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アンナのまほう -in The Polar Night Veil-  作者: 白ノ汽車
序章〝Polar Night Veil〟
1/11

No.1:〝極夜のヴェール〟

 ああ、息が切れそうだ。肺が苦しくなって、冷えた外気を吸って吐くだけで破裂しそう。

 こめかみから伝う汗が顎に溜まる頃には、氷のように冷えていたのを感じる。

 風圧で吹き飛ばされる汗が、ぼくの体温が人並みに熱かったことを教えてくれた。

 それでも、走るしかない。

 暗い夜の草原に輪郭を溶かして、いまにも闇に消えそうな、あの黒い騎士と騎馬を見失うわけにはいかないから。

 ぼくはまだ、騎士ではないから。この二本の脚で、走るしかない。



 一年のほとんどを〝極夜〟が覆う大陸では、極夜の向こうの空で散り散りになって浮かぶ少しばかりの星々が、人々の希望そのものだった。

 ここ百十数年の研究成果が語るところによると、なにも、雲の向こうで太陽が昇っていないわけではないらしい。

 ただ、雲と太陽との間には、薄膜の層状になったものがある。

 ある研究者によって――〝ヴェール〟と名付けられた、魔法の織物がたなびいているのだ。

 それが日光を遮って、ただでさえ寒冷な土地を、生き物にとってさらに厳しい気候に変えた。

 極夜とは本来、北極の国々の冬至頃や、南極の国々の夏至頃に起こる、朝が来ない時期のことを指す。

 場所によっては約二か月ほど続く極夜だが、このヒスタル大陸では……ヴェールが極夜の〝現象〟を起こし続けているのである。

 いまも大陸全土の空を覆うヴェールが出現したのは、百十五年も前のことである。

 〝襤褸を纏う魔法使い〟の男が、この国で一番高い塔の天辺から、ヴェールの魔法を空へと放った。雷鳴のような轟きと白い閃光をもって、その暗幕は出現した……というのが、当時の新聞記事の一文である。

 木の枝が下へしなり、花も枯れて、水の勢いが衰えて。郊外には茨が生い茂り、民家の暖炉の薪の火花も爆ぜなくなりそうな夜が続いた。

 そんな日々がいつ終わるのかわからない。ただただ、すべてがすり減っていくばかり。

 郊外の田園地帯や農村部では、民家の明かりが何個も消えた。永遠に戻らない命の火は、この国――テオセアでは暖炉の炎だった。

 〝神の国(テオセア)〟なんて名ばかりで、各地の形骸化した神殿の地位は地に落ちる一方で。人々は神殿前に立ち並び、物乞いをし、巫官(ふかん)に訴え、やがて暴徒化する日も増えていく。

 しかし、たった一度だけ。その一度だけ。テオセア最後の巫女の神託が成功した。

 首都にある大神殿地下には、何千年も前から煌々と輝く炎がある。ヴェール下であっても、国の中心部を温暖に保つ〝劫波の聖火〟だ。白い大理石と金の台座の上で、小規模の太陽のように鎮座している。

 神託は「聖火を玻璃(ガラス)の瓶に封じて与えよ」というもので、巫女と巫官は揃えられるだけの空っぽのランタンを国中からかき集めて用意し、その中に聖火を移していった。

 片手ほどのちいさなランタンに封じ込められても、神の聖火は釈然と白く輝く。油や蝋を必要とせずに、人々を、家々を、町々を温めた。

 本物の太陽や日光ではないにしろ、庭の焚火や広場のキャンプファイアを消しても、あばら家のどんな家にも明かりが灯った。

 神殿で祀る神とは、何千年も昔――この国に聖火をもたらした〝精霊王ギルベルト〟。

 ぼくの名づけの由来になった、大陸の歴史上初めて騎馬に跨った王だった。

 子どもの頃、彼の王の彫刻を見た。壁画や絵画を見た。建造物のレリーフ、書物、劇も。ぼくの家の紋章にも、精霊王が家臣へ下賜した武具の数々に由来する〝赤き盾〟が入っている。

 ぼくは、〝ギルベルト・ロートシルト〟の名に恥じない騎士になる。極夜のヴェールの下、祖国タハティラを発つ前に立てた誓いはそれだった。

 十四歳になる年にタハティラ以東の峡谷を抜けて、隣国テオセアに入り、約二年の歳月が経つ。

 ぼくは、騎士家はもちろん、貴族家や豪商の名家の子息と息女が多数揃う士官学校に在籍していた。

 騎士道や軍事を学ぶには申し分ない設備だ。教官も、自らのすばらしい功績と勲章を、胸の内と外に誇って教鞭を振るう。

 同窓の者たちも博識で、聡明で。多少の個性の違いで喧嘩ごとがあったとしても、どこにも非の打ちどころなんかないだろう。

 ぼくが〝ロートシルトの名に恥じない騎士になる〟、という願いを持っていなかったとしたらの話だが。

 士官学校の暮らしで足りないものはたった一つ。〝実戦〟だった。

 数人の教官や上級生が相手の、ただの訓練ではない。一騎打ちだけじゃない。相手は盗賊でもいい。魔物でもいい。

 ぼくが望んでいたのは、馬上で、刃のついた剣や槍を振るうこと。自分の血も、相手の血も、ぼくはまだ見ていない。

 その不満だけが募り、綺麗な窓枠のこちら側で鬱屈としていた。

 しかし――それも今朝までのこと。

 学生寮の朝は早いが、何時になっても明るい太陽光が入ってくるわけではない。朝の五時ちょうどに時計塔の鐘が鳴る。それに合わせて起床した。

 暗い部屋にわずかな朝焼けの光を入れるため、ゴブラン織のカーテンを開けるのは、同室のカナロアではなく、決まってぼくの役目である。仕切り壁の向こうにいるカナロアは、ベッドの中で芋虫のように蠢いてからではないと起きてこない。

 寮室に備え付けられている洗面所で軽く身支度を済ませて戻ると、オレンジ色の丸い頭を手櫛で整えていたカナロアが、眠たそうな目でぼくの方を見る。ベッドの上であぐらをかいたまま、寝起きの鼻声で「おはよ」と言った彼の、次の言葉に時が止まったような思いがした。

「ぼく、今日から週の半分以上いないよ。〝海の騎士団〟のおじいさんの従騎士になったから……」

 驚きと高揚と、先を越されたショックがないまぜになった圧力で、耳の中が膨らんだ気がする。時間に換えて数秒あった絶句の間のあと、ぼくがやっと絞り出せたのは「お、おめでとう……。でも、いつの間に?」だった。

「この前の騎馬のおひろめパレードのとき、握手しに行ってみた。おじいさんみたいな立派な人のところで従騎士したいです、って言ったら、『()()()()? それならわしでもかまわんのじゃろ?』って……」

 おひろめパレード。一か月ほど前、国の各騎士団が新たに迎えた騎馬たちに乗って、城下町のゲートから神殿までの道のりを練り歩く毎年恒例の行事があった。ぼくたちの士官学校も協賛し、随所に天幕を張っていたから、馬から降りて休憩している騎士と話せる機会があってもおかしくはない。

 彼はそれのことを言っているわけだが、カナロア、きみがぼくの誘いを「え~今年は天馬がいないから行~かない」と断った本当の理由がよくわかった。口角がひきつる。

「あ、天馬がいなかったから、パレードは見てないんだよ。ギル、怒ってるの?」

「……怒ってる。黙って行かれたことについて」

「まあまあ」

 なにがまあまあなんだろう。カナロアはベッドから下りて「ごめんね?」と言ったあと、天幕の中にいた一人の騎士の話をした。

「ねえ、〝夜の騎士ハーロルト〟知ってる? その人もいたんだよ」

「そうなのか。名前だけなら知ってる」

 カナロアは洗面所へ行こうとせず、丸っぽい目でぼくを見つめている。本来は四人部屋だが、たった二人だけで埋める空間は他の寮室より寒々しい。分けられた聖火のランタンが一つばかり、熱を発して白く輝いているだけだ。

 普段ならせわしないはずの薄明の朝、カナロアが話している間だけ、ぼくたちの時間はゆっくりと過ぎる。

 夜の騎士、ハーロルト。彼は、この国の地方を大きく十二分割し、それぞれを治める領主に仕えている。テオセアの十二の守護騎士団の一つ、金の牛の紋章が輝く〝エルヴァスティ騎士団〟の騎士だ。

 夕方から夜や朝方にかけて、単独で草原や山岳地帯まで魔物や盗賊の征伐に出掛けるから、〝夜の騎士〟と呼ばれている。その名で正式に褒章を授与されるだろう、という話が上がるほどに。

「騎士のおじいさんが言ってたんだけど、ハーロルトさんはね、今年から夜狩りには毎日出てるんだって。しかも、まだ従騎士がいないんだって」

 それは……つまり。

 夜間、エルヴァスティ領へ行けば、会えるかもしれない。



 今日の講義はすべて休んで、寮の裏門……ではなく、生け垣の隙間を潜り抜けた。見張り台の死角になるのはここだけ。学校の敷地を出てひと息つけるところまで一気に駆けてから、病欠だと偽ったことがバレませんようにと祈る。

 街に出て、さっそく速い品種の馬を借りた。細身だがしっかりとした足取りの馬は、休憩のために水辺に留まると、目的地であるエルヴァスティ領の方角へ鼻を向けて息を吐き出す。元気がある葦毛の若い牝馬だった。

 しかし、馬の足取りが良かったのは、首都部から東へ向かい、緩やかな台地を下りるまでのことで。この大陸では十時を過ぎれば夜になり、手元に明かりがないと辺りは真っ暗だ。

 それまでになるべく目的地の近くに行きたかったが、郊外にはあまり出たことがないのか、ぼくのことが気に入らなかったのか、馬は手綱を嫌がって道を逸れる。

 仕方なく馬の背から降り、落ち着くまで好きなようにさせてやりながら、運輸のために馬車が通るだけの凸凹道を歩いた。

「なあ、間に合わないかもしれない……。そろそろ乗せてくれないか?」

 道端の草を食んでいた睫毛が長い馬の瞳を眺めて呟くと、鼻息を鳴らしてグレーの毛並みの顔を向こうへ反らせる。駄目そうだ。

 寮から首都を出るまで一時間半、エルヴァスティ領の境界線はこの道の先を三時間ほど。夜の騎士ハーロルトが征伐に出る草原や山岳の区間は、もう少し先にある。夕方までに到着するには、この馬に機嫌を直してもらうしかなかった。

「……帰りにあげようと思ってたんだぞ」

 外套から取り出したのは、馬用のクッキーである。この馬を借りるとき、一緒に買ってきたものだった。

 そっとしゃがんで目の前で見せれば、葦毛の馬はあからさまに目を輝かせて顔を上げ、ぼくの手からクッキーを奪うように咥える。いい音を立てて食べ終わると、おやつはもう無いのかとぼくの外套の裾や懐を気にしていた。

「また食べたかったら運んでくれ。そういう契約だろ」

 馬とじゃなくて、馬屋と結んだ契約だが。

 商談が通じる馬ではなかったが、こちらの気持ちを感じ取れる馬である。人間が乗りやすい位置に来て、ぼくが(あぶみ)に足を掛けるのを待ったようだった。

「ありがとう」

 鞍に腰を落ち着けると、馬の耳がピンと立つ。やっと再出発が叶った。

 それからの道のりは、休憩の度にクッキーをあげなければいけないことになる。帰りのご褒美の分は一つも残っていなかったので、エルヴァスティ領へ入ってから最初の買い物は馬用のクッキーだった。

 エルヴァスティ領では、三つの街を越えると草原・山岳地帯へ入る。旅行客は神殿の巡礼者用の順路にまぎれて乗馬移動ができ、遠くの湖を静かに眺めながら行く道では厳かな雰囲気が高まった。石造りのしっかりした舗装路や橋のあちらこちらで鳴り響く蹄の音も相まって心地いい。

 このあたりは、茨も無いな。そう思ったとき、エルヴァスティ騎士団に所属しているとおぼしき騎兵の二人と二頭が巡回している場面に遭遇した。

 向こうがこちらの外套の留め具と護身剣が士官学校の官給品であることに気づいたときには、すでにぼくは馬上から降りるところで。ベルトにぶら下げていた、身元確認のための学生証である金属札を彼らに見せた。

「長旅お疲れさん。懐かしいなぁ、その外套……」

「あ、きみはロートシルト家なのか? ようこそエルヴァスティ領へ」

「敬礼は結構です。ぼくは学生ですから」

 テオセアに由縁があるタハティラのロートシルト家は、何人もの騎士を輩出している。タハティラで騎士家といえばロートシルトで、本家はもちろん傍系の人間ですら、〝赤き盾(ロートシルト)〟の紋章だけで注目された。

 その栄光と歴史の影に、何人もの脱落者がいたことは記録されていない。聖火ではない街灯の油の火でてらりと輝いた金属札が、ぼくの外套の影に隠れる。

 二人の兵士に「エルヴァスティ騎士団のハーロルトさまを訪ねてきました」と言ってから草原地帯のことについて聞いてみると、ここ数日、彼は川の沿路の掃討を一段落させたらしい。それからは遠くの山の麓の方へ向かっているということだった。

「平坦な草原しかないから、遠くで明かりが見つかれば大体ハーロルトさまだ」

「怖そうな人だが、あの人はいい騎士だよ」

「ありがとうございます。行ってきます」

 十字路で交わした馬上の会話はそれで終えた。話している最中、あの兵士は二人とも気さくで穏やかだったが、任務に戻った途端、ピリリと気を張り巡らせたのが背中越しにわかる。

 盗賊や、犯罪が増える一方だ。空にヴェールが出現してから、裏町や地下街に留まっているはずの組織が表にも出てきている。田園が多いエルヴァスティ領でも変わらない。

 暗闇は犯罪を呼ぶ。それは国の安全にとって不要なもので、また、崩れた生活基盤の悲鳴でもあった。脆いところから崩れていく自然の摂理が、街の中にも現れる。

 主に、聖火のランタンの売買組織や、他国にモノや人を運ぶ組織に、非認可の傭兵集団と、その斡旋業者が増加傾向にあった。

 そして、兵士の人手が不足している。現在のテオセアでは、年間の統計によると、兵士一人につき五人の犯罪者を相手にしていた。

 騎士という、民の味方が必要だ。騎士たちは戦力でありながら、国の象徴として存在する。それは神殿や聖火に並ぶ力を持ち続け、歴史的な誰かを神にして祈る相手ではなく、ごく身近な〝呼べる奇跡〟だった。

 大陸を極夜に変えたヴェールの下、騎士の両眼は暗闇に目を凝らし続けている。

 テオセアで随一の士官学校に在籍する貴族の生徒が、なぜ彼らに守られていなければならないのだろう。あまりに清潔で工夫を凝らした華美な調度と、潤沢な資金で運営される構内の中、剣ではなくペンを持って向かう先が紙の上ばかり。

 訓練だって。木剣や木盾(こだて)、綿をつけて先を丸くした槍、小柄な馬。闘争心は相手を負かせることにだけ。掲げられるのは審判員の旗で、頭上につくのは点数だ。

 現実とは切り離された学校に対するこの胸のざわめきは、今日で限界だったのだ。


 懐中時計の短針が、とうに夜七時を指している。もう四月なのに冬のように寒くなってきて、聖火のランタンを膝に抱えながら外套を引き寄せて座り直した。

 ぼくが借りた馬も寒そうである。馬具には毛皮がついていたが、今夜はしのげるだろうか。

 ランタンは馬とぼくの間に置いて、草原の向こうに山の麓を一望できる丘陵から望遠鏡で遠くを見渡した。

 じんわりと温かい塊を横腹に感じながら、夕方四時から粘って三時間になることが頭の隅をよぎって不安になってくる。あるのはランタンのぬくもりだけで、あたりは暗闇と馬一頭のみ。

 闇から魔物が這い出てきたらすぐに叩き斬れる体勢を取っているが、不安感だけは剣で斬れないものだった。

 寒くてはめた手袋越しに感じる望遠鏡が、またさらに重たくなってくる。左手に望遠鏡を持ち、右手は空けて、たまに馬の肌を撫でていた。

 なんだか馬も落ち着かないようなのだ。首の位置が定まらないように身じろぎをして、前脚をもぞもぞと畳み直している。

 行きの落ち着きのなさとは違う雰囲気である。買い足したクッキーはモソモソと食べたが、二枚目はいらないようだった。

 こちらの気持ちを察せる賢い馬である。ぼくの弱気が伝わってしまったのかもしれない。

 騎士は馬を怖がらせてしまってはいけないと思い、冷えた空気を体内に馴染ませるようにゆっくり呼吸した。

「もうちょっと付き合ってくれよ」

 馬はゆっくり瞬きをして、好きにしろと言いたげに瞼を閉じる。馬は自分の背中側に一本だけそびえる木の幹に体を預けたようだった。

 暗い夜空に、月と少しの星が見える。ヴェールは目立つ星だけを残して、他の星々のほとんどを隠してしまった。昔はもっと美しい星空が見えたらしい。

 ぼくは本の挿絵や絵画でしか見たことがないが、夜空では星をなぞって形が浮かぶ、星座というものを眺められた。

 ……ヴェールは隠してしまった。天の川というものや、雲か煙のように光る星の塊、流れ星、神話まで紡がれた多くの星座。そういった空の美しいものをすべて。

 だが、それでも一年の間に約七日間だけ、太陽の出る日がある。今月の終わりの週から五月の頭に。

 ぼくの国タハティラでは〝太陽週間〟といい、このテオセアでは〝自由週間(カデンツ・ウィーク)〟と呼ばれる七日間だ。

 その七日間は公営以外のすべての店が閉まり、広場や道路でカラフルな出店が立ち並ぶ。

 人々は花にも負けないほど着飾り、建物まで飾って、大きなキャンプファイアが夜通し焚かれ、夜が来ても起きている人間がいて。

 七日間の太陽と、その後の一年のための〝祝祭〟なのだ。この日に向かって生きていると言っても過言ではない。この大陸では年明けと同等の重要な行事になっている。

 自由週間(カデンツ・ウィーク)が来てからが本当の新年だと言う人間もいるくらい。

 今月の終わりに来る祝祭の日までに、警備が堅くなっているのも頷ける。祭の日は犯罪が紛れやすい。

 そう、騎士のハーロルトも……魔物の征伐に力を入れているのかも。

 それとも、今夜は盗賊を相手取っているのかもしれないし、まだ粘るべきだ。

 自分にそう言い聞かせて、段々下がってしまった望遠鏡の位置を高くした。

 聖火のランタンのおかげで寒さがつらくないと思ってきたら、今度は眠気がやってくる。

 少し動くか……と、腰を上げた。そのときだった。

 草原の向こうで一瞬光が灯り、フッと消える。望遠鏡で確認すると、闇そのものが蠢いたようなシルエットが見えた。それは横長で、馬のように尾を引いて。

 見間違っているかも。騎士ではなくて、盗賊かもしれない。

 それでも突き動かされるように馬の鞍へ跨り、草の背が高い草原を駆けた。

「まだ向こうだ! 追ってくれ!」

 速く走るように手綱を手繰る――が、やっと影が見えたとき、ぼくの馬は速度を落としてたたらを踏むように止まってしまった。

「どうした!」

 馬は鼻息を荒くして、顔を横に振る。足元を気にしていたようなので見てみると、このあたりは地面を這って茨が茂る地帯だった。このまま進めば脚や蹄に傷がついてしまう。

「…………わかった。ここで待っててくれ」

 いや、もうとっくに傷を作ってしまったかもしれない。ランタンで確認してやる暇はないが、クッキーが入った紙袋を破って地面に置き、草原の向こうを見た。

 まだ、あのあたりを散策している。横長のシルエットはやはり馬のもので、背には人間が騎乗していた。

 この草原を横断している、茨地帯を通るしかない。安全に向こうへ行くルートでは、大きく迂回することになる。

 ぼくには、今あの騎士を見失うことは、今日のほとんどの時間が無に帰すことと同じに思えた。

 茨に外套を破かれても急いで前に進む。服越しにチクチクと刺されたが、こんな傷は深くない。

 たとえ皮膚が切れても、自分の足取りを止められなければなんということはない。

 やっと茨地帯を抜けたと思ったが、肩越しに見れば川を突っ切る程度の幅でしかなかった。

 ヴェール越しのぼんやりとした月明かりでも、乾燥した夜は遠くがよく見える。望遠鏡を片手に草原を見渡すが、シルエットまで辿りつくにはまだ遠い。

 気づけば地面を蹴って走り出していた。両腕で草をかき分けて。

 それでもまだ遠い。向こうは馬に乗っていて、こちらは人間の走行で。草原の草の背は、進むたびに高くなっていく。

 脚が鉛のように重たい。息が弾んで、吸うのも吐くのも、段々苦しくなってきた。

 ああ、息が切れそうだ。肺が苦しくなって、冷えた外気を吸って吐くだけで破裂しそう。

 こめかみから伝う汗が顎に溜まる頃には、氷のように冷えていたのを感じる。

 風圧で吹き飛ばされる汗が、ぼくの体温が人並みに熱かったことを教えてくれた。

 それでも、走るしかない。

 暗い夜の草原に輪郭を溶かして、いまにも闇に消えそうな、あの黒い騎士と騎馬を見失うわけにはいかないから。

 ぼくはまだ、騎士ではないから。この二本の脚で、走るしかない。

 でも、ぼくは……このままでは追いつけない。

 向こうは行ってしまうだろう。ならば――――こうするしかない。息を大きく吸い込んだ。

「ハーロルトさまーっ!」

 二度も、三度も。何度でも叫んだ。騎馬のシルエットが立ち止まるまで。

 最後の方は声が枯れ、上がった息がヒュウヒュウと喉から抜けるだけだった。体内の熱さと外気の差で肺が痺れる。

 そして――弱ったぼくの息をかき消すように、とんでもない突風が背後から吹きすさんだ。ドッと地が鳴る。耳がギンとするほどの轟音とともに。

 咄嗟に屈まずにいれば吹き飛ばされるほどの突風が、まさか魔物の風切りだと思わず、つい振り向いて。

 目を見開いたのは、草が舞う陰の向こう。驚いた地鳴りが騎馬の踏み込みで、それが〝なんだったのか〟理解したときには、もう魔物の姿は炭になっていた。

 月明かりだけで鋭く光る両刃の剣が、たくましい黒馬の背から、魔物に剣技の一閃を引いたのだ。

 黒い外套が翻り、彫り物が浮き上がる騎士の鎧を、より一層堅牢に見せている。

 紛れもなく、騎士だった。

 兜を取っていて、重装と軽装の間のような鎧だった。腰当と腿当はなく、全体的に突起が少ない細身の甲冑である。

 彼は黒馬をゆっくり旋回させ、こちらに向き直った。

 騎士は外套の下にちいさな灯りを持っているらしい。黒馬が一歩ずつ進んでこちらに近づくごとに、彼の姿はやっと暗闇に浮かんでくる。

 暗くてもわかるほどまばゆい金色の瞳で、左側の顔面には剣か矢で引き裂かれたような線が交差する、十字型の傷痕があった。

「……夜に大声を出すな。魔物が来る」

「は、い……すみません……」

「手を。乗れ」

 左手を差し出されて気がついた。籠手も軽量に造ってあり、伝統的な騎士の装備とは違った。

 籠手は手の甲だけを守っており、手首の面がなく、すぐに前腕当が繋がっている。どちらかといえば、歩兵や傭兵のものだ。

 そこまで気づき、ハッとして慌てて左手を握って馬上に乗り上がった。騎士のハーロルトは表情を変えることなく、ぼくが同乗しても、ただ遠景を監視する目をしている。

 近くで顔を見ると、若い。どの教官よりも。

 くっきりした鼻骨や顎の線が、わずかな月明かりでも浮かび上がる。鼻筋を跨ぐ金の両眼が、睫毛の下でゆっくりとおれの方を見た。

「……なぜおれを呼んだんだ。きみはたぶん、士官学校の生徒だろ」

 裾が破けた外套の留め具と……お世辞にも丈夫とはいえない生地の組み合わせは、トレードマークのようなものである。

「学校からの官給品で遠出はやめておけ。すぐ破れる」

「はい……その通りだと思います……」

「……どうした、声がちいさくなったな」

 ハーロルトは、ぼくの先ほどの大声のことを言っていた。思わずちいさくなってしまった声だが、先ほどの質問の返事として「お願いがあって来ました」と伝えた。

 鍛え抜かれて筋肉の境目の凹みがしっかりと谷になっている黒馬は、夜でも暗闇に浮かび上がるほど艷やかである。

 その馬の上に二人も乗って、背中越しにする会話ではなかったかもしれないが、今しか無いと思った。ぼくがこの馬から降りたら、すぐに走り去ってしまいそうな騎士だった。

 下唇をグッと噛んでから、断られる覚悟を決める。

 そして、断られることの落胆と、星のようにわずかな期待が胸の鼓動を大きくした。

 腰を捻って後ろを見ると、ハーロルトとばっちり目が合った。振り向くと思わなかったのか、彼は斬れ味がいい剣のような目を丸くしている。

「ぼくを、あなたの従騎士にしていただけませんか?」

 ハーロルトの表情は変わらない。しかし、彼の眼を見てみると、驚き、悩んでいることがわかった。瞳孔が縦にキュッと細くなり、狼のような金色の瞳がわずかに揺れている。

 だから「優れた騎士さまのもとで実戦経験を積んで、騎士の在り方を学びたいんです」……そう続けて。

 この二年間、胸が痛むほど、怒りを覚えるほど……張り詰めていた矛盾を解決するために、思いを言葉にした。

 急な魔物の襲来と、立派な騎士や馬に怖気づいていたときの情けない声は、普段の声にしっかり戻っている。

 教官が「芯の強さが伝わる、よく通る声だ」と褒めてくださったことがあるから、ぼくは自分の声を誇りに思っていた。

 教官の評価はそうだったけれど、彼にはどう伝わっただろうか。

 実戦経験を積んで、何度も単騎で死線を潜ってきた……〝夜の騎士ハーロルト〟に、ぼくの気持ちが届けばいい。

 困難だった試験結果の通達を直接知るのを待つ気分よりも、こちらの方がずっと肝が冷えた。

 長い沈黙を経て、ハーロルトはやっと静かな声で「わざわざ来てくれたことに、感謝する」と告げる。

 その前置きに、胸が詰まった。後に続くのはきっと断りの文句だと思えば、やはり「おれに従騎士は必要ないんだ」だった。

「甲冑は重たいものを着ない。一人で整備から着脱までできる。馬も……この馬はあまり手がかからない」

 ハーロルトは目線をぼくから下げ、黒い馬の毛並みを見つめる。知らないうちにゆっくり歩き出していた馬は、ぼくたちを穏やかに揺らして川の沿路まで向かうようだった。

 ……あ、沿路じゃ駄目だ。ぼくも馬を待たせている。

「ハーロルトさま、こちらではなく、ぼくの馬を迎えに行きたいです」

「そうか。ではそちらへ」

 茨地帯の向こうを指さすと、ハーロルトは馬の手綱を引いて方向を変えさせた。

 ぼくも待たせている馬の方を眺めて、悔しい思いがせり上がったのを堪える。人前では泣けない。一人になれるところまでは。

「おれにもこの馬にも、単騎がちょうどいい。……悪いな」

 ハーロルトの静かな声が耳の奥まで染み渡る。ぼくの落胆が、彼に伝わってしまった。

 今は「いえ、急に申し訳ありません……」と絞り出した自分の声の、取り繕いきれなさの方がより悲しい。

 茨地帯に入る前に、ハーロルトは円筒型のランタンで馬の足元を照らした。

 一瞬明るくするだけですぐ外套に仕舞う光景は、草原でこの騎馬を見つけたときと合致する。茨がある場所を照らしていたのだ。

 この馬は巨躯だが、優美な(たてがみ)をしていて、前脚の膝関節と後脚の飛節まで、長くなびく袖がついているかのように距毛が伸びている。初めて見てもわかるほど、乗りこなすには気位が高そうだった。

 でも、どうやって茨地帯を歩くのだろうか。そう思って黒馬とハーロルトの出方を伺うと、彼は手綱をパシッと引き締める。

「心配ない。越えられる」

 ハーロルトがそう言ったときには――すでに馬は茨地帯を駆けていた。

 風圧で前髪がめくれるほどの速度が出ている。足取りが軽く、とても背が高い草原と茨が這う道と思えない。

「いったいどうなって……!?」

 まるで飛ぶように走ったのだ。硬い岩場のような空気を叩く蹄が、軽快な音を立てて。

 馬上じゃ馬の足元はよく見えないが、自分の腰より上ならよくわかる。

 すっかり目が慣れて見通しがいい草原の景色が揺れ、黒の中にもわずかな色彩があって。

 そして、ぼくの後頭部の向こうで、ハーロルトがふっと笑った気配を感じた。

 触れれば鋭く痛む茨地帯を、歩数にして四、五歩程度で乗り越えた巨躯の黒馬が帰ってきたので、ぼくの馬は驚いていた。

「ただいま、待たせて悪かったな」

「自分の馬か?」

「いえ、借りてきた馬です」

 ハーロルトの黒馬にひるんで後退りする馬をなだめると、ぼくの馬は鼻先をぼくの外套の下に入れた。

「……そういえば、名はなんていう?」

「えっ、借りてきたので番号でしか……」

「そうじゃない」

 騎士ハーロルトが真っ直ぐに、ぼくを見つめている。鋭かった目つきはいつの間にか穏やかで、昼間の兵士の「怖そうだが、あの人はいい騎士だよ」という言葉を思い出した。

「ぼくはタハティラの、ギルベルト・ロートシルトです」

 ハーロルトに向き直って名乗ると、彼は喉笛と唇だけで「ギルベルト・ロートシルト」と復唱する。

「覚えておく」

 短くそう言った彼は、比較的軽装でも金属の甲冑を重たげにすることなく身軽に馬上へ乗り、ぼくに向かって右手の甲を額に当てた。――騎士の敬礼だ。

 慌ててぼくが返すのを確認したハーロルトは、巨躯の黒馬を走らせる。悠々と茨を越えて、その先も。

 黒馬はやはり、借りるような凡庸の馬ではなかった。長い距毛がやわらかくたなびき、馬体は闇に溶け込みながらも蹄だけを青白く発光させている。

 あれは……馬の精霊だ。冬の星のような淡い光を放つ黒馬は、騎士の形と一体になって闇に消えた。

 騎士と黒馬を見送って眺めている間、息を止めていたのかもしれない。鼓動がやけに胸を打ち、昂ぶりを感じるごとに全身の血が巡っている。

 しばらく、覚えていてくれるわけだ。ぼくの名を。

 数日で思い出すのを忘れてしまっても、なにかの拍子でまた思い出せるように……またここに来よう。今度はちゃんと、休みの日にでも。

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