No.15:襤褸の魔法使い
さあ、昔話をしよう。
あるところに精霊の男がいた。そいつは空から見下ろす人間たちの営みを好み、やがて自分の姿形すら変え、人間のように振る舞うことにした。
だが、本物の人間には値しなかった。年月が過ぎ去って変化する世界に置き去りにされたそいつは、やがて自分から人間の世界を離れていった。
古来より……精霊たちはさまざまな生き物の姿を気に入り、それらを愛しても、愛する者たちとの別れを避けることはできないのだ。
例外はある。精霊の中でも特に自らの力を最大限引き出し、自然世界の調律さえ成し得る者。それを人間たちは〝魔法使い〟と呼ぶから、いつしか我々も自らをそう呼称するようにした。
決して失うことがないように、別れる前に魔法をかけよう。そうすればバラバラになることはない。
魔法使いは、精霊――いや、この世界のすべての存在のなかでも、頂点に君臨すべきである。
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船から下りる鎖を伝って地上に到達した魔物の群れは、まるで浜辺の波だった。剣で切ってもグラズルで踏みつぶしてもまた次が湧いて襲ってくる。
先ほどまで、最前線で戦うハーロルトさんの姿が目視できていたというのに、いつの間にか魔鳥に覆われ、広場中でハチの軍勢がパニックを起こしているかのようだ。
剣で振り払っても叩き切っても手数が足りない。グラズルや他の騎馬からすり抜けて広場の外へ向かおうとする魔犬の数匹を取り逃し、後方の歩兵が怒声を上げた。
後ろを気にしている余裕はない。魔物がやってくるのはあの船の上。天馬乙女たちがこぞって攻撃を仕掛けようとするも、大型の魔鳥が天馬の進路を妨害しては嘴や爪で応戦してくる。
どうにか近づければ……と思ったとき、果敢に鎖へ飛び移った天馬乙女の一人が、空中で階段を駆け上がるかのように走り出した。
いったいどうなっているんだと目を剥いたとき、顔の横に剣が振るわれたときの風圧を感じて反射的に避ける。剣の主は、魔鳥に覆われたと思っていたハーロルトさんだった。
「ボーッとするな、ギル!」
「は、はい!」
「あれはフランツェスカだ」
魔鳥を薙ぎ払いながらセレンをグラズルの隣につけてきたハーロルトさんは、平時でも鋭い金色の眼を細めて空を指さす。
「背中に……なぜ翼が? クソッ、この雲じゃよく見えないな……!」
いら立ちながら悔しそうに吐き捨てた彼が、ぼくに共に前へ行くように指示してセレンを走らせた。彼らにグラズルを随行させつつ、カラスのようにギャアギャアと鳴き続ける魔鳥に声を消されないように、ぼくはハーロルトさんに「これじゃキリがありません!」と声をかけた。
「ああ、そのとおりだ! では、どうすべきか!」
「フランツェスカさまのように上へ行かなければ!」
「もちろんだ! 彼女の後に続く!」
ハーロルトさんは高々と剣を掲げて号令をかけ、他の騎士や兵士の応援を呼び寄せる。広場のレンガ道の舗装をえぐるように突き刺さったいくつかの錨のそばに到達してセレンから飛び降り、太い鎖をつかんでよじ登りはじめた。
呼び集められた弓兵が次々とハーロルトさんの周りに集う魔鳥を射抜いている。ぼくも負けじとグラズルから降りたとき、誰かに「おーい!」と声をかけられた。その方向を見てみると、上へ向かって反り返るような山羊の角を持つ騎士がぼくの横に馬をつける。
「……イヴァーノさま!?」
「おうよ! ハルと同じ鎖を行くな!」
同じ鎖を行ってなにかあれば、ふたりとも振り落とされることになるだろう。分散して登れということだった。
「下と鳥は任せて行け! ああ、男も天馬に乗れればなぁ!」
イヴァーノさまはバシッといい音を立てて手綱を引き締め、馬を走らせながら両手は弓矢を引き絞った。立て続けに三本もの矢をつがえた彼の放った攻撃は、見事にハーロルトさんの進路を妨害していた大型の鳥に命中して標的を灰へと変える。
他の弓兵の勢力もすばらしく、空の天馬たちも次々に船の周りを包囲しはじめた。
船の方から放たれるガラスでできたような透明の矢の雨が再び地上と降り注いでも、むしろ最前戦の船の下が安全だと味方が押し寄せる。
これなら大丈夫。自分のすべきことをしよう。
太い鎖をにぎって引き伸ばし、慎重に足をかけて登った。下は絶対に見ないでおこう。視界で見る恐怖はまたたく間に心の隙間に入りこみ、ぼくの決意を台無しにする。
ぼくは船底すらまだ遠いが、ハーロルトさんは着実にフランツェスカさまのいる高さに近づいていた。
それにしても、彼女に足場があるのはいったいどういうことだろう。まるで魔法のよう――……もしかして。アンナが来ているのか?
それに気がついたとき、鎖をにぎる手に力がこもった。民間人が来ていいてところじゃない。上から戦況や避難状況を把握するためにも、ぼくは登らなければ。
地面から両足の裏が離れて、まだわずか。建物の三階にも到達していないだろう。気を引き締めて、一手一手上へ向かった。
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ええい、鬱陶しい魔鳥共。カラスのようでもそれとは違う、煤のように醜悪な塊風情が。小型盾で魔鳥の突撃をいなして剣で突く。両手が使えるようになったからありがたい。
アンナと呼ばれた少女が魔法使い……というのは、信じがたいが本当だ。足場ができたのはもちろんのこと、この背の翼のおかげで上半身が軽い。絵本のなかで読む物語が目の前に再現されたかのようだ。
しかし、魔物に踊らされるつもりはない。また一匹片手剣で翼を突いて失墜させ、わたしはただ目的地へ向かうだけだ。
ふと下を見ると、広場に多くの兵士が詰めて魔物を掃討し始めたのがわかる。こちらが押している証拠だ。
そして、どうやらわたしに続いて鎖を登る騎士がもう一人やってきたらしい。黒い外套――エルヴァスティの夜の騎士ハーロルトだ。
これがいい選択とはいえないが、我々が操る天馬はもともと災害時の救助のために鍛えられた存在だ。万が一にもわたしや彼が落ちようものなら、こちらを注視しているエイルとフランツが飛んでくる。ほかの天馬も何騎かはそれを想定して動いて――――いや、もう一人いるな。
わたしやハーロルトとは違う鎖にしがみつき、どんどん登ってくる若い兵士がいる。ここからじゃよく見えないが、その兵士は金髪のようだった。性別はわからないが、地上の女性兵士は珍しい。おそらく男性だ。女性なら、その多くは我々天馬乙女騎士団に配属されてくるものだから。
どちらにしろ、根性のあるやつだ。フランツに目配せをして、登ってくるもう一人を気づかせた。この調子ならもう一人か二人は登ってきてしまいそうだが、フランツがほかの者に連携を取っている。あの者も問題ない。
宙に浮く板の足場は、わたしの踏み出す一歩がわかっているかのようについてくる。二歩ほど前に踏んだ板が、風を切って二歩ほど先へ出てきた。
この板を風に乗せて飛ばしてきた魔法使いは味方だ。宙に浮いている以上ある程度不安定だが、信頼しよう。
敵はこの船の上にいる。ヴェールの消えた祝祭の日をめちゃくちゃにしてくれた代償を、きちんと払ってもらわなければいけない。
敵が誰なのか、もうわかっている。こんな非現実的な真似ができるのは、やはり魔法使いという存在だけなのだから。
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畜生、鳥共が弓兵にやられて天馬が集まってきている。エイノにもガラスの矢用の発射器を持たせて応戦させてみても、やたらと天馬の数が多い。北西の空から全騎の天馬がこちらに向かってきているのだろうか。
天馬乙女騎士団に所属している戦闘用の天馬の数はおおよそ五十頭。百合の渓谷の本拠地に隠し子でもいるならもう少し多くがここに集まる、か。飛行船の最大の敵はこいつらである。
「ルカ! どうなってる!?」
「どうなってるもこうなってんだよ! それ貸せ!」
これはこう撃つ、と矢尻を装填した発射器を構えたルカは角度を上げて空へ向けた。船から立ち昇る炉心の煙が暗雲を生み出し、空は雷雨前のようなありさまである。矢尻は黒い雲に向かって射出され、花火のように弾けて天馬の翼を撃った。
何騎かよろめいたがまだ足りない。俺も開発者の指南のもと何発か入れてやり、口笛を吹いた。ルカの袖を通していない襤褸のコートが騎士のマントのようにはためく。
「ハハッ、良くやった、レオ。いい感じだな」
「船長と呼んでくれ」
「せーんちょ。オレはちょっとケーテのとこ行ってくる」
「この戦況で? 嘘だろ司令」
「安心しろ。もうオレのやることはない」
もう作り終わった。と背中を向けたまま手を振って船室へ向かうルカが先ほどまで立っていた甲板を見てみると、木製の床に三角形が描かれている。黒い煤の線で描かれたルカのマークは、その内側からどんどん魔物を生み出して空へと放たれていった。
形は……お世辞にもイイとは言えないな。子どもが黒いクレヨンでめちゃめちゃに描いたような不恰好な鳥や天馬が、手足で宙をもがきながら突進していく。
あっけなく槍で突かれていても問題ない。ある程度の形が残れば、隣り合う魔物同士がくっついてまた一体のそれになる。
俺は何度聞いても魔法のことはとんとわからないが、彼はあの三角形のマークを描くときにいくつかの命令を下しているようだ。集え、くっつけ、動け、などの短い単語を並べ立てて魔法を制御している。
黒々とした煤の線の内側は、まるでタハティラの湿地帯にある底なし沼のようだ。甲板に描かれただけのただの三角形から、いったい何匹の魔物が生まれいでるのか。一見すると浅いのに、一歩でも踏み入れば頭まで沈む深さだろう。
尽きることなく煙を吐くルカの魔法に、トゥオリスを汚されたのはまぁいい。ルカは掃除も得意だし、エイノにも手伝ってもらえば早く終わる。
天馬の一騎が放った矢が俺の顔の横ギリギリまで差し迫った。当たらないとわかっているから平気だ。さて、ズボンに仕舞ったままの爪はいつ使おうか。
そう怖気づくことはない。早くこっちにきて天馬から降りてくれれば俺が相手をしてやろう。先ほど興味が湧いた、男を乗せた天馬以外はどうでもいいから翼を引き裂いてしまうが、それでもいいのなら。
いまのところ魔物が相手をしているのをただ見るだけではつまらなく、ふと下はどうなっているかと見てみると、なんと三人もこのトゥオリスの長く太い鎖を伝って登ってこようとしていた。
「これは傑作だぞ、エイノ!」
「なにが?」
「見てみろ、騎士が登ってくる!」
そのうち一人の女騎士はまるで螺旋階段に案内されているかのように、魔法の足場で駆けてくる。もう二人は地道に登っているが、鳥の魔物をかいくぐった天馬乙女が二騎そちらへ向かった。
じきに天馬に相乗りした二人がやってくるだろうが、甲板には上がらせない。では〝切り札〟の出番だ。陣取りゲームで無茶なズルをした制裁を喰らわせてやろう。
満足のいく格闘のために上着を脱ぎ捨てたとき、無意識に爪をチャキチャキ鳴らしたらしい。エイノが俺のたかぶる戦意に気づいてフッと笑った。
「レオ、あの二人は僕がもらいたかったんだけど」
「なに? じゃあくれてやる。俺はあの天馬がいい」
「やったね。じゃあ気をつけて」
「おまえもだ、エイノ」
やっとの思いで征服したテオセアの景色を見ないまま、満身創痍の姿で船室にこもるのは許さない。魔物の誕生と損傷を引き金にして、石を投じられた池の波紋のように暗雲が広がる。
二騎の天馬乙女は鎖にぶら下がる二人をそれぞれ回収し、甲板の方へ連れてきた。そして――あのトゥオリス登頂の先陣を切った女騎士は。
弓兵の天馬乙女に援護されながらトゥオリスの手すりにつかまった両手の主が、馬に乗るときよりもずっと身軽に――まるで空でも飛ぶように――トゥオリスの甲板へ身を乗り出す。兜の下から覗く白いほどの金髪が一筋見えた。
そういえばこの女、あの天馬から降りたのだったな。男に操縦されることを許した美しい翼の持ち主は、鷹でも鷲でもなく、冬の白鳥から生まれたかのようだった。あれが欲しい。
「ようこそ、トゥオネラへ」
「バカバカしい出迎えに感謝しよう」
それも騎士の礼儀か? 教科書には載ってなさそうだ。
弓の援護があるとはいえ、たった一人で敵陣地に踏み込んだその勇気に拍手しよう。とっくに俺のこの爪がうずいていることに気がついていたエイノは、俺の間合いからそっと離れて船首の方で構えることにした。
宣言せずともこれは一騎打ちだ。
音を立てずに細身の剣を抜き取った女騎士は「わたしは百合の渓谷のフランツェスカ。多くの天馬乙女の中でも、貴様らと魔物の討伐部隊の将を任された一人だ」と名乗りを上げる。
「俺は行く先々で海賊と呼ばれるレオ。髑髏の旗なんか、一度も船に掲げちゃいないのにな……」
「その点は同情しよう。御託はもういい、抜け!」
フランツェスカと名乗った女は俺も剣を使うと思ったようだ。腰に下がるこれを抜けだって? 笑わせる。これは最後にしか使わない。処刑用だ。
「貴殿には、これで充分」
俺は両手の指の骨を鳴らし、甲板を蹴って飛び出した。騎士フランツェスカよ。狩猟中の獣に間合いを詰められたことはあるか?
初撃の不意討ちが成功するとは思ってないさ。あいさつ代わりの爪の攻撃を細身の片手剣で受け止められたが、彼女の薄空色の瞳のくぼみは縮んでいる。
驚いたか? 生まれてから一度も壊れたことがなく、地道に鍛え上げた強靭な体躯と精神をルカに認められた俺は、彼に素晴らしい力を与えられた。
「驚いたようだな、フランツェスカ」
いまは別にどうでもいいが、どうせ名字は名家のフォン・リリエンタールだろう。つい数日前に、ルカによる〝奪象幻惑〟で姿形を模倣された騎士イヴァーノが持つ魔物討伐部隊の名簿で、その名を見た覚えがあった。ルカがイヴァーノの姿になって、駐屯地の棚の中からくすねてきたのである。
ついでに彼お気に入りのコートの修理代金もイヴァーノの懐から頂戴したようで、金が浮いたからエイノが感謝していたところだ。
お間抜けなそいつとは違うフランツェスカは片手で俺の爪を抑えながら、盾を投げ捨ててもう一本の剣を抜き、反撃してきた。彼女は細身の片手剣をサッと仕舞い、武器を両刃の剣に切り替える。
「すばやいな。空中で鍛えると手際が良くなるのか?」
「耳か記憶力が悪いようだな。御託はいい」
両刃剣で弾き返された。目線だけで焦げつくような間合いの読み合いだ。自分の爪からじりじりと熱がこみ上げるのがたまらなく、拳をにぎって……もう我慢するのはやめにした。
「俺は地上で鍛えたぞ。流氷の海と、雪が解けない山々で」
全身の肌が逆立つ。痺れとともに皮膚がめくれ上がり、天馬に取り囲まれてから強くなった風によって毛並みが整った。
さあ、騎士よ。脳のない煤製の魔物相手なら手練れのようだが――獣の魔人と戦ったことはあるか?
✦
トゥオリスの甲板に炉の口を繋げよう。いくつかの魔法を閉じこめたオレのマークは開口部を作り出し、煤の煙が吐かれるたびに魔物を生み出す魔法が開放される。
この国の劫波から活力の源である光源が生み出されるというのなら、トゥオリスの炎から生み出されるのは暗闇へ誘う魔物だ。
船内のパイプからごうごうと聞こえる出生の音がオレの気持ちを撫でていく。水と炎と油で動くこの炉に〝女神炉心〟と名付けたのは正解だった。
オレの先の尖った革靴は、ケーテがいる部屋の中を目指して立ち止まった。おっと、扉にノックを二回してやらないと。
「……ケーテ」
返事がない。三回を二回に分けて叩いたとき、やっと枕がぶつかったような音が扉の裏から聞こえた。モノに指が直接触れないように革手袋越しでドアノブを引き、天蓋付きのベッドとたくさんのぬいぐるみであふれた部屋に足を踏み入れた。
「ケーテ」
「なによ、もう終わったの?」
「……いいや、はじまったばかりだ」
このベッドに腰かけると、必要以上に腰が埋もれて脚が浮く。不要な浮遊感を相殺するべく脚を組み、布団のなかに閉じこもるお姫さまの淡い橙色の髪を撫でた。もちろん汚れた革手袋は取ってから。
「テオセアだ」
「うん……」
「前は〝紡錘の塔〟だったか」
「そうだよ……」
ケーテはちいさな丸い頭をゆっくりと起こし、オレの目を見るために体勢を変えてこちらと向き合った。
「見にこないのか?」
「イヤなことまで思い出すから、いい」
「そうか」
あの塔、昔は卑俗な時計なんかなかった。
天を指し示すような尖塔の瓦がケーテの髪色と似ていて、オレはかなり好きだ。だから制圧に大砲を使わず、柔肌への殺傷能力だけあるガラスの矢尻を工場に作らせた。飛び道具は便利だ。
「早く終わらせてよ……」
起き上がったケーテはオレの肩に頭をもたれさせる。ほとんど磁石のようにオレは手を彼女の頭に乗せて、白鳥が番にすり寄るときと同じくらい優しく撫でた。
遠い過去のこと。ケーテは昔、あの塔のてっぺんにいて、毛糸でなにかを編んでいた。下の方の階では紡績機が所狭しと立ち並び、機織り女たちが働いていた。中層ではそれを選り分けたり、できあがった毛糸や毛織物を出荷する者たちが。あの塔だけで、テオセアの毛織物を半分まかなっていたのである。
当時の国民に愛されていたテオセアの姫君が、塔のトップだった。カタリーネ。いつでも好ましく思い出せる、懐かしい名だ。
撫でる指先が止まって、ケーテににぎられた。
「なにを思い出しているのかしら」
「ケーテ、愛してる」
「わたしもよ、ルカ」
ケーテの丸い頭頂部にキスをしてベッドから立ち上がった。オレがいた痕跡を残すのはここだけにしよう。ああ、その枯れ葉色の瞳で、泣いたあとのような顔をしないでくれ。離れがたい。
しかし、行かなければ。トゥオリスの甲板に一人でも上がりこんだら、レオやエイノが制御がきかず暴れるのだろうから。
魔人になってから日も浅く、魔物がプログラムによる行動しかしないのとは別に、本能と知性が生み出した欲望と理性の天秤が肉体を操舵する彼らには〝主人〟が必要だ。誰も自分自身の主人にはなり得ないのだから。
「また来るからな」
「次は終わってから来てよね」
「はいはい」
百年前。この国の歴史上、もっとも愛された姫が若くして死んだ。そのそばには、年端もいかない少女もいたという。
青空の下、嫁入りのためにドレフティア大陸へ大きな帆船で向かったあとのことだった。運悪く……いや、とっくに見越されていたのだろう。めでたい輿入れの日、その国で内乱が起きて、外つ国の花嫁が最初の犠牲者になった。
墓碑の名はカタリーネ・フォン・テオセア。花嫁を祝うためにつけられた、新しくちいさな侍女の名は伝わっていない。無抵抗なのに殺された彼女の従者たちはまとめて弔われ、個人名付きの墓碑すらなかったのだから。
冥界へ向かうはずの彼女の魂は生まれたての精霊となり、息を引き取らんばかりの少女の体へ移された。いいや。移した。オレがやった。
カタリーネの体を医者に見せるには、もう一度タハティラへ戻らなければ。いくら寒い地域とはいえ、春の海風を受けるには脆すぎる体を持つのが人間だ。間に合わない。
そして、たとえ魔法使いでも死んだ人間を生き返らせるのは無理な話だった。聞く暇なんてなかったが、会いに行けば医者のラーケもそう言うだろう。いくら金を積んでも無駄だ。
カタリーネの新しい体の持ち主である侍女の少女の魂は、新しい魂と入れ替わりで離れた。そのあとのことは知らない。オレはカタリーネが生きているだけでよかった。
精霊が人間の体に入ったとき、その中身の血管一本や爪一枚にも彼女の光が充満し、カタリーネは珍しい形で半人半精となったのである。
カタリーネ。愛称はケーテ。オレのケーテ。
野蛮なドレフティアからは、当時ヒスタルでは見られなかった魔導式機械の技術とケーテだけを持ち出して、二度と足を運ばないことを胸に刻んだ。
その夜、ケーテと話した。こんな夜がずっと続けばいいのにね。この国はいい国よ。大好き。帰ってこられて本当によかった。ああ、こんなことになるなんて。お父さまじゃなくて、ルカが王さまだったらよかったのに……。
たくさん話したから、すべては思い出せないが、すべてケーテのためだったことは覚えている。
当時のヒスタルでは、魔女王ワルプルガを讃える祝祭の日を終えても、テオセアのひとところに魔法使いたちが集っていた。自然の恵みが美しいこの国に、ドレフティアで発明された魔導式機械の到来が近づいていた。人間でも猿でもかまわず魔法を使われる日を止められる者はいなかったから、流行ったのは陣取りゲームだった。
カードを引きながら盤上の駒を動かすように、魔法使いたちの間で取り決めといざこざが繰り返されていた。誰がどこの土地をもらって聖域にするかというゲームだ。賞品は、名はあれど人間が住まない綺麗な土地だった。
ただ、オレはオレの愛する世界がケーキのようにカットされていくのを見るのが嫌だったし、ちょうどいい頃合いだと思って。すべてもらっていくことにした。あのヴェールの魔法は……前から編んでいた。カタリーネと城に住むために。
祝祭の日に、テオセアの王が魔法使いのために用意した金の皿の数は十二枚。オレの分が一枚足りなかったし、季節が春夏秋と過ぎても謝罪がないから腹の底が煮えきって、城ごとさらっていってしまおうと思って決行しようとしたその日は、寒い初冬の極夜だった。
城の……王が眠る部屋を探しに廊下を歩いていたとき、カタンカタンと糸を紡ぐ音が聞こえた。暖炉の炎が煌々と燃えるその部屋で、オレはカタリーネと出会った。
「あなた……誰? 人を呼ぶわよ」
こちらを一瞥しただけで糸車の先や手元を見ているばかりの女で、鏡や柱に向かって話すよりもマシな気がした。
「そう、父がごめんなさい。きっと招待状からあなたに届いてなかったはずよ」
たしかに受け取っていない。王の無礼をいま許そう。カタリーネは祝祭用の皿の上に、今夜の晩餐の残りと明日の朝の自分に出されるチーズを乗せて持ってきて、オレによこした。
オレはいやに豪華な皿と女の顔をとことん見比べる。
「まさか……これを食うと思っているのか?」
「食べないならいいの。捨てられるだけよ」
だって一人分しかないし、不寝番以外はみんなもう寝ているんだもの。カタリーネの言い分はそれだった。
「人間はこういうとき、もったいないと言うんだろ」
「そうよ。もったいないからお食べなさい」
「大事な台詞がまだあるはずだ」
「……そうね、ごめんなさい、偉大なる魔法使い。春の祝餐に自分の席が無いなんて、悲しいだけじゃ片付けられないくらい大ごとだわ」
そうだ、きっとずっとオレが聞きたかった言葉はそれだ。いらだつ胸のしくしくとした痛みがすうっと引いたから。通りで大聖堂の祈りを聴いても生のなかで報われなかった魂が鎮まることがないわけだ。みんなそれぞれ、知りたいことも聞きたいことも違ったのだから。
皿を受け取り、人間のように食う真似をしてもこの腹が満たされるという感覚はほぼ無い。人間でいうところの胃のような場所に落ちても、精霊の食事は体内でまたたく間に光へ変わるだけ。白く熱い夏の太陽から分かたれたのがオレたちなのだろう。
暖炉と機織り機がある部屋の窓辺で皿の中身を平らげた。そのときだけ女は機織り機から目を離してオレを見ていた。
暖炉のせいでふたり分の影が巨大に伸びても、それすら覆う極夜の日では、いつ朝が来たのかわからなかった。
この皿を持ってきた女に免じ、眠れる王にヴェールをかけて殺すのはやめにしよう。そう思って朝に城をあとにした。ただし、また招待状を書き忘れないように監視の茨を一本だけ、城の庭に生やしてきた。
それがオレの懐かしく愛おしい記憶の一つになるなんて、そのときは考えもしなかったな。




