いたことないよ。春は新年くらいで、そんな日は祝わなかったし……」
じゃあ、あと一人いるわけだ。襤褸の魔法使い、エルフリーデ、アンナの他にも……魔法使いが。
しかし、ハーロルトさんは「……ヴェールのことを確実に知っていた魔法使いが、弟子にそのことを隠し続けていた。その理由は思いつかないな」と疑問を投げかける。
「魔法使いエルフリーデがタハティラでアンナを拾ったのは、十五年前。ヴェールの出現はその百年前。おかしくないか?」
大陸全土と魔法に関わる大事件を隠していた理由、それの真意がわからない。
だが、アンナはおかしくないと言いたげに「ううん」と首を振ってから「聖域の時間と大陸の時間は違うんだ」と言った。
聖域の森は大陸と比べて過ぎ去る時間が遅く、聖域時間で十五年前だといっても、大陸の時間で十五年前とは限らない。
「時間はつまり、世界の変化のことだよ。朝と夜は、人間が数える必要がなくても巡ってくる」
人間には、朝と夜の巡りを一日という単位で数える必要があった。雪が降る季節、川が氾濫する季節、春が来て狩りに適した季節、家畜と作物がどれほどで成長するのか、あとどれほどで死ぬのか……それらを知るために。
あ、ということは、つまり……。
「それなら、きみの年齢も、人間の十五歳とは違うかもしれないというわけか」
ぼくの疑問にアンナは頷く。
「そうだね。人間の暦が数えた生まれ年は知らないけど、ギルベルトよりは年上だと思う」
下手したら、ハーロルトさんより……と思ってそちらを見ると、彼は難しい顔をして腰に手を当てて、なにかを思案しているようだった。
「もしもだけれど、エルフィが大陸時間で百十五年より前にわたしを拾っていたとしたら? ヴェールのことを知らなくてもおかしくないんじゃないかな?」
アンナの問いかけに、ハーロルトさんが「アンナの言う通りだ。三人で話していても、真実はわからないな」と区切りをつけた。
本人に聞かない限り、か。だが、それだけは口をつぐまざるをえない。聖域の森の襲撃事件で、魔法使いエルフリーデの消息は不明だ。アンナが一番知りたいはずである。
ところが、目が合ったハーロルトさんとぼくの暗黙のサインを……彼女は察した。
「エルフィなら大丈夫。きっと追い返してるよ」
魔力がとても強いから。そう言葉を続けて笑うアンナと兵舎へ帰るまでの間、彼女が自分の足元のあたりしか見ていないことを、きっとハーロルトさんも気づいている。
ヴェールを仕掛けた張本人、襤褸の魔法使いによる被害者で目撃者の彼女を、ぼくはどうしても放っておけない。
✦
おれたちは兵舎へ帰るなり、軍医と他の衛生兵に囲まれた。
もちろん用事は片脚を無くしたアンナのために義足を用意するというもので、おれの即席の箒義足は散々こき下ろされるはめになった。
昨夜の軍医が機転を利かせ、包帯で患部をぐるぐる巻きでガードしていたため、アンナは正体がバレることなく病室で義足を調整してもらっている。
おれたちは一旦追い出され、いや、帰りの馬や荷物の調整で席を外した。
グラズルではない馬を借りて急いでムーエン村までやってきたギルベルトが、おれが呼び戻したセレンに挨拶している。
「セレーネノートだ。セレンでいい」
「セレン、朝は初めてだな、おはよう。この子は大きい品種なんですね」
「彼女はもともと、騎士団に調教されていない野生の天馬だった。事故で翼が折れて切除してから、陸の馬になった」
「ああ、通りで……」
セレンは顔見知りでも近づけさせないときがあったが、昨夜の夜狩りで共に駆けたギルベルトのことは許容したようだ。
それより、アンナのことである。探しても戸籍が無さそうなあの少女を、どうするべきか。
兵舎で奉公をさせるには、年が若すぎる。村中の人口より多い牛や羊の牧場、日照時間が短くて規模が縮小しつつある農場、長男家族が出ていって傾きかけているあの宿屋……人手不足のところはいくらでも挙げられるが。
テオセアでは、孤児である未成年は役所の前にその村々の聖堂へ行く。名前や、本人がわかる限りの出自を登録しておくのだが、おれが知った事情的にアンナは特例だ。
聖堂へ登録するにしても、おれの目の届かないところに置いておくのは不安がよぎる。
……とりあえず、首都へ連れていくか。おれは今日中に首都入りしていなければいけないし、今はそれしかない。
「ギルベルト。アンナを一緒に連れていくことにする」
「はい! それがいいと思います」
なんだ、顔色が明るくなったな。わざわざ戻ってくるくらいだから、責任感を覚えていたのだろうか。
なんでもいいが、子ども二人連れで日暮れまでに間に合うだろうか。アンナをおれの方に乗せていくならまだ可能性はある。セレンが見知らぬ子どもを乗せてくれればの話だが。
従者のようにおれの支度を先回りして手伝っていたギルベルトからセレンの手綱を貰い受け、今日の機嫌を確認してみる。
「今日はもう一人乗せてもいいか」
セレンは荷すら嫌がるときがあった。こうして手綱に引かれてくるのだって機嫌がいいからで、おれの腕を振り回すほど反発できる。
手綱に引かれているのではなく、ただ気分的に荒ぶる理由もないし、暇だからついてきているだけだった。
「今日は良さそうだな」
朝一番に放牧しておいて良かった。草原で楽しんでいたのか、ドレスの広い袖のような距毛には綿毛がくっついている。
野生の天馬の気性的に言うことを聞きにくいだけで、おれを信頼しているいい馬だ。精霊同士ならアンナと気が合うよな、きっと……。
という淡い期待はしっかり砕かれた。セレンの後ろ蹴りで。
おれの前にアンナが乗るなり思いっきり屈撓してから頭を持ち上げて立ち上がり、そのまま歩いていきそうなほど前足を上げた。
あまりに大きな馬体が暴れたので兵士たちは蜘蛛の子を散らすように遠巻きになり、ギルベルトを乗せた馬を先にムーエン村のゲートまで行かせることに。
「セレン、セレン! 落ち着けッ」
なんとかなだめて丸太で造られた塀沿いまで行くと、アンナが申し訳なさそうに「一回降りていい……? 義足が当たって嫌なのかも」と自分の新しい脚を見ている。
「どうするんだ」
「風呂敷を巻いてみるよ」
寝間着を包んで背負った風呂敷のことだ。軍医が気を回してくれて、兵舎の倉庫の奥で眠る昔の兵隊の制服をアンナに渡して着替えさせた。
アンナは自分で長い髪を一つにまとめて、どこからどう見てもおれの従者のようになった。
セレンからそっと降りたアンナは背負った風呂敷から寝間着を取り出して、義足を包んでみせる。
そして、やっとセレンは落ち着いた。アンナの見立て通り、脚を模した硬い鉄の軸が馬体にこすれるのが嫌だったようだ。
おれより軽い乗客を一人受け入れたセレンは快調に歩き出し、兵士たちに見送られて兵舎と敷地を囲う丸太の塀を抜ける。アンナもホッとして「良かった、歩いてくれて」と笑った。
本当にその通り。振り落とすかと思って肝が冷えた。騎士の馬から同乗する少女が落馬とか、冗談じゃない。さすがにムーエン村の新聞に載る事態だ。
おれがひと息ついたことに気づいたアンナは、従者然として「お水を持ってきてますから、いつでも言ってくださいね?」と声をかけてくる。
「水はおれも持ってるんだ」
持たされたんだ。おれたちが兵舎を出る前、兵士長に。アンナの腰の革袋の中身は自分で飲めばいい。
さらに言えば、従者は二人もいらないな、という気分になってきている。ここ最近、おれにくっついてきている志望者がやる気満々だから、そっちを先に拾うつもりだった。
ギルベルトは、聞き分けがいい。おしゃべりな方ではない。話が通じる。戦うときの顔つきも、普段の振る舞いも悪くない。……一人の精霊の秘密を共有してしまったという事実も大きい。
総合的に判断し、管理下に置くことにしただけだ。アンナの処遇はいったいどうするか、ということも差し当たりの課題だが、とりあえず村を出てギルベルトと合流しなければ。
ムーエン村の人々がセレンに乗るおれたちを見て「あ、騎士さまだ」とか「誰だろう? いつもの人かな?」とか、名を知る者は「ハーロルトさん、行ってらっしゃい!」と見送ってくれる。
片手を挙げて返事代わりに通り過ぎると、アンナはセレンの馬体に隠れるように縮こまっていた。
「アンナも手を振り返してやってくれ」
「は、はい……」
おれが促したからアンナはおずおずと手を振り返しているが、なんだか恥ずかしそうだ。
あまり余裕がなくなると、セレンは騎手を侮って好き放題するぞ。おれが手綱を持っているから振り落とさせはしないし、舗装されていない狭い道で突進していくこともないだろうけど。
おれとセレンの間で控えめに手を振り返し始めたアンナの気配を、鎧越しの胸元に感じる。茶色い頭だけが視界の下側にあり、おれからはよく見えなかった。
本来なら太陽が真上へ行きつつある空で、朝焼けの様相は変わらない。広く緩やかに地平線を伸ばす村の景色から家が少なくなり、丘状になった道を下った先に一頭の騎馬が見えた。
頭上の木々でさえずっていたヒバリが、セレンの気配で飛び去っていく。
「アンナ、他に使える魔法はないのか」
「光以外なら水とか出せるよ。幻じゃなくて、ちゃんと飲める水」
「それはすごい」
じゃあ、おれたちの腰でチャプチャプ鳴ってる水筒、これからはいらないんじゃないか。
✦
空気の中に散っている湿気を集めて水蒸気を作り、もっと集めて霧にして、もっともっと集めたら、水になる。それが清水を作る魔法だった。
手や指先で操作するんじゃなくて、ちゃんとした杖があったら精度が高くなるんだけどなぁ……と思いながら、川沿いで休憩したときに手を広げ、ハーロルトさんとギルベルトに水の魔法を見せてみた。
「すごい。すごすぎる……」
「そ、そう? ふふ」
ギルベルトは感動した顔で空中に浮かぶ水球を見ている。手のひらサイズのこんなので褒めてもらえるなんて嬉しいなぁ。エルフィは湿気てない場所でも水を出せたんだ。
わたしはゼロからたくさん出すのは無理だけど、蒸留を再現して、川の水を綺麗な水にすることならできるよ。
そちらを披露する前に出発のタイミングがきてしまい、わたしはまたセレンの背中に乗った。ハーロルトさんが後ろ側に乗って手綱を握る理由は、馬は後ろ側がよく揺れるかららしい。
セレンが蹄をカポカポと鳴らしながら歩いて揺れるたび、ハーロルトさんの鎧や剣がガチャリと音を立てている。単座の鞍に乗るのはわたしだけで、ハーロルトさんはセレンの背中に直に乗っていた。
「休憩が短くてすまない」
「あ、ううん、大丈夫だよ。気にしないで」
ハーロルトさんは、森育ちで乗馬をしたことがなかったわたしをよく気遣ってくれている。森の中で遠出するなら基本的に箒で移動していたし、徒歩でも特に問題なかった。
それに、おしりの骨から振動が響いてくるけど、鞍に乗せてもらっているのはわたしの方だ。
「こちらこそ、わたしが前に乗せてもらってて平気?」
「訓練しているから平気だ」
後ろを見ようとしても、銀色の腕当てに覆われた腕までしかよく見えないが、声色は穏やかだった。
狼のような顔つきの彼は面倒見が良くて、村の人や兵士からもよく慕われている。
でも、無口な方だ。普段長めに話すことはない。必要なことだけを必要な分だけ話す。顔を合わせているときはずっとなにかしら話していたエルフィと大違い。
ああ、考えたらだめだ。夜でもないのに暗いこの風景を見ていると、ふとしたときに思い出して無性に怖くなる……。
どんな道でもリズムを乱さず、蹄をカポカポと鳴らす二頭の馬の音に耳を傾けて、わたしはセレンの背に身を任せた。
ここはどこそこの土地である、という目印になっている石や木の看板や、見張り台のような塔を一定の間隔で過ぎて、もう五度目ほど。
暗闇がさらに深くなり、空はすっかりヴェールのひだすら見えにくい。本当の夜の時間より、昼を過ぎて月と星が浮かばない午後から夕方の方が暗い……と、橋のたもとでの休憩中にギルベルトが説明してくれた。
「ヴェールの向こうに太陽があるなんて、信じられないね」
「そうだな……どうなっているのかはまだ誰もわかってない」
百年以上経っても解けない魔法、というものの条件には心当たりがある。相当強い力を持った魔法使いか、古代の魔法だ。
しゃがんで道に落ちていた小枝を拾い、ギルベルトが持つ聖火のランタンの明かりのそばの地面に模様を描いた。
「ほら、これ見て」
「なんだ、これ」
ギルベルトは、捻った輪っかを二重にした結び目のマークを凝視している。
「これは古代の魔法だよ」
「……このマークが?」
「そうだよ」
あ、なんか信じ難い目をしてる。
「これだけじゃなくて、色んな模様が文字みたいにたくさんあるんだけどね? こういう彫ったものに魔力を込めると、溝を伝って魔力が流れて、魔法使い本人が死んでも長期間魔法が続く」
もういくつか模様を描き、小枝の先から地面の模様に魔力を流した。体内から直接魔力が抜けて出ていくこれは一瞬目眩が起こるし、大きい模様だと消耗が激しくて得意じゃない。
「これは〝刻印〟。このマークはわたしの署名みたいなもの」
このマークを組み合わせた模様や、文字のように羅列した簡素な記号で発動させるのが〝刻印魔法〟。
古代の魔法――いいや、魔法という名前すら無かった頃の精霊の技術だ。
今日の魔法の原型である刻印魔法のことは、人間がこれを真似て壁に絵や図を描き始め、やがて便利な文字が生まれたんだとエルフィから教わった。
彫刻する道具はなんでもいいけれど、模様を半永久的に刻みつけられるものに彫りつけること。例えば、木や石や金属。焼成するなら粘土でもいい。
地面や砂地は、魔法を長く保たせることに適していない。だって人の足や波でかんたんに消されてしまうから。
こんなふうに。立ち上がって義足の先で削るように消してみせると、ギルベルトは「あ」と声を出した。
「なんだ、どうなるのか見せてくれないのか」
「人が来そうなところはだめ」
このあたりはムーエン村から出て最初の都市部に続く中央の道だから、商人の馬車や旅人が多くなってきた。
ハーロルトさんも二頭の馬に水をあげて戻ってきたし、もう行こう。彼は真っ直ぐわたしの方へ来て、鉄の義足の先や、ズボンの下にある革ベルトのみで固定されているソケット部分を見て「脚は大丈夫か」と尋ねた。
「平気だよ」
少しも痛くないけれど、脚の分だけ魔力は減っちゃった。
あるはずだった、無いところ。左脚に流れて帰ってこようとした魔力が、急にできた行き止まりで滞っていたところは、ハーロルトさんとギルベルトに見せた光の波で解放してから少しスッキリしている。
兵舎にいたお医者さんは言っていた。欠損したての患部をずっと締めつけていたら良くないから、寝るときと、痛いとか熱いとか……違和感があったら義足外して冷やし、足を胸より高く上げておくこと、って。
義足の調整中に言われたことを、セレンの後ろにいるハーロルトさんに話した。
「人間の体の作りと違うけど、わたしもそれでいいのかな?」
「いいと……思うぞ。おれもあの先生に何度か診てもらったが、外科は問題なかった」
「内科は? 薬とか」
「効かなかった」
そっか、そうだよね。義足を着ける前の診察で、耳に繋がる管状の変な道具をおなかに当てられたけど「うーん……波の音だ……。わからん」って言ってたのを思い出した。
「風邪引いたら言って。エルフィから教わった薬はよく効くし、おいしい」
「ハハ、頼もしいな」
解熱剤、鎮痛剤、整腸剤……だいたいの風邪ならなんとかなる。ハーロルトさんは風邪が寄りつく隙も無さそうだけど。
作れる薬を数えていたらいつの間にか街へ入り、村とは違う景色が広がっていた。
村の木造とは違い、頑丈そうな石造りの道と建物が、視界の端から端まで構成している。道の両脇で手を広げる街路樹が細い。
そしてなんといっても、人がたくさん密集していた。ムーエン村では兵舎と出発時以外ではまばらに点在していたから気にならなかったのに、街ではやけに多くて活気があるから人間の姿に目を奪われた。
「アンナ、キョロキョロするな」
「あ、ごめんなさい」
ハーロルトさんの声が上から降ってきたので、視線をセレンの鬣から逸らさないようにする。
「珍しいよな、人だかりは」
「うん……」
珍しい……そう、珍しい、かも。動物よりも人間が多いなんて。
街という場所が、こんなににぎやかだなんて。
「もうすぐ〝祝祭〟だから、みんな浮足立ってるんだ」
あと十日で、ヴェールが晴れる一週間を迎える。その準備やわくわくで、みんないつもより活動時間が伸びているのだとハーロルトさんは言った。
「まあ、街はいつでも夕方まではこんな感じだけどな」
――と、言い終わったあと、ハーロルトさんが呼吸を引き締めた。後方を歩くギルベルトも、彼の視線が街路の横に逸れたことに気がつく。
「……気をつけなきゃいけない相手も、増える」
「ハーロルトさん、捕まえるならぼくが追います」
「いや、いい。今日は兵士の巡回も多い」
今にも向かっていきそうなギルベルトをハーロルトさんが止めたとき、見回りの兵士たちが街路の向こうを走っていく足音が聞こえた。
「ほらな。エルヴァスティ領からは逃げられない」
最後の週に祝祭がある四月は、街での犯罪が多くなるから気をつけろ。怪しい人物に近寄るな。
わたしにそう告げたハーロルトさんの表情は見えなかったが、この街を横断する中央街道という目立つ道を選んだ彼は、背筋を伸ばして堂々とセレンを歩かせた。
街を抜けてからしばらくしても、行き交う人々の姿や行動を広く見ていて、また、騎士という自分の存在を示していたのである。
✦
チィッ、やっちまった。まるで歩く監視塔だぜ、騎士ってのは。姿も見られちまったか?
まあいいか、兵士は撒けたし、もうここに用はない。
首都に入ればこっちのもの。祝祭は稼ぎ時だ。この機会を逃しちゃ、この一年どうやって過ごしたらいいのかわかりゃしねえ。
この大陸の先祖ってのは、春と夏に農業や採取を強いられて、秋と冬に狩猟をしたり、他の島々やドレフティア大陸の最寄りの土地まで略奪に行っていたらしい。
いまより世界が狭くて知識もない昔の人間のくせに、痺れる気概だぜ。わかってる、歴史に残る人間や氏族ってのは魂が熱いんだ。行く手を塞ぐ氷なんか砕いて食べちまうわけだ。
だが、空にヴェールがかかってから変わっちまった。春夏秋冬、文字通りのお先真っ暗で、農家も牧家も商人も、全員がやっていけたもんじゃない。
それでも、ただ打ちひしがれ、暖炉の前で毛布にくるまっていたわけじゃない。
春夏の農業と秋冬の狩猟をやめて、現代人は進化したんだ。どっかのお偉い研究者さま曰く、夜目が利く色の薄い瞳で生まれる赤ん坊が多くなり、ヒスタルの人間は夜間の活動に向いていった。
その先駆け世代として、暗さと寒さしかねえ大地でしぶとく生き残ってやるぜ。騎士だの兵士だの、農民だのといった若造に負けるかよ。
特にさっきの騎士。エルヴァスティのハーロルト。
相変わらずキレッキレのいいツラしてんな。いつまで経っても、まるで騎士じゃないみてーな眼でよ。てめェ……覚えてろよ。